民主国家と人民論の矛盾3

一知半解というか青い主張に対する社会の支持が広がらない結果、唯我独占傾向が進むといよいよ社会の理解を得られなくなって孤立化する一方→唯我独尊的特殊集団になり、暴発集団化します。
共産党は視野狭窄.偏執狂に陥らないように自己抑制している様子ですが、そうすると弾き飛ばされる跳ねっ返りが行き場をなくします。
左翼からも阻害された超原理主義者の集団化は、精神病者の集団化現象に似ているともいえるでしょうか?
日本では連合赤軍・・浅間山荘事件やオーム真理教事件などがそれに当たる・・国際的に見ればいわゆるテロ組織でしょうか?
以上の次第で人民という用語が廃れるわけですし、現在民主国家における実力行使正当化論は時代遅れであり、アウトローの集まりでしかないというべきでしょう。
専制支配国家→正義に基づかない規制や処罰=恣意的処罰・権力行使が許される社会では、正義の裏付けのない強制となりますのでこれに抵抗するのが正義の実現行為である場合もあるでしょうが、民主主義のルールに従って制定された法秩序を自分や一定の党派が気に入らないからといって抵抗権があると主張してこれを実力行使で秩序破壊するのを許すならば、民主主義社会が成り立たない・裸の実力闘争社会になります。
民主主義社会においての人民論は、民意による政治に従わない→民主主義社会を否定する主張となります。
抵抗権行使によって実力闘争に勝ち抜けば支配者になり政府権力に抵抗すべき人民ではなくなるのですから、中国や北朝鮮政府が朝鮮民主主義人民共和国、中華人民共和国と名乗り人民解放軍、人民日報、人民銀行・人民元などというのは言語矛盾です。
政府は人民の代表だから、人民は政府に従うべきという意味でしょうか?
国内武力闘争に勝ち抜いた以外に、人民の代表という根拠が不明です。
内乱・反乱軍が政府転覆に成功して政権樹立後も反乱軍とか反乱政府と自称しているようなものです。
実際には、人民は権力闘争に庶民が利用されて捨て駒に使われるだけですので、政権獲得後、邪魔者扱いで反乱軍として弾圧される側に回ります。
いわゆる草莽崛起の末路です。
人民用語が一般化されていない江戸時代には草莽と呼ばれていたのですが、草莽に関するウイキペデイアの説明です。

幕藩体制が動揺をきたした18世紀後半以後、在野もしくはそれに準じた豪農・知識人層(江戸幕府に対して直接意見を進言できるルートのない人々)の中に、自らを「草莽」になぞらえ政治的主張をする者が出現した。それが19世紀に入ると尊王論や攘夷論と結びつき活発化する。
黒船来航など西洋からの圧力が大きくなった1850年代に入ると、吉田松陰らによって「草莽崛起」論が唱えられた。吉田らは武士以外の人々、すなわち豪農・豪商・郷士などの階層、そして武士としての社会的身分を捨てた脱藩浪士を「草莽」と称し、彼らが身分を越えて、国家を論じて変革に寄与して行くべきであると主張した。
これを受けて、1860年代にはこうした草莽が尊王攘夷運動や討幕運動に参加していくことになる(奇兵隊・天誅組・生野組・真忠組・花山院隊・赤報隊など)。しかし、攘夷という方便に利用されただけであったことに気づかなかった大多数の人々は、討幕がなると、討幕とは逆の「開国和親」というスローガンをかかげた政府によって手のひらを返され、反乱を起こすもののトカゲの尻尾切りよろしく大量に打ち捨て殺された(士族の反乱、奇兵隊の末路など)。結果的に、明治政府へ組み込まれた者は頭がよく使えるごく一部であり、大半は政治的敗者として姿を消すことになった

