保元〜平治の乱2(在地預かり)

信西が野心を実現した分昇進し損ねたり実利を奪われた競合者の不満が溜まります。
この結果支持者皆無どころか敵ばかりになっていきますが、彼をバックアップする政治勢力がなかった点で新井白石に似ています。
理念政治のやりすぎに対する不満勢力・・怨念の第一目標とされて保元の乱後わずか3年半で平治の乱(平治元年12月9日(1160年1月19日))という第二幕に入って行きます。
保元の乱後わずか3年余りですから、新体制が落ち着く暇もなかった・・保元・平治と一括表記が多いように西洋の革命騒動の例で言えば革命騒動中の一連の揺り戻し事件と評価すべきです。
平治の乱と言っても一種のクーデターであって、信頼・義朝勢力が清盛の熊野詣での不在を狙って三条院を急襲して院近臣撫切りして、後白河上皇を二条天皇のいる御所に移し参らせて政権掌握したほんの短時間の事件です。
元々院政派と二条親政派双方を支える貴族層から信西憎しのエネルギーで起きた事件ですから、土中に潜っていた(吉良邸討ち入りで吉良上野が炭小屋に隠れていて発見されたのと似たパターン?・・模倣が多いので事実とは限りません)ところを見つけられてすぐに殺されます。
エリート教養人による現実無視政策の無理がすぐに出たと言うべきです。
こうして秀才頼長(保元の乱で落命)も信西もともにこの世を去り、現実無視の秀才政治が終わりを告げます。
ところが熊野詣でから帰った清盛の屋敷六波羅に二条天皇が移り、後白河も仁和寺だったかに脱出してしまいます。
ここでいきなり朝敵になってしまった義朝はいわば負け戦(もともと密かに練ったクーデターだったので義朝は地盤の関東から軍勢を大量動員できず都駐留側近部隊だけなので数では圧倒的劣勢)を挑んだのが、六条河原の合戦でした。
平治の乱後、本来の権力抗争の震源であった二条天皇側と後白河上皇側の決着がついていなかった状態で、都周辺には平家以外にはまともな軍事勢力がなくなっていたのですが、清盛は表面上中立を装っていました。
当面朝廷の実権を握った天皇側の近臣が勢いに乗って院近臣謹がほぼ義朝によって追い払われ地位を追われて孤立状況にあった後白河上皇をバカにしたことを理由に清盛に後白河が捕縛を命じると清盛は直ちに捕縛し拷問するなど中立を装う清盛の意向・出方次第になっていきます。
こうして事実上の決定権を握った・平家の天下→武士の政権へと変化していきます。
平氏の天下も武士の時代到来に対する中継ぎでしかなく、治承元年(1177年)6月には鹿ケ谷の陰謀発覚まで、平治の乱から数えてもわずか17年でした。
その後の展開は周知の通り、以仁王の令旨→宇治川の橋合戦→富士川の合戦で羽の音で逃げ帰り1183年の倶利伽羅峠の大敗→都落ちまであっという間です。
私によれば平安末期には武士の台頭による社会構造変化対して、守旧的現実無視の秀才同士が(朝廷側の後白河の動きや八条院領の拡大等とこれに対する荘園勢力.藤原氏双方が、荘園の名義上の権利さえ押さえれば勝てるとする時代錯誤意識で争っていたことになります。
信西は保元の乱後に頼長の旧荘園の「預所」に任じられていることを昨日信西に関するウイキペデイアの記事引用で紹介しました。
預かり所に関するウイキペデイアによれば以下の通りです。

鎌倉時代の法制書である『沙汰未練書』には「預所者本所御領所務代官也(預所は本所の御領における所務代官である)」と記されている。12世紀頃から従来の専当・預・検校・定使などに代わって出現した。本家が本所の場合が多く、本家は大抵、王家や摂関家などの権門貴族や大寺社だったが、彼らは田舎の所領を直接知行するのを「見苦しい」こととして嫌い[1]、所縁の者を預所に補任して荘務に当たらせた[2]。
一般的な預所は本所の補任を受けて在地において下司・公文などの下級荘官を指揮して経営にあたっていた。在地における預所では本所より派遣された者や現地の有力者、開発領主・寄進者本人(または子孫などの関係者)が任じられることが多かった。だが、一方において、本家-領家といった重層的な荘園領主が存在する荘園では本家が本所である場合、領家のことを預所と称した。更に本家が自己の家司などを預所に任じて知行させ俸禄の代わりにした場合もあった。領家や家司が預所になった場合には在京のままその地位を占めることが多く、実際の経営は彼らに任ぜられた代官などが行っていた。
在地の預所を「在地預所」、後者のような京都に居住する(従って現地には赴かない)預所を「在京預所」と呼ぶ。・・・
平安時代末期には本来は事務官的な要素の強い預所に武士が就く例も増加し、そのまま地頭や在地領主の地位を得る例も現れた。

荘園経営はずっと前から預かり所という人材登用によっていたのですが、国司に任じられても任地に行かずいわゆる遙任の官になったように、預かり所に任命されても京都にいて実務を現地の人に委ねるようになって(信西の場合まさにこれでしょう)いたので、その預かり所の実務を在地で行う人の実力が高まります。
いわば現地の収支を抑えるのが在地預かりですし、在京預かりは、現地からの報告書による収益管理で本家から報酬を得る秘書みたいな役割です。
現地の収支を抑える・年貢の取りたてをするには天気による作物の出来不出来の結果を知り、収穫増に日々努力する在地領主には地元民との人間・・主従義理関係も生じますし、そのうまみに叶いません。
平安末期には在地預かりに武士を任じるようになっていたことから、実質支配権が武士に移ってきたので、名目支配権獲得・今で言えば金融資本的収入の増加にたよる..実務を握る社長との違い・争いになっていたのです。
平将門の乱(天慶2年11月21日(940年1月3日)は荘園領主の本家貴族同士の争いではなく、これの管理を預かる武士団同士の争いでしたから、すでにこの時に・本当の利害はオーナー家の貴族間紛争ではなくこの管理支配権をめぐる争いに移行していたことが表面化していました。
貴族層はこの本質を知りながら、中央に対する反乱事件として歴史を作ってきたのです。
頼朝旗上げ時にいち早く馳せ参じて大きな役割を果たした千葉氏が、伊勢神宮だったかの相馬御厨の管理権争いで源氏が味方してくれた(平家が相手を支持)ので、その恩義に報いたという説明が一般的ですが、これをみれば、荘園領主名義が誰であるかより武士にとって管理権の得喪が重要です。
企業で言えば大株主・オーナーが誰かも気になりますが、自分が社長専務になるかが重要なのと同じです。
(現在に続くヤクザのシマ争いの原型で、飲食店経営者が誰かは二の次です)
現在的合法商法としてみれば、林立するマンション等の管理権獲得争いみたいなものになっていたのです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC