婚姻率の低下11(子育ての社会化)

母子一体感と父子の関係については、04/07/10「母子一体感5(父子の絆1)」前後で連載しましたが、母親自身が母子一体感を払拭しないまま、あるいはこれを手放さないままで、父親に親としての義務だけを求めているのは矛盾ですから、この無理を通すために法的強制・執行法の強化が必要とされているのでしょう。
多くの父親の意識が子供を可愛いと思うように変われば、その分母親の子供との一体感の意識も薄まって行く関係もありますから、相互にじわじわと時間をかけて子供に対する意識を変えて行くようになるかも知れません。
とは言え、男女ともに動物的本能を無視した意識形成を図るのはかなり時間がかかるでしょうし、もしかしたらどこまで行っても無理がありますから、養育に関しては(血縁を基にした父親に対する責任をあまり性急に強調せずに)社会的資源の活用・・親族共同体に代わる社会化を押し進めるのが合理的です。
現在でも幼稚園や保育園の発達、介護施設の発達、外食産業・クリーニングやの発達その他で家事がかなり外注化されていますが、資金面でも外部頼り・・すなわち、子育て費用を親だけの責任にせずに共同体全部の責任にして行けば、(公的資金で100%賄い個人負担ゼロに近づければ)オスの役割・・義務が減少して行きます。
この後に書く予定で先送りになっていますが、乳幼児・子供成人、老人の区別なく一律に基礎的生活費を政府が支給する制度にして行き、特定の人に負担させる分野を出来るだけ少なくして行くべきです。
そうすれば、子供にとっては親の経済力による生育環境の差もそれほど大きくなくなり、まさに公平な社会になります。
比喩的に言えば、100の環境のうち公的支援の占める部分が現在2〜3割として残りの7〜8割が親の財力次第とすれば、これの比率を公的環境で7割を占めるようにして、残りの3割しか親の財力による差がない社会となるように次第に公的比率を引き上げて行くのです。
この問題は労働意欲の関係で考慮すべき面がありますし、低所得者にとっては子育て名目で大きな援助を受けられるので次から次へと出産する底辺層の子ばかり増えるリスクがあります。
イギリスの例・・2007年7月26日のラバQでは次々と8人も子供産んで1億円相当の家が提供されて(一人当たり最低面積が法定されているそうです)年1100万円ほど受給しているニュースが出ていました。
アメリカでも似たような制度になっているので貧困層では次々と子を生んで18歳になると(何の援助も受けられなくなって母親にはメリットがないので)追い出しながら、60才になって年金をもらえるまで何とか子供を連続して育てて行く人生設計の人も出現しているそうです。
これらの病理現象克服のためには、究極の社会化は、自分で育てる人には一切の補助金を支給しない・・・子育てを母親に委ねず、全員一定数集めて保育所等で育てる形式でしょうか?
さしあたりこんな過激なことは出来ないので、教育費で言えば授業料無償・給食費無償化など寮費無償化など現物給付を多くして母親による流用が阻止し、出来れば、個人・家庭の負担率を極小化して行き、結婚・離婚のリスクも少なくして行けば少子化の急激な進行を防げるでしょう。
(実際には制度悪用の解決は難しいようですから、この種福祉の充実は考えものです。)
ちなみに、少子化は生活が豊かになると起きる現象であることは古今を問わず歴史が証明しているところで・富裕層に出現している現象であるから、子供手当等による出産奨励政策は少子化の進んでいない底辺層に刺激を与えることになります。
各種補助金は底辺層の人口が増えるだけなので、国の将来は真っ暗になることから、少数精鋭・少子化に賛成の意見をこれまで繰り返し書いてきました。
子育ての社会化と底辺層の増加問題をどうするかについてはまだ私の頭では解決していません。
都市労働者の出現・・核家族化進行に伴い次世代育成・種の維持のために「男子も養育に参加すべき」だと言う精神論が盛んになりましたが、それだけでは、簡単に動物的意識変化が進みませんが、その間にも出産育児の社会化がどしどし進んで来たのは正しい方向性です。
私は戦後疎開先・純農村地帯で育ったのですが、物心がついた頃既に田舎の村にも幼稚園が始まっていました。
その後徐々に働く女性のための託児所や保育所の充実が進み・・今ではゼロ歳児保育・・母子支援センターまでありますが、育児の社会化が現状程度では、まだまだ家庭内の負担が残るので、夫の育児参加が今でも(現在もっとも盛んかな?)奨励されています。

