虚偽報告規制(金融商品取引法)

国内政治のために必要なデータを国際比較に流用するから、実際以上に良く見せたい国・指導部が見かけの良いデータが出るように特定分野を実態(実需)以上に強化する誘惑が生じ、出来上がったデータをさらに誤摩化してデータ自体を粉飾してしまう誘惑が生じます。
中国など国有企業や地方政府中心経済では、実需に基づかない大増産や宅地開発して国内総生産の嵩上げをしたりすることが横行していますし、資本主義国では関連会社への飛ばし・・あるいは決算期末に増加する関連販売会社への押し込販売・・実際には昄社系列・リース会社等で大量に在庫を抱えることがおきます。
実需に基づかなくとも実際に生産・販売する無茶な生産の外に、帳簿自体を誤摩化す従来型2重帳簿、三重帳簿方式も健在です。
経営判断の内部資料であるべき決算書・財務諸表を株式市場や金融機関あるいは税務署が流用・重視すると、企業側で経営者の自己保身や株価維持や融資を受けるための粉飾決算(2重3重帳簿)が多くなります。
個人事業では脱税のための2重帳簿が増えます。
企業に投資するからには、自分の目でその企業実態を良く見て判断すべきでしょうが、プロと言えどもいろんな企業に幅広く頻繁に投資を繰り返すには、そうも行きません。
彼らも企業の自己申告・帳簿に頼るしかないので、データ粉飾がないように法規制が必要になっています。
実際に赤字なのに粉飾して黒字決算すると本来不要な税を払ったり利益配当するようになるマイナスがあり、さらにはやった個人には刑事罰まで用意されているのに、それでも粉飾したくなるのですから、投資家や融資機関の受けを良くしたい誘惑(自己保身欲)の強さには驚きます。
政治家も経営者も選挙や株主総会のときに自分の失敗・業績不調を認めたくない・・カクカクたる成果を強調したい心理は同じです。
政治家の場合、選挙民を雄弁に騙す・たぶらかすのも能力の内と言われていますから、騙される選挙民がレベルが低いことになりますが、投資家の場合騙される方が悪いとは言えません。
需要と供給の関係では供給側に情報が偏在しています。
政治の世界では供給側の政治家や・権力に騙されないように情報公開やマスコミによる批判・・言論の自由が重視されてきました。
市場は情報の非対称が本質的関係ですから、市場の適正化を計るために、情報の出し手がデータ作成で不正を働いたならば、刑事罰で抑制しないといくらでも虚偽情報がはびこってしまいます。
有価証券取引で消費者が自分の目で確認すべしと言われても無理がある点は、食品偽装や建築設計の偽装問題と同じです。
投資家はプロだから・・膨大な会計帳簿の矛盾の追及が仮に出来たとしても時間がかかるし、(株式相場は瞬時性が特徴ですから1年かけて決算書類を精査するのでは間に合いません)まして財務諸表はデータ上矛盾なく作られているのが普通ですから、データの読み込みだけでは粉飾を見抜けません。
オリンパスの例で分るようにいくつもの関連会社を飛ばすのが普通ですので、内部告発がないとプロでも滅多に見つけられません。
この結果、刑事罰をものともしない粉飾決算が後をたたないのですから、経営者の自己保身欲が如何に強いかと言うことです。
会社法

   (取締役等の特別背任罪)
第九百六十条 十年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する
(会社財産を危うくする罪)
第九百六十三条 五年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。(違法配当の罪)

金融商品取引法 (昭和二十三年四月十三日法律第二十五号)
  虚偽有価証券報告書提出の罪
第百九十七条  次の各号のいずれかに該当する者は、十年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
「・・・・・・・の規定による有価証券報告書若しくはその訂正報告書であつて、重要な事項につき虚偽の記載のあるものを提出した者

勿論民事責任もあり、オリンパス粉飾事件では,関係取締役に対する巨額賠償訴訟になっていると思います。

会社法施行前には商法266の3でしたが、会社法施行後は以下の条文です。

会社法
第四百二十九条  役員等がその職務を行うについて悪意又は重大な過失があったときは、当該役員等は、これによって第三者に生じた損害を賠償する責任を負う。

民法改正1

民法の抜本的大改正作業が内田貴元東大教授の努力で進んでいますが、その特徴は判例等で解釈が固まっている細かなルールまで法文に乗せてしまい、素人にも分り易くしようとするものですから、膨大な条文になりそうです。
(まじめに勉強していないので誤りがあるかも知れませんが、結果として膨大な条文になることは多分間違いがないでしょう・・)
新民法改正方向ではあまりにも条文が膨大になり過ぎて却って分り難いのではないかと玄人からすれば言いたくなりますが、この種議論も一種の抵抗勢力と言えるのでしょうか?
「民をして知らしべし」という思想からすれば少しでも分り易くすることは良いことかも知れません。
(ただし、学説判例で決まっている程度ですと柔軟に変化対応出来ますが、法律自体が細かすぎると社会のちょっとした変化がある都度、法律改正が必要になる・・時代変化に対応するのに時間がかかり過ぎる問題があることを7月29日に書きました・・)
今の民法の条文では、そこだけ見ても何のことやらさっぱり分らず、あちこちを総合して、さらに判例等をみないと答えが出て来ない・・法律学の訓練がないと条文だけ見ても訳が分らない仕組みです。
これでは素人にとっては法の意味を理解出来ないままですから、法治国家と言えないのではないかという疑問が生じます。
法治国家とは、国民が法を理解してこれを守るところに意味があるとすればそのとおりでしょう。
そうではなく、国民の代表である議会で制定した範囲のことしか権力行使出来ないようにする・・権力行使制限のために法治国家の思想があるとすれば、庶民全部が法律を理解していなくとも国民代表が理解して法制定に参画・同意していれば良いことになります。
権力の行使が法に違反しているかどうかについては最終的に裁判所が判断してくれる仕組みが今の原理ですから、国民個々人が法の明細を知っている必要はありません。
数日前から書いているように各種分野の規制・規則は専門化が進んでいるので、その職種に関係のない国民がこれを誰でもちょっと見たら分るようにすることにどれだけ意味があるのでしょうか?
原子力発電所の細かな技術基準や放射性治療室入室の規制その他飲食関連の保健衛生ルール・風俗営業法の規制・・建築基準法の鉄骨量やコンクリート等の基準など関係ない人が知っておく必要はありません。
廃棄物を勝手に棄ててはいけないらしいという程度のことを知っていれば良いことです。
業として行なうのに必要な知識を業者が身につけるべきは当然であっても、素人がちらっと見ただけで誰でも分るようになる必要はありません。
消費者はホテルやパチンコ屋、飲食店、航空機搭乗その他行った先の業種が守るべき規制法・マニュアルを知る必要がないし、専門的条項(原発の設計・仕様書に限らず、マンションなどの構造計算書や設計図書など見ても分らないでしょう)を見ても分らなくて当然です。
科学分野だけではなく金融取引のガイドライン等も金融取引に精通したプロ向けに作っているものであって、素人が見たら直ぐに分るものではありません。
一般人が知らないことを前提にクルマの運転免許を取得するには交通法規の専門的知識をテスト科目に入れているし、ボイラーマンその他全て資格試験・廃棄物処理業の許可等はこのような思想で出来上がっています。
建築の場合1級2級の建築士の資格試験があるのもこの原理によります。
これらを法律で決めれば、(その授権による規則・操作手順であってもこれに違反して事故が起きれば刑事罰の対象になる率が高くなります)国民の行動を縛るものだから、細部にわたるまで全て素人にも分るように法律に書けというのは、モーゼの十戒で間に合うような原始的単純社会の復活を望んでいるようなものです。

事前規制と事後審査5

事前規制・・ルール化の効用に戻ります。
細かな規制をする以上は、予想外の震災や事故等があれば耐震基準その他の対応基準がより精密になって行くように今後規制が詳細化する一方です。
その代わり、柔軟対応能力が必要です。
歩く程度ならばブレーキは不要ですが、自転車以上にスピードが出れば出るほどブレーキが必要になるようにモノゴトは高度化に比例して操作方法が複雑になります。
早くなれば方向転換能力(規制変更適応力)も比例して上げて行くしかないでしょう。
10日ほど前に私が出席した審議会では、大災害時の高齢者等弱者避難援助に関して、これらの名簿を町内会等へ配布する場合の基準造りに関するテーマでした。
このように着々と法(その下位の条例等の明細基準)整備が進んで行くと、法があってこれを受けた条例や内部規則が出来ている方がこれに従って町内会等に配布すればいいし、町内会長も関係者に配布するのに基準があった方が現場が迷わずに運用出来てスムースです。
運用の結果、その基準では実質的プライバシー侵害になる場合は,この基準自体が違法だと争う場合があるとしても、(もし基準に不備があって違法ならば新たな基準がそのときに定立されるので)一種の代表的裁判で終わってしまい事件数が大幅に減ります。
予めの配布基準を作らず放置していて、それぞれ現場での自己流の解釈でこの辺の範囲まで名簿を配っても良いだろう式でやらせた後で、広く配布し過ぎれば被害者はプライバシー侵害で訴えれば良いし、配布した方は無関係な人にまで配って訴えられるのは判断ミスだから自己責任というのではあまりにも乱暴過ぎます。
行動基準がないと萎縮し過ぎますし、無鉄砲な人だけが運用すると訴訟が増え過ぎます。
社会生活が円滑に進むには事前の明細基準整備・・マニュアル化が重要なことですから、行政の意思決定過程に(各種規則制定過程に)外部有識者による審議会等が多用されるようになります。
審議会出の実質的決定が増えて来ると審議会にかける以前に事務局作成の草案作成過程でも、7月25日に書いたように専門家が参加するようになって来たのは必然の結果でした。
野党になって外で反対と叫んでいるだけでは無責任ですから、公明党のように与党に入って少しでも意見を通す方に行くのも1つの方法です。
秘密保全法(スパイ防止法)制定機運のもり上がりに比例して、人権侵害リスクに敏感なグループでは反対運動が盛んになっていますが、反対と叫んでいるだけでは、中国韓国等の反日戦争でも始めかねない勢いを見ていると「スパイの好きにやらせておけば良い」という国民は少ないので法律になってしまいます。
本当に人権侵害が心配ならば、法律が出来てしまうのを座視するよりは、審議会・作業部会等に入って、人権侵害にならないように歯止めをかける工夫・努力をする方が合理的ではないでしょうか?
何事も決めるときに意見を入れてもらうよりも、決まったことの変更を求める方が大きなエネルギーが必要です。
民主党は沖縄の普天間基地問題で見込みもないのに、野党の気落さで反対ばかりしていて、政権を取って困ってしまいました。
企業では、株主が後日総会で社長らの責任追及するよりは、取締役会議の意思決定過程を合理的にチェックする社外役員が要請されるようになって来たのはこのような理由によります。
不祥事があると直ぐにマスコミが社外取締役の必要性を宣伝しますが、社外取締役の存在意義は不祥事チェックのためではなく、意思決定過程に内部昇格のイエスマンばかりではなく外部者の健全な意見反映を狙ったものであって、不正防止は副次効果と言うべきでしょう。
これと言った行動基準がなくて事後に争う制度・・アメリカのような訴訟社会は、事前にきめ細やかなルール造り・・合意の出来ない社会に必要な現象です。
きめ細かく決めておかないで行動するから事後にもめ事が頻発する社会は、価値観の一体化している(昔から暗黙裏に細かな行動基準の合意のある)日本文化から見れば、周回遅れの野蛮な制度ですから訴訟社会に憧れて真似する必要はありません。
法を整備さえすれば進歩した社会になるのではなく、その前段階、そのまた前段階の微細部分までみんなが理解出来、守ることの出来る社会こそが進んだ社会です。
我が国では法・・監視があるから守るのではなく、自発的に礼儀を守り家の周りを綺麗にするし、ゴミを散らしません。
礼儀作法・生活作法に至る隅々まで暗黙裏の社会合意のある社会でした。

規制と停滞2(伝統の保存)

我が国では茶道や華道・能狂言・お寺の行事等全ての分野で、一旦様式化されると500年でも千年でもこれを守って行くのが尊いという意識が濃厚です。
憲法であれ民法であれ、一旦出来ると不磨の大典という扱いになります。
我が国では、小さな集落の祭りその他伝統行事は自分の代で絶やすことは出来ないという意識が強く、これがために全国あちこちでいろんな物や行事が残っていて、それ自体は良いことです。
時々思い出すための行事として先祖の営みを残すことと、日々の生活ルールあるいは新たな技術変化に応じてその運用・・規制を変えないでそのまま残していくのが良いかは別問題です。
洗濯機その他の家電製品1つとっても分りますが、新しい家電製品を買えばこれに応じて洗濯機や掃除機・テレビ等の使い方が変って行くのが当然で、古い機械の使い方(ルール・マニュアル・操作方法)と違うからと言って、新機械導入をやめるのって滑稽ではないでしょうか。
新しい家電製品を買えば、古い機械の使い方にこだわらず新しい機械の使い方に慣れれば良いことです。
二階以上に上がるには階段で上がることは当然でしたが、これがエレベーターやエスカレーターが出来ても階段にこだわる人はこだわればいいことですが、親の教えと違うと言ってエレベータに乗らないで30〜40階まで歩くべきだと言えば笑い者です。
障子がガラス戸になり、薪を燃やしていた風呂等の火力がガスになるなど全ての分野でいろんな操作手順が変わっても誰も怪しみません。
親の教えた仕事の手順が口頭で教えられていたのが、今では法律や法に基づく規則や基準になったために変更が難しくなりました。
生活のしきたりに代えて文書化されている上に、親の教えという個人的なものから集団意思・ルールになっているので、個人が勝手に簡単に変えられなくなったのが厄介です。
親の教えを変えるかどうかは個人が決断するだけですが、社会の意思になると個人の思いつきで変更出来ないのですから、ルール変更のルールを作る必要が出て来ました。
ただ、畳・障子文化が失われるのは悲しいと思う人がいても日常生活の便利さには代えられないので、古い生活様式・用具はなくなって行くばかりですが、懐旧の情に浸りたい人が増えれば・・これに比例して古風な旅館等が商売になるので、この種の和風高級旅館が繁盛するのでそんなに心配が要りません。
商売にならない分野に関しては・・各地の民族博物館等に残して行くしかないでしょう。
先日佐倉の歴博に行ってみたら、デパートごとで売っていた正月のおせち料理の変遷が展示されていましたが、ホンの数十年前のことでも目の前から消えて行った物が多いのに驚かされます。
お祭りは伝統行事保存の最たる物ですが、元々始まった当時は伝統保存のために始まったのではなく、その当時最先端のイベント・・庶民を楽しませるために始めたものでしょう。
現在のサッカーや野球大会あるいはソーラン大会みたいなものだった筈です。
数百年後にはソフトボールやテニスや野球・ボクシング等や、「◯◯をお願いします」と候補者の名前を連呼して走り回る選挙活動なども懐かしい古典行事として残って行くのかと思うとおかしな気がします。
ネット選挙になれば、今までの選挙カー+ウグイス嬢による選挙活動が意味がなくなって行くでしょうが、どうしても残したければ新しいことに反対しないで、伝統行事保存活動に精出せば良いように思います。
薬局の対面販売問題も同じで、過去の良き伝統として博物館に残すのに協力しても良いと言えば、反対論が下火になネット販売解禁になり易いように思います。
今後新基準規制変更新基準を導入したい勢力は、いろんな旧基準を伝統技術として保存することに協力しますとバーター取引を申し出れば、守旧派も軟化して新基準採用が進み易いのではないでしょうか?
郵政民営化したい勢力は、公営当時の郵便局専門の博物館を作って公務員的対応技術を伝統技術として残してやると言えばどうでしょうか?
国鉄民営化のときも博物館化して昔の横柄な国鉄マンの応接技術を残しておけば、面白かったように思えます。
そうすれば、JRに移籍出来なかった昔気質の(横柄な)国鉄マンでも、一定数の雇用が確保出来て解雇無効裁判が起きなかったかも知れません。
日本古代では大和朝廷が出来るときに八百万(やおよろず)の地方神を、必ず祭ることにして平和裏に大同団結・国ゆずりが成立)出来ました。
単に弱い者・・時代遅れな物を打ち壊すのではなく、大切に祭る・・この精神でやれば良いのです。
社会発展に必要なことは、緩和だけではなく新時代に適合した新たな(もっと複雑な)規制に変更することですが、これを何故か「緩和」と言うから誤解が生じます。
(ネット選挙を解禁すればその面では緩和ですが、解禁以前よりもっと複雑な規制が必要になるでしょうし、ラジオ→テレビ→ビデオ→パソコン・・何ごとでも新技術の方が多機能な分、操作手順が複雑化する傾向があります。)