人民・・当時の用語でいう草莽に関するウイキペデイアの解説は、〇〇チルドレンや付和雷同型の本質がよく出ている印象です。
小池都知事の都民ファーストに共鳴して参集した多くのチルドレンが、当選してみると話が違うと不満を持つのと同じです。
すぐに運営方法に対する不満で都民ファーストを脱退したか?批判意見を展開していた都議がいた記憶です。
反NHKで昨年総選挙時に参加して東京都区議に当選したばかりのユーチューバーが、運営に不満で?離党したようですが、末端ほど純粋ですので実際に運営が始まると齟齬が生じます。
庶民は権力闘争に利用されるだけで権力闘争が終われば、ご用済みになってきたのが中国歴代王朝交代時に大動乱の結果でした。
「王候相なんぞ種アランや!」というスローガンを掲げていた育ちの悪さが売り物であった?漢の高祖であれ、朱元璋であれ、天下を取るまで付和雷同して付き従った多くの武将を粛清していきます。
武将の場合范蠡の有名な言葉・・・「飛鳥尽きて 良弓蔵れ 狡兎死して 走狗烹らる。」で表現される実態で誰もが知っている現実ですが、雑兵等に関しては、誰も気にしませんが、平和が来ると真っ先に無用になります。
秀吉の天下統一以来、武功を挙げた功臣・武将の出番がなくなった不満から家康についた豊臣恩顧の大名らは、徳川政権確立後次々と粛清・戦国大名の取りつぶしが行われたのも同じです。
徳川家だって政権を握ってみれば、無駄な兵力がいらない点は同じです。
社会のあり方を見通す眼力もないのに、ただ日頃の不満のはけ口として?煽りに乗る時局便乗・付和雷同型の人材は政府転覆に成功すれば、今度は邪魔者になる運命です。
新政府構築・・真っ先に必要な政治は治安回復です・・小難しい細かな法の縛りを破って奔放に暴れ回る人材は真っ先に標的になります・・に向けて役に立つ能力がない大多数は結局弾圧される方に回る仕組みです。
漢の高祖は庶民出身で最もバカにしていた儒教の礼式を彼が天下を取って真っ先に採用したと言われています。
権力を握ればルールに従わせる必要が生じるので、ルールになじまない彼らが真っ先に邪魔になる運命です。
社会のあり方を見通す眼力もないのに、煽りに乗る時局便乗・付和雷同して政府転覆に成功しても、新政府で役に立つ人以外の大多数は結局弾圧される方に回る仕組みです。
人民が人民(思慮不足)のまま権力を握れることはありえないのが現実でしょう。

