国民2(旧刑法1)

ところで法律用語として登場する「国民」と「臣民」「人民」の関係を見てみると、明治憲法〜敗戦まで、我が国では、臣民という用語の他に自由民権運動で憲法制定運動が盛り上がる前の明治14年旧刑法で、すでに「国民」という熟語が出てきます。
ということは、その何年も前から国民という用語が議論対象になっていた(・・江戸時代までには、公卿〜士族や商人農民・・庶民を含めた総合概念)憲法制定運動当時には法律専門家の間では常識化していたことがわかります。
https://ja.wikisource.org/wiki/
刑法 (明治13年太政官布告第36号)

1880年
公布:明治13年7月17日
施行:明治15年1月1日(明治14年太政官布告第36号による)
廃止:明治41年10月1日(明治40年4月24日法律第45号刑法の施行による)
沿革(法令全書の注釈による)

第3節 附加刑處分
第31条 剥奪公權ハ左ノ權ヲ剥奪ス
一 國民ノ特權
二 官吏ト爲ルノ權
三 勲章年金位記貴號恩給ヲ有スルノ權
四 外國ノ勲章ヲ佩用スルノ權
五 兵籍ニ入ルノ權
六 裁判所ニ於テ證人ト爲ルノ權但單ニ事實ヲ陳述スルハ此限ニ在ラス
七 後見人ト爲ルノ權但親屬ノ許可ヲ得テ子孫ノ爲メニスルハ此限ニ在ラス
八 分散者ノ管財人ト爲リ又ハ會社及ヒ共有財産ヲ管理スルノ權
九 學校長及ヒ敎師學監ト爲ルノ權

上記の通り、旧刑法31条には国民の用語があります。
旧刑法とは現行刑法明治四十年刑法施行まであったものです。
この時点で既に「国民」という用語が採用されていたことに驚きますが、旧刑法制定の経緯を07/08/06「明治以降の刑事関係法の歴史6(旧刑法・治罪法1)(実体法と手続法)」前後で連載していますが、2006年7月8日のコラムを見直してみると、

「ボワソナードは、来日当初は自分で草案を作成せずに、気鋭の若手に講義する御雇い外国人そのものだったのです。
この講義を聴いた日本人が刑事関係法典の編纂事業に携わっていたのですが、うまく行かず、明治8年ころからボワソナード自身が草案作成に関与するようになったのです。
この作業は、フランス法を基礎としながらも、ベルギー、ポルトガル、イタリア各国の刑法案を参考にして編纂されたものでしたから、この刑法典は、ヨーロッパ刑法思想の最先端を集大成した法典化であるとも言われています。
この法典は約5年の歳月を経て結実し、明治13年(1880年)に太政官布告され、明治15年(1882)年施行されました。」

とあり、5年間も議論にかかったのは、ボワソナード民法が法典論争を引き起こしたように、何を刑事処罰し、刑事処罰しないか、且つ個々の刑罰をどの程度にするかは、他犯罪との比較が重要で民族価値観を敏感反映するものですから、国内価値観との調整などに時間をかける必要があったからでしょう。
例えば、古代から天皇家に対して弓をひくなど恐れ多くて許されないのは常識として武家諸法度その他法令が発達しても刑罰対象になるかの法定をしていませんでした。
例えば伊周の失脚の直接のキッカケは、(一般化されていますが、史実かどうか不明です)子供じみたことですが、女性問題で花山法皇の牛車に弓を射かけたというものでした。
朝廷に対する不敬罪を規定した御法度がなかったように徳川体制に刃向かう・謀反は当然許されない大前提でしたが、そういう常識的な御法度がなくて当然の社会でした。
これらも刑法で処罰関係が条文化されたものです。
もう一度旧刑法を見ておきます。

第2編 公益ニ關スル重罪輕罪
第1章 皇室ニ對スル罪
第116条 天皇三后皇太子ニ對シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス
第117条 天皇三后皇太子ニ對シ不敬ノ所爲アル者ハ三月以上五年以下ノ重禁錮ニ處シ二十圓以上二百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
2 皇陵ニ對シ不敬ノ所爲アル者亦同シ
第118条 皇族ニ對シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ處ス其危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期徒刑ニ處ス
第119条 皇族ニ對シ不敬ノ所爲アル者ハ二月以上四年以下ノ重禁錮ニ處シ十圓以上百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
第120条 此章ニ記載シタル罪ヲ犯シ輕罪ノ刑ニ處スル者ハ六月以上二年以下ノ監視ニ付ス
第2章 國事ニ關スル罪
第1節 内亂ニ關スル罪
以下略

明治憲法下の天皇制・・天皇機関説

明治憲法下の天皇大権を現憲法との質的違いを強調する立場では事実上の制約があったのと、法律上権限があるのとでは大違いだ・本質が違うということになるのでしょうが、
国民一般はそんな理屈ではなく、体感で天皇制を理解しています。
女性の地位を役員比率など単純集計して日本の女性の地位が低いと自慢する?論説が普通です。
メデイアが都市の優劣を偏った?指数化して調査した結果が時折発表されますが、いつも僻地の都市が上位に並び、大都市が劣位する調査結果です。
本当にその都市や農村が住み良ければ人口が増えるはずですが、人口減が進んでいる結果と合いません。
物事は特定の立場を有利化するために非合理な指数化しても意味がないということでしょう。
そのためにクオーター制をすべきという意見がありますが、そんなのはテスト問題を入手してその問題だけ猛勉強して有利な点を取ろうとするのと方向性が似ています。
女性が大事にされている実態で欧米と比べれば、日本が最も進んでいる・・何周回も先を進んでいます。
日本の家庭では女性が完全主導権を持ち、男の地位が低い分(基本的に阻害されています)穴埋め的に形式的に持ち上げられているだけです。
この辺は人権思想も同様で、人権が無視されすぎる社会が根底にあるから、フランスでは革命が起きたと繰り返し書いてきました。
日本では、乳幼児から弱者がとても大事にされる社会です・この結果、強いものの意見が通るわけではない・・公正な判断が最も尊重される社会になったのだと思われます。
強いからといって正しくない主張を押し付けられない社会です。
この辺が(米国も含めて)韓国や中国には理解不能・戦争に勝った以上は事実無根の主張でも強制できると思い込んで行動するところを日本人の正義感が許せないのが理解不能なのでしょう。
明治憲法下での天皇権力の実態を直視したGHQは天皇の戦争責任を追及しなかった(点はマッカーサーの功績です)し、長期に国民の支持を受けている天皇の権能・実態に合わせた憲法草案を提示していたことがわかります。
新憲法はこれを実態に合わせただけであって、戦前でもこの実態に合わせて天皇機関説が学問上の通説でしたし、昭和天皇自身それを支持していたのです。
だからこそ、現憲法はGHQによる事実上の強制とはいえ、国民意識に合致していたので、この分野(天皇制)に関する国民不満は(高齢化して耳が遠くなったかな?)一切聞こえてきません。
天皇機関説については以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC

日露戦争後、天皇機関説は一木の弟子である東京帝大教授の美濃部達吉によって、議会の役割を高める方向で発展された。すなわち、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた。美濃部の説は政党政治に理論的基礎を与えた。
・・この論争の後、京都帝国大学教授の佐々木惣一もほぼ同様の説を唱え、美濃部の天皇機関説は学界の通説となった。
民本主義と共に、議院内閣制の慣行・政党政治と大正デモクラシーを支え、また、美濃部の著書が高等文官試験受験者の必読書ともなり、1920年代から1930年代前半にかけては、天皇機関説が国家公認の憲法学説となった。
この時期に摂政であり天皇であった昭和天皇は、天皇機関説を当然のものとして受け入れていた。
天皇主権説との対立点
天皇主権説 – 天皇はすなわち国家であり、統治権はそのような天皇に属する。これに対して美濃部達吉は統治権が天皇個人に属するとするならば、国税は天皇個人の収入ということになり、条約は国際的なものではなく天皇の個人的契約になるはずだとした[3]金森徳次郎によれば美濃部は、天皇の発した勅語であっても主権者たる国民はこれを批判しうるとしていた[2]。
国務大臣の輔弼
天皇機関説 – 天皇大権の行使には国務大臣の輔弼が不可欠である(美濃部達吉『憲法撮要』)。
天皇主権説 – 天皇大権の行使には国務大臣の輔弼を要件とするものではない(上杉慎吉『帝国憲法述義』)。
国務大臣の責任
天皇機関説 – 慣習上、国務大臣は議会の信任を失えば自らその職を辞しなければならない(美濃部達吉『憲法撮要』)。
天皇主権説 – 国務大臣は天皇に対してのみ責任を負うのであり(大権政治)、天皇は議会のかかわりなく自由に国務大臣を任免できる(穂積八束『憲法提要』)
。当時の岡田内閣は、同年8月3日には
「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。」同年10月15日にはより進んで「所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず。」とする国体明徴声明を発表して、天皇機関説を公式に排除、その教授も禁じられた。

今の北朝鮮政府が連発する空疎な声明に似て、子供が喚いているかのような内容のない「過激」な単語を言い募るだけです。
「国体明徴」と言っても具体的内容のない感情論でしかありません。
当時の通説・天皇機関説によれば、輔弼が要件になっているので実質江戸時代や今と同じ(輔弼と助言承認の表現の違いがありますが)です。
倒幕の経緯から薩長政権にとっては「天皇は名目だけ」とは言えない・・観念論にこだわっていた点は、幕末の尊皇攘夷と同じです。
狂信的軍部が弾圧に動いたのですが、結局は軍部が壟断するだけ・天皇自身が複雑な政治をする実力がない以上は、天皇尊崇といっても文字通り狂信的願望にとどまる点は同じです。
上記の通り、新憲法と明治憲法では天皇の実質的地位や権能は変わっていないと思われます。
そうとすれば、今でも実質的意味の憲法に皇室典範が入っていると見るべきではないでしょうか?

明治民法5と扶養義務3

 

明治民法では、戸主が(世襲)財産を一手に家督相続し家の財産を握る制度設計でしたので、そのセットとして(一手に握った収入で)当然一家の構成員を扶養する義務がついて来ます。
江戸時代にはそこまで法定する必要がなかったのは、政府が生めよ増やせよと奨励したのではなく、事実上一人っ子政策の時代ですから、余分に生まれた弟妹の面倒まで国が強制して面倒見るまでの必要がなかったからです。
外に出てしまって無宿者になっても政府に何の責任もない・・実家も政府も無宿者が死のうが生きてようが、お互い無責任に放置しておけば良い社会でした。
人間扱いしないと相手もその気になるので治安が乱れ易い(ただし、いつか故郷に呼び戻される希望を繋いでいたので、独身者が多い割に犯罪率が低かったことを、04/21/10「間引きとスペアー5(兄弟姉妹の利害対立)」その他で書きました)ことと、衛生上死体を放置出来なかったことが主たる課題でした。
ただし、明治民法で創設した戸主・家長の構成員全員に対する扶養義務は、一家全員を養えるほどの資産を相続した場合にだけ合理性あるに過ぎません。
一家で養い切れない人数を生ませる子沢山奨励政策をして、養いきれない分を都市労働者として押し出す明治政府の政策の場合、遺産全部を一人で相続したからと言って、戸主は都市に出て行った弟妹が不景気その他の理由で一家全員を引き連れて帰って来たら、これを養える筈がないのです。
結局戸主の扶養義務と言っても、実際には自分と一緒に生活している核家族と老親に対する義務しか履行出来ないものだったことが分ります。
とは言え、明治政府によって国民は国の宝として、貴重な人的資源・労働力として複数以上の出産を奨励する(今もその延長的思考で少子化対策に精出していますが・・・)以上は、セーフテイーネットとしての扶養や相続問題を一家の好きなように放任しておけなくなります。
02/07/04「江戸時代の相続制度 7(農民)」で紹介したように、江戸時代には末子相続、姉家督相続・長子・婿養子相続など実情に応じた色々な形態の相続があったのですが、一人っ子を原則にする社会であったからこそ、数少ない例外事象では実情に応じた相続が円満に行われて来たとも言えます。
子沢山を公的に奨励する以上は、あるいはこれが原則的家族構成になってくると、家族ごとの自主的解決に委ねていると相続争い・主導権争いが頻繁に起きるのは必然です。

明治民法4(家制度1)

 

前回紹介した条文に出てくる家族とは、「其家ニ在ル者」すなわち現実に一つ屋根の下に同居していなくとも、「観念的な家」・・戸籍上同一戸籍に属すれば(分家しない限り)足りるようですから、戸主の弟夫婦が都会に出て別に住んでいても分家して一家を創立しない限りその家族・妻子も同一家族となりますので、今で言う同一世帯より広い意味となります。
本家分家の表現を聞いた方が多いでしょうが、一軒の家を分家・・物理的に解体して分けることはあり得ませんので、(今でこそマンションの発達で区分所有制度がありますが・・・明治時代の小さな木造家屋では考えられなかったことです)この表現は具体的な建物としての家ではなく観念的な家の制度を前提にしていることが明らかです。
また「家族」とは親子以上の広がりを持った感じです。
今で言えば端的に親子と書けば良いものを「家の族」・属にも通じる漢字を使ったのは、家の制度に包摂される親子以上に広がありのある一族「族=やから」を意味したからではないでしょうか?
ところで、明治の初め頃には生活・居住実態を表現する住民登録制度がなかったので、元は親子として一緒にいた子供や兄弟が元の具体的な家・建物を出て行ってしまった後までみんな血統に基づいて登録したままにしておくか、江戸時代のように目の前にいなくなったものを無宿者に(除籍)してしまうかの二者択一制にする必要がありました。
明治政府は、国民の管理上前者の制度を選択したのです。
ですから離れて住んでいて親兄弟にすら生きているのか死んでしまったかすら分らなくなったものまで家族を擬制していたので、その咎めがこの秋頃からマスコミを騒がせていた超高齢者が生存中であるかのように登録されたままとなった結果になったと言えます。
個人の識別特定のためには、血統に基づく戸籍制度によるのではなく、実態に合わせた住民登録制度あるいは、社会保険・年金番号制等個人識別制度に移行すべきであり、それで足りると言う意見を次々回以降のコラムで書きます。
明治民法で観念的な家の制度を法定し戸主の扶養義務をセットとして法定し、大正〜昭和と来たのですが、この矛盾が大恐慌に始まり国民の困窮が頂点に達した戦中戦後に頂点に達したと言えるでしょうか?
この点については、政府による宣伝・教育を信じて「いざとなれば故郷の兄が面倒を見てくれる」と思って実家に仕送りして来た次男や三男あるいは嫁に行った娘達が、大恐慌による失業や米軍の空襲に焼け出されてふるさとに帰ってみると、実家ではこれを吸収する能力のないことが証明されてしまいました。
この辺のことについては、04/04/05「都市労働者の増加と家父長制の矛盾2(厄介の社会化1)女性の地位低下2」その他で何回か書いています。
こうした矛盾激化と戦後民主主義との総合結果として、敗戦直後に民法改正前の民法応急措置法が制定され、戦後改正民法のあるべき家族のあり方として両性の本質的平等・家の制度の廃止・戸主や家督相続性の廃止を定めました。
戸主=男子による一方的な財産管理権とセットになった扶養義務は否定され、夫婦相互協力義務に変化したのです。

貨幣経済化と扶養義務2(明治民法3)

 

家庭内の権限集中のテーマ意識から、リーダーシップに話題が移ってしまいしましたが、2010-12-7「貨幣経済化と扶養義務1」の続きに戻ります。
権限・財力の集中が起きて来たから、扶養義務の観念が必要になったと言う問題意識のテーマです。
上記コラム出した例で言えば、収穫したトマトや野菜をその場で・家庭内消費する限り問題ないのですが、農業社会でも貨幣経済化・・・これを市場に出して換金するようになると、1家族の中で貨幣収入(あるいは外に働きに出られる人)のあるヒトと貨幣収入のないヒトが分化して来ますので、特定人がお金を握る代わり「扶養義務」を法で規定して行く必要が出て来ます。
貨幣経済化の進展がさしあたり外で働きに出られる男性の地位を高めた点については、Published on: Sep 3, 2010 「家庭外労働と男女格差」のテーマでのブログで書きました。
貨幣経済化の進展が経済力を戸主に集中するようになって行ったことが、我が国明治民法(明治31年)747条で戸主の扶養義務が法の世界に登場し、規定されるようになった経済社会的背景だったと思われます。
明治維新以降地租改正を基礎として急速に農村にも貨幣経済化の波が押し寄せたことについては、09/03/09「地租改正6(地券)」や秩父事件に関連して09/11/09「農地の商品化と一揆の消滅2」前後のコラムで連載しました。
ここで明治民法(戦前までの制度)の戸主とはどんな権限・義務を持っていたのか条文を紹介してお置きましょう。
民法第四編(民法旧規定、明治31年法律第9号)
(戦後の改正前の規定)
  第二章 戸主及ヒ家族
 第一節 総則
 第七百三十二条 戸主ノ親族ニシテ其家ニ在ル者及ヒ其配偶者ハ之ヲ家族トス
 2 戸主ノ変更アリタル場合ニ於テハ旧戸主及ヒ其家族ハ新戸主ノ家族トス
 第七百三十三条 子ハ父ノ家ニ入ル
 2 父ノ知レサル子ハ母ノ家ニ入ル
 3 父母共ニ知レサル子ハ一家ヲ創立ス
 第七百四十七条 戸主ハ其家族ニ対シテ扶養ノ義務ヲ負フ

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