規制と停滞1

規制・基準を設けるとこの規制に努力して適応した企業にとっては既得権益となるので、参入規制の緩和や技術革新の進行による新たな基準への変更に対しては抵抗勢力になります。
国際競争に負けると心配するグループによる規制緩和大合唱の根拠がここにあります。
(新技術革新について行き、新しいことに挑戦するのは最初の内はいつも少数派ですから、ついて行けない多数企業・関係者は時期尚早と主張するのが普通です・・遅れる人はいつも多数ですから多数意見に従うと社会が停滞します。)
各種ネット申し込みやネット販売、ネット選挙あるいは診療報酬請求の電算化に対して、パソコンを使えない人が可哀想などの擁護論が幅を利かしていて、電算化が大幅に遅れているのはこの範疇です。
およそ「可哀想だ」という論法ほど、非生産的議論がありません。
我が国の場合、規制がブレーキになっているというよりは、ネット社会について行けない弱者が可哀想・・弱者切り捨て論が・その先の言論を封殺してしまっていて、進歩を阻害している傾向が強いように思います。
これから進んで行く方向へ誘導するために早めに軌道修正するか、99%の人が対応してから規則を変えるかの意識の問題です。
我が国では後者の主張が強過ぎて新時代に対応するルール作りが遅くなり過ぎています。
これでは、一旦出来た規制は全ての分野で社会発展のブレーキ役になってしまいかねず・・世界競争から脱落してしまう危機感が募って来ます。
進歩のために規制を大胆に撤廃すると言う極端な主張を採用して、訴訟社会にするか否かの二者択一的議論・・小泉元総理の得意なワンフレーズ型政治になりかねません。
必要なことは極端なブレよりは、これから進むべき方向の議論をしてその方向が決まったら、規制・基準を2〜3通り用意して古い基準でやりたい人はそのままやってもいいが社会の目指す方向の新基準を取り入れた業者には、何らかの優遇措置を設けるなど順次誘導して行く姿勢が必要です。
上記のように守旧的反対論を抑えるには、旧基準と新基準併存方式が有効です。
市の指定管理者選定会委員をやっていますが、ネット申し込みの是非を問うアンケーとに「ネット弱者がどうの」という回答が多いのですが、身体で行って申し込みたい人は今まで通り申し込めばいいのであって(申し込み順ではなく一定期間経過後の抽選です)併存方式ですから、何ら問題がありません。
世の中の複雑化に併せてマニュアルや規制が精密化して行く必要があるとしても、精密化に比例してちょっとした機能変化や技術革新に迅速・柔軟対応出来ないとかえって進歩阻害要因になってしまいます。
民法のように骨子しか書いていなくて細かい運用は判例や学説で補っている場合、社会の変化に百年単位で対応出来ます。
民法は以下のとおり、すでに100年以上たっています。
  民法(明治二十九年四月二十七日法律第八十九号)
  民法第一編第二編第三編別冊ノ通定ム
  此法律施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
  明治二十三年法律第二十八号民法財産編財産取得編債権担保編証拠編ハ此法律発布ノ 日ヨリ廃止ス

ルールがあまり細かすぎるとしょっ中規則・ガイドラインの変更が必要で、変更修正能力がない(反対論に気兼ねばかりしている)と日々刻々に変わって行く社会変化に対応出来ず、進歩に対するブレーキ役になってしまいます。
規制があると社会が停滞するのではなく、柔軟適応力が低いことに問題があるだけです。
規制が始めっからなければ変更しなくとも良いと言えて簡単ですが、これまで書いているように社会が複雑化して来ると常識任せではどうにもならないので、原子力発電に限らずいろんな分野で規制をより精密化して行くしかないでしょう。
規制が悪いのではなく、規制を柔軟に修正して行けるような「変更ルール」の研究こそが要請されているのです。

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