個々人の政治能力と政党政治2

代表と代理の違いを09/01/03「代表と代理(大理石)理事の違い」のコラムで書きました。
代理は個別の権限範囲を決めて委任された人の法律行為ですが、(車を買う・・特定の土地を売るなど権限が特定されているのが原則です)代表の場合は、その人格を信頼してテーマ無限定である分野に関してはそっくり一任する関係です。
会社の社長を代表取締役と言い、会社運営に関しては株主総会決議事項を除いて広範に業務執行を一任するのがその例です。
とは言え、時代の進化によって生殺与奪の権を握る信長や専制君主への一任の時代とは違い、一定の範囲内限定で信任する傾向が出てきます。
西洋市民革命前夜の王党派と議会派、革命後はジャコバンとジロンド党などから始まり、社会主義運動が盛んになると社会・共産主義諸派(ロシア革命中にはボルシェビイキメンシェビイキなど)と自由主義系の党派に大きく分かれて行きました。
20世紀前半は共産主義対資本主義と枢軸国とに入り乱れていましたが、後半は米ソ対立を軸に、おおむねこの2大政党(我が国で言えば自社・55年体制)の時代だったので分りよい時代でした。
この枠内で国民はどちらに一任するかを判断すれば良いので簡単でしたし、政治家の施策についても自由主義の範囲であれば個々の政策に不満でもあまり国民は不満を言わない・・不満だからと言って自民党支持者が共産党に投票鞍替えする心配がありませんでした。
ソ連崩壊後資本主義の枠内でどのグループに委ねるかとなると、争点がもっと具体化せざるを得ませんし、国民も不満なら別の政党に乗り換え可能になってきました。
同じ方向に向かっているバスや電車が数本ずつあるような時代です。
こうなると政党名・・基本綱領だけで政党を選ぶのではあまりにも抽象的過ぎて選択基準にならなくなります。
(憲法改正を求めるとしてもどの方向で求める政党か政党ごとにはっきりしてくれないと「改正」というだけでは政党選択出来ません)
そこで選挙民に訴えるために選挙ごとに掲げる公約・・マニフェストを掲げる方が選挙民にとって選択の基準がはっきりして訴求力が強いことから、ソ連崩壊後世界的にマニフェスト選挙が主流になって来ました。
我が国でも政党が選挙ごとに掲げる公約は当初は抽象的でしたが、回を重ねるごとに選挙民に対する訴求力確保のために具体化して来るとともに、「公約」よりももう少し具体的政治課題明示向きのマニフェスト提示が前回・前々回選挙のころから定着・主流化しています。
他方国民の方も、このシリーズで書いているように労組や企業に任せられなくなり自己決定をする必要に迫られるようになったことと、自由主義か共産主義かという抽象的枠組み選択の時代が終わったことから、具体的政治課題に関心を持つようになったこともあって、各政党にマニフェスト提示を求めてこれによって投票行動を決めようとする人が増えて来ています。
郵政民営化選挙以来この方式の選挙が続いていて、現在の民主党政権もこれによって自民党との違いを際立たせて政権を獲得したものです。
実務能力がない政党は困りものですが、能力さえあれば選挙民の意向に反したことを実行して良いか・裏切っても良いか・・・選挙公約・マニフェストの重みについては明日以降に書いて行きます。

個々人の政治能力と政党政治1

僅かな放射能汚染さえ嫌がって、東京圏から関西・中国地方へ移住している人もかなりいます。
そう言う人はその代わり文明の利器を手放すなら行動が一貫していますが、人並みに電気器具を利用して、あるいは電気の利用による企業製品を購入して普通に生活しているとしたら、良いとこ取りをしようとしていた大阪市民と考えが同じです。
大阪・京都市民も「反対さえ言ってれば後は政府や企業が何とかすべきだ」という無責任な態度で自分はその分電気を使わない・電気を利用した製品(工業製品の殆ど)を使わないと言わないのですから、無責任な主張だったことになります。
原発廃止・家から柱の取り外し等に比べて一般の政治決定は、その何百倍も複雑で一波万波を呼ぶような複雑な経路を経ていろんな方面へ波及効果を及ぼして行くのが普通です。
複雑な政治問題では市民の短絡的な反対に従って政策決定した場合、どのような危機・効果を招来するか(柱の撤去のように)目に見えないことから、市民運動家系・タレント系の政治家ではただ反対するだけで、その効果に対応した前向き提言がないまま(言い換えれば無責任発言)になり勝ちです。
政治決定に関しては、上記のとおりその及ぼす効果が複雑過ぎるので信頼出来る人や集団に一任すれば気楽ですし、その道に長けた人に一任するのが合理的であることから代議的民主主義制度が生まれて来ました。
私が受験したころの司法試験勉強科目であった政治学原論では、昔から政治はプロによるしかなくこれを世襲君主あるいはその側近によるか民主的手順で代議員を選出するかの違いで民主主義と言っているだけで、結果的に少数者による多数支配しかあり得ないと学んだような記憶です。
中国では古代から皇帝の政治権力の正当性・授権は天命によるとして、近世の西洋では王権神授説が流行しました。
市民革命以降世襲君主の代わりに民意によって選ばれる代議士とその代表者が権力の担い手になり、その代議士を選ぶのに所属企業や労組などの推薦に頼って来たのです。
ところが、誰かにお任せしていたらどうなるか分らない時代が来たので、自分で一々の政治課題を考え行動するしかなくなりました。
国民個々人にとっては目前のテーマとその後の複雑な経路を経て効果が出る結果の関係が分らない・・(部屋を広くしたいということとそのために間仕切りの壁や柱を取り払ったら安全性がどうなるか・・その先のことは素人には分りません)古代以来個々人がそんな能力のあったことはないので、大変なことです。
有価証券投資・運用のような値上がり値下がり程度の単線的見通しでさえも難しいことから、個々人が直接手がけるのは至難の業で投資信託みたいにどこかに委ねるしかないのが普通です。
投資顧問のAIJ事件が発覚したばかりですが、プロでない個々人どころか年金基金などセミプロでさえ、直接運用するのは至難のことですから、投資顧問会社に一任しているのが普通です。
そこで複雑な政治決断をどこかに任せるしかないということで間接民主・代議制になっているのですが、実務能力を信頼して任せていた自民党は世襲制がはびこり2世3世議員の時代になって絆創膏を貼った大臣が出て来たりして信用を落としてしまいました。

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