対外能力と内政能力3(御三家の資質差)

家康の多くの子孫・・越前宰相家など・内政能力不足で次々と失脚しているのに比べて、最も複雑系に優れた頼宣(彼は何と10男です)を、戦略上重要な紀伊半島の初代領主にしたのかも知れません。
紀伊半島は一朝コトあるときには、いつも反政府ゲリラの根拠地になって来た難しい場所でした。
古くは壬申の乱の大海人皇子が根拠地にしたことに始まり、中世には南朝の根拠地、真田幸村父子のよった九度山など(幕末には十津川を中心に天誅組が蜂起しました)しかも京都に近いし、ココを占領されると本州が二分されるので戦略上重要な地域でした。
アメリカ軍も本土上陸作戦として南紀・潮岬からの上陸ルートを策定していたと記憶しています。
紀伊家に対して尾張65万石は濃尾平野中心で,言わば単純経済構造で単純内政が可能ですから,単純な主張で突き進むには勢いが良いのですが、紀伊徳川家のようにクジラ漁もなければ林業もないし、伊勢湾の漁業も関係がありません。
紀伊家では徳川期にみかんに始まって南高梅で知られる梅の銘柄や備長炭やクジラ漁その他かなりの特産品/新産業を生み出しています。
金山寺ミソに始まる醤油醸造も紀州発で全国に広まりました。
現在のキッコーマンや銚子周辺の醤油工場は紀州からの移住で発展したものです。
関東に進出した醤油製造は大規模化して行きましたので,その延長で世界企業になっていますが、今でも紀州本場に残っている醤油製造は古来からの製法を守って高級料亭などに卸してると言われます。
九十九里浜の底引き網漁も紀州からの技術導入でした。
江戸時代に日本全国の農業や木綿や果樹園芸等の生産性向上に大きく寄与したホシカも紀州から来た豪族が開発した銚子漁港を根拠地にしたイワシ漁の成果によるものです。
明治以降で見ても現在に連なる三越(三井グループ)や松坂屋,イオングループは全て紀伊徳川家領域であった伊勢の出身ですし,真珠養殖で日本の有力産業にしたのも伊勢の人です。
一般には何故か紀州家と言われていますが、紀伊徳川家は伊勢の国のかなりの部分を領地にしていたので紀伊家と言うべきでしょう。
尾張徳川家では単調な領土のために内部調整訓練が少なかったことから複雑系人材が育たなかったことが、内部利害調整能力を必要としてた将軍継嗣争いに敗れた原因ではないかと思われます。
(信長,秀吉も単なる個性の問題ではなく,この環境から逃れられませんでした)
吉宗は将軍就任後現在に連なる官僚制の基礎を作り、判例集の整備を行なうなど内政・・利害調整に力を注いだことは偶然ではありません。
判例集・・公事方御定書については、12/16/03「公事方御定書1(刑法4)(江戸時代の裁判機構1)」以下02/17/04「罪刑法定主義と公事方御定書7(知らしむべからず)」〜10/03/06「公事方御定書の刑罰8(追放刑はどうなったか)」まで飛び飛びに連載しました。
判例に従って政治をするということは、一種の法治国家思想が彼によって宣言されたことなります。
尾張徳川家はずっと冷や飯食い・・野党的存在に徹して何かと楯突くことしか出来ないまま徳川時代をに過ごして来て、幕末徳川家が賊軍になってから漸く出番が来て反徳川=単純な勤王論の結果,官軍の征討総督代理か何かの重職についています。
しかし、(江戸城無血開城は西郷隆盛が決めたように)格式が高いから薩長に担がれていただけで,維新がなってからの明治政府〜現在まで人材が出ていません。
御三家の盛衰を見ると水戸家は家業とも言える勤王思想の中核でしたが、幕末に慶喜を将軍に出してしまったことから賊軍の将の実家として明治政府から見れば優遇する訳に行かない冷遇状態に置かれてしまいました。
勤王思想の震源地であり,桜田門外の変から始まって天狗党など維新の地殻変動・起爆剤として最大の功労のある水戸家が棄てコマにされてしまったことになります。
長い間の内紛等で人材が枯渇したとも言えますが、濃尾平野同様に単純経済構造であることから,(300年間に水戸偕楽園に梅林を作ったくらいが自慢では・・)人材層が薄かったのではないかとも言えます。
御三家では水戸と尾張が冷遇されて来た反発から野党的抵抗勢力・批判勢力の中核になっていたに過ぎず、イザ勤王の時代が来ると人材が薄かったので重きをなすことが出来なかったのです。
最後の将軍慶喜は一橋家に養子に入りましたので,形式上は紀州家の係累になりますが実家は水戸家出身です。
慶喜自身有能ではあったでしょうが、利害調整能力が低かったこと・・人望がなかったことが、大政奉還で主導権を握るつもりが逆に小御所会議でのクーデーターに連なったと見るべきでしょう。
現在連載中のアメリカの指導力低下と人材のテーマと重なりますが、慶喜は山内容堂の献策を入れて大政奉還しても自分が諸候会議で主導権を握れると思っていたのです。
彼の交渉能力は幕府の大権をバックにしていたに過ぎず、大権を返上して諸候中の有力者程度に格下げになると,モロに個人人格・交渉能力次第になってしまいました。
権力のゲタを履かない本来の政治交渉能力欠如が諸候の人望を失って行った結果があって,小御所会議でのクーデター(幕府領地返上命令決定)に繋がったと見るべきです。
俊秀と言われ利害調整能力の低い(幕閣内でも人望がなかった)慶喜が将軍職を継いだことが、徳川政権滅亡を早めたことになります。
民主党は高学歴者が多いのですが、政権を取ってみると利害調整能力欠如が致命傷になったのと同じです。
尾張と水戸の人材の薄さは地域の産業構造にあったと見るべきです。
紀伊家は直前に将軍家茂を出しましたから、まさか江戸城攻撃の官軍の総大将にはなれませんでしたが、賊軍になるのを免れて言わばうまく動乱期の危機を切り抜けました。
明治に入って紀伊家からは 陸 奥 宗 光(1844~1897のような外交巧者が出ているのは、偶然ではないでしょう。
日本では古代から(大和朝廷の始まりから,諸豪族の連合体であったというのが私の推測です)平安期も朝議は合議で行なわれて来たことを何回も書いて来ましたし、戦時を除いて安定期には・・ボトムアップ社会ですから、利害調整能力が最重視されてきました。
(戦時でも,長篠合戦直前の織田徳川連合軍で信長が主催した軍議が有名なように、政権創業期の対外能力の有無が価値観の基準になっていた軍事作戦決定のときでさえ、諸将合議で決める習わしでした)

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