民主主義と正義8(他者排除3)

西洋諸国はフランス革命後も植民地支配の推進競争に精出していたのですが、植民地制度ほど人種差別を前提にした制度はありませんから、・・人種差別拡大を目的にしていたのと同じことです。
フランス革命後の西洋の人権思想と言っても自分たち仲間だけの権利実現をしたと言う程度でした。
この状態でも民主主義化に成功した先進国として自慢していたのですから、民主主義化と正義実現とは何の関係もなかったことが分ります。
民主主義とは言い換えれば、為政者選出母体の拡大に過ぎなかったすれば、選出母体のために最大利益を図る政治思想が極まって行かざるを得ません。
選出母体の利益を図る政治が正当化されて行くと対照的に代表選出能力のない被植民地では世界規模での隷属化が進行し、国内的には有産階層しか選出資格のない先進国では労働者の地位低下・就労条件の悪化が際限なく進みます。
選出母体の最大利益追求進行の反動として、先進国では被抑圧者の抵抗・労働運動が始まり、労農代表が必要という思想が広まりロシア革命・・ひいては世界中で多くの共産主義を目指す国家が生まれました。
政府としては国内労働者に反抗されると妥協して行くしかない・・鉄血宰相と言われたビスマルクの福祉政策になって行きます。
革命後の政治の動きを見れば、革命によって王族の利益から国民の最大福利に政治目標を切り替えたのではなく、選出母体と政治利益を受ける階層の変更・王族から有産階級への拡大でしかなかったことが分ります。
西洋では革命前後を通して旧来どおり他者に対する思いやりのない価値観のママであったからこそ、フランス革命以降の政治運動のテーマは、選出母体変更・参画運動と同義になりました。
(労働運動→ロシア革命も自己利益追求のための政権参画運動の一種でしたし、今でも政党の政治活動は政権交代を目指すことが第一義であって、そのための公約です)
労働運動家でも第二次政界大戦までは自国内の地位上昇が主たる動機であって、植民地住民の悲惨さの救済には向かっていません。
むしろ儲けの分配争いとなれば、トータル利益が大きい方がよいので、労使ともに海外進出=植民地争奪戦に積極的でした。
この状態を表現したのが、レーニンによる帝国主義理論でした。
日本も海外市場が必要だったことは同じですが、その方法としては植民地支配・異民族の隷属を目指すのではなく、日本古来からの動植物との共生方式の応用でした。
大東亜共栄圏・・植民地解放を公的に主張し始めたのは、日本政府が世界で最初でしょう。
大東亜共栄圏構想は、政治的に見れば市場開拓のために東南アジアに進出する口実に過ぎなかったとしても、公的に主張しこれに沿う実践をしたことに意味があります。
ビスマルクも必要があって福祉政策をやったに過ぎないのであって、本心から労働者のために福祉政策をしたとは言えないでしょうし、リンカーンの奴隷解放宣言であれ何であれ、(彼の本心はどうであれ、)政治と言うものは、必要に応じて支持を得るための口実であれ何であれ、主義主張として公式に主張したことに意味があるのです。
日本の大東亜共栄圏構想は東南アジア進出の主張・口実に過ぎなかったという否定論・私たちが学校の歴史教育で習った否定論は、論理の建て方に問題があります・・。
政治的主張とはすべからく選挙に通らんがため・・戦争に勝たんがために公約したりするものあって、政治家本人の古くからの信念である必要はありません。
「彼が本気でそう思ったのではなく、政治目的実現のための方便として主張したのだから意味がない」と言う連合国の論理による我が国での教育は偏った論理の押しつけです。
これまで書いているように、日本は実際にその前から統治下に入った朝鮮や台湾から収奪するどころかより多くの資金を投じて教育したり、現地工場を建てたりして現地民生向上を目指して実践してきた実績があり、太平洋諸島や仏印その他で英仏蘭の植民地軍を追い出した後は現地人の教育をしたり民生技術を教えたり地域の発展のために実践してきました。
西洋諸国の植民地経営の原則であった愚民政策の逆を実践してきたのが、日本でした。

年金赤字8(年金赤字の基礎4)

世代間扶養説の誤りから年金赤字問題に戻ります。
第2の③長寿化問題はどうでしょうか?
