格差社会の構造(米中と日本社会の違い)1

エリートのピンポイント輸入に頼る米国と中国の違いは、異民族支配に柔軟対応するために自前の士大夫階層(一種の官僚機構構成層・中堅人材)がかなり大量存在する=層の厚さが違う感じです。
日本がGHQ支配に柔軟対応できたのと同じです。
日本が中国のように異民族支配を受けた経験がないのにをうまく受けれられたのは、京の朝廷・公卿集団が、次々と勃興して来る武家集団をうまく手なづけてきた長年の経験プラス徳川体制下における外様大名の多様な生き残り経験を活かしたものでしょう。
中央の宮廷官僚だけでなく各地方ごとに、その種人材が多様に存在してい社会であったことが重要です。
中国や朝鮮民族の場合、占領軍・専制支配体制下の生き残り策なので政治工作対象が一点に絞られる単線構造に対して、日本武士団の覇者・幕府は連合政府形態なので同輩が多い点が特徴です。
大和朝廷も諸豪族連立で成立している関係で古来から合議で決めて行くのが慣例でしたが、武家政権になると戦闘場面の延長で指揮官の号令一下のイメージですが、実態はそうでもありません。
戦闘現場での大きな戦略決定・軍議でさえも日々軍議を開いて翌朝(払暁)からの手順を決めて行く仕組みですし、まして内政になると鎌倉幕府は執権政治・・合議で決めて行くのが基本でした。
その合議は、(中流御家人以下の民意吸収能力のある)有力御家人の意向など忖度して決めていかないと政権が浮き上がるリスクがあり結果的に民意吸収能力が問われる仕組みでした。
徳川政権下でも有力諸侯の意見を無視できないというよりは、有力諸侯とは発言力のある諸侯という意味ですし、発言力があるという意味は、中小大名の意向を汲み取り代弁するのに長けた大名という意味であり、時流に関係なく正論であれば良い社会ではありません。
水戸家が尊皇攘夷論では先行していたのに、肝心の維新本番ではほとんど役割を果たせなかったのは、民心や時流の動きとか無関係な主張をしていた・現在の野党的批判論でしかなかったことによります。
水戸家から一橋慶喜を出していて水戸勤王党にとっては期待の星でしたが、彼は名門の一橋家を継いだことで政治力がなくとも知的能力が高かったかもしれませんが、地位による発言力があったという意味でしかなく、中小大名でありながら実力で発言力を持っていた大名に比べて政治力がイマイチだった印象です。
学問と違い政治の世界では、時期尚早の意見を否決されて、自分は1年前から主張していたと自慢しても意味がないのであって、必要時に主張する能力が政治には求められます。
真夏にセーターを着たいと言って馬鹿にされた人が冬になって自分が半年前に言ったことが正しかったというと笑われるのと同じです。
幕末に松平春嶽その他の小大名の活躍、あるいは山内容堂の大政奉還論は、こういう能力があったからです。
大大名は軽率に旗幟鮮明にできないので、こういう中小大名のアドバルーンを利用して形勢を読み時流に乗る体制で、これは鎌倉幕府崩壊時の足利尊氏の動きとも似ています。
明治憲法下の内閣制でも総理は首班と言われたように、同輩のトップでしかないのが特徴です。
占領軍支配に対するにしても、日本は複雑対応人材が多様に存在していたので難局をうまく切り抜けられたのです。
中国は1極支配の単純支配に対応する能力はありますが、国際社会は複雑です。
今回のコロナ禍でも、結果的に個人情報を徹底的監視体制を応用してうまく対応できたというのが自慢のようですが、それを自分で世界に自慢して触れ回ることではありません。
今朝(24日)の日経新聞朝刊6pのフィナンシャルタイムズ提携の署名入りオピニオン紙面には、「自滅した中国コロナ外交の大見出しで、米国ウイスコンシン州議会議長に対して中国政府から「中国の新型コロナ感染拡大に対する取り組みを賞賛する決議案を議会に提出してほしい」という趣旨の電子メールが届き、メールには決議文の案文が添付されていて、その内容は中国共産党がイカに素晴らしく対応したかといった論点や主張が列記されており決議にかけるには怪しすぎたので議長はイタズラだと思って、その議長は、外国政府が、州議会に直接法案の可決を求めるなど聞いたことがない」とこの記事の筆者に語ったということです。
ところがそのメールが中国総領事館からの公式電文だったと分かったという驚きの記事です。
こんな運動をして相手がどう思うか全く念頭にない・・・自分が中央政府にどれだけゴマスリできるかしか眼中にない社会です。
岡田英弘氏の論文を読んだころの印象しか記憶がないので誤解も混じっていますが、魏志倭人伝があてにならない理由として、中国のごますり競争が背後にあって、当時実力者司馬氏と曹操の子孫の政争中で、一方が西域諸国のとりまとめに成功した報告があったので、他方は対抗上東方海上の大国(邪馬台国のことです)が朝貢に来ることになったと誇大報告する必要があり、このためにあちらに千里さらに曲って何千里とものすごい誇張した路程が必要になったという解説です。
同氏は魏志倭人伝の説明通りに地図を書いていくと日本はフィリッピンあたりになるオーストラリア大陸くらいの巨大な遠方の国になってしまうようなイメージをうけて読んだ記憶です。
このように朝貢の歴史といっても権力競争している方が、大げさなお土産を持って来たと披瀝しなければならないので一種の出来レースだったようで、周辺国はちょっとした土産を持っていけばそれを招待した政争当事者が何倍にもして、皇帝の前にお披露目する仕組みだったようです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC