事前準備と危機管理能力

原発事故も同じで、予想がつかないような事故は当然あり得る・・人智の及ぶことの方が少ないのが普通ですから、予想外のこともあると言う謙虚な気持ちでこれに対する予めの備えが必要だったと言うのが私の後講釈です。
交通事故や火災はない方が良いのですが、ともかく火事や交通事故があった場合に備えて消防車や救急車・救急患者受け入れ病院があるように、「あってはならない」かどうかではなく、実際にあったらどうするのかの準備が求められる筈です。
この備えをおろそかにして国民を危機に陥れて・・事故が起きてから、政府トップや東電社長に現場指導力を期待しても意味がありません。
長かった自民党政権時代を通じて予めの構想力・備えのなかったことが今回の震災被害(原発事故)を大きくしてしまったのですから、就任して1年前後の総理一人あるいは民主党だけの問題ではなく、原子力発電を主要な発電主体にすると決めた頃・・約4〜50年前から現在に至る関連政治家や原発関連事業者や学者総体の能力不足による積み上げ不足・責任です。
東電社長が、海外展開のためのスペシャリストとして外部から招聘されたのなら別ですが、もしも内部生え抜きであるとしたら、当然長年にわたる危機管理の準備不足は彼が内部昇格して行く過程で関わって来た・・東電の秘密体質・危機管理に関する意識の低さに関わって来た一員としての責任があります。
どんな立派な機械でも思いがけない・・想定外の故障があり得るのですが、義経と梶原との逆櫓論争でも知られているように、想定外の故障・事故があったときの備えに対する議論を封殺する国民性に原因があるのでしょう。
原発に限らず企業の巨大システムに故障があったときにどうするかの手順が多くの企業で決まっていないことが多いようです。
「失敗・・そんなことを想定すること自体が許されない・・あってはならないことだ」と言う議論が幅を利かしてしまい、そうした想定の議論を許さない社会です。
「あってはならない」かどうかは別として、「結果として起きたらそのカバーをどうするか」と言う研究や議論をしては何故いけないか疑問です。
安全神話・・人智を越える災害はいつかは起きるものですから、絶対安全などあるべくもないのですが、そのための備えを研究したり議論すると「そんな危険なものは要らない」となるのが怖いので根拠もなく「絶対安全です」となって、その先の被害想定研究が進まないのです。
大きな故障が起きるといつも泥縄式で現場が徹夜で頑張っている風景が報道されますが、(例えばみずほ銀行のシステム障害・・これも事前にこういう障害が起きたらどうするの手順がまるでなく泥縄式です)原発のような被害の拡大が巨大な場合、「あってはならないことだ」と言うことで思考停止してしまっているのでは困ります。
もしも被害が起きたらどの範囲の人たちにどう言う手順でどうするかの段階を踏んだ被害想定をある程度しておかないと、何十万人単位の国民が避難するのかしないのかの何の準備もないのでは、泥縄式で大混乱に陥るのは当然です。
仮定の話ですが、国際的に見て仮に日本平均の故障・事故率が1%で、外国平均が2%・・日本製品品質の信頼性が2倍としても、外国の場合、故障は多いもののそのカバー体制が充実していて事故発生後10分で故障を直せる、あるいは代替設備の準備があるので比較的短時間で回復出来るのに対して、日本の場合滅多に故障はないが故障や事故があった場合、これに対する備えがなくオロオロするばかりで代替設備をゼロから製造するので、生産回復に一ヶ月〜6ヶ月かかるとした場合、信頼性としてどちらが高いかの問題です。

家の制度3と戸主の能力

    