これも9月4日に書いた第1の①と同じく経営責任の問題であって、加入者の責任ではありません。
受給期間がどれくらいになるかの見通しを立てて、納付期間・納付金額を決めてこれによっていくらの支給が出来るかを経営者が考えて消費者に提案することは経営責任の問題であって加入者の責任ではあり得ません。
以上のように見て行くと現在の年金赤字の主要問題は、長期積立金の資金運用が予定通り高利回り運用出来なかったことと、受給者の長寿化=受給期間の長期化と次世代の加入者減及び収入減少による加入者の納付金の低さにあります。
今朝の日経朝刊でも厚生年金基金の解散を容易にする方向で検討と出ていましたが、民間基金の場合で言えば、世代間扶養などは関係(アカの他人同士で、タマタマ同業種というだけで30〜40年前の先輩の生活面倒を見るなどの理念)が遠過ぎて考えられない制度ですから、基金の赤字化は少子化の問題ではなく設計のミス性が明らかです。
業種別に見た場合、社会構造の変化で次々と業種ごとの栄枯盛衰があるのが普通ですから、(石炭産業から石油産業へ、繊維産業から電気機器へなど業界の変遷が激しいのが普通です)1つの業界で何十年後の業界人が先輩の年金を負担出来ることなど論理的にあり得ません。
(50〜100年も羽振りよく続く業界は稀な例と言うべきでしょう・・・金箔その他伝統工芸のように細々とならば、今でも続いていますが・・)
この結果、土木建設、水道事業・管工事など業界別年金基金が業界縮小の結果、あちこちで年金基金存続の危機に瀕しています。
これらはすべて、上記のとおり制度設計に無理があった・・あるいは約束に反して食いつぶして来た経営責任の問題であって次世代加入者が少ないか、各人の納付金が少ないかの問題ではありません。
その責任問題をうやむやにするために「インフレよ再び・・加入者増よ再び!」と願望して騒いでいるのが現在の官僚とその意を受けたマスコミと言うところでしょうか?
国内製造業が雇用を守ると言いながらも、拡大傾向にある好調企業であっても増産分を海外展開するしかないのが時代の趨勢ですし、韓国、中国等に負け始めている企業の場合従業員を縮小する一方ですから、掛け金を納付すべき加入者が減少して行くのは当然のことで少子化とは関係がありません。
何回も書いていますが、(非正規雇用を失業者にカウントしないにもかかわらず)失業率が高止まりしている現状からしても明らかなように少子化=労働者不足で企業が海外展開しているのではありません。
少子化以前に企業の雇用者数が減少しているので、厚生年金の納付者が減少して企業年金等どこもかしこも火の車になっています。
上記の各問題点は経営設計ミスの問題であって、加入者の責任ではありません。
民間生命保険会社を例にして考えてみましょう。
生命保険加入者が想定外に長寿化し続けたために生保各社の大もうけの時代が続きました・・。
これが想定外大災害等で平均より早く死亡したり、想定外金利下落によって運用益が予定に届かなかったり、年金保険契約で言えば、加入者が想定外に長生きして保険会社経営が赤字になったときには国民の責任というのでは一方的です。
古くからの加入者も現在の加入者もどちらの責任でもありません・・想定ミス・安易な年金約束をした経営責任の問題であることは疑問の余地がないでしょう。
政治家が実現出来ない公約を掲げて当選したようなもので、政治家は公約を実現出来なければ責任を取るべきです。
年金は誰が責任をとるべきかですが、当時の政治家や企画者は既に皆鬼籍に入っているし官僚主導でしたから、結果として官僚制度そのものに責任を帰すしかありません。
9月12日に書いたように年金制度は、政府が独占運営する必要がない・・民間・民営化中心に進んでいるのが、官僚の責任の取り方と言うことでしょうか?
政府の年金だとせっかく生活費を切り詰めて積んでいても、やれ障害者が可哀想だ、孤児は可哀想だとなって、次々と人の積んだお金を流用(公的な使い込みです)してその結果赤字だと言われるのでは、安心して預けておけません。
民間保険だと、可哀想な人がいたので保険加入していなかったが死亡保険金を払ってやった・・掛け金を払わないが年とって食えないのでは可哀想なので年金を払ってやっているから赤字になってしまったので、皆さんの保険金支払を減らしますと言って加入者が納得するでしょうか?
民間生保の場合そんなことはあり得ないので、却って安心です。
政府の最低生活保障は税や国債による社会保障費として統一し、これよりも良い生活をしたい人は個人的に預貯金を蓄え、あるいは保険会社の年金に加入すればいいことです。
政府は社会保障に特化して年金制から撤退すべきです。
現在生活保護水準は、国民年金を満額もらうよりも高くなっています。
こうなって来ると、国民年金を掛けるメリットのある人は、それ以上に老後資金を蓄えることが出来る人に限られ、預貯金なしに年金だけを頼りに生きる人にとってはその不足分を生活保護で貰うのでは、1円も掛けて来なかった場合と変わりません。
現役でギリギリの生活(それ以外に老後資金を蓄える能力のない)をしている人にとっては、国民年金掛け金を苦労して払う意味がなくなっています。
最低生活は政府が保障してくれる・・より良い老後生活=プラスαを求めるだけならば、民間保険に委ねれば充分ではないでしょうか?
従来の社会保険庁(解体したとは言えほぼ同数の役人が別の名義で働いている筈です)だけでも、膨大な役人や公的施設を利用していますが、これら全部不要になります。

次世代の生き方8

2012年8月1日まで書いて来た次世代の生き方に戻ります。
次世代は自分の運命を親世代任せにせずに自分の将来のため新たな生き方を自ら工夫するべきですが、その能力が低いのか時代の変化に対する適応が遅れているように見えることが次世代の苦悩・・ひいては社会問題化していると思われます。
成功して大きな顔をして歩く人と失敗して社会の片隅で小さくなって生きる人がそれぞれいるのは昔から同じですが、今は身障者でも(犯罪者でさえ、社会復帰を助けるために差別しないようにしようという時代ですから、貧乏しているくらい何の遠慮もいらない・・むしろ「俺は弱者だ」と言えば役所や公的空間で大きな顔が出来る風潮です・・これが生活保護受給者の増加に繋がっているでしょう)屈託なく社会で動き回れる時代です。
弱者の社会参加が増えるので身障者や知恵遅れが増えたかのような誤解が起きますが、(実際に増えた面もありますが)社会の片隅で遠慮勝ちに生きていたころよりも増幅して目立つようになっていることを割り引く必要があります。
同様に今は数十年前に比べてフリーター・非正規雇用が多いことは事実ですが、(誤解のないように書いておきますと民間で終身雇用が定着していたのは歴史上ホンの一時期のことです)全員がそうではなくきちんと正規雇用になっている若者も一杯いることからすれば、一種の負け組です。
これがコンビニその他で働いていることから、昔よりは目立ち易くなっていることを割り引く必要があるかも知れません。
数十年前まで多かった安定就職出来ないまでも、新時代に先がけていろんな分野で今までなかったようなことに挑戦している若者が一杯いる筈ですが、それは今のところ(基礎工事段階である以上)目に見えませんが、数十年後に芽を出すのでしょう。
新方面での努力する能力もない・・中底辺層の若者の従来型職場が減って来て正規雇用に新卒で就職し難くなくなっていることは明らかで、しかもこの階層の数は多いので目立つし、彼らが今大変であることも確かな現象です。
新興国の台頭→先進国経済縮小の時代になって汎用品製造工程で働くべき人たちの就職難になっているのは、次世代の責任ではないとも言います。
しかし、何時の時代も前世代の行動の結果、次の時代が来るのですから、いつだって次の新しい時代に適応出来るかどうかはその時々の次世代の能力次第だったのです。
高度成長期に育った我々世代・・焼け野が原から始まって何もないところで育ったので前世代から見れば可哀想な世代でしたし、何もないから失うものがなく何をしても前向きで良い時代ではありましたが、それでも高度成長期には「若いと言う字は苦しいに似ている」という歌詞が流行していました。
未来がある分現在(既得権)が少ないので若いときに苦しいのは、何時の時代でも同じです。
江戸時代に入って平和になって従来の武勇が役に立たなくなったのは俺の所為じゃないと言って暴れていても仕方がなかったし、戦乱で死ぬ確率が減ると直ぐに少子化に転換し、武士も文芸(お城での事務処理作業)に精を出して時代に適合して行きました。
明治維新で士族が没落したのは俺の所為じゃないと主張して食い詰めていた人・・不平士族の乱を起こしてもどうなった訳でもありません。
逆に新しい時代に適応して新たに身を起こした人がいたのです。
戦後も身分の入れ替えがありましたし、高度成長期にも時流に乗れた人と乗れなかった人の入れ替え戦がありました。
バブル期にも損をした人と逆に高く売り抜けて得した人もいたのです。
しょっ中世の中が変わるのは当然で、それを政治や世間・・親世代の所為にして自分で生き残りの努力しない人は置いて行かれるしかありません。
我々の世界でよく議論が出る若者気質として、何か課題を与えると自分でじっくり考えようとせずに、「これに関する文献や答え・判例があるかを直ぐに聞いて来る」というボヤキがあります。
マニュアル化時代とでも言うのでしょうか?
