政党の役割1(不要不急のインフラとは?)

昨年総選挙での希望の党の公約・「正規雇用を増やす」公約の意味を書いているうちに総選挙から1年以上たってしまいましたが、希望の党の公約に戻ります。
November 20, 2017「希望の党の公約等3(内部留保課税3)」の続きになります。
(この夏約1ヶ月間サーバーの不具合でこのブログが停止してしまって以来、新規意見書き込み意欲がまだ戻っていないので、過去の原稿先送り分の在庫整理がまだ続いています。)
希望の党公約に対する批判意見は公約が発表された総選挙真っ最中に基礎的原稿を書いていたのですが、総選挙最中に一方の党の批判を書くのはどうかな?と迷って、総選挙後に公表を始めたのですが、現在では希望の党が解体・分党してしまい、政治的影響力がなくなっているので今更批判する意味がなさそうに見えますが、希望の党の公約に限らず各種野党・もしかしたら日弁連などの批判勢力(憲法の原理や近代法の法理に反する」という抽象論で運動しているように見える?)一般に共通する問題ですから、古い原稿ですが連載残り分をここで発表しておくことにします。
次に
「家計に希望を・・・」の中に「不要不急のインフラ整備を徹底的に見直す」とありますが、こんな公約は公約のうちに入りません。
政府が不要なインフラ整備しないのは当たり前すぎることで、どの政党も無駄な公共工事をするとは言わないはずです。
何が不要で何を優先的に設備する必要があるかを決めるのが政治ですから、公約では、どの分野のインフラを優先整備すべきかの順位意見表明すべきでしょう。
何を優先して整備し何を後回しにするかを決めるのが政治ですから、公約で言うべきは優先順位です。
これのない公約は公約とは言えないでしょう。
韓国では政治思惑優先・経済音痴の文政権下で経済失速が鮮明ですが、11月1日の施政方針演説では「共に良い暮らしをしよう』という方向を示しただけで終わっているようです。
どうやって「良い暮らし」に持っていくかを示すべきが政治家の仕事です。
民主党政権時代に「コンクリから人へ」のフレーズで失敗した事業仕訳の焼き直しでしょうか?
議員定数削減による消費税増税反対と言い、

「満員電車ゼロ」実現など生活改革を進め、労働生産性を高める▽日本企業の事業再編を促すため、事業再編税制を強化▽電柱の地中化により、災害対策を強化するとともに、景観を改善

というのですが、これが「家計に希望を」の項目の中にごたごたとはいっていてゴチャゴチャです。
財政赤字対策・・・議員定数削減程度で巨大な財政赤字がどうなるものでもありません・民主党が政権を取る前にしきりに宣伝した埋蔵金論・・実際にはなくて事業仕分けに切り替えて目先をごまかしたことは周知の通りです・・の焼き直しです。
「ユリのミクス」による税収増を図ると言うのですが、肝心の百合ノミクスの内容がありません・希望・夢に委ねるという意味でしょうか?
こんなゆるい公約で実際の国家運営できるのでしょうか??
その他一々批判してもきりがないので紹介をこの辺で打ち切りますが、どうせ意味のあることを書けないが白紙提出というわけにいかないので、仕方なしに受験生が答案用紙に何か書いて出したような公約羅列の印象を受けますが、そもそも公約ってどこの政党でもそんな程度のものだったのでしょうか?
公約に関心を持ったきっかけは、」今回「排除の論理」がどうなっているのか気になって希望の党の公約をネット検索してみたのが初めてで、よその公約がどうなっているかまで見ていません。
抽象論ばかりで具体性がないと言う批判を意識したのか具体化するために?電線地中化・満員電車解消など書いていますが、こんな瑣末なことを書くのと具体化とは違います。
具体的に書く必要とは、数日前正規雇用化の意見で書いたように、企業が正規採用をいやがる法制度をどうするかの議論とセットで書くのが具体化です。
ユリノミクスで・・と意味不明な逃げ方をしないで、具体的な経済政策を書いてくださいというところです・・。
「希望」の党だから夢で良い・・具体性がなくて良いと言う開きなおりかもしれませんが、メデイアは小池フィーバーを煽るばかりで公約の矛盾・お粗末ぶりをなぜ批判しなかったのでしょうか?
党の公約などメデイアが報道しない限りほとんどの人が滅多に見ないのをいいことにしてメデイアはムードばかり煽っていたのですが、合流となると民進党員が党内多数になることが素人に直感できたことから、民進党の主張そのままの党になるのか?という素朴な疑問が湧き上がったところからその到達点で小池氏は「排除声明」を出さざるを得なくなった背景でしょう。
民進党や17年11月10〜11日に紹介した離党した都議の主張でも同じですが、透明性とか弱者への思いやりや女性の社会進出やlJGPT対応も必要ですが、分配中心の視点が目立つ・・国家をどうやって運営していくかという最も重要な主張(付け足し的に書いてありますが・・)がほとんどありません。
企業で言えば、新社長が従業員第一・経理の透明性というだけでは、新社長がどの分野で稼ごうとしているのか見えないのと同じです。
民主政治の前提として決定過程の透明化が必須ですし汚職をしないのも重要ですが、政党が政治過程を透明化し汚職摘発だけが主たる活動目的で本来の政治をどうするかの意見がないのでは困ります。
都民ファースト離党都議の主張を見ていて感じたのですが、都議の内一人二人くらいは都政トータルの議論には「私は当選したばかりでよくわかりませんので・・と言って一切関わらない代わりに、決定過程の透明性実現あるいは保育園問題だけに特化したり、電線地中化運動するのは一つの生き方ですが、党全体がそれしかないと言うのでは「政党」とは言えません。
電線地中化や保育所に特化して取り上げる個々の議員の発信は、一般に広く関心を持ってもらうための問題提起効果を狙う点で意味がありますが、政党として主張する以上は優先順位の主張であるべきです。
不良のいない社会や街路に花を絶やさないのも電線地中化も保育所が多くあるのも、高等教育無償化すべて結構なことですが、それらを全部実現するには、限られた予算や人材資源配分をどうするか・優先配分に行き着きます。
例えば、保育所問題は予算配分・資金ばかりではなく人材争奪・どこへ優先的に振り向けるべきかの優先順位の問題であることは明らかですが、電線地中化も資金の問題だけではなく新築ビル工事や道路工事などに振り向ける労働力が今逼迫していますが、これを電柱掘り起しなどに優先的に振りむけるのかなど多方面への目配りの結果の主張であるべきです。
一般常識からいえば、好景気でどんどん新規受注のある好況時には、保守点検部門の人材は維持管理に必要な程度にして利益に直結する前向き事業に人材をシフトする・・受注減の余力のあるときにこの種の保守的事業に人材をふり向けるのが合理的でしょう。今首都圏ではオリンピックに向けた諸工事が間に合わない建設労働者逼迫の緊急事態にあることは周知の通りです・・電線地中化に今人材を振り向けるには、この常識的セオリーをひっくり返すほどの合理性緊急性があるのかの説明が必須です。
4〜500人の代議士のうちで一人か二人の税理士出身者が都政がどうあるべきかよりも、会計のミスばかりに目を光らせるとか・・それでも良いのですが・・。
政治と役人の役割分業は、政治が基本方針を決めて役人はこれをミスなく実行することですが、細部の議論だけで基本方向を決められないのでは政治家はいりません。

戦前政党政治の失敗の原因(政治能力の未熟2)

政党内閣に関するウイキペデイアの記事からです。

大正7年(1918年)9月に立憲政友会の原敬が内閣を組閣した。この内閣は閣僚の大半が政党所属であった。また原が衆議院に議席を有する現役衆議院議員の初の首相であったことから政党内閣として画期的存在とされた。
特に1925年の男性普通選挙により成立した護憲三派の加藤高明内閣から始まる政党内閣6代の頃には政党内閣は「憲政の常道」として定着した。その背景には元老のなかでただ一人存命していた西園寺公望の意向があった。西園寺はイギリスの立憲政治を理想としており、政党内閣に比較的好意をもっていたからであった。
普通選挙は実現し、有権者は大幅に増加したが、それは政治資金の巨額化に伴うことであった。

その結果、選挙資金を得るためという政治腐敗の増加を招いた。政党間の政権交代は総選挙という国民の審判を通じて行われるのが本来の形である。しかし、この頃の政党は官僚や軍、枢密院などの勢力と結んで倒閣をめざし、それを果たした野党が議会の少数派のままで組閣し、与党という有利な条件のもとで総選挙に勝って第一党へ躍進するという形式が政権交代の基本的形式となった。政党内閣は政党間の対立という困難な問題を処理できないままに1930年代を迎えた。

そこに中国問題の深刻化、昭和金融恐慌、世界恐慌による経済危機、世界的な軍縮の流れに対する軍部の反発など、内外の危機に対して十分に対処しえなかった。その結果、海軍・陸軍、官僚、国家主義団体などを中心に政党政治への不満が高まった。そして1932年5月、海軍青年将校らによる犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)と西園寺が軍部・世論の反対から犬養後継に政党党首を立てるのを断念したことをもって政党内閣は終わりをつげた。

上記を見ると、在野政治家は実務能力が低いのに「憲政の常道」と称して、西園寺が(民意の支持を無視して)形式的な政権交代制を採用していたのが政党の健全な成長の芽を摘んでしまったように見えます。
経験がないなりに実務に基づいて堅実政治をしている与党の支持がせっかく多くなっていても、政変の都度毎回少数野党に政権が変わるので、結果的に野党が国民の支持獲得を目的にせず、メデイア受けする空虚なスローガン頼りで政権攻撃する習慣になっていったように見えます。
メデイアの煽りで(本当は国民の多くが冷めていても冷めている人はデモしませんので)国会周辺が騒がしくなると「民主主義」という言葉の魔力でこのままでは政権維持不能となって内閣総辞職になります。
メデイア頼りの運動の限界を補うために軍部でもなんでも倒閣に利用できるものは利用していった結果軍部がどんどん発言力を持つようになってガン細胞のようになってしまったと見るべきでしょう。
戦後は揚げ足取りで倒閣に追い込んでも次の内閣は(本当に国民支持を受けている与党から樹立されるので、野党の揚げ足取り攻撃は意味がなくなっています。
ところが戦前成功例を夢見て戦前の揚げ足取りの「世論」という名でメデイアとの二人三脚での政権攻撃を戦後も繰り返してきたことになります。
実際に揚げ足取りで倒閣してもその次の選挙で社会党が勝ったことがないので、(60年安保だって政権交代はありませんでした)国民多くは安保反対でなかったのです。
まして政策論争のない揚げ足取りだけでは、政権交代になるはずがありません。
今回も森かけ問題による倒閣運動が盛んですが、政策論争でないので、安倍内閣が辞任しても野党への政権交代になる余地がありません。
内閣弱体化運動=国家に必要な政策遂行能力を弱める運動でしかないのです。
実務経験のない野党は無責任な観念〜原理論しか言えないので、国民が成熟してくると支持が減る一方になります。
そこで元官僚を野党が取り込んで現実野党を目指し・これを売り物に民主党が政権を一旦握ったのですが、多くが官僚の傍流であり、明治初期の板垣らと同じ傾向が出て・第一次大隈内閣同様の大失望を買ってジリ貧になってしまいました。
話題を元に戻しますと、23日まで紹介した小西氏も東大卒・元官僚で・東大教授の名前程度は知っていることを鼻にかける特徴にも現れています。
明治期の政治家が、ちょっと官員さんをやったことを誇って庶民に訴える傾向がありましたが、今でも在野政治家はその傾向を引きずっているようです。
明治初年と違い今では、元「官員さん」東大卒の有り難みが薄れています。
東大卒や国家公務員の中でも2〜3流人材・出世できそうもない不満分子が在野になって政治家になっていたこともあって、戦前の政党レベルが低く「あら探し」しかできない結果政党の根腐れ現象を起こしたことが上記「政党内閣」の紹介でわかります。
それをうまく利用して(・・当時陸士や海軍兵学校出身といえば今の東大卒よりもエリートでした)空隙を埋めるように軍部がガンのように育っていったと見るべきでしょう。
戦前政治家は「アラ探し」政治に終始していたので、国民に呆れられてしまい政党政治を自ら葬ってしまった点を反省すべきです。
軍部に頼っていた野党は、(国民を欧米流の単純な2項対立社会化→民族分断を企図していた)GHQ占領政治・・軍国主義批判→国民や政党は被害者という宣伝に便乗し・・またもや時の権力に媚びへつらって「国民や政治家が軍部や権力の弾圧によって窒息させられた」・・・「軍部や治安維持法が悪い」と宣伝してメデイア・言論界が被害者意識強調ばかりしてきました。
挙句に「戦犯批判・靖国合祀を許せない」と中韓まで応援団に引き込んで国民分断作戦に肩入れしてきたのが左翼や文化人です。
今の慰安婦騒動に限らず日本の国難は戦前から今まで、ずっと野党とメデイアの二人三脚プラス軍部や外部勢力引き込みで育て上げてきたものばかりです。
軍部を育てて言論を窒素させて行ったのは野党政治家とこれを応援するメデイアそのものだったことを今日まで見てきました。
戦後ずっと、メデイアの宣伝にさらされている国民の多くが、メデイア界も政治家も戦前権力による被害者だったかな?と誤解している人が多いでしょうが、逆に彼らのほうが弾圧を煽っていた張本人でした。
政府権力者(滝川事件でも背後で就職先を世話するなど尽力していた西園寺公望)の方が、如何にして政党政治を守り育てるかに腐心していた・肝心の民意無視で形式的な政権交代に重きをおいた)様子を紹介します。
簡略にみるには以下の記事が重宝です。
https://hosokawa18.exblog.jp/20192131/

戦前の政党政治はなぜ終焉したか
・・・昭和になってからは 「西園寺公望」 しか元老がいませんでしたから、
昭和における首相は全てこの男一人の手によって決められたのでした。
西園寺は 「政友会」 と 「民政党(憲政会)」 から交互に首相を奏薦します。
若槻礼次郎(憲政会)が金融恐慌の処理にミスって退陣したら、その次は田中義一(政友会)。
田中義一が張作霖爆殺事件で昭和天皇の勘気に触れて総辞職すると、次は浜口雄幸(民政党)。
浜口雄幸がテロによって倒れると、その次は若槻礼次郎(民政党)。
若槻礼次郎が満州事変の処理を巡り総辞職に追い込まれると、その次に首相に奏薦されたのが犬養毅(政友会)。これが 「憲政の常道」 たる 「西園寺ルール」 ですが、首相がテロで倒れた場合は政権交代させてません。
さもないと暗殺合戦が始まっちゃいます。
浜口首相がテロで倒れた後、首相に奏薦されたのは同じ 「民政党」 の若槻礼次郎でした。
このルールでいくと、次の首相は新しく政友会の総裁となった 「鈴木喜三郎」。
鈴木喜三郎もその気マンマンで、首相になる準備を始めています。
しかし西園寺は 「海軍出身」 の斉藤実を次期首相に奏薦。
これで戦前の政党内閣は終わりを告げたのでした。
つまり戦前の政党内閣が終焉した原因。それは・・・
「西園寺が鈴木喜三郎を首相に奏薦しなかったから」
この一言に尽きます。
なぜ西園寺は 「鈴木喜三郎」 を首相にしなかったのでしょうか。
まず 「政友会」 と 「民政党」 の抗争が激しすぎたコトが挙げられるでしょう。
国内・国外で問題が山積みなのに、とにかく彼らは党利党略が優先。帝国議会はお互いのスキャンダル暴露合戦と化しており、日本にとって害を及ぼすレベルにまで来ていました。
そして 「政友会」 があまりにも親軍的な政党と化していたコトも問題でした。
犬養首相は 「憲政の神様」 と呼ばれただけあって、党内のこうした勢力を抑えていたのですが、鈴木喜三郎は親軍派の代表的な人物であり、むしろ軍部よりも強硬意見の持ち主。
「こんなヤツを首相にしたら、日本がファシズム化しかねない」
それに比べて 「斉藤実」 は海軍出身ではありましたが、穏健で常識的な人。
「政党は平和で、海軍は戦争」
決してそんなコトはありません。
この場合は鈴木よりも斉藤を首相にした方が平和を望めたのでした。

天皇機関説事件でも紹介しましたが、政府会は政敵を攻撃するために時の政府が機関説を支持していることを攻撃し政党政治の理論的支柱である天皇機関説を潰す方を選んだのです。
以上紹介して来たように、社会党や民進党が政策論なしに政権や大臣の揚げ足取りに終始する体質は、戦前政党の悪しき系譜・DNAを引きずっていることがわかります。

戦前政党政治の失敗の原因(政治能力の未熟1)

昨日紹介した論文https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3735/JNK001702.pdf
の続きです。
論文記載の鹿児島県等の1984年(昨日紹介した就学率でいえば、1885(明治18)就学率49.62%の翌年ですが)の自署率は以下の通りです。

明治初期に文部省によって実施された自署率(6歳以上で,自己の姓名を記しうるものの割合)の調査に注目し,学制公布まもない時期の識字状況をしらべている。その結果はいくつかの県しかわかっていないが,滋賀県:64.1%(1877年),岡山県:54.4%(1887年)と50%をこえる県がある一方で,青森県:19.9%(1884年),鹿児島県:18.3%(1884年)など,20%に達しない県もあった(八鍬友広:2003,p.56)。

近江商人で知られる滋賀県は1877年でも64%の効率なのに青森や鹿児島では84年でも20%に届いていません。
文字を必要とする社会か否かにかかっていることがわかります。
http://www.tastytables.net/history/の「義務教育の歴史」によると以下の通りです。

日本での義務教育の歴史というと、まず1871年に国のでも文部省を設置し、翌年の1872年(明治5年)に日本で最初の学校制度を定めた教育法令である『学制』が公布され、義務教育推進運動が始まったというところが原点となっています。その当時は義務教育を推進しながらも授業料を徴収していたためそれほど普及することがなかったのです。その後1890年に改正された小学校令で尋常小学校の修業年限であった3年間または4年間を修了するか、学齢の8年間までが義務教育期間と定められており、3年間〜8年間と過程主義と年齢主義の併用をおこなっていたのです。たとえば、尋常小学校を3年間で修了した場合にはそれで年齢に関係なく義務教育は修了となるのですが、それでも修了できない場合は年齢制限である14歳になるまで義務教育が続くというものです。
1900年に小学校令が全面的に改正され、ここで尋常小学校の修業年限が4年間となったために義務教育期間が4年間からになっています。またこの法令により尋常小学校の授業料が無料になるなどしたために通学率がこれを機にどんどん上昇していったのです。1907年には尋常小学校が今と同じ6年間となったために6年間〜8年間となり、また1941年になるとこの尋常小学校の名称が国民学校初等科と変わっています。

上記の通りで、3年や4年小学校に通っても、多くの児童はちょっとした文字を習う程度でしかなかったでしょう。
在野というか自己意見・現状無視原理論が採用されないで下野したものは、民意重視と言っても漸進的にやるしかない・・この辺の機微がわからないで民衆を焚きつけて政府批判をするのが共通項です。
民権運動の功績を大げさに歴史で習いますが、条約改正のためにも近代法整備・・憲法その他の法制度準備と訓練期間・教育の普及等々を総合してどの程度のスピード・準備が必要か・・社会が混乱しないで受け入れ可能かの判断の違いでしかなかったことになります。
現在の「保育所落ちた日本シネ」の標語も同じですが、保育所増の必要性について与野党共に意見相違がない・現行法制との兼ね合いで、どこまで規制を緩めるか近隣住民の新設反対運動などをどうするか・保育士の人材供給など具体的な提案競争であるべきですが、野党はイメージ主張で対策が遅い批判しかできないのが自由民権・板垣時代から続く野党の特徴です。
ここで、在野系が組閣した大隈板垣内閣で政治が混乱した歴史を紹介しておきます。
最近でいえば民主党政権であり、韓国も全学連的政治家と言われる現代の文政権同様のことを明治30年代に起こしていたことがわかります。
第一次大隈内閣に関するウイキペデイアの記事からです。

第3次伊藤内閣が伊藤博文の政党組織準備(のちの立憲政友会)のために総辞職し、元老が議会勢力に妥協した結果、当時衆議院第一党であった憲政党の首班大隈と板垣に大命が降下して組閣された。
首班が議会(衆議院)に議席を持たないという意味ではやや条件を欠くが、軍部大臣以外を政党人によって固めたという点では、日本史上初の政党内閣であるといえる。
この首相奏推の元老会議は御前会議として行われ、お通夜のような雰囲気の中、明治天皇は「本当に大丈夫なのか」と何度も念を押したと語り草になっている。
実際に寄合所帯の憲政党内部では、旧進歩党系と旧自由党系の軋轢が強く、自由党系が求めていた星亨の外相任命を大隈が拒んで自ら兼務を続けたことに加え、文相尾崎行雄の共和演説事件による罷免をめぐり後任人事が両者間で紛糾し、星らによる憲政党の分裂騒ぎに発展した。
そして代議士が大臣だけでなく省庁の次官・局長の地位までも占めたために、行政は大混乱した(所謂「キャリア官僚」制度はこの反省により生まれた)。
またアメリカのハワイ併合に対して、「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招いた。そして組閣後4ヶ月余りで総辞職を余儀なくされた。

これが政党政治の始まりでした。
救援を求めてきたハワイを助けたい気持ちは正論としても、在野が政権を握ると常識に欠ける傾向がある点では今も同じです。
民主党菅総理が原発事故に対して(緊急性があったにしても)トップは具体的行為を指示すべきではなく方向性や大綱表明に止めるべきなのに、(合戦でいえば総大将が末端組織の動きまで直接指示したのでは混乱します)むやみに介入して官僚機構〜東電指揮命令系統が大混乱した点も同じです。
その後政党政治を理想とするキングメーカー西園寺公望をバックにヨチヨチ歩きの政党を暖かく育てる動きが続いたのですが、昨日紹介したように政敵攻撃ばかりでまともな政策提言能力が育たないまま昭和恐慌を迎えて、なすスベもなくついに終焉を迎えたのです。
国民能力という点で普通選挙施行の1925年を見ると、昨日見た表で言えば、就学率が99.43 ですが、選挙権者が25歳以上ですから19年前に小学校入学した子供がようやく25歳です。
有権者平均年齢が仮に40歳前後とすれば、約35年前=1880年の就学率・識字率レベルが対象です。
個々人を見れば深い素養のある人もいますが、一人一票ですから大衆を基準に考えるべきです。
こういう状態で普通選挙実施になると政治家は浅薄な感情に訴える傾向が強めて行くしか無くなります。
1935年の天皇機関説事件では機関車や機関銃にたとえて感情を煽る宣伝が横行しました・・。
政治家レベルは選挙民のレベル次第と一般的に言われますが、以後政党政治は堕落・・レベル低下の一途をたどっていったのです。
日本の産業革命は模倣から始まったのでキャッチアップ速度が速く、短期間に世界強国の一角を占めるまで上り詰めたものの、裾野からの政治意識の成熟には模倣や「西欧ではこうだ」という啓蒙だけでは無理があった・・普通選挙実施は民度レベルから見て早すぎたのではないでしょうか?
日本人のレベルが低いのではなく、戦後民主主義が根付いたのは明治以降2〜3世代くらい時間が必要だったからでしょう。
普通選挙法に関するウイキペデイアの記事からです。

有権者数は、1920年(大正9年)5月現在において307万人程度(人口に対し約5.5%)であったものが、改正後の1928年(昭和3年)3月には1240万人(人口に対し20.1%)と、4倍になった。

戦前政党政治の終焉(政治家の自殺行為1)

政党は政策論で競うべきであって相手の揚げ足取りで大臣の解任要求を主目的にするのは邪道です。
本来やるべき政治論争をしない低レベルの政府攻撃の繰り返しで、国民が政治家を信用しなくなり、政党政治が死滅していった戦前の歴史を再現したいのでしょうか?
戦前せっかく始まった政党政治が(在野政治家のレベルが低すぎたために)国民の信を失い、「レベルの低すぎる政治家よりもエリートに委ねた方が良い」と国民が思うようになって、政党政治が根元から腐っていったことは歴史上周知のことですが、戦後野党政治家、マスコミ、文化人?にはこの反省がなく、一方的に軍部が弾圧した治安維持法が悪かったという被害者意識の教育をし、国民に虚偽のイメージを植え付けてきました。
日本は明治維新以降急速な近代化に成功したとは言え、(戦後の韓国民主化・・形だけ真似して苦しんでいる今の韓国や、現在中国同様)国民意識レベルの変化は・・文化は3代と言いますが・世代交代しないと簡単に行きません。
明治の農村で行きなり洋風建築を建てても居住者の意識(はある程度「器」に影響を受けますが)がその日から欧米風になりません。
明治以降産業近代化に合わせて急いで欧米法制度の取り入れに勤しみ約20年経過でようやく国会開設しましたが、ザンギリ頭にして洋服を着たり議事堂さえ作れば政治風土が変わるものではない・・まだ政党政治をするには早すぎた・・国民意識とそれを基礎にする在野政治家の人材が育っていなかったのです。
このコラムで繰り返し書いていますが、昭和40年代中頃までは、何かある都度欧米事情に通じた「識者」が出てきて「欧米では〇〇」と解説する時代が続いていましたが、戦前は国粋主義・排外的時代だから、留学組の権威がないかというとそうではなく、今では想像もつかないほど外国風潮に通じている人の権威が高かった時代です。
中韓の反日運動を見ればわかるように、排外主義とは言い換えれば対外コンプレックスの逆表現であることが多いのです。
明治初期の大隈重信や板垣退助植木枝盛など見ればわかるように戦前政治家とは超エリート・・欧米先進事情に通じた者の仕事でしたから、欧米留学組が最権威者で結果的に、各分野の競争に負けて(板垣や大隈重信も下野したときに在野で敗者復活戦を仕掛ける仕組み)有り体に言えば落ちこぼれた2〜3流の人材・・一般人に比べて元官僚等である程度政治を知っていることを鼻にかける点は今の野党も同じです。
今後日本は欧米並みの憲法が必要という明治初年の民権論はそれ自体正しかったし政府も追いつく必要を感じて必死に準備していったのですが、憲法の下位の刑事や民事の身近な法令整備→日常的法運用に慣れさせるには教育から始めないとうまくいかないので)国民意識を徐々に涵養していく期間が必要でした。
たとえば民法を見ればわかりますが、民法制定にはその前提になる不動産登記(その前提には地番や地籍など特定制度の創設・・・江戸時代までは大名や旗本の功績を愛でて加増した時の知行地の表示を見ると「何とか庄の宮前の何反何畝」程度の特定しかなかったのです)や戸籍制度が必須です。
これらの準備期間なしに、いきなり「全国民に普通選挙権を認めろ」といっても、まだ選挙権者特定自体に無理があったし仮に選挙権を与えても小学校へ行ったこともない人口が大多数の時代に(明治初年にはまだ小学校制度が始まったばかり)猫に小判で、結局は地域有力者意見に従うしかないし結果的に政治腐敗がはびこるばかりになります。
これが後進国に対して投票箱民主主義を押し付ける米国流民主主義強制が失敗した原因です。
中国アフリカ等の後進国で腐敗指数が高い原因ですし、韓国で政権交代がある都度前政権幹部の(汚職理由の)検挙(昨日あたりから李明博元大統領の逮捕が騒がれています)が繰り返される原因です。
日本戦前の政党政治が自壊作用を起こした大元の原因は、制度設計が実力より早すぎた点は同じでしょう。
明治22年まで時間かけてようやく憲法発布になりますが、(日常生活を律するルールである民法は10年遅れの明治31年施行)それでもまだ日本社会が庶民まで参加の民主主義を運用するにまだ無理があったことがわかります。
ウイキペデイアによると以下の通りです。

1896年、明治29年法律第89号により定められた民法第一編・第二編・第三編(総則、物権、債権)及び1898年6月21日の明治31年法律第9号により定められた民法第四編・第五編(親族、相続)で構成されており、また附属法例として6月15日、明治31年法律第11号民法施行令が設置され[3]、全体が7月16日から施行された。これによりいくつかのそれまでの法規が廃止された[4]。原案起草者は穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三名である。
この民法典は、社会情勢と価値観が大きく転換する明治維新の後に妥協的に成立したものであった
日露戦争講和条約時(1905年)にもしも普通選挙があったら、メデイアに煽られるだけの庶民が政治に直接口出しできていたら講和条約がどうなったかと思うとぞっとする人が多いでしょう。
逆の立場では、「情報を国民に知らせない方が悪い」ということでしょうが、戦争中に「日本はこれ以上継戦能力がない」と内外に明らかにするのは利敵行為ですし、軍部内で強硬論が採用されなかった不満者が一部だけメデイアにリークすることによりメデイアが極論だけ煽った結果です。
選挙でまともな判断ができる人かの基準として学歴がなくとも一定の商売等の成功者(サントリーや松下創業者のように)は相応の判断力があると見るのが普通ですから学歴で決めるよりは公平です)一定の納税者を基準にしていたのは簡単な能力の篩制度としてコストパフォーマンスもよく合理的です。
普通選挙に関するウイキペデイアの記事です。
1918年 イギリスで男子普通選挙が実施された。ただし居住地以外に財産を保有する者は複数選挙権を得る。
1919年 ドイツ共和政において、世界初の完全普通選挙が実施された。
1920年 アメリカで女性参政権を認めることが連邦憲法修正第19条により義務付けられる[3]。
1928年 日本で衆議院選挙(第16回総選挙)の際に男子25歳以上(最初の男子普通選挙)の者で実施された。(普選運動

やっと欧米並みの憲法を制定し対外的に格好をつけたのですが、(農民がいきなり背広を着たようなもので)・鹿鳴館時代がわかり良いので揶揄されますが、日本社会全体・・法制度も背伸びだったことが分かります。
文字さえ読めれば選挙民の能力があるわけではないですが、日本の江戸時代から明治にかけての識字率や就学率の研究をした論文が見つかったのでその中の表だけ紹介しておきます。
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3735/JNK001702.pdf

表1 学齢児童就学率
出典:文部省『学制八十年史』  『学制百年史』『学制百二十年史』
年度         就学率(%)    年度    就学率(%)
1875(明治08)    35 19     1935 (昭和10)    99.51
1880(明治13) 41.0 6 1940(昭和15)   99.64
1885(明治18) 49.62 1945(昭和20)    99.79
1890(明治23)  48.93 1950(昭和25)    99.64
1895(明治28)  61.24 1955(昭和30)    99.77
1900(明治33)   81.48 1960(昭和35)    99.82
1905(明治38) 95.62 1965(昭和40)    99.82
1910(明治43) 98.14 1970(昭和45)    99.83
1915(大正04) 98.47 1975(昭和50)    99.91
1920(大正09) 99.03 1980(昭和55) 99.98
1925(大正14) 99.43 1985(昭和60) 99.99
1930(昭和05)  99.51    1990(平成02)   99.99

上記の表はその年の就学率ですから、例えば明治5年の学校制度発足後3年経過時にこれだけ就学したと言うだけのことで、(実際にはたまにしか学校に行けなかった子供が多かったでしょうし)小学1年にあがったからといってすぐに複雑な政治判断などできるはずがありませんし、みんなが卒業したわけでもありません。
この子供が3年間の義務教育を終えて大人になる20年後といえば明治28年です。

政党と内閣支持率推移3(劇場型政治から安倍政権へ)

3月2日に紹介したグラフを見るとバブル崩壊後小泉政権を除けば政権獲得後すぐに幻滅に見舞われ短命内閣が続いたのを見ると、新時代に応じた人材養成期間が必要であったことがわかります。
キャッチアップ・調整型政治に慣れ親しんできた社会でいきなり構想力・実現力を求められても、そういう人材が産業界を含めた各種分野で中堅幹部等にしか昇進していなかった・・そう言う人材は海外子会社に飛ばされているなどすから、創意工夫・企画力のある人材が中枢に抜擢され昇進してくるまでの期間が必要です。
その間目くらまし的に劇場型・イメージ・パフォーマンス戦略に走るしかなかったのは・・・政治の足腰・前提たる実業界自全体が従来型キャッチアップ商法からどうやって脱皮・転換するかに苦しんでいたのですから、政治分野だけ成果をあげるようなアイデアがある訳が無い・堅実な裏付けのないパフォーマンスに終始したのは当然です。
パフォーマンス政治=実現性のない格好付け政治スローガンの意味とすれば、バブル崩壊後安倍政権に至るまでの各内閣を見ると、小泉氏以外のパフォーマンスが全て失敗した原因と小泉政権との相違点を見ると小泉氏以外は、鳩山氏の「少なくとも県外へ」同様にすべて前向き政策の提示でした。
バブル崩壊後政治家だけではなく、超円高と中国の開放による超低価格攻勢に実業界もどのように対応するか模索中でしたので、どう言う構造改革が必要か不明のまま「蛮勇を振るって改革する」という期待感を煽るだけでは(裏付がなく実行力を伴わなかった結果)政権発足直後失速した点では鳩山氏に限らず結果からみると保革を問いません。
鳩山氏は何をするか不明の構造改革論と違って「少なくとも県外へ」と焦点を絞った点で小泉劇場同様にインパクトがあったのですが、郵政民営化は国民がそのスローガンに熱狂さえすれば一定の法改正自体可能ですが、基地移転は相手が米国ですし、国内的に見ても移転先の同意・用地獲得などの手当てが必要ですから、熱狂・国内をいくら煽ってもどうにもならない・・スローガンの実現不可能性は素人にもすぐに判明した点で目立ったにすぎません。
小泉劇場の成功の秘訣は、野党の「〇〇反対」と同じ「ぶっ潰す」というだけで新たに何かする提案をしていない、出来もしない前向き政策を提案していません。
現行政策をストップするだけで具体的政治に対する期待感を煽らなかったので、既存政治家にいじめられているイメージだけ膨らませて、いじめられている人に対する同情心・判官贔屓で成功したものです。
「ぶっ壊す」のは、新たな制度構築に比べて権力者にとっては楽なことです。
たとえば道路をつくるといえば道路用地買収から予算までいろんな手順・実務能力が必要ですが、(「少なくとも県外へ」が失敗したのは受け入れ先の同意その他の実務がいるからです)中止ならば実行中の工事の次の工事の発注さえしなければ済みます。
小池氏はその真似をすればいいと思った・・まず最初の大政党を敵に回しての孤軍奮闘のイメージ戦略で有権者の同情心を掴み、都知事になって実際に何かする必要が出てくると築地市場の移転では、豊洲の粗探しで工事中断に持ち込みました。
オリンピックのエンブレムに始まる騒動も全て粗探しに始まって手続き中断を狙ったものでした。
築地移転もオリンピックも目先の注目期間が終わり、何のための中断だったか(停滞の損失)に関心が移る頃に総選挙になったので失速してしましたが、ともかく工事中断効果があったことは間違いがありません。
このように「やめる」だけならば、トップの権限で公約通りに実行可能な点が前向き政策との違いです。
民主党政権での「事業仕分け」が華々しかったのは、事業廃止だけだったので強引無茶な仕分けが可能だったにすぎません。
(馬に水を飲ませないことはできるが)「飲ませることはできない」という箴言の応用です。
革新系のように反対・粗探しによる議事・進行妨害だけならば国民の納得不要で簡単ですが、前向きの政策の場合には国民が自発的に動いてくれないと進まないので難しいので自己満足ではどうにもなりません。
小池氏のオリンピック問題のカラ騒ぎや築地移転のいちゃもん騒動では、以下の通りの大損失ですが関係者の協力不要で先送り可能でした。
オリンピックでは東京都以外の競技場検討というだけ言って大騒ぎした結果、競技場が元の予定に戻るなど関係者は不満だらけですが、国益のためになんとか間に合わすしかない・仕方なしの協力関係になっています。
築地移転に至っては具体的損害が出ています。、
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201707/CK2017073102000110.html

2017年7月31日 朝刊
東京都の築地市場(中央区)から豊洲市場(江東区)への移転延期が長引き、築地市場の建物解体工事を都から受注した業者が困惑している。移転時期が不明なため、都が契約解除を求めているためだ。業者にとっては大きな仕事を成し遂げて実績にしたいとの思いがあり、「落札した契約を都の都合で破棄されるなんて聞いたことがない」と反発している。 (唐沢裕亮)

http://ytanaka.g.dgdg.jp/toyosubook/ebook-8.pdf

大騒ぎをし、数百億円の損失を残した、豊洲移転延期騒動は何だったのか

上記では各分野の中断による損害を弾いていますが、省略します。
小池氏は、次の予定された次の工事着工OKの印鑑を押さないだけでは格好がつかないので、過去の決定手続き過程調査が必要と言って時間稼ぎをしていたように見られてしまいました。
パフォーマンス政治脱却に成功した安倍政権(BtoCからBtoBへの実業界の対応が進んできたことが背景)時代になっても、まだパフォーマンス劇場型の小型版・・二番煎じで支持率を維持できると誤解していたのでしょうか。
バブル崩壊後次から次へと政権が交代してもその都度支持率急落の連続でしたが、3月2日紹介のグラフで第二次安倍政権の支持率を見ると、派手なパフォーマンス不要で内閣支持率が党支持率を長期安定的に上回っている初の本格政権になっていることが分かります。
安倍政権が次々次繰り出す政策が良いから経済順調・支持率維持なのか、経済が息を吹き返した時に政権獲得したから支持率が安定しているのかの関係は不明ですが・・。
内閣支持率の安定こそ政敵・野党に限らず中韓等敵対国は、政権党を攻撃するよりは先ずは安倍政権打倒に必死になっているのでしょう。
60年安保以降〜高度成長期以降の野党の動きを見ると体制(政策)選択の主張で競争するのは無理が出てきたので、各種反対運動や国会議事妨害目的になって行き、清水幾太郎がそのように変化していった丸山真男ら主流的文化人らと反目するようになっていったことをFebruary 23, 2018,に紹介しました。
「何でも反対」論は、四日市の公害や熊本の水俣病などによる公害反対激化したころまでは社会的意義のあるものもありましたが、駅前商店街(零細商店)を守れなどの反対になってくると市中心部の空洞化の原因となり、空港立地や高速道路反対・工場立地反対など地域経済に対するマイナスが目に見えてきました。

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