明治民法で確立した本籍地を基本とする人民管理・・家の制度は、前回まで書いたように何の実効性もなかったことから見ると何のために創設したのか不明です。
その結果から眺めると、戸籍制度の創設・充実・完成との関連で自動的に・・付随的に出来上がったに過ぎないけれども、保守反動層をなだめる効果があるので、(実効性がないので何の実害もない)作っておいて損はない程度の制度だったような印象です。
明治政府は都市住民の管理もしたくなったので、明治4年の太政官布告以来、江戸時代のように出て行った次男三男や弟妹を郷里の実家では無宿者扱い・・すなわち除籍出来なくなったのですが、無宿者として除籍しないで郷里の戸籍に残す以上は広がりすぎる一家の定義・・が必要になったに過ぎません。
元々庶民が出て行った者を除籍して無宿者にしていたのは連座責任を免れる目的だったので、無宿者にするのを禁止して家族の一員として残すことを強制した見返りに親族共同体の一員としての連座責任は解除されましたが、大家族の一員とする以上は何らかの統率権が必要です。
一家意識を高め統率を期待しながらも、2月11日頃まで書いて来たようにその見返りに扶養義務が法定されてしまいました。
家父長制度の創設は、扶養義務に見合う指導権・口出し権があると言う意味合いがあったでしょう。
戸主の権限が強化され、その見返りに扶養義務があるとされてもイキナリ大地主になった訳ではないばかりか,単独相続であることも江戸時代までと同じです。
それまで分割相続であったのが明治民法で単独に変わったのなら,その見返りに弟妹を養う義務の法定は合理的ですが、江戸時代にも単独相続が法定されていなかっただけで,事実上のルールでしたから,明治になっていきなり無宿者・・無関係にするのを禁止されて,しかもイザとなったら扶養しろと言われても,それだけの裏付けがありません。
もともと自分の直系家族を養うのにぎりぎりの最小生活単位(多くは水呑百姓です)の農地を江戸時代同様に相続するだけのことで、弟妹の面倒を見るために特に農地が拡大したり、政府から補助金が出た訳でもないのに義務だけ明記されたのです。
長男が田舎のわずかな農地を家督相続しても、明治になってイキナリ単位面積当たり収量が上がった訳ではなく、弟妹とその家族全部の生活を見るのは元々無理だから都会に押し出していました。
これを江戸時代には無宿者にして人別帳(今の戸籍あるいは住民登録)から抹消して法的にいない事にしてしまい、人間として最低の義務である(・・死者を悼む気持ちは儒教に限らずどんな宗教世界でも同じでしょう・・)死体引き取りの義務さえを免れていたのですから、生きているうちに生活全般の扶養義務を長男=戸主に課した明治の家制度は無理な制度設計だったことになります。
農家収入だけでは養って行けないから弟妹が都会に出て働いていたのですから、「困ったら何時でも帰って来いよ」の論理自体矛盾です。
実際には中堅農家=自作農以下では(どこの国でも同じでしょう・・)一所帯(直系家族)で生活するのが漸くであって、相続した農地で2所帯も3所帯も養える筈がありません。
この理は現在の都市生活者でも同じで、ちょっとくらい(大手企業の役員になっても)出世した程度では並の昇進をした同僚より少し豊かな生活が出来る程度に過ぎず(一定規模以上の経営者以外には)直系家族以外に養える人は稀でしょう。
今回の地震被害者の親族でも,短期間の同居は可能でも半永久的に一方的に養うので不可能なことです。
一家の農地を世代交代の度に2〜3戸に分割していたのでは食べて行けない・・共倒れになってしまうから、新田開発が停まった後の江戸期を通して長子あるいは姉、末子が単独相続していて、婿や嫁に行かない弟妹は結婚せずに家に残っている場合「厄介」と呼ばれていた(独立の所帯を持てなかった)のですから当たり前です。 
都市化・貨幣経済化が進むと世襲財産の比率が下がってくることを、September 14, 2010「農業社会の遺産価値」〜September 16, 2010「高齢者と社会(ご恩と奉公)」前後までのコラムで紹介しました。
世襲した財産価値(近郊農家で農地の売値が仮に上がっても、同じ面積での収量が上がる訳ではないので家族を養う能力)が目減りする一方・・むしろインフレの継続で農地を世襲した一家の方が生活が苦しくなる一方でしたから、戸主(そのほとんどが農家承継者です)として観念的な権威だけ強くされても何のメリットもありません。
家の制度が昔からあるかのように誤解している人がほとんどでしょうが、明治の民法・戸籍法成立までは、家にある弟妹とは文字どおり具体的な家・建物に同居している弟妹(厄介・居候)のことでした。
これが明治民法では「家にある」と言っても戸籍に載っていると言う意味に広がってしまったのです。

能力社会の遺産価値

今のところ一律生活費支給制度にはなっていないので、元気な夫をコケにするとたちまち生活に響くところが、父母の面倒を見ずに老人ホームに入れると将来相続出来なくなる(効果は大分先のことです・・)リスクを負うのとは訳が違います。
薬剤師や教師夫婦・公務員夫婦でもそうですが、ダブルインカムで比較的優雅な生活が出来ますが、それはダブるインカムを前提にしているに過ぎず夫の収入が入らなくなると大変です。
女性プログルファーや女優等特別な収入のある場合を除いて大方の場合、(ダブルインカムの場合でも)夫の収入を前提に目一杯ローンを組んだり、あるいは相応の高消費水準の生活になっていることが多いので、夫婦どちらかが逃げてしまうと大変どころか破綻のリスクとなります。
タワーマンション居住のサラリーマンの場合、ダブルインカムを前提にしたローンを組んでいることが多いようです。
風俗系や飲食業の場合、毎回のサービスと収入が対価関係ですから、客足が遠のけばもろに収入に響くので何時行っても愛想がいいのですが、これが仮に1年分前払いとか地位が安定化すればするほど、外形的サービス内容が低下していく傾向があります。
ですから、あまりいい客になると他の客で込みあっていると隅っこに行かされたりして客観的サービスが低下します。
それでも一見(いちげん)の客扱いよりはなじみの客になる意味は別にあるのでしょうが、それはまた別の意味がありますので、夫婦と挨拶程度にとどまる知人や競争相手にすぎない仕事同僚の外にどこか心のよりどころになる中間的人間関係の必要な時代が来ているかもしれないと言うテーマで別に書きます。
労働契約でも日雇いから期間工、契約社員、正規社員と契約関係が長期化すればするほど労働者の地位が安定しその裏返しに経営側の裁量権が後退します。
女性も外で働いていると夫婦中心のサービスがやっとで、子供が親(老人)世代を軽んじると言うか外注に委ねる方向へ傾斜して行くのに比例して、老人の方からも子供達に面倒を見てもらわない代わり遺産を子供達に残す意欲が薄れる方向へ逃げつつあります。
介護するべき子供世代(5〜60代前後)では、既に自分で自宅を買い求めた住宅ローンも終わっている世代(バブル崩壊後35年ローンが増えているので、今後は70前後までローン地獄のままになるでしょうから、これは今の5〜60代の話です)ですから、今更親の遺産がどうなろうとそれほど気にしない関係です。
今更親の家をもらえても貰えなくともそんなに気にならない・・親の家が空いても、今さら住み慣れた場所を離れて引っ越す気にもならない人が多い印象です。
江戸時代までの・・農地や家禄のように遺産相続しないと日々の収入自体がない時代から、親の遺産に関係のない勤労収入中心で食う時代に変わって相続財産の比重が下がったのです。
年老いた親の面倒をだらだらと見るよりは「遺産を貰えなくなっても良い」と言う相互の選択(勿論無意識の選択ですが・・庶民の智恵は凄い!)がうまく合致した結果でしょう。

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