カイロ宣言と米国朝鮮政策1(日本道義否定)

朝鮮半島の北半分がソ連圏に入ったので北の朝鮮人は、古代価値観を基本にして生きているソ連・ロシア民族支配をすんなり受け入れて安心したでしょうが、日々食うのに忙しい・・人口の90%以上を占める庶民にとって政治意見を言えないことや表現の自由の制限など日常何の不自由も感じないことを24〜25日に書いてきました。
表現の自由にこだわる芸術家でも普通の芸術活動である限り・同時代の緊迫した時代精神気分を表しているなどの評価を後世に受けるとしても、その程度のことで表現が規制されるとは考えにくく、99、99%の芸術家は政治などに関係なく、創作活動を自由にできてきたと思われます。
明治以降の漱石、島崎藤村の詩集などの文壇、日本画に表現の自由による制約を見る人は少ないでしょう。
江戸時代に世界に冠たる文化発達繚乱したのは、西洋近代の権力分立・人権思想の有無と関係なかったのです。
そもそも芸術家自体人口の1%もいないでしょう。
アメリカ占領下に入った南半分(現韓国)は、微温的な日本統治という緩衝装置がなくなり欧米価値観ストレートな政治文化の浸透に見舞われたことになります。
米国の中南米、南ベトナムその他各地支配・指導は、現地民族ごとの微妙な気持ちの汲み取り能力に欠けた・いわゆる投票箱民主主義・あんちょこな民主主義の押し付けが国情に合わない結果、多くの国で失敗の連続でした。
米国の対日戦争の大義として朝鮮民族の日本隷属からの解放を宣伝してきた米国としては、朝鮮占領政策では日本が進めていた以上の急速な近代化を目ざす必要に迫られていたことは、推測に難くありません。
朝鮮族の対日不満の源泉は旧特権階層の権益剥奪と教育の機会均等・四民平等・を徹底すれば国民大多数のストレス社会化が進みます。
自由競争社会化すればするほど、底辺層の方が富士の裾野のように最大多数になるのが原理です。
日本の場合文明開化によって新たな職域が量産され、失業した武士の多くを吸収しましたし、産業構造変化までひと世代程度の期間余裕があったので、紡績〜繊維から家電組み立てなどの構造変化も1世代以上の時間軸があり次世代がうまく適応できてきました。
新興国の場合工場設備丸ごと導入パターンですから、最新技術導入があんちょこな分に比例して産業構造・主役が変わって行く構造変化が5〜6年サイクルでくるので、日本に追いつくスピードは自慢でしょうが、それに比例してどんどん振り落とされ置いていかれる人が増えてストレス過多社会になって行きます。
ルーズベルト政権は対日開戦の大義名分として日本の朝鮮人民に対する過酷な植民地支配〜中国での南京虐殺などを国内外で大宣伝してきました。
対日開戦を奴隷状態にある悲惨な朝鮮人民解放戦と位置付けてきたのです。
フセインが大量破壊兵器を隠していると称してイラク侵攻を正当化したのと同じ手口です。
競争社会に対する不満を吸収する方向で米軍支配による「日本支配がひどかった」という反日宣伝が不満に火をつける形で、ガス抜きしていく効果を発揮していたと思われます。
アメリカの対日プロパガンダの公式記録がカイロ宣言に出ています。
1943年に出された連合国のカイロ宣言の一部・対朝鮮関連部分のみ紹介します。
カイロ宣言に関するウイキペデイアの記事からです。

対日方針を協議するため1943年(昭和18年)11月22日からエジプトのカイロで開催されたフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石国民政府主席による首脳会談を受けて、12月1日に発表された「カイロ宣言」。
以下はカイロ宣言の日本語訳[1]。
「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ。
各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ。
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC