クリスマス(信教からの自由とシビリアン)1

イブには,例年日頃書いているコラムと全く関係のないことを書く習慣でしたが,今年はキリスト教による西洋の民に対する内面支配とこれに対する自我の目覚め→抵抗・シビリアンの発生→フランス革命を書いている内にクリスマスが来てしまいましたので,今年はクリスマス特番でありながら延長的コラムになります。
近代的な法の支配が成立していない社会では,法の代わりに何か基準になる生活のルールが必要です。
集団がある限り動物界でも植物界でも暗黙のルールがあって,人間社会の場合最初に生まれるルールブックが民族ごとの(地場)宗教・習俗となります。
明文がなくとも民度レベルに応じた生活をすれば「動物界の掟」同様に社会レベルに応じた暗黙のルール・習俗が成立していてトラブルが起きても解決出来る訳ですが,組織・社会規模が大きくなったり,生活様式の違う部族が統合されて・・支配者が出来ると,生活に根ざしたボトムアップによる自然発生的ルール造りでは煩雑過ぎるので,(習俗の違う部族を含めた)広範な支配地域の統一性を持たせるための新たなルールが意識的に欲しくなります。
このルールの一体化のために日本のように八百万(やおよろず)方式で柔軟対応するか、(合議制ですので決定に時間がかかる・・漸次的変化社会になる)1神教で画一強制(革命的急激変化)するかで社会意識のあり方が大きく変わります。
数段階も進んだ文化を一気に取り入れる場合、(ドイツ啓蒙的君主制〜ロシアや中国の共産党独裁〜新興国に多い独裁政治)効率が良いでしょうが,その分内部はぎくしゃくする上に自民族の文化による政治ではない→共通土俵がない・話し合い解決不可能→強権支配になります。
外来文化至上主義者が権力を握ると強権・恐怖政治になり,野党になれば現実の社会を対象にしないので(非武装平和論や「少なくとも県外へ」など・・)現実に即した・マトモな議論になりません。
社会形態で見れば,商業系では画一ルール化の必要性が高いし,農業社会では画一性の必要性がそんなに高くないだけではなく、地域別気候に左右されるので画一化は無理だと言うテーマで西洋の単一気候や中国は商業系社会であったという推理で連載したことがあります。
(気候が少しずつズレている日本では、朝廷の配る暦通り農作業出来ないので神棚に棚上げされていたことも別の機会に書きました)
西洋中世社会の発達によって小単位の部族別習俗的地場宗教では間に合わなくなったので、海洋・商業系ルールである点で生活習慣が全く違うにも拘らず、規模が大きく普遍性を持っていたキリスト教を導入したものと思われます。
アルプス・ピレネー山脈を境界とする別世界・=習俗が違う(ただしフランスが一部地中海に面しているように大きな切れ目があります・・ガリア地域はローマ化が早くから進んでいたし、新旧の争いでもカトリック系が強固だった所以です。)点を我慢して?も導入するメリット(文化格差)の方が大きかったのでしょう。
ゲルマニア・ガリアの地は本来は農業牧畜社会ですが,日本と違って大平原→単純地形・単純気候風土であることが,海洋・商業系民族の1神教を受入れても何とかなっていた基礎でしょう。
西洋にも山があり海(漁業・日本のオランダ国名の語源?の海岸沿い民族の固有性など)がありますが、全体的に見て無視できる程度差であったことによります。
西欧ではスイスのウイリアムズ・テルの抵抗が有名ですし今でもEU非加盟ですが、アジアでも中東でもロシアでも山岳民族が中央政権に簡単に従わないのは,勇敢であるだけはなく生活習慣が大幅に違っている面を無視出来ません。
日本の場合東西南北に長く気候差があるコト,地形が複雑なのでちょっとの距離で一山越えればも習俗が違う上に山が海に迫っているので,海洋系と山岳系が同居(海彦・山彦の神話で象徴表現されています)しているので,大和朝廷も各地神々の統合と言うよりは和合を経て(各地神々を残しながら包摂して行く・・ヤオヨロズ方式)伊勢神宮になって行ったものと思われます。
それでも社会規模が大きくなって来た聖徳太子の頃には17条憲法が必要になっていたことが分りますが、多神教社会ですから「和をもって尊しとなす」などの精神規定を決める程度でした。
日本中世にはまだ権力基盤が弱くて具体的規制をするほどの法を制定するまでには至っていなかったと言う方向で法制史の本に書いてあったので、私もそのように理解して10年ほど前に「非理法権天の法理」を紹介しましたが,いま考えると権力の強弱によるよりは「日本は多神教社会であって,細かいことまで各地の神々に強制するのは無理があったし必要もなかった」からであると言う(私独自の)解釈も可能です。
「権力さえ強ければ何でも強制出来る」と言う専制支配の中国や欧米式思考法によれば、本に書いてあるとおりの結果になるでしょうが,(学問的ではなく私の独自思いつきですが)むしろ多様な思考を融和して決める・・ボトムアップ社会の特質から考え直す方が合理的かも知れません。
例えば(日本初めての成文法かな?)鎌倉幕府によって御成敗式目が制定されたと言っても(承久の変の後で)武家権力が強くなったからと言う解釈は,強制力の視点が強過ぎます。
https://kotobank.jp/wordによれば、御成敗式目の条文の害要は以下のとおりです。

〔1〕寺社関係―1、2条。
〔2〕幕府の組織、(イ)守護―3、4条、(ロ)地頭(じとう)―5、38条、(ハ)その他―37、39、40条。
〔3〕土地法、(イ)土地所有―7、8、36、43、47条、(ロ)所領支配―42、46条、(ハ)所領売買―48条。
〔4〕刑事法―9~17、32~34条。
〔5〕親族相続法―18~27条。
〔6〕訴訟手続―6、28~31、35、41、44、45、49~51条。

http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/の口語訳によれば

第1条:「神社を修理して祭りを大切にすること」
第2条:「寺や塔を修理して、僧侶(そうりょ)としてのつとめを行うこと」

などで、まだ基本精神の宣言でしかなかったのは、「権力基盤が弱かったから・・」と言うのが(欧米式思考による)以前紹介した日本法制史の一般的解釈ですが,日本社会は古代から権力が強ければどんなことでも強制出来る思考方式ではなかったうえに、当時の紛争は農地の帰属や水利権争いが中心であり,(一所懸命の熟語がこの頃出来ました)この解決に各地の長年の慣習・習俗を無視出来なかったコトが大きな原因でしょう。
この後で紹介するように御成敗式目は,幕府の設けた門注所(今で言う裁判機関)への訴えが増えて来たの基準造りの必要に迫られたことによりますが,(有名な十六夜日記は訴訟のために都から鎌倉に出掛けた女性の日記です)当時の民事訴訟テーマは,主として領地に関する争い(十六夜日記も当時長子単独相続制ではなかったことから起きた領地の相続あらそい)だったからです。
農地・農業・水利権・相続のあり方などは地域ごとの習俗習慣・数十年前に灌漑工事をしたときの取り決めなどを無視出来ませんので、地元の習慣ごとに決めて行った方が良いし、第2条の社寺の修理でも今のように建築基準まで細かく決めなくとも各地の財力と気候や地形に合わせて・・あるいは宗派ごとの自由な思考でやってくれと言う・・僧侶の勤め(労働法?)方もまじめに励みさえすれば良い、修行の仕方はお寺ごとに決める)現実を表しているように見えます。
まさに多神教世界の融通無碍な決め方であって、権力が弱かったからではないと解釈すべきです。
上記〔2〕以下条文を見ると具体的で思い切った条文になっているのに驚きますが,引用が長くなり過ぎるので残念ながら割愛しますが,関心のある方はご自分で引用先へアクセスして下さい・・面白いですよ!

軍・警察とシビリアンの緊張関係1

これまでシチズンとシビリアンの違い・・シビリアン意識は対キリスト教の思想圧迫と軍事支配に対する抵抗のために生まれて来た経過を書いて来ましたが,我が国ではシビリアンコントロールとは軍に対する言い方が普通です。
最早異端審判や魔女狩りの復活リスクは考えられなくなったので、市民にとって残った脅威は軍事支配=権力による人権侵害のリスクだけになって(数世紀経て)から、米軍支配のときに日本に入って来たからです。
憲法
第五章 内閣
第六十五条  行政権は、内閣に属する。
第六十六条  内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
○2  内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
○3  内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。
上記の「文民」とはいわゆるシビリアンのことでシビリアンコントロールの原理の現れである説明されています。
ところで、日本では組織は家の子郎党・血族・同胞から始まった歴史があり,武士は自分達の集落や組織を守るために自然発生的に生まれたものであって,集落内の庶民を弾圧すべき暴力組織として対立した歴史がありません。
当然明治憲法も武士が政治に参画してはいけないという発想がありませんでした。
これを遅れた社会と見るか,周回進んでいると見るかの違いです。
家長・集団の長は家族や集団を守る責任はあっても,集団内の弱者を抑圧するためにあるのではありませんし、組織構成員も軍は自分を守ってくれるものと理解して来ました。
一族を守るための武士団ですから,戦いに敗れれば,城主が一族代表として腹を切り,城兵・一族の助命嘆願と引き換えにする習慣が生まれたのです。
野生の猿その他集団リーダーも,集団内の弱い者苛めをするためにあるのではなく逆に集団内の苛めの他の不協和音をなくし外からの脅威に役立つ能力が問われているのが普通です。
西洋で軍事力が市民と対抗関係になっていたのは,異民族支配で軍・支配権力と被支配者の乖離が進んでいる場合に生じる現象です。
ソモソモ支配道具として異民族発祥のキリスト教を利用していた点に問題があったのではないでしょうか?
学生時代に民法の講義だったかで,ローマは3度世界を支配したと聴いたことがあります。
曰く、1回目はローマ帝国による(地中海)世界支配?であり、これが滅んだ後の2回目はキリスト教支配であり,3回目はローマ法(ナポレン法典)・・現在の「法の支配」であると言うのです。
「西洋は異教のキリスト教に支配されていた被害地域である」とこのシリーズで私独自の意見を書いていまるのは、西洋はキリスト教のクニと思っている方にとっては違和感があるかも知れませんが,それほどどっぷり支配され尽くしていたと言うだけのことです。
ユダヤ教徒とキリスト教の関係はよく分りませんが,(全て私の思いつきですからそのつもりで・・)ユダ個人の裏切りが強調されますが不自然です・・キリスト教の母体・であることは動かない事実でしょう。
民族宗教から脱皮させて(ローマの版図に入った地中海世界への広がりに合わせて)普遍性を持たせたのがキリスト教(新約聖書)であるとしてみれば,元々地中海世界とは全く気候風土の違うゲルマニアの地に生きて来た諸民族が地中海地域の価値観強制でさえ鬱陶しいのに,もっと気候環境の違うメソポタミヤ地域限定版の旧約には)付き合い切れないと言う意味で忌避観を持たれているのかも知れません。
では軍が何故民族を守るための軍ではなく,市民抑圧機関になってしまったのでしょうか?
結果から見るとローマが当初市民が自ら兵役につく権利だったのが,いつの間にか義務化して行き最後は傭兵に頼るようになったことと,西欧諸国の近衛兵などの多くは北欧系人種・・兵の多くを傭兵が占めていた事実にヒントがありそうです。
フランス革命は当初第1〜2部会との部会別決議ではなく全体数での議決を求めたので、議決方法で対立して収拾がつかなくなり,いわゆる「テニスコートの誓い」(王権に従わない・実質反乱的行動開始)になりますが、三部会制の否定が当初の争点であり,王制否定ではなかったのです。
国王が,仲裁的に聖職者や貴族部会の第1〜2部会を第三部会に合流させる・議決権同等化を求めたのが革命運動の最初でした。
http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-022.htmlからの引用です。
「1789年6月17日、シェイエス(『第三身分とは何か』の著者)の提案で第三身分部会は自らを「国民議会」Assemblee nationale となのった。6月19日には第1身分が149票対137票で国民議会に合流を決議。第2身分は拒否、国王ルイ16世に援助を求める。翌日、国王は国民議会に議場の使用を認めず、議場を閉鎖したので、議会側は球戯場に集まり、有名な「球戯場の誓い」を決めた。結局国王が譲歩して第一と第二身分の第三身分への合流を勧告、三部会は消滅し、国民議会が憲法制定の場として確定した。 」
「 フランス国民議会は1789年7月9日に憲法制定国民議会(略称憲法制定議会) Assemblée Nationale Constituante と改称し、憲法の制定に着手した。国民議会の党派は王政派から立憲派、共和派までさまざまであったが、主力はこの段階ではミラボー、ラファイエットら立憲君主主義者であった。」
「1791年6月にはヴァレンヌ逃亡事件が起こり、オーストリアの革命干渉も始まって危機が深まり、この間、議会では革命派であるジャコバンクラブが分裂し、立憲王政派のフイヤン派と、共和政をめざすジロンド派がうまれた。まだこの段階では立憲王政派が優勢であったため、9月に1791年憲法が成立、立憲君主政体を成立させて、憲法制定国民議会は役割を終えて解散、代わって10月に立法議会が成立することとなる。」
「緒戦ではフランス革命軍はオーストリア・プロイセン軍に敗れ、外国軍がパリに迫る危機となった。そのためジロンド派内閣は辞職したが、全国から連盟兵(義勇兵)がパリに集結し、またパリ市民のサンキュロットと言われる下層民も蹶起してティユルリー宮殿の国王を襲撃するという8月10日事件(第二革命)が起き、立法議会は王権停止・・た」
こう言う経過で制憲議会設立当初は(イギリスを参考にした?)立憲君主制への改革目的だったのが、途中で国王夫妻がギロチンの露と消えるほど激しく変わってしまった契機は外国兵を引き入れる国王の計画がバレたことによります。
ベルバラで有名な恋人も北欧系青年将校との恋物語でしたし,バッキンガム宮殿の近衛兵の儀式も元はと言えば(体格が良く金髪で)格好いい北欧系近衛兵だったことによる名残です。
話が変わりますが、20年ほど前に台湾に行ったときに中山陵だったかで近衛兵の交代式を見たことがありますが,アジア人を卑下するようで心苦しいですが,バッキンガム宮殿の衛兵交代式ほど格好良くはありませんでした。
上記引用の続きです。
「革命干渉軍に対する革命防衛戦争が始まったことによって、軍隊の主体は中世的な傭兵に代わり、近代的な国民軍の形成をうながすことになった。」
この時点で漸く(今で言う外国人雇い兵)傭兵軍に頼るのをやめて国民・・自分たちを守るための軍が形成されたのですから,日本古代の防人とは千年以上の差があります。

シビリアンと信教の自由3(共産主義とシビリアン)

フランス革命では政体がどう変わろうとも(途中王制復活もありましたが共通の敵?)キリスト教の千年以上にわたる思想・内心統制の復活だけは怖かったのです。
何か外形行為をして処罰されるのはまだ防ぎようがありますが,黙って考えている内心を審査されて処罰されるのって,恐るべき支配です。
