戸主の扶養義務

これまで書いているように、農家の跡を継いだ長男(戸主)は、江戸時代同様に自分の一家族の生活を維持するのがようやくであって都会に出て行った弟妹が家族を連れて帰って来ても彼らの生活費を見られる筈がなかったのです。
(江戸時代には郷里を離れた弟妹の死体引き取りさえ出来なかったので、無宿者扱い・・除籍して来たことを繰り返し書いて来ました)
戸籍制度の確立は、この恣意的な除籍(無登録国民の続出)を禁止し、いざとなれば戸主の扶養義務を定め、全部国家管理の対象にしたことになります。
他方で都会に出た弟とその夫婦(家族)の生活費は、都会に出た弟自身やその妻等の稼ぎ・・給与や商工業の売り上げ等で成り立っていたのであって,田舎の戸主からの仕送りで生活をしていたのではありません。
(そんないい思いをしていたのは、太宰治のような大地主の息子の場合だけでしょう)
それなのに戸主権付与の見返りに扶養義務を法定されても、田舎に残った長男一家はどうにもなりません。
昭和の大恐慌に際して,倒産や失業して次三男一家が食い詰めて田舎に帰ると、田舎の実家ではこの面倒を見ることが出来ずに、戸主の扶養義務には実効性(観念制度に過ぎなかったこと)がないことが判明してしまいました。
戦後の民法改正以前に、旧法の家督相続制と戸主の扶養義務をセットにする設計は無理が露呈していたことを、04/04/05」「都市労働者の増加と家父長制の矛盾3(厄介の社会化2)」や11/17/06「人口政策と家督相続制度3(ペストと人権思想)」まで「のコラムで紹介しました。
戦前の戸主が戸籍記載者全員に対して扶養義務を負担する制度は、実態に合わず実際にはそれぞれの夫婦単位で生活を維持していたので、戦後民法では戸主の扶養義務を廃止して夫婦間の協力扶養義務とし、親族間の共助は背景に退きました。
家族法が戦後・核家族化・民主化されたと言っても、実態に合わせたにすぎなかったので、この制度改正が定着したのです。
この辺は、夫婦の扶養義務の歴史経過として書いて来たDecember 21, 2010「明治民法5と扶養義務3」の続きになります。
以下現行法を紹介しますが、戦前の戸主の扶養義務から夫婦間の協力扶助の義務に切り替わり、夫婦核家族の手に余る場合でも直系血族と兄弟姉妹間の相互的な扶養義務になりました。
理念的に言えば、上位者がいて一方的に扶助する関係ではなく、対等・相互扶助・お互いさまの関係になったと言えます。

民法(現行法)

(同居、協力及び扶助の義務)
第七百五十二条  夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。

第七章 扶養
(扶養義務者)
第八百七十七条  直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。
2  家庭裁判所は、特別の事情があるときは、前項に規定する場合のほか、三親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることができる。
3  前項の規定による審判があった後事情に変更を生じたときは、家庭裁判所は、その審判を取り消すことができる。
(扶養の順位)
第八百七十八条  扶養をする義務のある者が数人ある場合において、扶養をすべき者の順序について、当事者間に協議が調わないとき、又は協議をすることができないときは、家庭裁判所が、これを定める。扶養を受ける権利のある者が数人ある場合において、扶養義務者の資力がその全員を扶養するのに足りないときの扶養を受けるべき者の順序についても、同様とする。

扶養義務法定の背景

明治以降居候・厄介をやめてムラから外に出て行っても行方不明扱い・・除籍せずに、飽くまで一家の構成員として相互扶助関係を法で強制するようになった背景を考えてみましょう。
明治政府が特別な人権思想で戸主の扶養義務を創設したものではあり得ないので、それなりの必要性があったことになります。
明治以降政府が富国強兵策・「生めよ増やせよ」政策をとる以上は、跡取り以外の人材に対して、失業して野たれ死にするのは本人の勝手だとする無責任な政府の姿勢では国民が子沢山政治に協力しません。
そこで、跡取り以外の郷里を出た国民に対する何らかの保障が必要になってきます。
子沢山政策を支えた背景としては、実体経済的には、江戸時代とは違い、男子には兵士や炭坑労働者・各種工場労働者等新規産業用の需要が多くあったし、女子にも製糸・繊維工場の工員等としての需要があった結果、跡取り以外の国民の受け入れ可能・需要が伸びたことが大きいのですが、近代産業の場合、一定周期の好不況の波があり、また労働者自身の傷病もあって、労働市場からの脱落が一定割合で発生します。
また女性の場合、一定割合の離婚も発生します。
江戸時代には離婚は稀ではなくむしろ頻繁・気楽に行われていたことをどこかに書いたことがありますが、これは1男一女で人手不足の時代であるからこそ可能だったのです。
(稲作農業は主として女性労働力で賄われていたので、働き者の女性の場合戻ってくれば引く手数多で、女性の方からの離婚要求が多く、男性は仕方なしに離縁状にサインするしかない状態が続いていたのです・・間引き社会では女性が不足気味に推移していたことも大きな原因だったでしょう)
ところが娘が2人も3人もいる時代になってもしもしょっ中離婚して帰ってくると、親元でも再就職・再婚先をそうは簡単に見つけられません。
農村同士の婚姻・離婚の場合には、これに対応する嫁不足もありますが、(例えば10%の確率で離婚があれば、10%の確率で再婚相手を探す需要も起きます)都会の嫁ぎ先から帰った娘に対応する農村での需要はあり得ません。
その上、都市労働の経験が中心ですと農家の働き手としての能力不足ですので、性質上都会での仕事・再婚を探すしかないのですが、郷里の跡取りにはそんな能力は原則としてありません。
私の子供の頃でも、都会に出たもの同士の結婚は郷里の人の口添えで(同郷同士の結婚)相手が決まることが多かったものです。
そこで明治以降「離婚はとんでもないこと」だとする意識教育が行われるようになって行き、出戻りとして蔑む風潮も生まれて(処女かどうかもその頃から発達した概念ですし、男性も離婚するような男は信用されないとする意識も生まれました)これがうまく定着したので、これらの意識が江戸時代からあったかのように今では誤解しているのです。
最近は離婚経験をタブー視する風潮が薄れましたが、これは、都会人は都会人同士自分で相手を捜すようになったことが大きいでしょう。
誰も世話してくれない点は初婚も再婚も同じ土俵になりました。
離婚の場合は意識教育・・締め付けで離婚率をある程度引き下げられるので何とかなりますが、景気の波によって失業したり一定率で発生する病気するのは個人の努力や意識教育だけではこれを減らすことが出来ません。
波の来る度に度に飢え死にしたり乞食になるのを、個人の責任として放置していたのでは社会が持ちません。
失業・解雇を個人レベルで見れば日頃の業績・勤務態度の悪い順に対象になるとすれば、日頃の仕事ぶりが重要・個人責任ですが、これを全体で観察すれば、仮に全員が同じくまじめに努力していても不況が来れば一定率で余剰人員が出るのは防げないので、全体としてはこの種の道徳教育によることは無理のある立論です。
病気も個人の健康管理が重要としても大量観察すれば、繊維系工場では肺結核が大量に発生するなど職業病も多くあり、個人の努力だけでは解決出来ないことが明らかです。
現在では、この受け皿として労災補償・失業保険などの社会保険、個人的には生命保険等で賄われて・・最後は生活保護があるのですが、当時はこうした受け皿がなかった(政府には力がなかった)ので、親元をその責任者にするしかなかったのです。
以上の次第で、明治民法の扶養義務法定は、ショックアブソーバーとして(何かあれば帰ってこいよ・・)の親元の受け入れ奨励・義務化が必須だった事によると思われます。
その見返りとして、それまで法定されていなかったものの事実上行われていた長男の家督相続制が法定されたのでしょうが、これは事実上のものを法律上の権利にしただけで、長男には新たな利益ではありません。
とは言え、大恐慌のように一斉に失業して帰郷しない限り・・偶発的に離婚その他で帰ってくる程度・失業して帰って来てもⅠ〜2ヶ月でまた出て行くような場合、一応の役割は果たせていたのです。
今でも義務かどうかは別として、都市近郊に親がいる場合、失業すると次の職が見つかるまで親の家に戻っている例をJanuary 31, 2011「都市住民内格差5」のコラムで紹介しました。
ちなみに居候と厄介の違いは、居候は長期間同居を意味していて厄介は短期・臨時の場合だったでしょう。

明治民法5と扶養義務3

 

明治民法では、戸主が(世襲)財産を一手に家督相続し家の財産を握る制度設計でしたので、そのセットとして(一手に握った収入で)当然一家の構成員を扶養する義務がついて来ます。
江戸時代にはそこまで法定する必要がなかったのは、政府が生めよ増やせよと奨励したのではなく、事実上一人っ子政策の時代ですから、余分に生まれた弟妹の面倒まで国が強制して面倒見るまでの必要がなかったからです。
外に出てしまって無宿者になっても政府に何の責任もない・・実家も政府も無宿者が死のうが生きてようが、お互い無責任に放置しておけば良い社会でした。
人間扱いしないと相手もその気になるので治安が乱れ易い(ただし、いつか故郷に呼び戻される希望を繋いでいたので、独身者が多い割に犯罪率が低かったことを、04/21/10「間引きとスペアー5(兄弟姉妹の利害対立)」その他で書きました)ことと、衛生上死体を放置出来なかったことが主たる課題でした。
ただし、明治民法で創設した戸主・家長の構成員全員に対する扶養義務は、一家全員を養えるほどの資産を相続した場合にだけ合理性あるに過ぎません。
一家で養い切れない人数を生ませる子沢山奨励政策をして、養いきれない分を都市労働者として押し出す明治政府の政策の場合、遺産全部を一人で相続したからと言って、戸主は都市に出て行った弟妹が不景気その他の理由で一家全員を引き連れて帰って来たら、これを養える筈がないのです。
結局戸主の扶養義務と言っても、実際には自分と一緒に生活している核家族と老親に対する義務しか履行出来ないものだったことが分ります。
とは言え、明治政府によって国民は国の宝として、貴重な人的資源・労働力として複数以上の出産を奨励する(今もその延長的思考で少子化対策に精出していますが・・・)以上は、セーフテイーネットとしての扶養や相続問題を一家の好きなように放任しておけなくなります。
02/07/04「江戸時代の相続制度 7(農民)」で紹介したように、江戸時代には末子相続、姉家督相続・長子・婿養子相続など実情に応じた色々な形態の相続があったのですが、一人っ子を原則にする社会であったからこそ、数少ない例外事象では実情に応じた相続が円満に行われて来たとも言えます。
子沢山を公的に奨励する以上は、あるいはこれが原則的家族構成になってくると、家族ごとの自主的解決に委ねていると相続争い・主導権争いが頻繁に起きるのは必然です。

貨幣経済化と扶養義務2(明治民法3)

 

家庭内の権限集中のテーマ意識から、リーダーシップに話題が移ってしまいしましたが、2010-12-7「貨幣経済化と扶養義務1」の続きに戻ります。
権限・財力の集中が起きて来たから、扶養義務の観念が必要になったと言う問題意識のテーマです。
上記コラム出した例で言えば、収穫したトマトや野菜をその場で・家庭内消費する限り問題ないのですが、農業社会でも貨幣経済化・・・これを市場に出して換金するようになると、1家族の中で貨幣収入(あるいは外に働きに出られる人)のあるヒトと貨幣収入のないヒトが分化して来ますので、特定人がお金を握る代わり「扶養義務」を法で規定して行く必要が出て来ます。
貨幣経済化の進展がさしあたり外で働きに出られる男性の地位を高めた点については、Published on: Sep 3, 2010 「家庭外労働と男女格差」のテーマでのブログで書きました。
貨幣経済化の進展が経済力を戸主に集中するようになって行ったことが、我が国明治民法(明治31年)747条で戸主の扶養義務が法の世界に登場し、規定されるようになった経済社会的背景だったと思われます。
明治維新以降地租改正を基礎として急速に農村にも貨幣経済化の波が押し寄せたことについては、09/03/09「地租改正6(地券)」や秩父事件に関連して09/11/09「農地の商品化と一揆の消滅2」前後のコラムで連載しました。
ここで明治民法(戦前までの制度)の戸主とはどんな権限・義務を持っていたのか条文を紹介してお置きましょう。
民法第四編(民法旧規定、明治31年法律第9号)
(戦後の改正前の規定)
  第二章 戸主及ヒ家族
 第一節 総則
 第七百三十二条 戸主ノ親族ニシテ其家ニ在ル者及ヒ其配偶者ハ之ヲ家族トス
 2 戸主ノ変更アリタル場合ニ於テハ旧戸主及ヒ其家族ハ新戸主ノ家族トス
 第七百三十三条 子ハ父ノ家ニ入ル
 2 父ノ知レサル子ハ母ノ家ニ入ル
 3 父母共ニ知レサル子ハ一家ヲ創立ス
 第七百四十七条 戸主ハ其家族ニ対シテ扶養ノ義務ヲ負フ

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