投資用資金と消費資金

あれやこれやと支出行為を求めておきながら、お金を出す段になると「自分は嫌だよ」というので は社会の信用が成り立ちません。
新たに支出を求めるのではなくとも、現状維持でも税収で間に合わず赤字国債で賄うべきという意見が幅を利かしている社会は、個人で言えば、収入以上の生活水準を収入に合わせて引き下げるのではなく、これを維持するためにサラ金から借りるべきだというに等しい議論がまかり通っている社会です。
同じ借金でも高度成長期の借款は、(東京オリンピック時の首都高速道路建設資金は海外からの借金で造りましたが・・)前向き借金・・儲ける種をまくための投資資金でした。
私は伯父の家が車関係の仕事をしていた関係で昭和30年代前半頃の東京都内の道路を車に乗って(まだ子供でしたので助手席に乗せてもらってあちこちに行ったのです)走り回っていましたが、その頃はまだ幹線道路くらいしか舗装していないことが多くって、でこぼこ道でもの凄く揺れて、しょっ中車の天井に頭をぶっつけるような走り方でした。
東海道で名古屋まで行ったり、日光街道を通ってその先仙台まで行ったりしたこともありましたが、東京からですと日光街道から始まるので宇都宮から先は何街道と言っていたのか今でも分りません。
今では地名を忘れましたが、東海道でさえも未舗装区間がかなりあって所々数kmにわたって試験舗装区間とか言って薄く舗装道路の実験をしているところがあって、迂回しながら走ったものでした。
要するに殆どが未舗装だった時代です。
特に記憶に残っているのは日光街道の春日部辺りと川越街道の大井村(今は何と言う地名か知りませんが・・・)あたりで、両側に土手のように盛り上がった松並木があったので、雨上がりのときなどは道路が水路みたいになってしまい、でこぼこ道で文字どおり天井に頭をぶっつけるほど車が傾いて走るしかない悪路でした。
平均時速10数kmくらい以上出すのは無理でしたから、これが舗装されるとすいすい走れて、夢のように速く走れるし、しかも楽なのです。
こういう社会では舗装するために借金してもそれ以上の経済効果が上がるので合理的です。
成長期が終わってからの内需拡大・失業対策事業用借金は、(歩道の敷石を剥がして立派な石張りに変えたり、街路樹を植えたり階段にエレベーターを付けたりしても生産効率が上がり、収入が増える訳ではない)将来の儲けで返せる金ではないどころか、後々維持管理費用が余計かかるようになる支出が多くなります。
個人で言えば仕事をするためにトラックを借金で買っても、トラック利用による高収入を得られれば借金の意味がありますが、ドライブしたりショッピング用にマイカーを買うために借金した場合、何らの高収入にもならずに、却って車の維持費が余計かかるようになります。
消費生活資金の借金の場合、年収(国で言えばGDP)の一定割合を超えると、自宅等の資産切り売り(国有財産の切り売り・税外収入に頼る)をしない限りフローの収入から返せなくなるのは論理的に明らかです。

財政出動5(増税5)

それまでなかった住民サービスを新たに開始するとき・・美術館その他施設(保育所新設も同じです)を造るときには、その分の初期投資額と維持管理費を計算して同額の既存の支出をカット・・何かを廃止するか廃止出来ないならば、増税をセットにして決めるべきです。
可哀想だから生活保護費を上げろ、障害者手当を上げろ、保育所増設せよという議論には、どこかの予算をその分削ることとセットにするか、その分の増税をセットした提案をしないければ論理的ではないし、無責任です。
国保や年金赤字についても以前から書いていますが、一定の収入以下の人には納付義務を免除したり障害者免除など各種例外が設けられていますが、そんなことは税で面倒見るべきことであって、相互扶助・掛け金で成り立っている年金や保険制度に組み込むのは邪道です。
保険制度は相互扶助・・掛け金を納めた人同士で助け合う制度ですから、掛け金を納付しない人にまで保険金を払っていたら赤字になる・・パンクするのは当然です。
生命保険会社や損害保険会社が保険未加入の人にまで保険金を払っていたのでは保険制度自体が成り立たないと言えば直ぐに分ることです。
掛け金も掛けられない人の救済をしたいならば、別途その分これだけ増税する必要があると国民に説明して増税出来たら、増税で来た限度で障害者などは保険の枠外で別途救済すべきです。
生活保護その他福祉予算も税収と切り離して議論するのではなく、「生活保護費に年間これだけかかります、その分の税額はこれだけです」と説明して国民の同意を得た限度で保護して行くしかないでしょう。
放射能測定、一定地域の除染や健康診断は当然個人負担ではなく公的負担でやるべきでしょうが、これら新たに発生する支出に対応する資金はその分増税(または東電に転嫁)しない、と自治体であれ政府であれ赤字になる理屈です。
公的負担と言いさえすれば資金がどこからか降って来るような感覚はおかしいのです。
殆どの市民運動はいろんなことを要求するばかりでその資金手当については何らの言及もしないどころか、セット増税には殆どの場合反対します。
こうした運動方式が蔓延する社会ではどこの自治体でも政府でも財政赤字になるしかありません。
(要するに自分はびた一文負担したくない人が多いのに要求だけはきつい社会です)
今回の震災復興資金でも、全額増税で賄う方式は頭っから問題にされていませんが、おかしな議論風潮です。
可哀想だ・・東北へ援助金をつぎ込むべきだと言いながら、自分の納税額を増やすのを嫌がってるのですから「きれいごと」を言っているだけです。
何事もそんなことに大金をつぎ込むべきではないという意見は、薄情だと批判されるので誰も反対し難い風潮で予算が膨張する一方ですが、他方でそのための資金として増税するべきかという議論になるともっと外に抑制するべき分野がある筈という抽象論で逃げてしまう人が多いのです。
薬害エイズであれ、癩病患者の補償であれ、被害者救済すべきことに私は反対していませんが・・積極的に賛成ですが、それは私を含めた国民全部の責任だから補償すべきと言う考えによるのですが、賛成するからにはその支払分として必要な額を国民みんなが負担すべき=増税すべきだという意見です。
子供の失不祥事に対して親が「私の責任です」と被害者に向かって明言しながらお金を出すのは嫌だと言うのでは、矛盾した発言・・喧嘩になるでしょう。

事業仕分け(増税4)

事業仕分けをしても「これだけは残したい」と言うならば、・・残したい事業コストが仮に100億円あって、税収が90億円しかないとすれば、その差額経費をどうするかの議論です。
たとえば衛星「ハヤブサ、の快挙によって、その事業を残そうとするのは誰も反対出来ないと思いますが、だからと言ってそのお金がどこから出るかの議論は別問題で避けて通ることは出来ません。
ハヤブサの事業を残すなら別の分他の事業を削減するか、ハヤブサに関する費用分だけ増税するかの議論しかない筈です。
差額10億円の増税に国民が応じないならば、結局10億円分支出をカットするしかないのが理の当然です。
国になるとお金がないのにだだっ子のようにあれもしたいこれもしたいと言っては借金でやろうとしているのが、不思議・・無責任過ぎると思います。
11月22日の日経新聞夕刊第1面には、アメリカで赤字削減のための1兆2000億ドル規模の増税に関する与野党の協議が決裂したと報じられています。
アメリカでは、不足分の増税が出来ない場合、不足分に達するまで国防費と裁量的経費について2013年から年に同額ずつの歳出を削減する法律(トリガー条項)があるそうです。
与野党がそろって「あれしろこれしろ」と要求するばかりでその費用負担に反対している場合・・衆愚政治に堕しているときに自動的に歳出が削減されて行く安全弁を備えているのはさすがです。
増税・拠出はイヤだが、事業仕分けしてもあれも必要これも必要というのですが、ここで必要という言葉の意味は「税負担するに足りる必要性」があるかどうかです。
その「コスト負担・・税を払うまでの必要がない」と言うなら、「その事業は存続する必要がない」というのと同じではないでしょうか?
「これ欲しいですか?」という質問の意味は、そこに正札がついていれば、その値段でも欲しいか?という意味ですし、半値なら欲しいがその値段では要らないという人もいるでしょう。
このように物事はコスト次第で欲しい・・必要性が変わるものですから、事業仕分けもそのコストをどうやって誰が負担するかも明らかにしながら議論しないと意味のないものになってしまいます。
時間の配分だって同じで私の事務所には、あちこちからためになる講義や勉強会のお知らせや書籍の宣伝が次々と飛び込んできますが、コチラの時間も有限ですから、ためになるからと言って手当り次第に受講したり本を読む暇はありません。
世の中には必要な知識や物・事業は無限にあるのですが、コストとの兼ね合いでみんな取捨選択しているものですが、国の事業になるとコスト負担をどうするかを考えないでも必要かどうかを立派な人たちが?議論しているのですから摩訶不思議ではないでしょうか。
収入・税収が一定の場合、不断に不要資産の圧縮努力による経費節減と固定経費増の均衡を図るべきですし、これが破れて赤字化している場合、納税額を増やすか享受するサービスの低下を受け入れるかの二者択一しかないのは理の当然であって、借金でこの穴埋めをするのは、増税するまでの一定期間の緊急事態に限るべきで、恒常的に借金に頼る考え方は邪道です。
(アメリカの場合、上記の通り2013年度までの約1年半の猶予があるようですが、この法律・トリガー条項が昔からあれば双子の赤字累積が生じなかった筈ですから、多分最近で来たのでしょう)

財政出動4(増税3)

本当に債務を圧縮するには、既存の固定資産を減らしてしまえば、(仮に市内に1000個あった交差点の信号を500個に減らすなど)その年度の固定資産評価残高は一時的に(企業の特損にあたります)減りますが、その代わり翌年以降の減価償却負担や電気代等維持管理費が減ります。
(交通事故が増えるかな?)
企業のリストラや不採算工場や店舗売却はこのやり方です。
こうして見て行くと社会資本が充実している先進国ほど、その管理コストが上がり赤字財政に陥り易いことが分ります。
儲かっているときに野放図に田舎の方まで高速道路網を広げていると財政が苦しくなるとその補修維持が出来なくなってあちこちで危険な道路や橋がいっぱいになってきます。
不要な資産を圧縮し、必要な公共団体保有資産を減らさずに、減価償却費の積み立てをした上で、黒字化を実現してこそ財政赤字を克服したと言えることです。
道路や公園をつぶして用地を民間に売却すれば、維持費が要らなくなる上に、収入が増えますし、福祉的施設・・県営住宅などの削減も経費縮小にはなりますが、その分住民サービスが低下します。
不要公共財産(利用率の低い◯◯会館など)を廃棄縮小して行けば、上記のとおり、次年度以降の維持管理費が減少するので、赤字削減の有力手段になりますが、何が不要かの価値判断が難しいので、一旦造れば原則として維持して行くことになりがちです。
この傾向に歯止めをかけようとするのが民主党政権の事業仕分けですが、やってみるといろいろな要求施策の経費を満たすには、到底足りない感じです。
足りない分は、増税しかない筈ですが、増税には飽くまで反対するのですから不思議な国民性です。
国民性というよりは、庶民が選挙権を持つことに無理があるのではないかと思っています。
下層民は自己の利益を守るのに精一杯で全体の利益などまるで気にしていない階層だからです。
我が国民のレベルは決して低くないのに衆愚政治の弊に陥ってしまいつつあるのは、衆愚に政治を委ねるシステムの行き着いたところから起きるべくして起きたのです。
代表なければ納税なしという以上は納税しない人が政治権力を持つのは矛盾です。
これからの日本は都心集中化政策により人口を都市中心部に集めて公共資産もコンパクトにして行く・・郊外に広がり過ぎた公共資産を売却して行き、管理コストを縮小して行く努力が必要です。
不要資産圧縮努力(国で言えば、事業仕分け)をいくらしても、現状の住民サービスを維持して行くには収支が赤字になるとしたら、住民が自分の拠出金以上のサービスを要求していることになるので、その分を我慢するしかない筈です。
(収入以上の支出をするのは無理があるのは子供でも分る道理でしょう)

金融資産と資産表2

富士山やギリシャ神殿のような極端な話ではなくとも、普通の都市内にある官舎用地その他国有地の評価さえありません。
ニッポン列島全体評価がいくらになるのか誰も分ってません。
道路が未舗装だった明治の頃に比べて、殆ど舗装されていて、しかもあちこちに山をくりぬいてトンネルが出来て便利になっている今の道路の価値はいくらになるのかの評価基準も何もありません。
明治の港湾設備に比べてみれば明らかですが、今の港湾設備がいくらの評価になるのか誰も知りません。
千葉市のような新興地で言えば、人口急増に備えて学校用地や公園用地なども次々と手に入れて開発してきましたが、これが仮に公債で手当てしていると借金だけが増えて、対応する資産の増加は目に見えない関係です。
個人や企業・法人の場合は、お金が出て行く代わりに固定資産が増加して行く関係が明瞭ですが、公共団体にはこのような関係・経理処理がないので、逆に赤字傾向になったときにも公有地等の資産の切り売りをしたりやるべき補修工事を怠って支出を抑えていれば黒字になるなど全く不明・・不明瞭会計の温床にもなっています。
このように見て行くと、同じ額の金融資産しかない国同士でも、過去30〜40年間(公共資産は50年前後の耐用年数のあるものが多いので)にどれだけの固定資産投資をしているかを比較しないと本当の豊かさは分りません。
中国が単年度で日本のGDPを抜いたと言っても、インフラの蓄積がまるで違うことは誰の目にも明らかです。
富士山のように元々あるものは別としても、投資部分だけでも企業会計同様のバランスシート形式(減価償却計算も入れて)をとれば、現状よりは実態を反映し易くなります。
道路が穴ぼこになっていても橋が落ちそうになっていてもその補修支出を2年ほど先送りしておけば、今の会計方式では選挙向けに市長が昨年と今年は黒字に転換させたと実績をアッピール出来ます。
実際には、2年間も全く補修しない訳には行きませんので、年間補修費50億円計上するべきところを今年は30億円しか計上しないで、補修頻度を減少させて行くことになるのでしょう。
(5年に一回のところを6年に一回にするなどの先送りです・・一般の家庭で言えば、家のペンキ送りを1年伸ばしに先送りしているようなものです))
減価償却方式ですと、現職市長が補修をしないで放置していても一定の減価が発生していくので、誤摩化せません。
仮に50年消却の固定資産が50個あれば、毎年一個新設するのと同じ額だけマイナス評価になって行く計算ですから、毎年一個ずつ新規入れ替えして行くに足りる予算を組まねば、資産勘定がマイナスになって行きます。
前記の補修先送りの例同様に、校舎の建て替えなどを先送りしても、同じだけの評価が減る関係ですから先送りで誤摩化せなくなります。

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