臣民と人民の違い1

民衆・大衆と国民はどこかに違いがありそうです。
国民的英雄、国民体育大会など、国民葬などどこか国民代表的イメージですが、デモをしている民衆が5〜10万人いても一億国民代表とは言えないからでしょうか?
ゲテイスバーグ演説を信奉しているはずの米国ではすでに人民は支配される対象であるばかりではなく主権者になっているはずですが、そうはいってもそれは理念上のことであって事実としてはいわゆるエスタブリッシュメントと一般大衆の格差は広がる一方です。
男女平等といってもすぐにそうはならないのが現実社会です。
主権国家内には支配する側とされる側があるとしても、現在社会の理念では相互互換性があるので、例えば米国人の中には大統領や大統領側近や官僚も野党党首・党員も無関心な一般人も皆米国人です。
このように多様な分類可能であっても、それを統合する命名が米国人と言い日本人と言うのでしょう。
ただし、歴史的に日本人、韓国人、ドイツ人、フランスという用語には、人種名称とダブる利用が強かったので、いわゆる合衆国である米国人というだけでは人種特定に不向きなのでワザワザ何系米国人という紹介が今でも多い所以でしょう。
明治維新は、そもそも開国圧力とその反作用の攘夷論によって幕末騒乱の幕を開けた結果ですので、おのずから外国人の居留が進みます。
数日前に紹介した生麦事件は、英国政府関係者の被害ではなく横浜在住の商人かな?が川崎大師観光のために繰り出した女性を含む一行でした。
どこかで読んだ記憶ではこの当時外国人は2万人前後だったようですが、4〜5千万人口のうちわずか1〜2万でもそれまでのなんとなくの常識に基づく統治と違い、画一的法を制定するとなるとまず法適用の対象を決めることが先決問題になります。
そこで憲法以前に制定作業が進んでいた旧刑法や民法の草案作りで法の対象として外国人と日本人区別が必須になってきたと思われます。
13年成立、15年施行の旧刑法で国民という単語が使用されるようになっていたことを紹介しましたが、一回も施行されずに終わったいわゆるボワソナード民法内には人事編として日本人になる要件が記載されていたようです。
ただし同法では、国籍という単語ではなく日本人としての「分限」が決まるというな文言だったようで・・内容的には明治31〜2年の旧国籍法とほぼ同様に、男系出生と帰化の二本立ての基本要件は同じですが、・・まだ国籍という文言ができていなかったようです。
江戸時代の知行状を見ると加増土地の特定が「〇〇の庄の宮前何反歩」程度の特定に過ぎなかったことを紹介したことがありますが、明治に入っても人の把握も分限や分際が基本用語で明治憲法制定後付属法令・・不動産登記制度や戸籍関連制度の整備が進むにつれて、宮下、寺田、滝田、上田、橋本、橋爪とか川上等のアバウトな地名表示だけから地方制度整備により〇〇郡○村字何番地と細かく地番を付すように合理化が進んだことを明治の法整備シリーズで紹介してきました。
このように数字的表示の整備に合わせて人間の特定も住居地番特定と合わせて戸籍簿で管理できるようになってきたことにより、国内個々人は戸籍簿で管理し、外国人と日本人の区別は国籍法でけじめをつけたということになります。
ちなみにここ数年、長男長女次男等の区別表示が不要でないか等の動きが強まっているのも、記録進化の一環で今は両親名、生年月日の正確性が高くなった(適当な届け出だけでなく医師の出生証明添付など)も影響があるでしょう。
戸籍(当時家ごとの「籍」が整備されたので「戸籍」と言いますが)の整備が進むと国民が国家に登録されている籍=国家の籍があるかどうかで区分けする方がスッキリするので戸籍に対応するものとして国籍簿概念が登場して、明治31〜2年頃の現行民法制定施行と同時に「国籍法」が施行されて日本の姿を法的に整備する大枠が決まったように思われます。
家族関係の仕組み・家の制度は民法で決めるものですから(今も家族のあり方は民法所管です)民法が基本法で、戸籍法はそれを具体化する付属法ですが、国家所属者の登録は憲法から直接くるものですから、戸籍ではなく国籍として旧民法の分限ルールから切り離されて独立法になったものと思われます。
1800年代末頃には人種定義や民族定義では、外人との区別・厳密な特定不能というのが社会科学・特に法学分野で常識になっていたと思われ、結果的に国籍法ができて、日本国籍を有するものが日本人という定義(人種を正面にすえない定義)が生まれました。

