政府と国民(信用破壊工作)2

彼ら人民と対立する日本政府を想定し外国勢力占領を渇望する立場からすれば、時代に応じて政府が新たな情報活用すること・・防犯カメラ、マイナンバー・統計処理その他政府が正確な情報を得ること全てイヤ・・秩序が乱れている方が政府による国民抑圧効率が悪くなるのは良いことですし、抑圧されている人民を助けるために外国が攻めて来易いから政府のためになりそうなことは全て反対と言う気持ちも分ります。
しかし、今のシリアのようにあまりにも内部が乱れてしまうと占領政治も出来なくなるので、もしかして・・無政府主義者になるのでしょうか?
犯罪=政府秩序破壊行為ですから、反政府組織(無政府主義者)にとっては、泥棒であれ何であれ、秩序破壊に役立つ行為・・データを不明瞭にすることを奨励する立場になるのでしょう。
英国流の汚いやり方(海賊行為でスペインを挑発して遂に覇権を握ったのは周知のとおり)を学んだサツマ藩は、幕末江戸の秩序撹乱を狙って、テロ行為を実行しました。
幕末薩摩藩は正規職員を撤退させて、その空き屋敷に得体の知れない素浪人を引き入れて押し込み強盗その他犯罪者の巣窟になっていた・・幕府支配下の治安破壊を目的にしていた小説を子供の頃に読んだ記憶です。
追っ手に追われた強盗集団(子供の頃に読んだ物語では益満休之助がサツマ藩のテロ組織の親玉だったように記憶していますし、人斬り以蔵はサツマ藩出身ではありませんが、殺し屋として知られています)が・・治外法権を利用して薩摩屋敷に逃げ込むと追っ手は、手も足も出なかったことを想起しても良いでしょう。
(桂小五郎も京の薩摩屋敷に逃げ込んで難を逃れた逸話があります)
うろ覚えですので、念のため・・以下は益満休之助に関するウイキペデイアの記載です。

薩摩国鹿児島高麗町生まれ。薩摩藩の尊王攘夷派として、江戸で活動する。万延元年(1860年)には清河八郎が結成した虎尾の会に名を連ねる。慶応3年(1867年)末、西郷隆盛の密命を帯びて伊牟田尚平らとともに江戸へ赴き、江戸薩摩藩邸を本拠として約500名の浪人を集め、江戸市内を意図的に混乱させる工作をした(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。その狙いは、幕府の施政を妨害し、挙兵させ、それによって江戸を中心とした関東地区を撹乱することで、民衆の不満を煽り、尊皇攘夷の大義名分を得て、新政府実現へのきっかけとすることにあった。
果たして、狙い通りに江戸取締役を務めていた庄内藩軍を主力とする幕府軍が江戸薩摩藩邸を襲撃、この知らせが大坂城に至り、会津藩及び桑名藩を刺激し、鳥羽・伏見の戦いが勃発した。のち、幕府方により逮捕され処刑される直前に勝海舟によって身請け・幽閉された[1]。

岡田以蔵に関するウイキペデイアの記述は以下のとおりです。

土佐勤王党が王政復古運動に尽力する傍ら、平井収二郎ら勤王党同志と共に土佐藩下目付の井上佐市郎の暗殺に参加。 また薩長他藩の同志たちと共に、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者達などに、天誅と称して集団制裁を加える。 越後出身の本間精一郎、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、長野主膳(安政の大獄を指揮した)の愛人・村山加寿江の子・多田帯刀などがこの標的にされた(村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた)。 このため後世「人斬り以蔵」と称され、薩摩藩の田中新兵衛と共に恐れられ、同時代の史料では同志から「天誅の名人」と呼ばれていた。なお一般的に「幕末の四大人斬り」と呼ばれる者達はみな、後年の創作物によって「人斬り」の名が定着したものである。

鳥羽伏見の役は薩摩屋敷を基地とするテロ挑発に我慢し切れなくなった庄内藩兵が治外法権の薩摩屋敷を襲撃するに至り、小御所会議のクーデターで京を退かされた無念の会桑+新撰組連合軍が・・俺たちも・・と兵を挙げてしまったことに始まります。
言わばイギリスの海賊行為に業を煮やして無敵艦隊を派遣したスペイン同様の経緯です。
薩長を中心とする勤王派(今で言えば、2世紀前の近代法の原理を掲げる時代錯誤)によるテロ行為・・秩序破壊行為が目に余って来て、奉行所制度・・みんなが権威に従っていてタマに間違った人しか事件を起こさない前提)では手に余って来たので、江戸市中警備のために庄内藩が警備役に就任して兵力を駐留する事態になっていました。
一般には京の治安維持には所司代だけでは間に合わなくなって来て会津藩の軍隊が駐留したことが知られていますが、徳川お膝元の江戸市中でさえ治安警察が必要になっていたのです。
会津藩軍兵への進駐でも、テロには正規軍や対応不向きなので非正規組織である新撰組が組織されました。
明治政府成立によって新撰組が悪役化されて描かれていますが、先に治安悪化を狙った暗殺組織や強盗集団を組織して挑発したのは薩長の方であり、新撰組や見回り組はその防衛組織として始まったものです。
現在は、東京時代・・まだ明治時代の延長ですが、その影響がなくなると新撰組や会津藩に光が当たる時期が来ると2004年09/09「勝てば官軍」1(薩長閥と戦後政治家の変遷)」に書いたことがあります。

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