民主国家と人民論の矛盾2

人によっては俺は生まれ付きの人民だという人もいるでしょうが、それは国民主権国家においては主観的思い込みであって、ありえない論法です。
日本で生活しながらこういう考えに凝り固まっている人たちは、現実社会のあり方を見ずに旧ソ連や北朝鮮、中共政府支配下の社会を前提に、悲惨な人民状態を日本現実社会と同視して政府の抑圧から人民開放をする必要があるという主張をしている矛盾がありそうです。
人道主義を標榜するならば一党独裁という現代的専制支配に苦しむ人民解放するために中国や北朝鮮人民のために運動するのが普通ですが、左翼系は文化大革命賛美に始まり中国政府等の厳しい言論弾圧や環境破壊を批判するのを寡聞にして聞いたことがありません。
これを日本政府否定に結びつけようとしているので(論理の倒錯が激しすぎて)訳が分かりにくくなるようです。
韓国の決まり文句「歴史を知らないものは・・」式の慰安婦・教科書その他批判は、自分の非(歴史無視の主張)を日本の非と置き換えているので、論理の無茶加減で国民が驚いて辟易します。
このような論理の倒錯は一瞬相手をたじろがす戦法・・「鬼面人を驚かす」論法と同じ戦法でしかなく、短時間しか効果を持ちません。
中国や北朝鮮のように、国民の声など問題にしないと公言する一党独裁体制の場合独裁機関幹部以外は皆人民でしょうが、民意による政治を行い民意の支持を失えば権力を失う仕組みになっている社会では、民意によって出来上がった法を民意による法改正でなく暴力で無力化する行動を正当化する余地がありません。
思想表現の自由がある社会で自分の主張がほとんど支持されないのを相手が悪い、国民レベルが低いから、言論によるよりは暴力革命が正しい式の論法では民主主義社会が成り立ちません。
政治は無数とも言える不確定要素の複合で成り立っているので、戦車一台戦闘機1機の費用で〇〇が出来る式の単純論理・・学校で習った程度の勉強成果を主張する程度では、大方の国民が納得する筈がないので支持されないと自己の不足を反省するのではなく、国民レベルが低いのだと開き直る方向に行くと大変です。
彼らの暴力革命が仮に成功すると、(本当は自分らの思考が硬直的すぎて無数にある変化係数を理解できないだけですが)人民は蒙昧だから政府が指導する・・1党独裁が正当化され、この完徹のための情報統制に走る宿命です。
中国が今回のコロナ型肺炎蔓延初期に「普通の肺炎ではないのじゃないか?と言う医師間のネット情報交換さえ禁止して彼らを犯罪者扱いで拘禁したのがその好例です。
政権獲得成功しない多くの国では、生き方に柔軟性のない者の集団が出来上がり、仲間内での傷の舐め合い現象が起こり、自分らの主張を理解しない庶民大衆の頭が悪い→議論では無理だから革命あるいはテロしかない!的発想に落ち込み謙虚な姿勢がなくなります。
これが戦後共産党の武力革命論だったように理解していますが、独りよがりが支持されず急速に国民大衆の支持がなくなりました。
警察庁かな?の意見は以下の通りです。
https://www.npa.go.jp/archive/keibi/syouten/syouten269/sec02/sec02_01.htm
警備警察50年  現行警察法施行50周年記念特集号
第2章 警備情勢の推移
1 暴力革命の方針を堅持する日本共産党

暴力的破壊活動展開(昭和20年代)

1 占領下での勢力拡大

第二次世界大戦終了後、公然活動を開始した日本共産党は、敗戦直後の国民生活の窮乏と社会不安を背景に党勢の拡大に努め、昭和24年1月の衆院選では35議席を獲得し、10数万人の党員を擁するようになりました。
2 「51年綱領」に基づく暴力的破壊活動を展開

日本共産党は、同党の革命路線についてコミンフォルムから批判を受け、昭和26年10月の第5回全国協議会において、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とする「51年綱領」と、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」を決定しました。
そして、この方針に基づいて、20年代後半に、全国的に騒擾事件や警察に対する襲撃事件等の暴力的破壊活動を繰り広げました。しかし、こうした武装闘争は、国民から非難されるところとなり、27年10月の衆院選では、党候補は全員落選しました。

51年綱領廃止と現綱領
1 略
2 現綱領の採択
・・昭和36年7月、第8回党大会が開催されました。そして、同大会で「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義とそれに従属的に同盟している日本の独占資本である」とする現状規定や、民主主義革命から引き続き社会主義革命に至るという「二段階革命」方式等を規定した現綱領を採択しました。
・・・両党大会や綱領論争の過程における党中央を代表して行われた様々な報告の中で、革命が「平和的となるか非平和的となるかは結局敵の出方による」とするいわゆる「敵の出方」論による暴力革命の方針が示されました。

日本共産党の現状
1 略
2 規約、綱領の改定
・・16年1月の第23回党大会で、昭和36年7月の第8回党大会で採択して以来5回目となる綱領改定を行いました。
改定の結果、マルクス・レーニン主義特有の用語や国民が警戒心を抱きそうな表現を削除、変更するなど、「革命」色を薄めソフトイメージを強調したものとなりました。しかし、二段階革命論、統一戦線戦術といった現綱領の基本路線に変更はなく、不破議長も、改定案提案時、「綱領の基本路線は、42年間の政治的実践によって試されずみ」として、路線の正しさを強調しました。
このことは、現綱領が討議され採択された第7回党大会から第8回党大会までの間に、党中央を代表して報告された「敵の出方」論に立つ同党の革命方針に変更がないことを示すものであり、警察としては、引き続き日本共産党の動向に重大な関心を払っています。

政府による共産党の戦後史を見てきましたが、私の体験では暴力革命論挫折後「自分たちが前衛であり蒙昧な労働者に権利要求権の自覚を植え付ける使命がある」とする姿勢が顕著でした。
平成初めころのことですが、いわゆるブル弁希望の司法修習生に労働系事務所の実習を経験させた方が良いと思って私の同期の労働系法律事務所に2〜3日実習を勧めて会内留学に出したことがあります。
その後報告を聞いたところ、ある日夜労組の集会に出かけていわゆるオルグをする状態を見学できたという報告を聞機、良い経験ができたね!と答えました。
最近日弁連や単位会で推進している法教育活動がいつからどういう経緯で始まったかよく分かりませんが、教育内容を見る限り従来のオルグ活動が難しくなった変形版ではなく推進している担当者も(私の知る限りですが・・)思想的偏りがなさそうですのでお間違いのないように。

民主国家と人民論の矛盾1

2月7日の公務員と労働法の続きですが、労使であれ夫婦(離婚騒動)であれ親子(意見相違)であれ兄弟(相続争い)であれ、上司と部下(パワハラ)であれ全て内部関係は対立をはらんでいます。
なぜ公務員に労働法規が不要か?別立てにする必要があるかの実質的説明が欲しいものです。
国民は全て同胞といっても、国民同士でも敵味方があり相争うことが多いから国民同士の争いを裁くシステムが発達してきたし、ルールが整備されてきたのです。
消費者を王様と持ち上げていても代金不払いや万引きがあれば、敵対関係になります。

憲法
第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

公務員と国民一般は原則として対立する機能を持っていませんし、逆に全体の奉仕者です。
ただし王様であるはずの顧客でもクレーマーや万引きに対しては、販売員が厳正対処する必要があるように国民全体に対するルール違反者=犯罪に対して公僕が国民を代表してルール違反者を検挙するなどの利害対立が生じますが、この場合はあくまで例外関係です。
民主国家においての公権力とは、国民の福利を守るために行使されるべく存在するものです。
警察権力は国内の国民間の利害対立を話し合いを経て最終的には裁判でケリをつけて、それでも守らない人に対して強制力を行使して実現するためにあります。
外国人の違法行為も個人実行場合には警察対応で間に合いますが、外国政府行為として集団で行われる場合には、警察には対応できないので軍の出動となります。
軍と警察の役割分担は、日常的個々人の違法行為・・原則凶器を保持していても小規模な場合を対象とし、警察が日常的に所持する拳銃程度では対応不能な大規模武装集団を相手にする時に国内でも軍隊の出動となるように大まかな分類ができます。
個人生活で言えば、軽トラや軽乗用車、普通車等に使い分け、引越しになると業者に頼むような感覚でしょうか。
歴史的に見れば、警察活動と軍事活動の未分化状態から、軍事と警察の分化が江戸時代に発達し、一種の軍事基地である大名屋敷自体が盗賊等の被害防止や検挙を町奉行所に頼り、付け届けする関係になっていたことをだいぶ前に紹介したことがあります。
いずれも国民福利を守るためにあるものですから、無政府主義とかその焼き直しの公権力と距離を置くという主張は現秩序維持による日常恩恵を享受しながら、その負担を否定する自分勝手な意見です。
公務員であろうと政府機関の中枢であろうと国内で法を破れば、一般国民同様に法の適用を受けます。
国民と公務員は、公職についたり退職によって時に入れ変わることを前提にしているので、原則として入れ替わることを予定していない身分ではありません。
しかし、人民と政府とは、相容れない恒常的対立関係概念を予定しています。
人民概念は人民と政府権力・支配層が原則的に対立関係にあることを前提にしていますので試験や選挙等で被支配者が支配者と入れ替わることを予定していない対立概念です。
明治憲法制定者の真意は、権力の手足である官だけでなくもっと遠い関係にある民を含めて臣民一丸となって迫り来る欧米諸国に対抗すべきという含意だったのでしょうか?
臣民とは臣と民があるという意味ではなく、臣民一体化の強調の趣旨だったとすれば合目的的ですし実際に成功していたように見えます。
今でも大災害がある都度同胞意識・絆意識の再生産が行われますし、明治憲法の前文にもこの趣旨がにじみ出ています。
明治憲法前文

朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ・・・・。

「朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ」といわゆる大御心を「朕カ親愛スル」と表現し「祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民」と先祖代々大事にしてきたよ!という書き出しです。
平成天皇の被災地訪問の繰り返しは、まさに恵撫の実践でした。
国民全てが天皇の恵撫に感動して臣民一丸になれば、臣民以外の刃向かうべき人民はいないはず→明治憲法の臣民論は人民論を根こそぎ抹殺する含意だったことになるのでしょうか?
人民と官とは同じ国民であっても特定の機能側面に限定した概念です。
ある人が生産活動や販売に従事する場面では生産等の供給側ですが、自己の生産品や販売活動以外のその他大多数商品やサービスに対しては消費者であるように消費者概念はその時々における側面の分類です。
例えば反乱軍や反政府デモ隊員もこれの警備出動した政府軍兵士や警備中の機動隊員も、国民か否かのレベルでは双方とも国民です。
特に一般デモ行動は、政権支持者のデモもあるし、いろんな目的(同性愛の婚姻合法化、LGPTなど)のデモ行進があります。
警官が非番の日に何かのデモに参加すること自体は自由なはずですが、特定政党支持を明らかにするのは全体の奉仕者としての信用に関わるので(事実上かな)ダメとされているようです。
特定政党支持ではなく、保育所をもっと増やしましょうとか、わが町に美術館を!というようなデモに参加してはいけないとは思えませんが・・。
支配されていた国民が抵抗権行使する場合だけを人民と言うとすれば、日常的に国民性を否定するものではなさそうです。
国民か外国人かの定義のレベルではなく次の小分類・国民内のサラリーマンか経営者か、大企業従業員か中小企業従業員か、ある人がある時は消費者であり、ある時は供給者側の人間であるなど、その時々の行動によって立場の変わるレベルの分類でしょう。

臣民と人民の違い3(名目上の天皇大権)