必要は発明の母とも言いますが、少子化で親に充分な時間があるので先へ先へと親が心配して準備してやって来たので、じっくり自分で熟成する時間経験が乏しいように見えます。
これでは本来の智恵がつきませんので、「今の若者は大変だ。何とかしてやらねば・・。」と親世代が30〜40歳になった世代の生き方の工夫をしてやるのではなく、一定期間苦しい状況に置くのも新たな文化が生まれるために必要な試練かも知れません。

健全財政論8(中央銀行の存在意義2)

話題を貨幣価値維持に戻します。
武士上がりの経済官僚の使命感は前回(8月13日に)書いたとおり、弓鉄砲で侵略して来る外敵から郷土の妻子・一族を守ることから、貨幣増発・悪改鋳による生活苦から領民を守ることに変わって行ったのです。
徳川政府は武士に支えられながら、武士の中の武士・言わば正義の士は、武士でありながら悪改鋳・・インフレにしたがる徳川政府=主君に対抗すべき勢力に変わって行ったことになります。
どんな政権でも対外競争の関係で有能な人材が欲しいので、外国帰りの学者等を政権内に抱え込む・・あるいは国力の底上げを図るためには一般人の外国留学を奨励するしかないのですが、有能な人材ほど政権批判能力が高くなるジレンマがある点は、専制君主制あるいは中国共産党一党支配の国でも同じです。
政権が有能な人材を抱え込みたければ、民主化・・国民のための政治にしない限り矛盾に苦しむことになります。
貨幣価値を守るために存在する中央銀行の役割に戻します。
現在の先進国では、グローバル化以降新興国からの低価格品の洪水的輸入によって恒常的デフレ状態に陥っていて、インフレを心配するどころかデフレ克服すら出来ない状態に陥っています。
(貨幣をじゃぶじゃぶ供給しても、物価は上がらず輸入品が増えるだけでせいぜい輸入に馴染まない不動産バブルが起きるくらいです)
デフレは国民にとって(ミクロでみれば)良いこと尽くめですが、他方で全体のパイが縮小・「角を矯めて牛を殺し」たのでは何にもならないので、パイを大きくする経済成長も欲しいところです。
デフレ(低価格品の輸入攻勢)に悩む先進国では積極経済政策をどのようにしたらGDP上昇効果が出るかの智恵比べですが、景気過熱・物価上昇を押さえ込むDNAに特化している中央銀行官僚にはこの方面での能力適性がありません。
日本の官僚は元々武士上がりで「勤倹」には慣れていますが、「一所懸命」の語源でも分るように、愛する郷土を死守する「城を枕に討ち死に」とか「玉砕」など現状を守ることが武士の本領であって、積極的に投資して儲ける才覚がありません。
中央銀行を「物価の番人」とは言いますが、経済政策官庁とは言いません。
前向きな政治をやるには、郷土の守りに強い武士のDNA過剰体質から、積極的才覚のある人材に官僚を入れ替えて行く必要があります。
かと言ってアメリカのようにユダヤ系人材に頼って金融方向ばかりでは困りますので、物造り兼商才のある(積極性のある海洋民族系の混じった)人材と言う欲張った方向性が必要です。
こうした人材はパラパラといるのですが、偶然に頼ると官僚世界の内部で孤立して浮き上がってしまい能力発揮が出来ないので、高級官僚の採用制度から根本的に変えて行く必要があります。
江戸時代以降学校で習う・・賞賛される3大改革はすべて、質素倹約政策ばかりで積極財政派はいつも賄賂ばかりが強調されて悪役扱いでした。
積極財政を頭から悪と決めつける全体の雰囲気・・教育からして変えて行く必要があります。
積極財政には相応の不純物も副産物として生じますが、だからと言ってマイナス面ばかり強調するのでは経済が成長して行きません。
車が危険であれば、ブレーキを付けたり免許制にすれば良いように、積極財政の副作用についても制御の工夫を怠っているだけです。
こうした視点で考えると、静的チェック能力を求められる司法官と動的考察が求められる行政官僚とでは制度目的が違うのですから、国家公務員採用試験科目が司法試験の焼き直しみたいでは、おかしいのであって試験科目からして変更して行く必要があると思われます。
