淘汰と自己規制

ちなみに、江戸時代の底辺労働者(都会流入者)はエリートでも若いうちは住み込みが原則で、自分で独立して住まいを借りられるようになるのは番頭などの上位者として残れた人に限られます。
結果的に高齢化してからだけでした・・一定の地位になって初めて部屋住みを脱しうる仕組みは、今の相撲部屋がその原形をとどめているでしょうか?
ちなみに、当時のフリーターは長屋住まい・・身元保証付きの正規被雇用者だけがお屋敷等に住み込み就職出来たので、住み込みの出来る使用人は、労働者中の一種のエリート・・今の大手企業就職者に類するエリートでした。
江戸時代の長屋住まいの場合、東海道中膝栗毛の主人公弥次郎兵衛・喜多八がその代表選手で、江戸に流入した人は生涯独身が原則(竃さえなかったと言われています)で、仮に男女一緒になっても子供を持てないのが普通でした。
今ではマイホームを持てない人でも子供を持っているので、少子化の再来と言っても貧しいから子を持てない極限の時代・・経済原理による淘汰の時代ではありません。
社会保障の充実した現在は子を持ちたければ持てるのですから、再生産したい願望のある人は実現出来る点では、江戸時代とはかなり様相が違っています。
庶民にとってお金がないからお酒を飲めない時代から、庶民でもみんながお酒くらいは浴びるほど飲める時代が来ると庶民にも自主規制・自律心がないとアル中になってしまいます。
社会保障が充実すると、経済原理による歯止めがなくなるので社会思想として子沢山が良いか悪いかの思想の軸を決めて社会教育して行かないと、(アル中やニコチン中毒者の増加みたいに)いくらでも子供が生まれてしまいます。
江戸時代では、長屋の八っつあん熊さんみたいな底辺層でも生まれて来た以上は、生きて行く権利があるとしても再生産するまでは行き過ぎ・・とする思想が確立していたのでしょう。
この思想では一生独身で終わるか結婚しても子孫まで残さないのが普通・・優れた種だけが子孫を残せてそれ以外は子孫を残さない・・・これが本来動物的世界では合理的なのかも知れません。
ケイバ馬では種牡馬になれるのはホンの一握りで、(牛だって豚だって皆同じで)これを実践しています。
これは人為的な例ですが、人為の加わらない自然界でも各種動物が交尾相手を一生懸命選ぶようになっているのは優れた種を残したいからであって、その本質は変わりません。
せっかく必死になって選ぶ仕組みになっているのに、大学全入みたいにどんな劣った種でも劣った同士で子孫を残せるのでは、自然の掟として相手を選ぶ仕組みにした意味がないので、オス(もメスも)は下層から一定割合まで子孫を残せないような仕組み・自然の掟になっている筈です。
選ばれた種牡馬だけが、あるいは女王蜂だけが子孫を残せてその他は子孫を残せない仕組みはその原理を可視的に実現している極致と言うべきでしょう。
一夫多妻制・・あるいは我が国古代の通い婚(実家の経済力のある貴族だけの合理性ですが・・・)の仕組みをこの原理の一場面としてみれば、男女平等の理念に反するかどうかは本来関係のない問題です。
ただし、この考えは、男女間の経済社会格差がない完全対等を前提としているので、実際には男女平等に反する結果になっていました。
より多くの女性が子を産むためではなく女性の経済的地位の脆弱性に基づき花魁の身請けや、愛人を囲うのは、(彼女らは子を産みません)その病理現象の最たるものですが、この種の関係が中心になっていた江戸中期以降を見れば男尊女卑・・両性の本質的平等に反することなります。
上記病理現象を捨象して雌雄対等の社会があるとした場合・・仮に上から順に結婚出来て一定レベル以下が男女ともに結婚出来ないのが本来の動物的姿であるとした場合、1対1では子を生めない筈の女子が、第2第3夫人としてならば子を産めるだけオスよりは有利な制度となります。
比喩的に数字化すれば、男女一万人ずつの社会でその内5000人ずつしか結婚出来ない社会構造の場合、一夫多妻制度・・通い婚があると女性だけ6〜7000人まで結婚・再生産に参加出来る有利な社会と言えるでしょうか?
一夫多妻性といってもすべてのオスが多妻であったのではなく、よほど経済力のあるエリートだけですから、(江戸時代では大名家だけだったでしょう)人口比ではほんのわずかです。
その実質は優秀なオスがより多くの子孫を残せるように、子を産む性の女性がより多く子を産むチャンスがあるようにした女性の特権でもあったでしょう。
上記の例で言えば、オスの種付け出来る数を上位5000人にとどめる自然原理があったとしても実際には6〜7000人分の子孫を確保出来ていることになっています。
人権・・いろんな権利の中でも子孫を残せるか否かは、すべて権利の上位にある(他の権利を犠牲にしても実現したいもの・・カマキリなどは交尾した後でメスに食べられてしまうほどですし、母親はすべてを犠牲にしても子を守ります)とすれば、女性の方がより多くのチャンスがあるシステムでは女性の方が優位な制度だったのです。
現在の一夫一婦制は、その実質は大学の全入制度と同じで、最末端までオスメスともに子孫を残せるシステムを前提にしているので男女平等になっている・・・機械的平等・・どんな劣った種でも子孫を残せる機会を保障しているに過ぎません。
これはオスだけはなく、メスもこの恩恵を受けていて、最下位近くのオスに至るまで結婚出来るようになった結果、自然界の掟に委ねれば結婚出来ない筈の最下位近くの女性もそれなりに相手を見つけられるようになって人口が膨張してしまったのです。
飲酒喫煙等が経済原理による歯止めがなくなったように、すべての分野で経済原理の歯止めが利かなくなってくると自律性が庶民にも必要な時代です。
ところで、「15の春を泣かせるな!」と言うキャンペインで字もマトモに読めなくとも高校に全員は入れる時代が続きましたが、最近ではその先送り現象で新聞すらマトモに読めなくとも大学に入れる時代・・大学全入時代が来つつあります。
高校の場合は入学後出席を取ってある程度厳しいので字もマトモに読めない子は中退して行きますが、大学は入学してしまえばノーチェック・・野放図なので全員卒業して行きます。
大卒と言うだけでは、全員がマトモな就職ができなくなるのは当然です。
マスコミでは、大卒の就職率の低下が報道されていますが、大卒のレベルが下がっていると言うか大衆化が進んでいる以上は、就職先も大衆化・・・レベルダウンしなければ、ミスマッチになるのは当然です。
形式的な格差否定社会が実現出来ても、個体の能力差がある事実は変わらないのですから、全入時代が来ると、大卒の肩書きが一定年齢を表す程度の意味しかなくなりつつあるのですから「大卒の就職率」と言う括り方がおかしいことになります。
大卒にこだわりたいならば、どこそこの大卒の就職率とその推移として公表すべきでしょう。
そうすれば、大学間競争が活発になります。
この数字が明らかになっている法科大学院の場合、数%しか司法試験合格率のない大学院は(学生も集まらないし・・)閉鎖に追い込まれる方向です。
種の維持に話題を戻しますと人間だけが自然界のルールを無視して・・(自己規律を求めず)子供も持てないのは可哀想式に種の劣化に任せていると、その内牛馬や豚鶏の方が優れた種になって人間が使われる時代が来る恐れも出てきます???
こんな風に話が発展して行くと格差社会が正しいとする意見の方に漂流して行きそうですが、今のところそこまでの結論・意識がなくマ、思いつきコラムですのでどこへ漂着するのか今のところ分りません。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC