寄留者の管理と神社1

大正3年成立翌4年施行の寄留法(各種文献では施行日を基準にして紹介していますので、大正4年式と紹介されています・・壬申戸籍も同じで、前年の布告ですが、施行が翌年の壬申の年だったので、壬申戸籍と一般に言われます)では既に市町村長への届出になっているので、前回紹介した神社からお札を貰う仕組みとの関連がその後どうなったのか、少し気になるところです。
ちなみに歌の文句では「お札を納めに参ります・・・」と言うのですが、法的には、お札を納めるのではなく、守札を貰い所持する仕組みですから、(しかも6年に一回の検査ですから)一種の身分証明書の機能を期待したのでしょう。
江戸時代には領域を出るときだけ道中手形・・一種のパスポートが必要でしたので、移動自体に許可が要ったとも言えますが、明治になると守札さえ所持していれば移動が自由になったとも言えます。
封建制社会では農民の移動を極端に嫌い土地に縛り付ける事が重視されていたのに対し、明治政府の目指す商業社会化への幕開けの思想的基盤の闡明です。
その代わり明治ではどこか他所へ行く予定のない者(老幼を問わず)までこの所持を強制したと言えますがので移動の自由を縛る目的ではなく、移動の自由を認める代わりに国民一人一人の登録・・管理が重視されていた事になります。
お札不所持に対する効力を書いていないし、居住地内外を問わずお札の所持を強制するのは実情にも合わないので、これがいつの間にかうやむやになったような印象です。
江戸時代までの禁令は禁止するばかりで違反したときの効力が決まっていなかったことを、02/17/04「罪刑法定主義と公事方御定書7(知らしむべからず)」のコラムで紹介しましたが、明治4年太政官布告はまだ西洋式の刑法の出来る前のことで江戸時代のお触れと同じ形式です。
ただし、いわゆる壬申戸籍も同じ年・明治4年4月の太政官布告第170号で、翌明治5(壬申・ミズノエサル)年2月1日から施行されたので壬申戸籍と言われているものですが、壬申戸籍管理は大蔵省租税寮管理(実務は地方吏員)で神社の管轄ではなかったので、上記神社に関する太政官布告(も同じ明治4年ですが7月4日に第322号で後から出来たことになります)と同時並行だったことになります。
それどころか7月の布告では「来申年正月晦日迄ヲ期トス」・・来たる申年正月晦日までに届け出が命じられ、他方で壬申戸籍の施行がその翌日の2月1日からですから、連携関係にあったことが明らかです。
行政下部組織(当時はまだ市町村制は構想段階程度だったでしょうが・・・庄や郷の村方)管理の戸籍制度と神社のお札(神社も記録して行くでしょう)との併存をどう理解すべきでしょうか?
壬申戸籍の布告を法令全書の手写しでしたものをFebruary 15, 2011「戸籍制度整備1」で紹介しましたが、ここで再度紹介しておきましょう。
前文によれば、管内社寺ヘ達しておくようになっていますが、これは人生の始終を詳らかにする・・・生死の行事は古来から社寺で執り行っていたからでしょうか?
但し、中には神社へ参りしない人もいたでしょうから、その脱漏を防ぐために神社へのお参りを強制したのが同年7月4日の太政官布告第322号だったかもしれません。
そうとすればお寺も神社もそれぞれの役割を期待されていた事になります。
(ただし、神社は生まれた子供が漏れないようにするので、政府に取っては重要ですが、寺は死亡者の届け出だけですから現世の政治には関係がなかった・・死亡者が戸籍に残ったからと言って政治的に重要性がなかった事になりますが・・・。)
とは言え、前回(3月5日)紹介の太政官布告第322号では戸長の証書を持って神社へいくのですから、その条文から云えば、先に戸長への届け出が義務づけられたことになります。
政府としてはその最末端の行政組織である戸長への届出さえあれば、それだけで国民把握は十分ですから、その後の神社の協力は不要だった筈ですから、何のために神社の協力が必要だったのか不明です。
この間の政治の動きを見れば、壬申戸籍の草案〜布告(4月)段階ではまだ社寺の協力必要との認識であったので、社寺へのお達しをし、そうすると神社側では「神社へお参りをしない人までは分りませんよ」となります。
神社側の要望で「法でお参りを強制してくれないと困る」となって王政復古のスローガンとの兼ね合いもあって7月の太政官布告になったのでしょう。
その追加的太政官布告322号が出来上がる間での間に、既に次年から全国的に制度化される「戸長」制度が一部動き出していたので、その布告の中にまだ制度化されていない「戸長」の認証を要する旨が書き込まれてしまったのではないでしょうか。(莊屋から戸長制度への変遷については、この後にざっと紹介します)
今の法制定実務からすれば、来年何月の戸長制度実施のときからは、戸長の認証がいるとしておけば良かった事です。
戸長制度が動き出すとそこで出生から死亡前の登録もみんな戸長の行う戸籍登録で間に合うのですから、神社へお参りをするように命じた太政官布告は、この時点で不要になった筈です。
言わば蛇足・・結局王政復古のスローガンに合わせたリップサービスの域を出なかったことになります。
前書きが長くなりましたが、、壬申戸籍発布の布告の大部分を紹介しておきます。
この冒頭に府藩縣とあるのは、廃藩置県がこの年7月14日ですから4月はまだいわゆる3治体制下でまだ藩が残っていたからです。
(原文は縦書き・旧字体が簡単に出ない漢字は現在の漢字になっていますが原文は全部旧字体です・文中◯は写真なのではっきりしないのですが、欠字のような印象で空白がある部分です)

第170 4月4日(布)
今般府藩縣一般戸籍ノ法別紙ノ通リ改正被仰出候条管内普ク布告致シ可申事
戸籍検査編成ハ來申年2月1日ヨリ以後ノ事ニ候ヘ共右ニ関係スル諸般ノ事ハ今ヨリ処置スベシ・・・以下中略・・・
右ノ通リ被仰出候事
人生始終ヲ詳ニスルハ切要ノ事務ニ候故ニ自今人民天然ヲ以テ終リ候者又ハ非命ニ死シ候者等埋葬ノ處ニ於テ其ノ時々其ノ由ヲ記録シ名前書員数共毎歳11月中其管轄管轄庁又ハ支配所ヘ差出サセ・・・中略・・・。
右の通り管内社寺ヘ可触達候事
戸数人員ヲ詳ニシテ猥リナラサラシムルハ政務ノ最先シ重スル所ナリ夫レ全国人民ノ保護ハ大政ノ本務ナル ◯素ヨリ云フヲ待タス然ルニ其保護スへキ人民ヲ詳ニセス何ヲ以テ其保護スへキヲ ◯施スヲ得ンヤ是レ政府戸籍を詳ニセサルヘカラサル儀ナリ 又人民ノ安康ヲ得テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ政府保護ノ庇蔭ニヨラサルハナシ
去レバ其籍ヲ逃レ其数ニ漏ルヽモノハ其保護ヲ受ケザル理ニテ自ラ国民ノ外タルニ近シ、此レ人民戸籍ヲ納メザルヲ得ザルノ儀ナリ中古以来各方民治趣ヲ異ニセシヨリ僅ニ東西ヲ隔ツレハ忽チ情態ヲ殊ニシ聊カ遠近アレハ即チ志行ヲ同フセス・・・以下省略

本籍2(寄留の対2)

 

壬申戸籍と言っても、壬申の年から内容が変更されなかったのではなく、前回書いたように書き方や書く事項や枠組みを後日造るなど少しづつ改正されて来たので、何時から本籍表示をするようになったのかは定かではありません。
元々本籍概念は、後に書くように寄留簿から発達したものと言えますので、戸籍制度が出来た当初からある筈がないのです。
仮に壬申戸籍の写しが手に入ってもそれが何時作成したものかによって書式が少しずつ違うものですし、しかも地域によって中央の通達通り出来るようになるのは10年単位の差があります。
後に昭和22年の新戸籍法による改正の期間を紹介しますが、大家族単位から核家族単位の戸籍に作り替えて行くのに昭和40年代初頭までかかっているのが現状です。
ですからある壬申戸籍の写しが入手出来たからと言って、どの地域で何時発行のものかによる誤差があるので、中央からの指令が何時あったかを特定するのは困難です。
現在の戸籍ですと昭和何年法第何号・あるいは政令何号による昭和何年何月何日新戸籍編成と書いてあるので、これは何年前の法に基づいて何時書き換えたのかが分ります。
細かい改正の経過を辿れば何時から「本籍」記載事項が追加されたのかが分るでしょうが、大きな法の改正ではなく今で言えば書式変更の通達みたいな下位の文書ですので、これを入手する・・・調査能力が私には今のところありません。
事務所の事件に関係あれば本格的に調べますが、繰り返し書いているように、このブログは余技ですので、そこまで専門的に調べる手間ヒマかけられません。
そこで以下は私の推論にかかることになります。
戸籍編成時に記載した本拠地=住所でも、その後移動する人も出てきますが、当初の戸籍作成後移動した時に戸籍記載場所の変更届出・・・戸籍変更は届け出で足りるとしても、引っ越しの都度変更届を出すのが面倒なので放置する人が出てきます。
こういう人のために同じ村内でも本籍地と違うところに住所を定めると、後の大正4年施行の寄留法では住所寄留と言う登録方法が出来ています。
(このとき創設したと言うことではなく、既に法がそこまで出来るような実態が進んでいたと言うことでしょう)
農家など田舎の場合、自宅を建て替えるときに、家を壊して同じところに建てるには建築中の住まいに困るので、すぐ近くの別の土地に新築する事が多かったのですが、この場合、大正3年成立施行4年の寄留法では本籍移動しない限り住所寄留として届けなければならなかったのです。
寄留と言う意味からすれば、仮住まいのことですから、安定した生活の本拠地を意味する住所に寄留を合体させた「住所寄留」の届出強制自体論理矛盾です。
明治31年施行の民法自体に住所とは生活の本拠を言うと記載されていたかどうかが分りませんが、今手元にある昭和8年版の民法条文によれば現行法同様に、21条に「各人ノ生活ノ本據ヲ以テ其住所トス」)とあって、少なくとも戦前から現行法と同じであったことが明らかです。
なお、2002年版六法の条文(4〜5年前の口語体への変更前です)も手元にある(自宅においてある)のですが、これをみると同じく21条で、文言もそっくりで違いがあるのは「本據」の據が当用漢字「拠」に変わっているだけです。
住所と言う基本概念が20年や30年でこまめに変わる必要がないので、明治29年の民法制定・・施行は31年当時から同じ定義があったと見るべきでしょう。
(上記壬申戸籍の記載条項の変遷をこまめに追跡出来ないのと同様に、この条文が明治31年施行当時から一度も変更されていないかまでは上記のとおりの推測の域を出ません。)
仮に変更がなかったとすれば、大正4年施行の寄留法の住所寄留と言う区分は、基本法たる民法の定義と矛盾することになりますが、民法制定後約20年も経過していますので既に家の制度・・本籍概念・重視が一人歩きし始めていて、このために無理を重ねたのではないでしょうか。

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