厳格な科挙制(丸暗記中心)によっていた中国や李氏朝鮮では発展性がなく、江戸時代の日本の発展に大きく水を開けられたのが明治以降の格差が生じた原因です。
司法試験や国家公務員試験は科挙ほどではないにしても、科挙の流れを汲んでいてアメリカ型ケースメソッド方式とは大きく違う暗記を主体にする方式である点は否めないでしょう。
大恐慌以降の中央銀行の独立制度は、経済政策・GDP向上策と物価の番人役を兼ねていた明治までの経済官僚を積極政策をする大蔵省と番人(ブレーキ)役(中央銀行)に分離したとも言えます。
(大蔵省の外局として途中で経済企画庁が出来ましたが・・平成に入って金融行政の金融庁と財務省に分離しました)
原子力政策推進官庁と安全を監視する役所の分離と同じ発想ですから、そもそも日銀に経済活性化のための協力を求める今の政治は、元々の機能分離体制が今でも正しいとすれば間違っています。
日銀が政府の言うとおりやるならば、推進派から協力を求められて、何でも安全と(津波の心配が既に指摘されていたのに、そんな100年に1回の津波まで心配していたら何も出来ないよ・・と)お墨付きを与えていた原子力保安院のようなものになります。
ただし、一国閉鎖社会と違う現在では日銀だけで物価を安定出来ないし、日銀の金利上下や量的緩和だけでは経済をインフレにもデフレにもしようがないので、行政府の積極財政に協力する量的緩和くらいしか出来ない時代です。
・・貨幣価値を守るべき日銀制度自体不要ではないかという意見を2012/03/30「日銀の国債引き受けとインフレ3」2012/03/31「日銀の国債引き受けとインフレ4」前後、最近では2012/06/19「新興国の将来11(バブルとインフレ1)」のコラムで書きました。
経済のグローバル化が進んでいる現在では、1国だけでの金融調節による経済運営機能が低下あるいは消滅する一方で、積極施策・財政出動・・これの基盤となる量的緩和に関しては、日銀には歴史的に経験がないので政府の言いなりになるしかないとすれば、日銀の存在意義がなくなっているのではないかと言う意見をこれまで書いてきました。
国民の生活を守るには貨幣価値を守ることが重要ですが、対外的にみれば貨幣価値は国民経済の実力(国際収支)の反映であって、官僚や中央銀行が観念的な気概さえあれば守れるものではありません。
為替の変動相場制が普通になって来ると、今ではある国の貨幣価値はその国の経済力(国際収支黒字または赤字のトレンド)によって日々決まるのであって、官僚の気概や日銀の金融政策(紙幣発行量や金利)とは殆ど関係がなくなったことも明らかです。
(仮に為替介入しても効果は一時的です)
貨幣価値=為替相場は市場原理(国際収支黒字または赤字による貨幣需給)によることについては、ポンド防衛の歴史のテーマ(連載中に横へそれたままでまだ途中で完結していません)でも連載してきました。
金利を下げて紙幣量を増やすと消費が活発になる傾向があるので、(金あまりの日本では大方が預金に回るとしても少しは消費拡大になるので)輸入量が増えて貿易黒字が縮小しあるいは赤字になり易い・・その結果円が高くなる速度を緩めたり安く出来るかも知れません。
しかし、これも国産化率が高い(エコカー補助金の恩恵を受けたのは国産車が大部分だったでしょう)とその関係が低くなるなど、間接的な関係しかありません。
(ただし、エコカー補助で売れたのが国産車中心でも、内需が増えればその原材料輸入が増えるのですが、風が吹けば桶屋が儲かる式の間接的関係です)

格差修正38(新自由主義8)

円安に誘導出来て物価が上昇すれば、実質賃金が下がるので政府も経営者も何の努力も要らずすべてが簡単ですが、経常収支黒字を累積しつつ(少しでも貿易赤字になると大騒ぎしています・・)円安になるのを期待するのは論理的に無理があることを繰り返し書いて来たとおりです。
経済の自然の流れに逆らって無理を通して来たのが超低金利による円安誘導でしたが、リーマンショック以降先進国全体でほぼ似たような低金利政策になるとつっかえ棒がなくなったダムみたいなものです。
円キャリー取引で誤摩化して来た溜まりに溜まった円上げ圧力が一気に押し寄せたので、その勢いで均衡点をあっさり乗り越えた相場になってしまい、8〜90円前後ならまだまだやれる産業まで足をすくわれる結果になってしまいました。
自然の流れをねじ曲げるといつかはその無理が出るので、よほどの成算がないと経済の流れを政治でねじ曲げるのは却って危険です。
経済原理に反した政策は臨時短期間の激変緩和策としてならば意味がありますが、長期化すると却ってその反動が大きくなり過ぎます。
この点は臨時的な不況対策としての補助金も同様で補助金が恒常化すると退場すべき企業が何時までも温存されて結局国富の食いつぶしになります。
雇用調整助成金が見直しの方向になってきましたが、生産性の低い業界で助成金がある為に人材を抱え込んだままにすると活力のある必要な分野に人材の移動が行われなくなる弊害が目立って来たからです。
新自由主義非難・・政府の関与強化を求める思想や論者は、出発点であるグローバル化自体・・国際的な賃金の平準化の流れを批判しているならば一貫します。
しかし、この種批判論者の多くは一方では世界的な南北(賃金・生活水準)格差の解消・・人権・人道主義者でもあるのです。
同じものを作っていて生産性が同じならば、世界中の賃金を平準化することは人道的にも正しいことですが、これを日本の賃金・生活水準を下げずに実現するには中国やミャンマーの賃金を日本と同じ高賃金にするしかありません。
高賃金・高生活水準にするには彼らの生産・輸出を増やす・・日本からの輸出を減らす・・失業の拡大または賃金低下しかないので日本の生活水準が下がらざるを得ません。
現状の貿易黒字を日本が維持しながらミャンマー、アフリカ諸国の人件費を上げるには、日本での高度なインフレ・・超円安を期待するしかありませんが黒字のまま円安を期待するのは無い物ねだりです。
新自由主義批判論はグローバル化が悪いと言う意見だと思いますが、アメリカの通商法による理不尽な日本叩きによって、迂回輸出→結果的に新興国の離陸が始まり、グローバル化の流れは押しとどめられない奔流となってしまいました。
欧米諸国は自分たちが植民地支配で甘い汁を吸いながら、日本の植民地支配だけを非難して戦争を仕掛けた結果、戦後世界中で植民地独立運動になってしまったのと同じ轍を踏んでいることになります。
グローバル化進展の結果、世界中で賃金・生活水準平準化が進みつつあるのは、彼ら人権活動家の言う人類愛・・本来の正義に合致しています。
新自由主義批判論者も今更グローバル化の流れを間違いだとは言えないでしょう。
グローバル化進展を認め・世界中の生活水準の平準化を求めておきながら、日本人にだけ国際水準以上の賃金を従来どおり維持させろと言うのは矛盾です。
最貧国では学校の校舎もないのでそこへ援助に行っている・・そこで汗水流して貢献している報道をみたりしますが、こういうことが可能なのは乗り越えられないほどの巨大な経済格差があってこそ成り立つことです。
これらの国の自立を促すには経済力を付けてやることが基本であって、目のくらむような豊かな国の人がおこぼれを持って行って得意になってるの見るのは私には違和感があり、余りよい報道だとは思っていません。
平準化がドンドン進み援助など要らない世界の実現・・上記のような個人プレーで格好付けているよりはずっと正義に近いと思います。
若干の凸凹があってもおおむね平準化した世界が実現すれば、日本の比較高賃金は中国や最貧国などと平準化するために下がって行くしかありません。
後進国・中進国・最貧国の上昇に合わせて生活水準を相対的に引き下げて行くしかないとすれば、「その方策や如何に?」が我が国の主要テーマです。
絶対的水準の引き下げはきつ過ぎるので、考えられる方策としては中国等が年間10%前後引き上げるとしたきに我が国が2〜3%しか上がらないなどの形で差が縮まって行くこと・・ソフトランデイングしかないでしょう。

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