出産育児の社会化(男の役割1)

 
離婚率の上昇が続くとオスの方で結婚するリスクが高まることから、結婚率が下がる傾向になって高齢結婚になって行くテーマで2010-9-21「新たなカップル」2010-10-13「破綻主義と婚姻率」2010-10-20「中高年の結婚」等を書きましたが、今回はその続きになります。
江戸時代の男は家督を継げる男以外・・江戸に流れてくる男は結婚出来ないので性産業が盛んになったのですが、これからはその逆で結婚をしたくない男が増えて(にも拘らず性欲の減退しないオスも残るので・・・)性産業が隆盛になるかも知れません。
性産業は女性の尊厳を踏みにじるから良くないとして、これを禁圧しているとその代わり無償なら良い・・・フリーセックスが普及する事になるので結果的に何となく女性が損をしたような結果になりますが・・・。
フリーセックスに参加出来ない見た目の悪い女性・・あるいは持てない男は共にどうなるのでしょうか?
やっぱりどこかで引き合わせてくれる仕組みが必要になるでしょうか。
出産する必要性が乏しくなって来る社会では、神の摂理で自然に男女共に一定率で性欲が退化して来て一定割合で異性を必要としない男女が増えて来るのでしょう。
ミツバチが女王蜂とそれ以外になっているように、性行為に特化した両性と限りなく中性化したグループに分かれて行くのかもしれません。
08/08/10「婚姻制度と売春業の両立2」では、かっちりした婚姻制度が空気抜きとしての売春業を必須の制度となって行ったと書いて来ましたが、今回は逆に婚姻制度が崩壊してくると性欲を満たすためのフリーセックスに対応出来ない弱者(性欲はあるが持てない男)のために必要な制度となる可能性があります。
これを禁圧しすぎると、まだ草食系に変化しきれず性欲があるのに持てない男はやむにやまれず性犯罪に走る確率が高まります。
農耕社会から都市社会・・勤労社会に変質し、地域を単位とする集落共同体が崩壊し始める核家族化・都市生活の進展に伴い父親が離婚の有無にかかわらず養育に参加するべきとする思想が発展したと今年の7月9日以来書いて来ました。
しかし、法的構成と動物的意識の変化は別ですので、この社会的要請に基づく理論構成に(誰も表面上反対しませんが)母親が寄りかかって安心しているのは危険です。
妻(女性)は子育てに目一杯なのでその間夫を放っていても、最近のスローガンを信じて育児に大変だからむしろ協力をして貰えるのが当然と思っていますが、夫の方は理屈では「あなたの子だから」といわれても,身体(無意識界)の方ではまだピンときていないので、無意識下では待遇が悪くなった印象の方が強くなります。
妊娠・出産前後の浮気が多いのは、これを実証しています。
まして、養って貰う子供の方では、離婚後の父親に対して何の感謝もしないのが普通とすれば、養育の義務だけ強調して法で離婚後の父親に対して強制するのでは無理が出ます。
この強制が行き過ぎると、将来のリスク回避意識が働いて婚姻率が低下して行く可能性が高くなります。