明治政府(薩長土肥の政権)は倒幕の大義名分として尊王を掲げて成立した経緯上、表面上天皇大権というだけのことで実質は実務を行う内閣の決めたことを儀式挙行する役者でしかない・これを考究して戦前の憲法学では天皇は政府の機関に過ぎないという天皇機関説が通説になっていました。
天皇機関説についてはOctober 31, 2018「明治憲法下の天皇制・・天皇機関説」シリーズで紹介しましたのでご覧ください。
天皇機関説が事件になった本質は、
「学問の世界で何を言ってても勝手だがこれがマスコミで流布されるようになると放置できない」
表向きの王政復古と違う・天皇大権を担いでいるにすぎない「明治政権の本質」を右翼やマスコミが騒いだことにあるでしょう。
天皇はお飾りにすぎない・・あまり本当のことを言われるといわゆる「ミもフタもない」という暗黙知で納得していく日本社会の流儀に反するということでしょう。
右翼とマスコミが騒ぎ、当時の野党・政友会だったかが取り上げて政局にしたので、「そんなことはどうでも良いじゃないか!と権力側で放っておけなくなった事件です。
卑近な私の例で言えば、高齢化の結果?間違うといけないので事務所の若手弁護士にいつも「これでいいか?」と聞きながら仕事しているのですが、それでも、私の方が先生と言われるのが普通です。
子供らにパソコンの扱いで聞くことが多いのですが、それでも子供らは目上の人として遇してくれますし、普通の人より「ものわかりが悪く」なっているので出かけた先のあちこちで色々聞きますが、高齢者をバカにしないで懇切に教えてくれます。
こういう時にバカはバカと言っていいのだと「何でこんなこともわからないのだ」バカにした態度を誰もとりません。
知っていてもあからさまな態度を取らないのが大人の知恵です。
ゲチスバーグ演説のピープルを人民と翻訳していたからと言って、日本のように同胞意識の強固な民族では実質的にも名目上も民が主権者になった後は臣民でないばかりか、人民でもないので、国民と言うのが実態に合っているのではないでしょうか?
欧米は基本的に階級社会ですので、人民の人民による人民のための・・という演説は耳あたりの良いスローガンにすぎないので、今も人民は人民のままで取り残され本当の主権者に成り切っていないので格差社会が進むばかりです。
中国などでは共産党が政権を握った後、現在に至っても立場の互換性のある社会になっていないので、民を表す単語を必要としていないのでしょうか?
元人民である共産党が政権を取っても、今度は自分らが支配者の階級に居座り共産党員以外の人民に対して国家運営権を引き渡さないままですから、草莽から立ち上がり古代に漢帝国を起こした劉邦や同じく庶民から出て明帝国を建国した朱元璋ら庶民出身者が庶民に主権を引き渡さずに前王朝同様の地位についたのと同じです。
「王侯相なんぞ種あらんや!」と言うのが、秦朝滅亡時の大混乱時の大標語で、結果的に漢楚攻防(項羽と劉邦)で知られる最終決戦を制したのは項羽より家柄では庶民出身の劉邦でした。
明の朱元璋も貧農の子に生まれついに天下統一して明朝の太祖になっているし日本の秀吉も草莽の出身ですが、庶民に主権を引き渡さなかった点では似たようなものです。
古代から庶民の出で天下統一に掛け上がる人は一定数いるのですが、それをもって人民主権や国民主権を実現したとは言いません。
中国の共産党政権も政権を握るまでは庶民出身者グループですが、政権を握ると人民に政権を解放しないでそのグループ・共産党独裁で回していく・絶対王政時代との違いは個人が世襲していかないという点だけです。
北朝鮮に至っては将軍様の世襲になってすでに3代目ですから古代王朝交替となんの違いもありません。
こういう国ではまだ人民主権どころの次元ではないのです。
日本の場合は皇族と民とは交代する余地がないことが古代から現在も同じですが、その代わりに天皇家が政権を実際に握る親政体制は昨日見たように1200年の藤原氏の摂関政治開始から崩壊し、日米戦で敗戦で名目上も明治体制に終わりを告げたので(象徴的)一君万民思想そのままで国民主権国家・社会が実現したことになります。
これが定着したのは、天皇家の実質が約一千年以上に亘って実質的主権者でなかったのに、明治維新時に薩長が政権奪取の名分として天皇家の権威を利用していたことによるもので、天皇大権とは名ばかりで利用されていた(天皇機関説が法学会の常識であった)天皇が実質権力を行使することがなかったので、現憲法は名目と実質を合わせた・・実態に戻しただけのことだからです。
戦後も象徴的な「一君」が残っているものの、統治権のない国事行為をするだけの象徴天皇制化=儀式担当の技芸専門化?によって、主権は元の人民→衣替した国民にあることになったのです。
儀式には雅楽がつきものですが、雅楽とこれに従って舞踊する伎芸員がいますが、天皇家はその役者になった・・歌舞伎で言えばその主役・・団十郎の世襲制みたいでその家柄に生まれたことで歌舞伎役者の子が幼い時から芸を仕込まれるのと同じです。
庶民向けの芸能主役では格落ちが過ぎるとすれば、能の仕舞い演者に擬すれば相応でしょうか?
能に凝っていた綱吉が、自分自身仕舞いを演じて側近に見せていたので、仕舞いであれば貴人が演じてもそれほど違和感がありません。
そういえば格式の高い会議・・大阪でのG7サミットのアトラクションとして、能狂言が行われたのは、このあたりにあるのでしょうか?
欧米の「法の下の平等」とは、「神の前の平等」と習いますが、日本では天皇神格化あるいは別格化・・国民とは言わないのは、この面でも共通しています。
このコラムはじめ頃に皇族は国籍法に言う国「民」ではないことを紹介したことがありますが、国民の間では法の下の平等が貫徹しているのに民法(例えば婚姻の自由も職業選択の自由もないし戸籍制度の適用も無い)その他の国法の適用・原則として憲法中の基本的人権の適用がない点を矛盾という人もいますが、皇族は国「民」でない以上当たり前のことです。
(皇族は民法によらず、皇室典範で婚姻や祭祀承継〜職業選択権も別に決めています)

