特権とは?(敗戦後の朝鮮人)

特権というのはいわば一般扱いの例外ということです。
高級店に行けば顔パスで奥の座敷に請じ入れられるのもその店での特権です。
村の祭りで村の有力者には、神社の上席が用意されるようになっているのは、その人一代の実績ではなく先祖代々相応の寄進をしたり、地元民をまとめるなどの功績に見合うのが普通です。
とき変わり、実績が見合わなくなると、「特権」として槍玉に上がるようになるし、他方で特権的地位維持のために能力以上の寄付をするのが負担になってきた方も(大地主が農地解放で財力を失った戦後はこの種の大地殻変動が起きました)お役御免を希望するでしょうし、これが一般的流れです。
現在私の地元では、神社お祭りや学校行事では町内会役員が出席する仕組みです。
明治維新直後の廃藩置県がスムースだったのは、ほとんどの藩が財政破綻状態だったので「お役御免」を希望していた藩がほとんどだったことによります。
辛淑玉氏が、在日特権は先祖が勝ち取ったものであるから見直す必要がないかのように主張するのでは、得手勝手というか論理的ではありません。
しかも在日特権は、米軍による日本支配道具として朝鮮人を戦勝国人ではないが、第三国人として占領支配の道具に使おうとした優遇策に始まる点を直視すべきでしょう。
本日現在の在日韓国朝鮮人に関するウイキペデイアからの引用です。

・・在日韓国・朝鮮人は戦勝国民でも敗戦国民でもない「第三国人」としてみなされるようになった[10
1946年11月末までに占領軍は連合国や朝鮮人や中国人についての批判を禁ずるとした検閲の指針を定めた[109]。
1946年11月10日、在日朝鮮人生活権擁護委員会を結成すると、朝鮮人に対する生活物資の優先配給を要求し、12月20日に皇居前広場で朝鮮人生活権擁護全国大会を開くと首相官邸を襲撃した(首相官邸デモ事件)。また、三国人が行政への脅迫によって米の二重三重配給を受けて密造酒を醸造し[110]、神奈川税務署員殉職事件、高田ドブロク事件など税務署との衝突が多発し、職員に死傷者が出ることもあった[105][111]。

これが公的空間の不法占拠や違法行為黙認・一種の治外法権的状態・・事実上特権行使の始まりです。
この時代を体験している石原元都知事(1932年9月30日生まれ )による「第三国人」発言は相応の歴史根拠があるのです。
日本社会が敗戦で苦しんでいる時にこそ助け合うのではなく、「解放」と浮かれて警察力の脆弱化に付け込んで違法・粗暴行為を繰り返してきた「負の歴史こそ真摯に学ぶべき」ではないでしょうか?
こ反省がないまま、開き直り的日本批判ばかりでは、(日本人の方こそ恨みに思っている人が多いので)本当の民族和解は難しいと思われます。
在日特権の場合、特権以上の貢献が要請される伝統的特権の逆張りで、GHQの人種分断・朝鮮人優遇優遇を背景に始まったものですが、日本国民向け説明として「弱者救済」的に特別に見る(公的空間選挙の露店物売りなど)も大目に見て撤去を強制しないなど事実上の放置のほか、違法行為があっても強制送還しないなどの優遇策が始まったものです。
冒頭に書いたような社会貢献の裏づけのない特権・・在日の場合特権に対応する負担がないことが、在日が戦後70年も経っても特権を自主返納しないでいつまでも残ってきた主原因です。
生活保護や公営住宅優先入居など多くの福祉政策は、一般の経済ルールからいえば弱者救済のための特権そのものですから、その必要がなくなれば速やかに返上すべきです。一旦特権を手に入れるとこれを既得権化する不心得者が出てくる・・収入があってもこれを隠した不正受給が時折詐欺で摘発され、世帯収入が上がって公営住宅入居基準外になっても、容易に出ていかないのと同様の問題です。
在日の場合には、そのような批判に対する先制攻撃として?植民地支配でどんなにひどい目に遭ってきたかをまず言い募り、日本人を問答無用的に黙らせる・・日本社会からの批判を受け付けない・・「一切の文句を言わせない」ようにする傾向が目にあまってきた印象です。
これが戦後70年も続けば「いい加減にしろ!と言いたい人が出てきてもおかしくありません。
敗戦で解放されるまでの苦しみというのですが、以下紹介していくように、もともと日本で一旗あげようとして自発的に移住してきた人が大多数だったのです。
民族教育の必要性に関して7月26日に引用した韓国系学者らしい韓東賢氏の論文では、敗戦時の200万人と帰国に備えて日本語しか分からない子供らに対する朝鮮語教育等や民族教育の必要性を脈絡なく結びつけて民族教育の正当化を結びつけています。
7月26に掲載した・韓東賢氏の論文引用文を再掲します。