女性の地位と社会進出

December 8, 2010「フランス大革命と所有権の絶対4」で書いたように、わが国では農地支配は重層的関係で、武士は領主支配権だけで農地の直接所有権までは持っていませんでした。
小作関係も同じで、西洋では自分の農地感覚ではなく従業員的立場で耕作していたので、(一所懸命の伝統がなく)エンクロージャームーヴメントで簡単に追い出されてしまったのですが、我が国では名目上は地主所有になっても、実際には小作人が直接農地管理をしていて一種の請負のような関係で敗戦後農地解放まで来ました。
ですから農地解放で、スムースに現に耕作している農民所有に復帰出来たのです。
元々農民の多くが小作関係に転落したのは地租改正・貨幣経済化・・金納制になってからのホンの僅かな期間に過ぎなかったことを、04/09/04「地租改正と農地売買の自由化3(大地主の誕生と小作農の出現=窮乏化)」前後で紹介しました。
我が国では国民の大多数を占める庶民・農民の生活は(武士・領主と農民の関係同様に)女性の労働に頼っていた・・武力(夫の)支配は観念的政治支配権(家の中で形式上大事にされていた)だけで直接支配権まで持たなかったことから、女性は飽くまで農業の主役のままでしたので実質的発言力が高かったのが、西洋やアラブ系の女性とは違います。
(今でも旧式の温泉ホテルや料亭はおカミさんが実質支配人で、男の社長は商店会の集まりに出たりウロウロしているばかりです)
西洋の歴史をそのまま理解して日本の男女関係を理解したら間違いの元です。
上位階級の理想・価値観が専業主婦・お姫さまでしたので、明治以降庶民も給与所得による収入に変化し、しかも高度成長期でサラリーマンの所得が上がると誰もが専業主婦になるの(専業主婦を養えるエリートとの結婚)が理想と思い違いしてしまったのです。
(女性には、何故か働かないお屋敷のお嬢様や奥方に対するあこがれ・・シンデレラ物語の精神があります)
皮肉なことですが女性の理想・・汗水たらさずに、どろんこになって働かないでいられる生活は、それを実現すると実質的地位低下をもたらすことに気がついていなかったのです。
日本の女性の実質的地位の高さは家庭内で実際に働いているのが主婦・妻自身であって使用人任せでないところが大きいのです。
この点西洋では、レデイーファーストと言いながらも実質的には家庭内の地位が低いのは、育児もベビーシッターや家庭教師に任せ、自分はパーテイー等で楽しむだけでは、立場が弱くなるのは当たり前です。
ただし、貴族の場合領地経営は奥様の仕事で、夫はロンドンなど宮廷に出仕して領地経営にはあまり関与していませんでした。
領主夫人は執事を引き連れて年中飛び地の領地周りをして領地ごとの管理人から収支の報告を受けて帳簿をチェックし細々とした指図をしなければならず休む暇がなかったようです。
西洋では別荘と言うか各地に屋敷があり、巡回裁判所などの伝統があるのは、こうした巡回の歴史(領主裁判権の時代が長かったのです)があるからです。
このように男女の実質的格差・・女性の家庭内地位は日本以外の国では日本よりはかなり低いのに、社会進出になるとインドやその他後進国ですら日本よりも比率が高いのは、外国の女性は家庭内を牛じることに対する関心が低い・・元々家事に時間が取られていなかった歴史によるところが大きいでしょう。
日本の女性は有史以前から支配して来た家庭内の実質支配権が空洞化する危険を冒して社会進出するしかない(従来の家庭運営形態では二者択一しかなかった)ので、独身を選択する女傑(土井元衆議院議長など)に偏ってしまうので大量進出が進みません。
これが、家事育児の社会的受け皿の整備と夫の協力(お手伝いの域を越えた)参加によって、女性が家事育児に割く時間が減少し社会進出が容易になって来たのが昨今の現象です。
ベビーシッターや家事使用人(ここ数十年間は長寿化の結果いつまでも元気な妻の母親が代わって家事を引き受けることによって、テニス・バレーその他女性専門職業が成り立つようになっていますが・・・)に頼らず社会参加を実現する我が国の方向性は正しいのですが、省力化であれ社会のインフラ整備・夫の協力教育その他何であれ、女性の家庭内の実質的関与時間の縮小が、家庭内の発言力低下をもたらす効果は同じでしょう。
July 14, 2011「結婚離れ1」以来のシリーズは、この変化が家庭内の男女関係・・結婚制度にどのように変化をもたらすかの関心で書いています。

ムラ社会と道徳律

話が地方制度から古代の組織ひいては版籍奉還・辞官納地さらには原子力事故など連想ゲーム的にに大きくそれていましたが、2011年4月24日に書き始めたムラ八分に戻します。
我が国の自然発生的ムラ又はムレは、生活維持に必要な関係で成り立っているので、その反射としてムレから仲間はずれにされると生活の維持が困難になる・・死活問題となります。
たとえば、自分の田に来る灌漑設備が壊れてもみんなの協力がないと自分達家族だけでは直すには力不足です。
(日常生活に他人どころか、親族の力さえ借りる必要性が薄れて来た都会生活では、群れる必要性がありません。)
その結果法的制裁がなくとも「ムラの掟・・道徳でもきっちりと守るもの」と言う暗黙のルールが出来て、これが明治まであるいは今でも農村社会で守られて来たし、「ヒトに後ろ指されない」しつけが厳しくされ、我が国特有の犯罪の少ない社会が出来上がって来たのです。
産業革命以降都市労働者が増えると、田舎から都会に出て来た人たちは生活の糧を得るために近隣共同体維持の必要性はなくなりましたが、生活の場を古里から都会へ変えたことによって、収入源が近隣付き合いから切り離されただけではなく、いろんな日常生活の助け合い部分まで切り離されてしまいました。
明治の初め以降長い間、子育ての智恵やちょっとした助け合いがまだまだ必要な時代が続きましたが、(地方から出て来た若夫婦にとっては保育園も幼稚園もなく・・・産院で産むようになったのさえ昭和30年代半ば頃からでした)収入源の地域共同体性の喪失と同時に日常生活手段としての助け合いの基盤までなくなってしまったのが近代社会の特徴でしょう。
地域的生活共同体から切り離され、ムラ社会の束縛から解放されたのは良いですが、その代わり近隣に親戚もなく大家族的つながりが薄くなって助け合いの風土・基盤がなくなりました。
このように考えて行くと都市近郊農村社会に根を下ろしたまま近くの都会へ昼間だけ働きに出ている関係が、(良いとこ取りで・・)最も精神衛生上有利な関係であったことになりそうです。
(ムラの付き合いが煩わしい人にとっては逆に悪いところだけが、残っていることになりますが・・・)
一時は「遠くの親戚よりは近くの他人」と言われていましたが、最近では近隣の付き合いも減ってしまいましたので直系家族・3世代同居からさらに核家族化が進めば(母親や兄弟も遠くにいる状態)、子育ては大家族・親類縁者内の女性グループで助け合うことすら不可能になります。
都市化の進展に合わせて子育ての社会的受け入れが始まり・・出産(前後の母子への援助)も一族総出で行う行事から、昭和30年代中頃からは産院中心になりました。
私の家は東京大空襲で焼けてしまったので、幼児期から中学時代まで田舎で育ちましたが、その頃に見た経験では、田舎では冠婚葬祭等は近隣(・・結局は昔の集落単位です)の女性の応援で実施していました。
(田舎では滅多にない冠婚葬祭用に大量の食器などが蓄えられていました)
高校時代に東京で見た景色では、(私は池袋に住んでいたのですが)大田区区民会館が出来て結婚式もやれると言うニュースだったか広告だったかはっきりしませんが、見た記憶があります。
昭和30年代中頃から、東京ではホワイトカラー層では結婚式等も自宅ではなく東条会館・◯◯会館等で行われるようになり、庶民でも公民館等で結婚式が行われるようになり、次いで私の大学同窓生・・平均的サラリーマンでも私学会館等を利用し、更にはホテルへと豪華化されて行くのに比例して葬儀も次第に外注が原則となって行きました。
出産が産院で行われるようになったのは、応援の必要な結婚や葬式等の大型行事が総て外注形式になって行った先がけだったと言えます。
出産や病気・結婚等一過性大行事は病院や施設等の発達で近隣の応援がなくとも(お金さえあれば・・その結果保険や年金制度が発達しました)出来るようになりましたが、長丁場の子育てや高齢者介護になるとトピックス的な援助ではなく継続的援助・支援が必要になります。
子育て支援の社会的整備は簡単には進みませんので、未整備状態下のギャップで育児ノイローゼやこれに基づく母子心中事件、あるいは児童虐待事件の発生が生じて来るのですが、幅広い女性同士の精神的助け合いがなくなった近代都市生活の特徴かも知れません。