皇室典範
昭和二十二年法律第三号
皇室典範
第一章 皇位継承
第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。
第二条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。
第九条 天皇及び皇族は、養子をすることができない。
第十条 立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する。
第二十六条 天皇及び皇族の身分に関する事項は、これを皇統譜に登録する。

臣民と人民の違い2

臣民概念では、民から臣になる人もいるし臣が退官して民に戻る人もいます。
今で言えば官僚になる前は民ですし、官僚が退官するとまた民に戻ります。
これに対して人民という単語は、社会構成のなかで支配されている人々のことで、上記臣民で言えば「民」にあたる人を言うのですが、上記のような相互交流の余地がない階級区別を前提にしている観念です。
支配される存在だから人民というのであって、リンカーンのゲチスバーグ演説は支配者と被支配者の地位が交換される余地がなく支配されっぱなしだった人民・・・この仕組みが一般的だった時代に、リンカーンが

これまで支配されるだけのものと考えられてきた人民が政治も今後政治の主人公になれるしそうなるべき

という趣旨で演説したので、多くの期待を集めて歴史に残る名演説になったのでしょう。
これを一言で表現する熟語として人民主権.国民主権という標語が行き渡ったのですが、男女平等とか標語さえ唱えれば男女平等になるわけでないのが現実です。
個々人でいえば、東大合格とか甲子園優勝とかの標語を自室の壁に貼り付けてもその通りになるとは限りません。
多くはその実現が難しいからこその標語であることが多いのです。
ところで、企業が「工場労働者誰もが社長になる資格がある」と標語を工場に掲げて、幸いその通りに現場労働者から社長になった場合、その人はもはや労働者ではありません。
人民が現実に主権者になって支配されるばかりではなくなったのであれば「人民」という単語は今や過去の表現になっていることになります。
人民が主権者になったらもはや人民ではないので(青虫が羽化すれば青虫と言わないと同様)それに変わる新たな用語が必要なのに欧米ではまだそれが理念に止まり実現できていないので実現したのちの表現が生まれていないのでしょう。
日本の場合、朝廷は儀式等を主催する権威が残っていたものの藤原良房が自分の娘所生の道康親王を皇太子にするために恒貞皇太子の廃太子に成功した承和の変(842年)から良房を継いだ藤原基康による阿衡の紛議(887〜888年)・・これは即位した宇多天皇が前天皇の摂政であった基康に対して就任と同時に関白に任ずる詔勅を発したところその文言が気に入らないと職務放棄して朝廷を困らせたという(前代未聞)文字通りの紛議(今でいうサボタージュ)でした。
百官は藤原氏の権勢に恐れをなして、皆朝廷に参内できない状態だったのかな?
詔勅起案した官僚に責任を取らせるなど、権勢を見せつけたうえで事態収拾になったのですが、これによって天皇は藤原氏の言うがままにするしかない権勢を百官に広く見せつけたと言われます。
なんとなく始皇帝後を継いだ2代皇帝胡亥に対して、趙高が皇帝に優先する自己の権勢を誇示するために?あるいは自己に従わない高官をあぶり出すために、皇帝の眼前に鹿を引き出して、皇帝に向かって「珍しい馬を献上する・・」 といったので、皇帝が「鹿でないのか?」と聞き返すと趙高が「いやあれは馬です。そうだな!」と居並ぶ群臣に同意を求めて皇帝に恥をかかせるとともに、誰が自分の意見に反対するかをテストした故事・・バカの語源の一つの説として知られていますが・・。
皇帝の意見を支持した高官はその後全員処刑されたと言われます。
権勢を誇った君側の奸の代表として平家物語冒頭に出てくる第一人者ですから、尾ひれがつくのが普通・「この人ならこの程度のことをやりかねない」というのが事実に昇格している可能性の方が高いですが・・.
方広寺に秀頼が奉納した鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」に家康が難癖つけたのは、家康(金地院崇伝?)の発案でなくこの阿衡の紛議の故事に倣ったのでしょうか?
家康の場合、文字を分割してのこじつけですので、文字通りの難癖ですが、阿衡事件は古典の解釈論争によるので一応平安貴族らしい高度なテクニックを利用したものです。
日本での天皇家は君主と言っても、上記の通り800年代末から始まった摂関政治から保元平治の乱を経て武家政権に移っていき政治主導権を完全に失ってからでも800年以上経過しているので、天皇家だけ権力を握る仕組みが摂関家に移り、武家政権になると政権を握れるのが公卿(朝臣)だけでもなくなりました。
武士とはもともと農民層から戦闘専門家に分化してきたグループのことで、江戸時代でも戦国大名系家臣団の多くは半農半士・一朝事あれば一族郎党引き連れて駆けつける仕組みが普通でしたので、日常生活は庶民そのものでしたし、民情に通じている・・実務能力の高い集団でした。
ただし徳川家旗本限定では、知行地が遠くしかも細分化されていたので、(例えば千石の旗本でも、50石〜70石等々(例外でしょうが 一つの集落の農地が数名の旗本の数石何升単位の小さな知行地に分かれていた例が文献にでています。)バラバラに房総半島に知行地がある場合代変わりに一回行くのも大変)ですので、結果的に今の都民同様になっていたので幕末戦闘力はほとんどなくなっていた実態をSep 11, 2016 12:00 am欧米覇権終焉の開始2と、12/28/04(2004年)「兵農分離4(兵の強弱と日常生活)(コサック騎兵)」前後で連載したことがあります。
日本社会はこのように庶民・現場力の高い集団内での権力交代が可能になってからでも約800年経過です。
庶民も能力さえあれば政権担当できる社会・互換性のある社会になっていたので日本社会は観念論に走らず時代即応した着実な進展変化を遂げてこられたことになります。
明治新政府は、王政復古を旗印にして成立した政権である関係上表面上だけ古色蒼然たる主張をしてきたものの、政権掌握後は時間をおかず現実的政策を果敢に打ち出して後醍醐天皇のような天皇親政を採用せず実務官僚機構を整備して、古色蒼然たる平安朝以来の公卿堂上人を華族として棚上げし、実務は江戸時代の下級武士層・実務官僚が実権を握る体制を築き上げました。
廃藩置県で藩知事に横滑りした元の大名は短期間に罷免されて、中央から派遣される実務官僚が知事に入れ替えられた経緯も08/04/05「法の改正と政体書」07/18/05「明治以降の裁判所の設置2(3治政治体制)」前後で何回か紹介しました。
こういう大変革途上にあって制定した明治憲法では、表向き天皇大権とか臣民とはいうものの(神棚に棚上げした一君と(明治初期から逐次始まった士族等の階級名称廃止政策・・四民平等の徹底化で)万民思想が徹底してきたのですから、内実は戦後の国民主権体制と変わりません。