中世の紛争解決基準・元祖マニュアル化2

司法試験でも昭和40年前には、民法はダットサンと言われたホンの基本だけ解説した小型の書籍3冊理解で合格すると言われていたよう(神話?)でしたが、昭和40年代に卒業した我々世代では民法だけで1冊数百ページに及ぶ本8冊(総則、物権、担保物権、債権総論の各一冊、債権各論2冊と不法行為法1冊、あと親族、相続各1冊)は最低読み込まないと全部勉強したことにならない上に当時既に分野別判例百選や関連演習問題集が発行されるようになって、これら理解が必須時代になっていました。
いわゆる概念の説明から事例当てはめ時代が始まっていたのです。
概念法学批判については、July 12, 2019「レッテル貼りと教条主義3(識字欲求の有無)」以降紹介しました。
昭和30年台中盤以降は、戦後復興から高度成長→(地方から大都市移住の大変動)核家族化に始まり社会構造変化→価値観の急激変化時代でしたので、各種判例法理が急速変化する突入時代でした。
現在の基本判例が、昭和37〜8年頃からの約10年間で大方出揃った時代です。
その後の司法試験受験生は、基本判例の具体的事例集積の勉強が必須になり我々世代より学習内容が膨大緻密になっています。
15〜20年ほど前に、昭和30年の司法試験合格後高級官僚になっていた人が、定年後天下りを繰り返して60歳半ば過ぎになってから、司法研修所に入って司法修習生になり、私の事務所に実務修習生としてきたことがありました。
昭和30年合格といえば、その4〜5年以上前に発行された文献で勉強したレベルですから、勉強内容は、戦後家督相続がなくなったことや今後刑事訴訟手続きがアメリカ式・・職権主義から当事者主義化されるなどの法の精神変化を学んだ程度のようで、具体的事例による具体的主張の必要性意識が低いというか、具体的主張をする弁護活動に驚いていました。
民法そのものは明治30年からそのままとはいえ、生活習慣がまるで違っている現実・・戦後の法令や判例変化をまるで知らない「合格生」でした。
私のように日々現場で実務変化を体験しながらでも、高齢化すると日進月歩の法令変化についていけない心配をしているのに、50年以上?前の簡略知識だけでこれから実務をやれるのか?と危惧していたら司法研修所から肩叩きされたとのことでした。
その後の法改正・・刑事訴訟法でいえば、裁判員裁判開始の影響で公判前整理手続が導入されたことにより、「証拠開示しろ、しない」という単純攻防から開示請求手続きルールが定められ、ルールに則った緻密な主張が必要になりました。

刑事訴訟法
第三章 公判
第一節 公判準備及び公判手続(第二百七十一条-第三百十六条)
第二節 争点及び証拠の整理手続
第一款 公判前整理手続
第一目 通則(第三百十六条の二-第三百十六条の十二)
第二目 争点及び証拠の整理(第三百十六条の十三-第三百十六条の二十四)
第三目 証拠開示に関する裁定(第三百十六条の二十五-第三百十六条の二十七)
第三百十六条の十五
検察官は、前条第一項の規定による開示をした証拠以外の証拠であつて、次の各号に掲げる証拠の類型のいずれかに該当し、かつ、特定の検察官請求証拠の証明力を判断するために重要であると認められるものについて、被告人又は弁護人から開示の請求があつた場合において、その重要性の程度その他の被告人の防御の準備のために当該開示をすることの必要性の程度並びに当該開示によつて生じるおそれのある弊害の内容及び程度を考慮し、相当と認めるときは、速やかに、同項第一号に定める方法による開示をしなければならない。この場合において、検察官は、必要と認めるときは、開示の時期若しくは方法を指定し、又は条件を付することができる。
1〜9号略
3 被告人又は弁護人は、前二項の開示の請求をするときは、次の各号に掲げる開示の請求の区分に応じ、当該各号に定める事項を明らかにしなければならない。
一 第一項の開示の請求 次に掲げる事項
イ 第一項各号に掲げる証拠の類型及び開示の請求に係る証拠を識別するに足りる事項
ロ 事案の内容、特定の検察官請求証拠に対応する証明予定事実、開示の請求に係る証拠と当該検察官請求証拠との関係その他の事情に照らし、当該開示の請求に係る証拠が当該検察官請求証拠の証明力を判断するために重要であることその他の被告人の防御の準備のために当該開示が必要である理由
二 前項の開示の請求 次に掲げる事項
イ 開示の請求に係る押収手続記録書面を識別するに足りる事項
ロ 第一項の規定による開示をすべき証拠物と特定の検察官請求証拠との関係その他の事情に照らし、当該証拠物により当該検察官請求証拠の証明力を判断するために当該開示が必要である理由

中世の紛争解決基準・元祖マニュアル化1

宗教家の高尚な議論・「善きことをしましょう」「人のためになりましょう」という精神論より「何が善きことか悪しきことか」の具体的基準が必要な社会になったのです。
西洋中世に幅を利かした神学から、近代の法律学への重心の移動が日本でも必要な時代が始まっていたからです。
人はいかに生きるべきかを議論をしても、人がいかに道路を利用すべきかのルールは導けません。
「謙譲の美徳」といっても車社会で譲り合うのでは前に進めませんから、「青信号優先」「スピード規制」「一方通行」「追い越し禁止」「Uターン禁止」などを法令で決めていく必要が生じます。
金融取引ルールも同じですが、「被害者を出さないようにすべし」という弱者をいたわる精神の高い高僧や人格者ならこれら複雑なルールを自然に体得しているとは限りません。
これらルールを誰が決めるのか?
比叡山で修行を積んだ高僧がルールに詳しいのか?
分野ごとに精通したプロの出番です。
「貧者を労われ」「施しを!」という宗教論のお題目よりは、具体的な労働基準法の制定です。
車社会には車社会に応じた道路交通法が必要ですし、事故が起きれば聖人君子論が解決の基準にはならず、具体的な事故状況に応じた過失割合論の構築が必要です。
日弁連の青本、東京三会の赤本で図解入りの事故状況に応じた過失割合の基準が作成され、これによって日々の事故処理が行われ・最終的には裁判で決まって世の中が回っています。
人権尊重を誰も冷え値しないのですが、お題目を唱えれば解決できるのではなく、犯罪捜査でいえばGPS利用がどこまで許されるかが難しいので、具体的事件に合わせた判例(February 25, 2018,に最高裁判例が出たことを紹介しました)の集積で決まって行くのが現実社会です。
平和がよいに決まっているのですが、どうやって平和を守るかが現実のテーマであり、お題目の優劣?神学的価値観の優劣はとっく昔に決まっていることです。
「平和を守れ」という抽象論で終始し、その先どうすrかの提言のない政党は、その先・過去数百年の現実を見ていない・・「近代法の法理を守れ」と言うスローガンに酔いしれているのでしょうのでしょう。
社会活動が活発になると、大雑把な精神論的基準・・モーゼの十戒や仏教の不殺生、不偸盗、不邪婬等の誓いだけを千回唱えても具体的事件の是非をさばけません。
交通事故の過失相殺表のように、過去事例集積によって境界事例の判断基準を整備していく必要が出てきます。
離婚事件で言えば、私が弁護士になった頃には夫の浮気や暴力等の典型的離婚原因になる事件がほとんどでしたので、骨格事実の有無だけで勝敗が決まるし、弁護士会懲戒事件でも20年ほど前までは、使い込みその他、事実さえ決まれば判断できる事例ばかりでした。
離婚事件の場合、この2〜30年の間に一方の言い分を聞いているだけではどちらが悪いのか不明・ちょっとした前後の文脈次第で勝敗逆転するような複雑な間接事実次第の事件が増えてきました。
日本の離婚法制の変遷の過程の影響にもよるのですが、(・・日本の法制は昔から融通むげであることをJul 15, 2019 12:00 pm以来「融通むげ(道)1」以来紹介している(道理に基づくものですから、杓子定規の解決を嫌います)途中で、婚姻制度も融通性の高いものだったことを書きかけていたのですが、今横道に入っています)破綻主義に変わっていく中で、日常の細かな行き違いが離婚原因の大方を占める時代になってきたことによります。
13日書いたアメリカの日韓合意のコミットに関する反米的意見も、アメリカの押し付け論を前提にしていますが、もしかして日本が無理に立会いを頼んだのだのならば、結論が違ってきます。
弁護士会懲戒事件もここ5〜6年ではネット表現がどの程度まで許されるかや、交渉時の態度など前後の会話順によっては微妙な事案が増えてきました。
微妙事案が増えると裁決には事例集積が必要になります。

中世の紛争解決基準・非理法権天1

中世秩序が混乱したのは中央権力の威令が届かなくなったことによります。
威令がとどかなくなったのは武力がないからではなく、中世に入って道義基準が混乱したからでしょう。
南シナ海における中国の一方的埋め立て=軍事基地構築に対する国際司法裁判所で「どこの国の領土でもない、公海そのもの」という判決?裁定が出ても、中国は紙くずに過ぎないと公言したのは、国際司法裁判所があっても強制力がないことを前提にした開き直りです。
中国(この模倣社会である朝鮮族も)は古来から道義による支配をしたことがない・・武力強制力の有無・相手が自分より強いか弱いかだけを価値基準にしてきた歴史をここにさらけ出したのです。
韓国の場合も、日本との合意を無視してどんなに反日運動をしようと「民主主義国家なので国民の行動を規制できない」という変な民主主義論を主張していれば、日本は韓国国内政治には手も足も出ないという論理を露骨にした点では同じです。
道理も何もいらない・相手に打つ手がなければ何をしても良いという小津王基準の点では同じです。
日本では内容が道理に従っている・「公正な裁き」と思えば強制力がなくとも従う人が多いからわざわざ鎌倉まで訴え出る人が多かったのでしょう。
ここで、江戸時代に権力確立→司法網が広く行き渡った時代に提唱された「非理法権天の法理」論を利用して中世のルール状態を考えてみます。
非理法権天の法理については、これまでも何回か紹介していますが、これは江戸時代中期に中世と比較して提唱された法理です。
ウキペデイアによると中世はまだ道理優先社会だったとして(法がなかったというより、実施すべき能力(戸籍制度も登記制度も執行機関もなかったのです)以下の通り紹介しています。

非理法権天
江戸時代中期の故実家伊勢貞丈が遺した『貞丈家訓』には「無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する」と、非理法権天の意味が端的に述べられている。
非とは道理の通らぬことを指し、理とは人々がおよそ是認する道義的規範を指し、法とは明文化された法令を指し、権とは権力者の威光を指し、天とは全てに超越する「抽象的な天」の意思を指す。非理法権天の概念は、儒教の影響を強く受けたものであるとともに、権力者が法令を定め、その定めた法令は道理に優越するというリアリズムを反映したものであった。
非理法権天は、中世日本の法観念としばしば対比される。この時代において基本的に最重視されたのが「道理」であり、「法」は道理を体現したもの、すなわち道理=法と一体の者として認識されていた。
権力者は当然、道理=法に拘束されるべき対象であり、道理=法は権力者が任意に制定しうるものではなかったのである。こうした中世期の法観念が逆転し、権力者が優越する近世法観念の発生したことを「非理法権天」概念は如実に表している。

非理法権天の一般的意味づけは、まだ法の強制力がなく道理に頼るしかなかったという位置付けですが、私は日本は古代から道理を基準にする社会だというのが私の理解です。
中国のように権力者はどんな残虐なことでもできるのではなく「やっていいことと悪いこと」のけじめは法以前に厳然とあるのが日本社会です。
ソクラテスの「悪法も法なり」という言葉が有名ですが、現在法体系的に見れば、道理に反する悪法は「憲法違反で争える」ということでしょうか?
私の実務経験では、憲法違反まで言わなくとも相手方に形式上法令違反なくとも実質被害が生じている時には、日本の裁判所は何とかしてくれるものですが、逆からいえば不当な被害を受けていないのに、相手の非をあげつらうだけの場合では勝てないという説明をして、受任したことがありません。
日本社会では式目や御法度のない時代でも、腕力(政治力)に任せて道理に合わないことを要求するのは恥ずかしいという思いが強いし、周りもそれを容認しない社会でした。
それがお坊さんの説教で済まず、式目や判例集・今でいう法令の必要な社会に何故なって行ったかといえば、白と黒の区別ははっきりしているが、境界付近事例が多くなると生まれつきの常識の応用・・基本的な生き方の習得だけでは裁けなくなったことによります。

利害調整基準明確化→御成敗式目3(実効性)

問注所があってもあるいは、足利政権の裁定も守られないことが多かったようですが、(鎌倉から遠く離れた地域の境界争いや相続争いの裁定が出ても、今のように隅々まで戸籍(判決を持って行けば戸籍謄本を書き換えてくれたり、登記制度(所有名義を書き換えてくれる)がないし、国家の執行官が各地にいる時代ではないので、相手が守らなければ現地(有力者の口添えがない限り)ではどうにもならないのが実態でした。
室町幕府の裁定も、施行状の作成者次第であったことを、October 28, 2018「幕府権力と執行文の威力」で書きました。
現在でも国際合意の効力は、わが国中世の法的状態同様に執行力に難があるので、日韓慰安婦合意では、アメリカ政府立会いという形式が採用されました。
今でも個人的合意書に立会人署名があるのは、立会人が連帯保証人という意味ではなく、(トキにそういう期待感で相談されることがありますが)「俺の顔を潰すなよ!という無言の圧力で実行を迫ってくれる効能を期待したものです。
今回の慰安婦合意を反故にする韓国の行為に対して、アメリカが韓国政府の行為に対し裏でどういう圧力をかけているか不明ですが、この種の効能は結果で判断するしかない性質のものです。
慰安婦像を公の場所に立てさせて反日集会を拡大するばかりか、せっかく作った財団を一方的に解散に突き進んだ結果を見ると、アメリカの立ち会いは何の役にも立たなかったと評価されるべきでしょう。
ただし、アメリカの立会いはほとんど意味がないという認識を世界に広げた点でマイナス効果があったことになるのでしょうし、アメリカは顔を潰された韓国に対し相応のマイナス効果を押し付けないとおさまりがつかなくなる点や、韓国はアメリカの立会いで決めた約束を守れない国という国際印象を強めた点で日本としては国際政治上点数を稼ぎました。
韓国としては前パク大統領が、米国の制止を振り切って中国の抗日戦勝利記念式典やAIIBに参加したのと同様に、今回もアメリカのご機嫌を損なうことに対する重みを感じなくなっている・「アメリカは今や軽い存在」という露骨な意思表示でもあったでしょう。
最悪の場合、米国は長年の国策?日韓離間の策を講じているのではないか?という憶測も可能ですし、またもや「韓国の無法行為を黙認したうえで逆に日本が自重せよ!」といわんかのような態度を示せば、今後日本はアメリカによるいかなる仲裁案も受けられなくなるでしょう。
アメリカは今回ダンマリを続けたことで、日本の信用を失う・減点を積み重ねたことになります。
数年間も日韓合意の精神を踏みにじる韓国のやリたい放題を放置して置いて、日本が反撃を始めるといきなり仲裁するかのようなそぶりを見せること自体が無責任で一方的です。
「順序がおかしいだろう」という日本不満の結果、トランプ氏が双方の要請があれば仲裁に動くと言って、いかにも韓国の仲裁要請を拒否した・・日本寄りのような外形を見せていますが、本来米国立会いで合意を迫った以上は、紛争の芽が出た段階で率先して「合意を守れ!」と抑え込む努力をすべきだった筈です。
こういう国と同盟条約を結んでいざという時に意味があるのか?と日本人多くが心配でしょう。
室町時代に戻しますと、施行状にサイン(花押)した実力者に「相手(対象者)が守ってくれない」と訴えても知らんぷりで放置したり、相手が守らないからと実力行動に出た場合、逆に制止されるようなことがあると一挙に信用を失うのが普通です。
・・次の合戦で動員命令が来ても、「お前の言うことなど聞いてられるか!」と応じないか、やむなく応じても渋々の働きブリになるでしょう。
いつも紹介しますが、千葉氏はもともと平氏ですが、平家が自分の領地?(正確には預かり所)騒動で味方してくれなかった恨み・源氏が肩入れしてくれた恩義で千葉氏が頼朝の旗揚げに率先して馳せ参じた故事が知られる通りです。
アメリカの凋落の主原因は経済力が下降気味になると、同盟国同士の軋轢の調整能力不足(権力者に必須の能力がなかったのに、たまたま資源国として破格の経済力を得た臨時能力に過ぎない)が表面化してきたことによることをだいぶ前から書いてきました。
最近ではJan 11, 2019 12:00 am「アメリカンファーストと国際協調1」に、アメリカ人は複雑系解決能力がないのを自白した「言い換え」だと書きました。
シリア・イラン問題では三つ巴、四つ巴の複雑な糸を解きほぐす能力不足が顕著ですが、日韓のような単純紛争でさえ手をこまねくばかりで、むしろ関与すると激化する方へ関与する(日韓離間の策あるいは日中離間の策が本音でないか?の疑いの目で見られる)傾向があります。

利害調整基準明確化→御成敗式目2

紫衣事件に関するウイキペデイアの引用です。

幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している[1]。

いわば観念の世界ではまだ朝廷の権威(いわば有職故実の総本山程度のブランド力)があるとしても、実定法の世界では武家政権の定めた禁中並公家諸法度や武家諸法度が朝廷の先例や決定より上位になる宣言でした。
秀忠上洛時に朝廷に京近郊のうち1万石を寄進?したのは最下位大名の格式でいかにもバカにした態度であったという意見がありますが、有職故実にのっとった儀式挙行や和歌を読んでいる程度の仕事で良いとする一種の隠居料としてみれば、実務担当のトップ・高家筆頭の吉良家6〜7千石程度でしたから、大層な優遇のつもりだったでしょう。
紫衣事件で明らかになったことは、誰に紫衣着用を許すか?を幕府が決める・・今で言えば、誰に文化勲章を授与するか、高級官僚や大臣任命を決めるのは政府であり、その認証式や任命儀式が天皇家の職務ですから、今の天皇家の職務とほとんど変わりません。
そうすると天皇家の役人・・左右大臣〜大中小納言〇〇の頭等々(多くは諸大名の格式による形式的官名に過ぎず、天皇が禄を払う必要もありません)、儀式に参列する程度の儀式要員(高給ホテルのボーイさん程度)でしかない以上、高給を払う必要がなくなるのは当然です。
1万石の大名に要求される参勤交代(江戸屋敷の負担)もなく、幕府への兵役協力義務もなければ京市街の行政や治安維持の職責もなく、必要なコストは幕府が全部見てくれるのですから、今の皇族内定費と比較してもそれほど少なすぎるとは思えません。
現実無視の律令法ではなく、社会実態に合わせた現実的法例の最初であり、江戸時代の諸法度の嚆矢に当たる御成敗式目に戻ります。
武家のみ適用の徳川家の武家諸法度の先輩に当たるものですが、式目は鎌倉幕府の問注所で処理した事例研究の成果でもあるので、江戸時代の武家諸法度施行後の事例集積・・現在用語でいえば、判例集として整備した吉宗の「公事方御定書」(約100か条)の先䗥としての意味もあるでしょう。
御成敗式目以後の分国法や徳川家の諸法度はこの式目を基本法とした上で、部分改正法の形式とするものだったので、御成敗式目の効力は明治維新まで続くようです。
ウイキペデイア御成敗式目引用続きです。

制定当時、公家には、政治制度を明記した律令が存在していたが、武家を対象とした明確な法令がなかった。そこで、源頼朝以来の御家人に関わる慣習や明文化されていなかった取り決めを基に、土地などの財産や守護・地頭などの職務権限を明文化した。「泰時消息文」によれば、公家法は漢文で記されており難解であるので、武士に分かりやすい文体の法律を作ったとある。そのため、鎌倉幕府が強権をもって法律を制定したというよりも、むしろ御家人の支持を得るために制定した法律という性格を持つ。また、鎌倉幕府制定の法と言っても、それが直ちに御家人に有利になるという訳ではなく、訴訟当事者が誰であっても公正に機能するものとした。それにより、非御家人である荘園領主側である公家や寺社にも御成敗式目による訴訟が受け入れられてその一部が公家法などにも取り入れられた。

公家・・荘園領主自体が、幕府の問注所を利用するようになっていたと、だいぶ前に書いた記憶ですが、その通りの紹介です。
紛争解決には実行を担保する権力が必須ですが、権力(武力)さえあればいいのではなく、「裁定の公正さ・・信用が」基本です。

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