合議制社会とリーダーシップ3

今回の原発事故に対して事前準備マニュアルがなかった点は、歴代政権の責任ですし,マニュアルがない以上は、危機解決責任のある内閣としては事前の根回しのない(そんな暇がない・・)命令を乱発?あたふたとせざるを得なくなるのは当然です。
勇将の下に弱卒なしと言うように、指揮官一人で勇敢な戦いが出来る訳ではなく部下に対する事前の訓練があってこそ,臨機応変の指揮命令と一糸乱れぬ勇敢な戦いが出来るのです。
政権は自前の部下を送り込む仕組みではなく、自民党政権時代に訓練した筈の東電や保安院官僚を使いこなすしかないのですから、一糸乱れぬ危機管理が出来るかどうかは、自民党政権時代の訓練次第にかかっていたことになります。
この結果、現政権は素人内閣だと言う批判を受けるのですが、事前の危機管理システム整備を「想定外」として検討すらしないで何十年も怠って来た前自民党歴代政権・・あるいは東電歴代幹部の責任であって新政権の責任ではないでしょう。
原発事故直後のMarch 17, 2011「原子力発電のリスク」で既に書きましたが、巨大津波の到来は想定外であったとしても、どんな原因・理由であれ、もしも想定外の理由で電力供給が損なわれた場合どうするか・原因は想定出来ないけれども放射能が漏出した場合どうするかなど、いろんな段階の基準を設定したり予備訓練や設備補充策を検討しておくべき必要があったことは確かでしょう。
想定外のことは誰も想定出来ないことですから、責任がないかのようなマスコミ論調です。
(結果的に準備していなかった自民党や東電擁護論で、危機にスマートに対応出来ない菅内閣だけの責任のような報道です)
私の意見は逆で、想定外の事故は起きないという断定をして、何の準備をしなかった歴代政権や東電の行動は矛盾した思考方法として糾弾されるべきです。
想定外のことは想定不能と言う意味・・人智が及ばないことですから、どんな理由原因によるかの想定は出来ないとしても、ともかく結果的に冷却装置の電源が失われた場合どうするか、放射能が漏れたらどうするかの想定は必要だった筈です。
たとえば、津波に限らずテロその他による爆破事故の場合でも、どういう原因によるは別としてその場に一緒においてある機器が同時に損傷することがあり得るのですから、各種バックアップ機器は一緒に被害を受けない一定の距離のあるところに用意しておくのが当然の備えだったと言うべきでしょう。
電気が止まると同時にメルトダウンが起きる訳ではなく一定時間の余裕があるのですから、その時間内に電気を繋ぐことが出来る場所に電源を用意しておけば良いことです。
あるいは別の冷却水の循環方法・海水注入はどの段階で行うか、その準備などを構想しておくなど、いくらも多種類の方策準備があり得ます。
今回は簡単に繋げるコンセント関連の用意がなかったので、(緊急時に複雑な配線現場工事は時間がかかりすぎるし危険な場合もあるので、予めカチッとはめれば良いような予備器具を別の場所に用意しておけば足りたのです。)別の自家発電装置を持って来ても簡単に使えずに結局メルトダウンしてしまったのです。
大手企業がバックアップのためにデータセンターを仮に二重に用意するとすれば、同じビル内に設ける企業は滅多にない筈ですし、東京都内にさえ複数設ける会社はない・・遠く離れた別の地域・・関西に持って行くなどするのではないでしょうか?
想定外の事態はあり得ないとか、想定外のための設備や研究は不要だとする発想自体・傲慢と言うか神を恐れぬ・・・等の自信があってのことではなく単なる怠慢と言わねばなりません。
時間が経ってくると、想定外事態に対応する多方面の研究や設備の備えがまるで準備されていなかったことが明らかなりました。
高濃度汚染された建物内部調査のためのロボット1つさえ・・ロボット最先進国である筈の我が国で用意されていなくて、アメリカから借りて,運用の訓練を受けて時間をかけたりあるいはフランスの機械を借りたりしているお粗末な事態です。
アメリカやフランスで地震が多いから用意していたのではなく、我が国の方が危険な立地が多いことは誰でも知っていたことなのに危険性の少ない外国でいろんな場合に備えて用意しているのに、ロボット大国の我が国で全く用意してなかったと言うのですから(現政権ではなく)歴代政権の怠慢・責任は明らかでしょう。
発生原因は想定外でも、ともかく結果として放射能が何らかの理由でもしも漏れた場合どうするかの手順も何の研究も用意もしていなかったことが分りました。
放射能の飛散状況に関する研究分析も手つかずであったために、避難区域も原始的な一律半径何kmと言う風向きなど無視した基準しか緊急判断出来なかったのです。
そもそも農作物でも野菜の種類別の基準もないし、校庭その他の個別の規制基準すら造っていなかったのですから、歴代自民党政権はお粗末きわまりない無責任政権だったことになります。
予めの詳細基準があって訓練が行われていれば、手塩にかけて飼育していた牛や豚などを放置して(イザとなればどこかへ預ける場所も決めておけたでしょう)身1つで避難するようなことをせずに済んだ筈です。
集中豪雨などの一過性の避難と違い長期化するのですから、予め長期避難に耐えるような場所を心づもりしておく必要があったことになります。
そこで泥縄式にいろいろ手を付けるので、基準設定自体が信頼を失い百家争鳴状態になっているのですが、こうした研究や想定訓練は1年や2年で出来るものではないので,現政権の責任・・指導力の問題ではなく歴代自民党政権の責任です。

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