旧国籍法
朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル国籍法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 睦仁
明治三十二年三月十五日
内閣総理大臣侯爵山縣有朋 内務大臣侯爵西郷従道
法律第六十六号
国籍法
第一条 子ハ出生ノ時其父カ日本人ナルトキハ之ヲ日本人トス其出生前ニ死亡シタル父カ死亡ノ時日本人ナリシトキ亦同シ
中略

いわゆる血統主義・これは現行国籍法もそのまま踏襲していますが、これによれば人種と同じようですが、帰化を認めざるを得なかったことから、他人種の日本人が存在することになり、国籍と人種とはほんのわずかですが一致しなくなりました。
こうして日本人の定義が決まりましたが、明治憲法下の日本人は皇族と臣民の2種類でした。
このような社会意識が定着してきて皇族以外の総称として日本国の民という「国民」概念が普及しはじめたように思われます。

人民〜臣民〜国民3(明治憲法〜日本国憲法)

12月21日の国民や人民の用語に戻ります。
日本国憲法制定時に明治憲法の「臣民」をそのまま残すのは国民主権と矛盾し不可能になったのでその代わりの表現をどうするかが、当然大議論になったと推測されます。
明治憲法草案論争時に人民を主張していた人たちにとっては臣民になってしまって言わば論争負け組にとっては、日本国憲法制定時に人民と表記すべく巻き返しのチャンスだったはずです。
現憲法はGHQによる事実上の強制・原案を示されたのは、周知の通りです。
日本語の「国民」をピープルに訳したかの順序次第ですが、もしも英語原文が先行していた場合原文のpeopleをどう翻訳するかが重要だったと思われます。
もしも日本国憲法の原文がマッカーサーに示されてそれを日本語化したものとすれば・・ゲチスバーグ演説を下敷きにしたpeopleが当時一般的に「人民」と翻訳されていた・後に紹介する日米和親条約第1条に日本語版には「その人民」」という文字がありますので、これが一般的翻訳だったのでしょう・・とすれば、これを憲法上も人民と表現すべきという主張があったと見るのが素直でしょう。
日本国憲法草案としてマッカーサーが示した原文は以下の通りであったと本日現在のゲテイスバーグ演説に関するウイキペデイアに出ています。

1946年、GHQ最高司令官として第二次世界大戦後の日本占領の指揮を執ったダグラス・マッカーサーは、GHQによる憲法草案前文に、このゲティスバーグ演説の有名な一節を織り込んだ。
Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people.
— GHQによる憲法草案前文。強調引用者。
この一文がそのまま和訳され、日本国憲法の前文の一部となった。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

日本側との交渉の結果、完成したのが以下現行法であり、その英訳です。
日本国憲法英文を見ると前文冒頭は以下の通りです。
http://www2.kobe-u.ac.jp/~akihos/en/grenoble_docs/07CONSJAP1946.pdf

THE CONSTITUTION OF JAPAN
We, the Japanese people, acting through our duly elected representatives in the National Diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity・・・.
Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people.

日本語の前文です。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、・・・憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

従来のピープルの翻訳や国内用語論争の経緯からすれば、人民と書くのが素直な結論のようですが、日本では古代から支配対被支配の根源的対立社会でないので、もしも明治の初めから人民と翻訳していたすればそれがそもそもの間違いだったのか?
・・私の拙い翻訳能力で言えば庶民〜領民が妥当か?不明ですが、・・憲法制定交渉のおおよその流れについては、このコラムで紹介したことがありますが、文言表現交渉の逐語的議事録まで読んだことがないので経緯不明ですが、結果から見ると日本側はピープルを人民と訳さず「国民」という用語に巻き返したように見えます。
とすると「人民による人民の・・」という明治以来の翻訳が間違いという主張をしたとすればその後の翻訳が「国民による国民のための・・」と変わる筈ですが、今に至るまで変わっていないようです。
私がゲティスバーグ演説の原文を読んだのは大学に入ってから・すなわち戦後約16〜7年経過頃ですが、その当時でも日本語訳は「人民の人民による・・・」というものだった記憶です。
高校大学にかけて漢詩や和歌、短歌その他気に入ったフレーズ丸暗記の年齢でしたので今も「人民の人民による〜」と口について出ます。
以来現在まで「国民の国民による・・」という翻訳を見たことがありません。
多分憶測ですが、「虐げられている段階では人民であるが、主権を握った後は虐げられている人民ではない」二項対立を脱却した以降は主権者であるから抵抗勢力ではあり得ないので、民主主義=民の主権国家になった以降の領民は、権力機構の一員でもあり、権力者の構成員でもあり、構成員として参画して決めた法に従う関係でもある・・総合的概念である「国の民」であるべきだというものだったのではないでしょうか?
続いて臣民概念について書いていきますが、「臣と民」の合体した上位概念として国民が考案採用されたのです。
明治憲法は、領民の中には、「臣と民」がいるという程の意味しか明記せずに、「臣と民」を合わせて何というかの総合概念としての国民概念をあえて採用しなかったようです。
人民にこだわるグループも総合概念ではなく、明治政府同様の「臣と民」の内、「民」の部分を政府転覆権=抵抗権を強調する立場ですし、明治憲法の臣民概念は、民にはそこまでの権利がないという言外の意味を込めたものだったのでしょう。
デモ等の行動を見ると民衆・大衆の行動というにふさわしく、「国民行動」というとなんとなく違和感を感じるのは私だけでしょうか?

国民2(旧刑法1)

ところで法律用語として登場する「国民」と「臣民」「人民」の関係を見てみると、明治憲法〜敗戦まで、我が国では、臣民という用語の他に自由民権運動で憲法制定運動が盛り上がる前の明治14年旧刑法で、すでに「国民」という熟語が出てきます。
ということは、その何年も前から国民という用語が議論対象になっていた(・・江戸時代までには、公卿〜士族や商人農民・・庶民を含めた総合概念)憲法制定運動当時には法律専門家の間では常識化していたことがわかります。
https://ja.wikisource.org/wiki/
刑法 (明治13年太政官布告第36号)

1880年
公布:明治13年7月17日
施行:明治15年1月1日(明治14年太政官布告第36号による)
廃止:明治41年10月1日(明治40年4月24日法律第45号刑法の施行による)
沿革(法令全書の注釈による)

第3節 附加刑處分
第31条 剥奪公權ハ左ノ權ヲ剥奪ス
一 國民ノ特權
二 官吏ト爲ルノ權
三 勲章年金位記貴號恩給ヲ有スルノ權
四 外國ノ勲章ヲ佩用スルノ權
五 兵籍ニ入ルノ權
六 裁判所ニ於テ證人ト爲ルノ權但單ニ事實ヲ陳述スルハ此限ニ在ラス
七 後見人ト爲ルノ權但親屬ノ許可ヲ得テ子孫ノ爲メニスルハ此限ニ在ラス
八 分散者ノ管財人ト爲リ又ハ會社及ヒ共有財産ヲ管理スルノ權
九 學校長及ヒ敎師學監ト爲ルノ權

上記の通り、旧刑法31条には国民の用語があります。
旧刑法とは現行刑法明治四十年刑法施行まであったものです。
この時点で既に「国民」という用語が採用されていたことに驚きますが、旧刑法制定の経緯を07/08/06「明治以降の刑事関係法の歴史6(旧刑法・治罪法1)(実体法と手続法)」前後で連載していますが、2006年7月8日のコラムを見直してみると、

「ボワソナードは、来日当初は自分で草案を作成せずに、気鋭の若手に講義する御雇い外国人そのものだったのです。
この講義を聴いた日本人が刑事関係法典の編纂事業に携わっていたのですが、うまく行かず、明治8年ころからボワソナード自身が草案作成に関与するようになったのです。
この作業は、フランス法を基礎としながらも、ベルギー、ポルトガル、イタリア各国の刑法案を参考にして編纂されたものでしたから、この刑法典は、ヨーロッパ刑法思想の最先端を集大成した法典化であるとも言われています。
この法典は約5年の歳月を経て結実し、明治13年(1880年)に太政官布告され、明治15年(1882)年施行されました。」

とあり、5年間も議論にかかったのは、ボワソナード民法が法典論争を引き起こしたように、何を刑事処罰し、刑事処罰しないか、且つ個々の刑罰をどの程度にするかは、他犯罪との比較が重要で民族価値観を敏感反映するものですから、国内価値観との調整などに時間をかける必要があったからでしょう。
例えば、古代から天皇家に対して弓をひくなど恐れ多くて許されないのは常識として武家諸法度その他法令が発達しても刑罰対象になるかの法定をしていませんでした。
例えば伊周の失脚の直接のキッカケは、(一般化されていますが、史実かどうか不明です)子供じみたことですが、女性問題で花山法皇の牛車に弓を射かけたというものでした。
朝廷に対する不敬罪を規定した御法度がなかったように徳川体制に刃向かう・謀反は当然許されない大前提でしたが、そういう常識的な御法度がなくて当然の社会でした。
これらも刑法で処罰関係が条文化されたものです。
もう一度旧刑法を見ておきます。

第2編 公益ニ關スル重罪輕罪
第1章 皇室ニ對スル罪
第116条 天皇三后皇太子ニ對シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス
第117条 天皇三后皇太子ニ對シ不敬ノ所爲アル者ハ三月以上五年以下ノ重禁錮ニ處シ二十圓以上二百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
2 皇陵ニ對シ不敬ノ所爲アル者亦同シ
第118条 皇族ニ對シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ處ス其危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期徒刑ニ處ス
第119条 皇族ニ對シ不敬ノ所爲アル者ハ二月以上四年以下ノ重禁錮ニ處シ十圓以上百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
第120条 此章ニ記載シタル罪ヲ犯シ輕罪ノ刑ニ處スル者ハ六月以上二年以下ノ監視ニ付ス
第2章 國事ニ關スル罪
第1節 内亂ニ關スル罪
以下略

人民〜国民1(私擬憲法)

「市民」を名乗るのは、トキの政府から距離を置く立ち位置を強調するには西洋文明由来なのでおしゃれな印象・・人民より語感印象が良い程度のことではないでしょうか?市民の対語かな?人民についてウイキペデイアで見ておき見ます。
何も知らないで余計なこと言うなと市民活動家に叱られそうですが、ま、いつも書いているようにこのコラムは、思いつきコラムで専門家の論文ではないので、間違いがあればご容赦ください。
ウイキペデイアで見た限りの付け焼き刃知識ですが、人民という熟語は中国古代からあり、共産主義者のオリジナル発明ではないようです。
人民に関するウイキペデイアによると以下の通りです。

文献上は戦国時代の『周礼』や『孟子』に既にみられる。『周礼』には、君主や群臣などの支配者と相対する被支配民としての「人民」の概念が述べられている。『孟子』の「盡心下」篇によると、孟子曰く、「諸侯の宝は3つある。土地・人民・政事である。珠玉(真珠や宝石)を宝とする者は、殃(わざわ)い必ず身に及ぶ。」(孟子曰、「諸侯之宝三。土地・人民・政事。宝珠玉者、殃必及身。」)
日本語の文献においては、古く8世紀の『古事記』、『日本書紀』の中に現れる。当時は、「おおみたから(大御宝)=天皇の宝」・「みたから」、「ひとくさ(人草)」という和訓が当てられていた。
「おおみたから」の訓をあてる語は、他に「黎元」や「庶民」もあり、「ひとくさ」は語義のまま青人草(あおひとくさ)と書く例がある。同じ意味で使われる言葉には、「衆人」「世人」「百姓」「諸人」「万民」などがある。「人民」は『古事記』に少なく、『日本書紀』と六国史において一般的な語であった[1]。
「人民」は特別な用語ではなく、君主の統治対象という以外の限定を付けない幅広い概念であった。たとえば「庶人」・「庶民」は無位か低い位階の人々を指し[2]、「平民」は奴婢・浮浪人・蝦夷を含めない身分的な概念だが[3]、「人民」にそのような線引きはない。また「人民」は、統治の良否や自然災害・事件の影響で富んだり悩まされたりする文脈で記され、「人民反乱」のような使用例は古代にない[4]。権利や行動の主体にはならず、もっぱら受け身の文脈で用いられた。

我が国でもこの流れで青人草や庶民等の和語になりこれが中世には土民となり、江戸時代には百姓となり、基本的に支配対象としての呼び名であって、時に土一揆、百姓一揆などの呼び名にもなっていきます。
政治の対象を表現する概念だった「人民」を政治主体者概念に一変させたのが、リンカーンのゲテスバーグ演説だったようです。
いわゆる「人民の人民による人民のための政治」(「government of the people, by the people, for the people」) です。
この演説が、人民をそれまで政治の対象でしかなかった人民を政治主体者と宣言したことになります。
これを受けた明治の自由民権運動期には、運動家の間では「人民」が流行し、憲法草案華やかなりし頃には、多くの私擬憲法では「人民」という用語を主張したようです。
例として植木枝盛の憲法草案の一部を見ておきます。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51592

自由民権運動の潮流から私草された憲法案には、基本的人権を認め、国民主権を明確に定めるものも少なくなかった。なかでも最も急進的だとされるのが、植木枝盛(えもり)の『東洋大日本国国憲法按』(1881年起草)である。
植木の憲法草案の先進性は、全220条中36か条におよぶ人権規定と、第72条に示された政府への抵抗権に表わされている。
第5条「日本ノ国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺減スル規則ヲ作リテ之ヲ行フヲ得ス」、第42条「日本人民ハ法律上ニ於テ平等トナス」、第49条「日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス」と人民の自由・平等を保障。
第72条には「政府恣(ほしいまま)ニ国憲ニ背キ 擅(ほしいまま)ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ 建国ノ旨趣ヲ妨クルトキハ 日本国民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得」と定めて、国民による革命の権利まで認めている

上記の通り民間の草案は今でも普通にありそうな(政府に気兼ねせずに考えればこうなるのが普通ということでしょうか?)人権重視草案でしたが、人民→政府転覆の権利まで突き進む点で政府の警戒を受けたらしく、すでに明治14年旧刑法で採用されていた「国民」用語も使わずに政府案は「臣民」という後戻り的発想の定義になってしまったようです。
明治憲法で「臣民」という用語が採用された後、人民用語は臣民という用語を不当とする反抗的ニュアンスで使用されたり反政府運動家愛用の特殊用語化し、なんとなく一般人が使いにくくなり、社会の片隅に追いやられていったようです。
現在用語法もこの延長上にあり、人民という響きになんとなく現行秩序否定したいイメージを感じるのはこうした歴史に由来するのかもしれません。
また私が育った戦後から昭和終わりころまで「我々人民は〜」と叫んでいた人たち自身も、現秩序に対する否定的感情をそのまま表す人が普通でした。
これが余計社会から孤立化を進めたので現在日本では「人民」を使う人が減ってしまった原因でしょう。

市民と人民〜地球市民?3(姉妹都市?)

地球市民というフレーズの広がりと軌を一にしているのか不明ですが、メデイアの主導に従うのか?近年多くの市で国家の枠を超えて国外の市との姉妹・友好協定を結んで市民交流事業を推進しています。
外交は国家の専権事項ですが、事実上政府外交権を空洞化したい思惑があるのでしょうか?
千葉市の姉妹都市に関する説明の例です。
https://www.city.chiba.jp/somu/shichokoshitsu/kokusai/sistercity-index.html

姉妹都市のおこりは、第2次世界大戦後、再び戦争を起こさないために国際関係はもとより、市民の相互理解と友情を深めることを目的として始まりました。
日本で最初の姉妹都市提携は、1955年に長崎市とアメリカ合衆国ミネソタ州セントポール市との間で行われました。現在では、多くの自治体が世界各国の都市と姉妹都市提携をして、市民間の交流を中心に経済、文化、スポーツなど、多くの分野で交流が行われています。

交流さえすれば戦争が起きにくいのであれば、国家間文化交流等を広げても同じ筈ですが、国を飛ばして市が行うとどういう効能があるのでしょうか?
企業や個々人が外国人とどういう関係を日々持つか・・海外に行くと一人一人が日の丸を背負っている感じで日本全体が悪印象を持たれないように気をつけるものですが、それとわざわざ市長や市議会議長などが相互訪問してパーテイなどやることとどういう違いがあるか?です。
国家間の場合、輸入規制の緩和要請や投資保護や在留日本人保護(現地旅行者等への情報提供などの日常業務)その他日々外交ルートを通じて懸案解決に努力していますし、あらゆる国との関係で複雑に絡み合った貿易上の条件交渉や事務方レベルの協議や合意が行われ、これに基づく処理が日々発生しています。
・・事務方任せでは解決困難な政治決着の必要な案件では首脳会談で解決する必要があるのですが、市町村が直接国外の自治体と取引条件の基礎になる相手国の法令変更等について交渉したりする場面は皆無に近い・・まして市長や県知事の権限が違うのでやれる次元が違います。
国内隣接自治体間でも自治体トップ会談で懸案解決に迫られるテーマはあまりないでしょうし、国外の自治体間でトップ会談で何かを決めなければならないような懸案事項はほぼ皆無でしょう。
舛添前都知事が交流と称して諸外国都市訪問してメチャ高いホテルに泊まっていたのだったか?ファーストクラスの飛行機代がめちゃ高かったなどがメデイアで問題化して辞任に追い込まれた記憶(うろ覚えで記憶違いがあるかも?)ですが、こういう相互訪問的自治体間交流に何の意味があるのか実は不明です。
ネット検索すると以下の通りでした。
https://www.sankei.com/politics/news/160620/plt1606200033-n1.html
2016.6.20 18:12

【舛添氏公私混同疑惑】
海外出張9回7カ国訪問 舛添氏、経費2億5千万円
舛添氏は9回の出張で英国や米国、韓国など7カ国を訪問。ファーストクラス、スイートルーム使用で批判を集めた舛添氏の航空運賃は9回で計約1230万円、宿泊費は計約340万円だった。
米国出張は4月12~18日で、随行職員は15人。往復にはファーストクラスを利用。ワシントンでは1泊15万円超、ニューヨークでは約14万円のホテルに泊まった。

直接費用だけでなく、これら準備コスト(随行職員の出張手当や日程調整等の人件費)も膨大でしょう。
千葉市の場合7都市との交流らしいです。
千葉市のことではないですが、韓国や中国と何かある都度、「今は実行できる雰囲気でないので・・」というような理由で交流予定事業中止・ドタキャン報道が目立ちましたが・・。
こういう報道の受け止め方はいろいろですが、反日運動では効き目が低いので?お前の国が悪いからこうなる!という見せしめ的なドタキャンが中国の反日暴動時には目立ちました。
韓国の場合も交流事業中止が続きましたが、ボイコット対象追加措置を受けた印象を受ける・こんなことまで中止(テイの良いボイコット)を求めてくるのか!と腹の立つ人もいるでしょう。
慰安婦像設置したアメリカ・グレンデール市に対しての友好・姉妹関係にある大阪市が抗議しても返事もないなどから友好・姉妹土地関係を解消したとニュースで見た記憶ですが、日頃の交流ってなんのためだったの?となりませんか?
日韓関係で言えば、在日の数が多いのに比例して個人的に交流が多いことが、日韓関係をよくしているのか?
の実証研究が必要です。
韓国は日常日本への観光客が多かったことが、あるいは日本製品愛好者が多いので友好関係を深めていたように見えてイザ国家間対立が起きると逆に日本製品ボイコット運動等の報復材料に使う・輪番制の総合訪問の首脳会談や各種団体の交流その他すべてドタキャンするなど・・日本は在日いじめをする・・相互に見せしめ的報復合戦になると、人間関係が入り組んでいる分、関係悪化・感情的対立を深める要因になりそうな印象です。
第二次世界大戦の場合で見ると、米国で日系人というだけで米国籍があるのに収容所へ入れられてしまいました。自由を奪われただけでなくせっかく軌道に乗っていた事業活動が全て倒産です。
米国の人口構成で言えば、南北戦争以来ドイツ系が主流と言えるほどの人口を擁し、支配勢力を構築していましたが第一次第二次両大戦で米国はドイツを敵にして戦いました。
過去現在の実態を見ると、いざという時に何の役に立たないばかりか、逆に報復連鎖を誘導して足りる激化材料を付け加えるためにあるようなものです。
個々人の生き方で言えば気候の挨拶以上深入りしないのが生きる知恵・・これが社会のコンセンサスです。
遠隔地の南米やアフリカ等と貿易上の不都合が起きても、その問題に限定した合理的交渉だけであってその国に対する感情論までわきおこりません。
ヘイトスピーチ禁止などが必要になること自体異民族混在が進むマイナス問題を表しています。
こういう関係がない方が良いのではないでしょうか?