内心をどうやって第三者が判定出来るのかの技術問題から,証拠裁判主義の原理が生まれて来たし,証拠と言っても自白だけではなく補強証拠がいると言う原理も生まれて来ました。
自白等に関する証拠法則についてはDecember 9, 2014, 「証拠法則と科学技術5(自白重視5)」前後で紹介していますので参照して下さい。
しかしそれは言わば瑣末な技術論であって,そもそも内心自体を支配しそれを理由に処罰出来る原理・・一神教原理の恐ろしさの自覚・・フランス革命当時の市民はこれからの解放を切実に望んでいたことの理解こそが重要です。
内心支配=違反者処罰の思想が多神教社会では起きようがありませんから,破門されると逃げ場のない社会・一神教支配と表裏の関係にあったことが分ります。
フランス革命の経験では,政体がどのように変わろうとも,市民の心の中まで・日常生活のあり方まで根こそぎ規制する教会・聖職者・・これの強制装置である軍の復権に対する恐れがあったので,これのお目付役としての「シビリアンコントロール」をコトの外重視して来たことが分かります。
制度上信教を自由化しても簡単に社会に根付くものではありません・・いつ反動・復活し、権力と結びつくか戦々恐々だったし、革命の混乱中に王党派などの乱立がありましたが,キリスト教支配復活を主張する党派は成立していません・・それほど警戒されていたのです。
欧米でシビリアンコントールを重視する歴史経緯・元はと言えばキリスト教による内面支配に対する市民の警戒感から始まっていることをこのシリーズで書いて来ましたが,これの反革命・・信教の自由違反を潜脱し一神教支配を復活したのがソ連共産党一党独裁制です。
共産党は宗教ではないから,単なる一党独裁に過ぎない・一党独裁に反するから?宗教自体を認めない・・信教の自由を侵害するものではなくこれが近代社会の究極の形・・市民社会よりも進んでいる?と言う変な論理です。
政権の気に入らない人物の行為を咎めて共産主義主張に反する反党行為であると烙印を押しては粛清・・シベリア送りや処刑する・・芸術表現から何から何まで思想統制していたのですから、結果から見れば近世の魔女裁判との違いが不明で実態は排他的新興宗教そのものでした。
結果から見れば,魔女裁判との区別不明・・いわゆる人民裁判と言うやり方で吊るし上げては、徹底的に排撃していた中国の文化大革命を想起しても良いでしょう。
ちなみに専制君主と絶対君主の違いは一般の説明では分り難いですが,私の大雑把な(粗い)独自解釈では過去から積み上げられた宗教解釈のルールに一応従っているのが西洋の絶対君主(王権神授説はでキリスト教の範囲内で支配する意味)であり,宗教ルールも何も基準がない・・君主の恣意的基準で処刑出来るのが専制君主であると言う使い分けが可能です。
ロシア革命の結果出来た共産主義政権は,専制君主制と一神教による絶対君主制との(支配者にとっては)いいとこ取りみたいな専制支配政体です。
こう言う制度が成立したのは,ロシアが古代社会状況に留まっていたところに近代生産技術を上から導入したことと密接な関係・・先進国の技術導入・模倣するのがやっとでその次の自由な発想を必要としていない・・まだ思想表現の自由を求める市民階層が育っていなかった・シビリアンと言う抵抗勢力がなかったことによります。
人民にとっては,(共産主義思想と言う基本基準・スローガンに毛が生えたような程度?はあるもののキリスト教神学ほどの学問蓄積がないので共産主義の外延が不明です)いつ反党分子の烙印を押されるか不明・・自衛するスベがない点では恐怖政治・・いわゆる収容所列島になります。
専制君主制のときは恣意的基準で君主の癇に障ると一瞬にして文字どおりクビが飛びましたが,その代わり強い者にへつらいさえすれば良かった・内面までチェックされることはありませんでしたが,共産「主義」社会になると「主義」に反する思想かどうか・・内面まで規制される窮屈社会になります。
共産主義は経済原理である以上,日々新たに起きる(国内だけでなく国外の変化があります)経済変化対応が必須ですから、共産主義の内容はキリスト神学のように特定時期の理想に固定出来ません。
社会や産業構造の変化に対応して現場で工夫するといつ共産主義の範疇を越えている反党行為として粛正されるか不明になります。
例えばレーニンのネップ政策のように一歩後退路線も政策的には(物事には妥協が必要です)有効でしたが,これを中下位幹部がうっかりやると粛清の標的にされる恐れがありました。
こう言う政体下では,西洋中世以上の暗黒社会ですから,活発な創意工夫が生まれるわけがない・・せいぜいアメリカの技術を盗んでは真似する・・これは国策ですからお墨付きがあって安心です・・のが限度ですから,(ロケットなどは大資本を掛けて盗めますが多種多様な民生技術窃取は無理なので)民生レベルが低下する一方になった原因です。
中国やロシアでロケットを飛ばせても、おいしいご飯を炊ける電気釜やウオッシュレット、クルマのエンジン1つ国産技術で作れないと言われている原因です。
両国共に国民がスポーツを楽しむ余裕が無くてオリンピック種目だけ集中練習させても、国民の体育レベルが上がるものではありません。
ソ連崩壊後にロシアが政治経済の自由化をしたらめちゃくちゃになった・・揺り戻して身の丈にあった,プーチンによる事実上の独裁制に戻って一息ついているところであるのに対し,中国の場合、改革開放政策がロシアよりうまく行っているのは,辛亥革命まで専制支配しか知らない民族とは言え,社会の発展段階がロシアとは格段に違っていたことにあります。
ただし、中国がロシアより社会構造が進んでいるにしても,日本のように千年単位の時間をかけて健全な市民階層(日本の場合武士層)を育てていなかった点は同じですし,これが一党独裁制(形を変えた専制支配)が未だに機能出来ている根拠です。
中国の社会構造は1君万民体制とは言え,極く少数とはいえ士大夫層が数千年単位で存在していたし,政体・・政治権力と関係なく商業活動は活発でした。
これは以前から書いているように中国地域はメソポタミヤ文明の先進商品販路の最東端として,(ずっと後世の名称ですが)過酷な中央アジアの通商路・シルクロードを経由して来て山を越えて初めて出たところ・・山々を越えて黄河上流域から入って来て一旦落ち着いた場所が黄河文明と言う位置づけです。
伝説上の古代王朝殷を中国では「商」言いますが,まさに「商」のクニが始まりです。
そこから河川沿い拠点を広げて行った歴史・・都市国家・・拠点網の形成から始まったこととも関係しています。
黄河文明?はメソポミヤ文明の東端商業拠点として始まったもので,独自文明ではないと言う意見を10年ほど前から書いて来ましたので,参照して下さい。
攻略軍が入城すると城内の有力者が祝いの酒をもって出迎える・・誰が勝っても(異民族でも)商売さえ出来れば良いのですから,これが古代から繰り返された風景で・・日本軍の南京入城も同じですから,出迎えた南京市民を大虐殺するわけがないのです。
どの政体・異民族も,城内進軍しても折角手に入れた都市の商売を潰すわけに行かないので,(上澄みとして商業社会と関係なく祭り上げられて来ただけ・・特に異民族支配のときはこれが顕著)先行している商業社会そのものを破壊する能力がなく,商売人自体は支配者の変更に関係なく連綿と続いていたことをここでは書いています。
03/27/10「農業社会=世襲→封建制と商業社会=中央集権→専制君主制1」以降に書いたシリーズでは,商業と規制は表裏の関係で馴染み易いことを書いたことがあります・・専制支配と馴染みが良いのです。
物造りになると自由な発想が必要ですが,商人は売れ筋情報を逸早くつかんで・・情報収集に励み急いで真似する・・商機を早くつかんだ方が勝ちでその程度の自由があればその他は規制がきっちりている方が便利です。
これが中国の模倣・・ブランド窃取等に繋がりサイバー攻撃が得意なのは中国商人の歴史によります。
中国はロシアより社会構造が進んでいる面で共産主義の思想統制・内面支配が緩いだけのことで単なる専制支配+商業社会の焼き直し・現在的表現です。
この限界・市民社会未成熟=言論重視=約束を守る社会に至らない点で、限界に突き当たっているのが現状です。
先端技術を盗む・模倣し身につけるだけでは追いつくには容易でしょうが、自発的にその先に進むには限界がある・・世界を指導する模範社会になるのは無理があります。

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