1945年8 月の「解放」時,日本には約200万人の在日朝鮮人がいた。不安定な状況のなかで様子を見つつも当初,その多くは帰国を目指した。だが,一緒に帰国するにも日本で生まれ育った子どもたちは日本語しかできず,また皇民化教育や差別を通じて被支配民族としてのスティグマや屈折を内面化していた。
子どもたちの朝鮮語習得と,またそうした状態からの脱却を願う在日朝鮮人のニーズが,朝鮮学校を生んだ<

・・・・・・朝鮮学校の制度的位置づけ,処遇問題からあとづけていく。そこから見えてきたものは次の3 点であると言える。
①仮に戦後の日本がヤングのいう意味での包摂型社会だったとしても,その基調は同化と結合ではなく,「排除/同化」――排除と同化の二者択一を迫るもの――であった。
②2000年代には,このような「排除/同化」の基調を引き継ぎながら,にもかかわらず,「多文化主義へのバックラッシュ」としての排除を露骨化,先鋭化させた排除型社会になった。
③そのような「排除/同化」,また2000年代以降の排除の露骨化,先鋭化において,朝鮮学校の処遇はつねにその先鞭,象徴だった。

敗戦時の数字200マンが正しいとしても、実は戦後約1年でほとんどの朝鮮人が帰還した(帰りたい人はほとんど全員すぐに帰れた)し、日本政府も一刻も早い帰国を望み奨励していたのに、それでも(抵抗して帰らず)居残ったのが在日ですから彼らは帰る気持ちのほとんどない人ばかりだったことがわかります。
元からいた200万人は帰還事業が始まるとわずか1年で140万も帰り、その後は日本政府の帰国勧誘にも関わらず帰国したがらない人だけが居残っていたことになります。
1年足らずで帰国した140万人にとっては子供を何年もかけて民族教育する時間がないはずですから、政府その他の勧誘にも関わらず帰国拒否していたグループのこどもをターゲットにした論文でしょうか?
しかし帰国したくないグループにとっては子供が日本語を学んで日本社会に早く馴染んでもらうほうが優先課題であったはずです。
日本人の海外駐在員の場合、数年〜4〜5年で帰国予定の保護者が帰国時に年齢相応の日本の小学校各学年に子どもが編入されてもすぐに適応できるように国内教育進度に合わせた教育を異国駐在中にも希望するのは合理的です。
在日の場合帰りたくない人が居残っていたのですから、帰国する予定のない人が「子供がいつ韓国へ帰ってもすぐ学校教育に適応できるように韓国の教育進度に合わせて朝鮮語を教えたり民族教育しておく必要あるでしょうか?
その時間分、日本の小学校等での数学や国語の勉強時間が減ります)

「チンはたらふく食ってるぞ!」「日本死ね」の背景

「チンはたらふく食ってるぞ!」「日本死ね」の背景

敗戦の混乱・米軍の民族分断の煽りに乗じて日本軍が如何にひどかったかを批判すれば、米軍政下で重宝され、講和後は米軍の置き土産で運営されているメデイアで賞賛される状態が続いていました。
これに便乗し作品発表する進歩的文化人・一般受けする評論家・・それ以外にメデイアに露出する余地がありません・・が多かったようです。
米国の影響力がハゲてきてしかも寡占市場であった言論発表の場がネットに崩されてくると、軍部が如何に酷かったか、あるいは民族内対立を煽る文書発表でメデイアに重宝されてきた進歩的文化人?がようやく批判されるようになってきましたが・・。
占領軍にいち早く媚を売った国民は一部でもいたのは事実であって、全国民が占領軍による内部対立を煽る政策に反感を示していたという意味ではありません。
戦後直後の食糧難の時に「チンはたらふく食ってるぞ!なんじ臣民飢えて死ね」という心ないプラカードを押し立てて皇居前広場に押しかけて歴史に名を残した人もいます。
これが民族の代表意見だったというのでしょうか?
27日現在のウイキペデイアによる記事です。

プラカード事件(プラカードじけん)は、1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデー(米よこせメーデー、正式には「飯米獲得人民大会」)の際、参加者の一人である日本共産党員の田中精機工業[2]社員・松島松太郎が掲げた
「ヒロヒト 詔書 曰ク 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」(表面)、「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」(裏面)
のプラカードが不敬罪に問われた事件[3]。

プラカード事件のような調子にのる不心得者(不心得者かどうかは歴史が証明するでしょう。
少なくとも上記松島松太郎の子孫が名言を吐いた一族の誉れとして自慢の親または祖父として名乗り出ているのでしょうか?
これだけ有名なキャッチコピーを自慢して誰も名乗り出ないとすれば、身内としても親または祖父の行為を自慢できるとは思っていないからではないでしょうか?
慰安婦騒動の起爆剤になった・・・メデイアにより慰安婦扇動に調子を合わせた吉田調書著者の長男が、亡くなった父に代わって贖罪行為に努めている姿が普通のイメージでしょう。
最近でいえば、「保育所落ちた日本死ね」の標語を16年流行語大賞?に選ぶ心理とつながっているように思えます。
選考者の説明では、政治を動かす言葉のインパクトがあったと言う釈明らしいですが、これによって政治が動くようになったのではなく、政治の方はすでに動いていたのですから言い訳に過ぎません。
https://www.komazaki.net/activity/2016/02/004774/によると以下の通りです。

じゃあ、政府は何もしていないのか?
【実は保育所数は劇的に増えてるけど、待機児童は減ってない】

ということもあって、平成25年度あたりからグンと保育の拡大量が伸びました。
しかし、認可保育所に申し込む人が増えたこともあり、待機児童は減らせず、むしろ若干増えている、という状況なのです。

安倍政権になったのは2012(平成24)年暮れからですから、その後急激に保育所を増やしている状況が見えます。
平成25年から急角度で増えていることを見れば、16(平成28)年の「日本死ね」のインパクトによる世論喚起効果プラス山尾志桜里議員発言で政府が重い腰を上げてようやく動き出した関係ではありません。
被災があって仮設住宅着工したが、まだ完成しない・・あと10日〜20日かかるのを待てない、あるいは次々と増設しないと間に合わない状態に待ち切れない人々が駄々をこねるのにコトかいて!必死に頑張っている工事職人に八つ当たりしているようなものです。
八つ当たりしたからといって現場工事が進むものではありません。
しかも政府が保育所数増加必要性を認めても、住宅街や便利なところに作る必要性や保育士手当(定員)の必要があるから、いきなりできない・・用地買収などの手順・時間がかかる作業です。
「日本死ね」というな発想になる自分について、本当に国民支持を受けている自信があるならば、なぜ「この意見を書いたのは自分です」名乗り出て自分が流行語大賞を受賞しないのでしょうか?
初めから国民のゴク一部からしか支持されない発想・思考形態と自覚しているからではないでしょうか?
こういう発想を信奉する国民も一定数いますが、戦後日本人大方がそうではなかったと私は思っています。
流行語大賞になったことが示すように「日本死ね」に対してメデイアはこぞって高評価しているようですが、メデイアと世論は違います・・歴史が審判を下すでしょう。

天皇観は根本変化したか?5(GHQ草案)

以下新憲法制定に至るGHQとのやりとりとその前の基本方針に関する国会図書館の記録からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/064shoshi.html

資料と解説・第3章 GHQ草案と日本政府の対応
3-3 マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡(天皇の戦犯除外に関して) 1946年1月25日
1945(昭和20)年11月29日、米統合参謀本部はマッカーサーに対し、天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集するよう命じた。これを受けマッカーサーは、1946年1月25日付けのこの電報で、天皇の犯罪行為の証拠なしと報告した。さらに、マッカーサーは、仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、アメリカの負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。」

民間憲法改正案要綱に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B11946年2月3日、によれば、

46年2月3日のマッカーサー3原則(「マッカーサー・ノート」)には、「天皇は国家の元首の地位にある」”Emperor is at the head of the state.” と書かれる。

とあります。
上記の通り、GHQは天皇の戦争責任を一切出さなかったし、GHQの憲法草案も天皇制を基礎にしたものでした。
天皇の権威・国民の尊崇を利用する戦略は、とりもなおさず天皇を尊崇する国民意思尊重ということでしょう。
以下交渉経過は国会図書館資料からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

2 日本側の検討
憲法問題調査委員会(松本委員会)は、松本烝治の「憲法改正四原則」に示されるように、当初から、天皇が統治権を総覧するという明治憲法の基本原則を変更する意思はなかった。ただし、松本委員会の中にも天皇制を廃止し、米国型の大統領制を採用すべきだとする大胆な意見もあった(野村淳治「憲法改正に関する意見書」)。しかし、それは、委員会審議には影響を与えず、委員会が作成した大幅改正と小改正の2案は、いずれも天皇の地位に根本的な変更を加える内容とはならなかった(「憲法改正要綱(甲案)」、「憲法改正案」(乙案))。

乙案とは1月6日に紹介した宮沢案でしょう。
日本政府は国務大臣が提出した政府案に対する回答をもらえると思って、2月13日にホイットニーと会談したところ全く違うGHQ案をもらってタマゲタところから始まります。
原文は2ページ目しかコピペしませんが、3ページ目には、重大すぎて即答できないと回答して会談を終えたとあります。
以下は松本国務大臣がホイットニーとの会談時のメモの一部です。
このコラムではコピーではっきり読めませんが、国会図書館の上記にアクセスすればはっきり読めますし1ページ目も3ページ目も読めます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

3-16 GHQ草案手交時の記録
これらの資料は、1946(昭和21)年2月13日、GHQ草案が日本政府側に示された際の会談に関するGHQ側と日本側(松本)の記録である。会談の内容について、双方の記録に大きな違いはないが、GHQ側の記録からは、「松本案」に対する返答を期待していた日本政府側が、「松本案」の拒否、GHQ草案の提示という予想外の事態に直面し、衝撃を受けている様子をうかがい知ることができる。

料名 二月十三日會見記略
年月日 [1946年2月13日]
資料番号
所蔵 東京大学法学部法制史資料室松本文書

私の読み違いかもしれませんが、前ページ末の文章は「マッカーサー元帥はかねてより、天皇の保持について深甚の考慮を巡らしつつあり」としてこの1行目の「たるが、日本政府がこの提案のごとき」につながるので、「この提案」とは日本政府案に対して司令部が当日手交した(1ページ目に「先方提案数部交付し・・」と書いています)司令部草案をいうものと解すれば、文意が通ります。
5行目の「吾人はこの提案のごとき改正案の提示を命ずるものに非ず」も6行目の「この提案」も同じGHQ草案のことでで「原則さえ守ってくれれば・・そのとおりでなくともよい」という「押し付け批判」を意識した主張も全部理解可能です。
この「根本形態に基づいた改正案を速やかに提示」されたいと要求をされたのです。
2行目終わりの「これなくして」(GHQ案によらずして政府提出案のごとき改正案では)「天皇の身体(パーソンオブジエンペラー)の保障をなすこと能わず」とまで言われたとメモに残っています。
GHQは「民意による」制度という点で背後の連合国に対する天皇の生命保障・天皇制存続の保障説得を成功させようとしていたように演出していたのです・・この一点がないと「天皇の身体を保障できない」意味を私はこのように解釈しています・・。
本当に極東委員会が天皇制廃止を要求していたと言うのではなく脅しに使ったのでしょうか?
のちに極東委員会との関連で紹介しますが、GHQに対する連合国お目付役の極東委員会が設置され実動開始前にまとめてしまおうとGHQは極東委員会を蚊帳の外にしてこの交渉を進め、外部に出た時にはすでにこの案を歓迎する日本国内世論の盛り上がりを利用して、極東委員会の介入を阻止してしまいました  ・・善意悪意を別として鮮やかな手際です。
以下紹介しますが、これが徹夜交渉までして急がせた理由だと私は想像しています。

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