戸籍と住所の分離2

住所の不安定な人・寄留者だけが(今で言う「実家・帰省先がどこそこです」と言うのと同様に)本来の籍=「本籍」と使っている時には、本籍は普通の言葉だったのですが、戸籍地にいる筈の実家自体が移動・本来の住所自体が移動した後も方便として新たに移動した住所を・・仮の場所に過ぎないとして届ける習慣が一般化してくると、新住所地と戸籍記載場所の不一致が多くなって来ます。
この段階で住所と本籍の分離が始まったと思われます。
住所不安定な寄留者のごとく、本来一家を構えている人まで「ここは本当の籍ではない」・・ひいては本来の籍はどこそこにあると言う言い方・・観念が発達したのではないでしょうか?
憶測をたくましくすると戸籍変更届があると、「寄留にしておいてくれませんか」(・・そうすれば戸籍の作り直しがいらないので・・・)と言う役人の都合による方便が一般化して来て、安定した住所のある人全員にまで、(本来は郷里を出た寄留者だけだったのが)本籍を記載するようになった始まりのような気がします。
住所変更の場合でも、住所寄留として届ければ戸籍を作り直さないで良いとなった段階から、住所の外に別に寄留者同様にどこに本籍があるかを書く・・(寄留者だけではなく)国民全部に本籍が存在するのが原則とするようになったと思われます。
ところで戸籍簿に本籍が記載されるようになったのはいつからかまでは、文献では調べきれないので、以下は憶測によるしかないと19日のブログで書いて以来、推測に基づいてこうなって行った筈式の文章を書いて来ましたが、2月21日、月曜日に少し時間があったので事務所の本で調べてみました。
いろいろ見ているうちに日本加除出版昭和54年発行、村上惺著「戸籍基本先例解説」を見ていましたら、50ページに
「戸籍の様式中に本籍欄が設けられたのは明治31年式戸籍からであり、それ以前は戸籍簿には住所を記載し住民登録としての性格をもたせ、人の身分に関する事項のみならず宗教、刑罰に関する事項等行政施策に供しうるものを登載していた」
とあり、同48ページには、
「本籍の概念は壬申戸籍以来存在していたわけであるが、壬申戸籍及び明治19年式戸籍は住民基本台帳としての機能を果たしていた。ところが社会経済の発達とともに国民の本籍と必ずしも一致しなくなったことから、明治31年に施行された戸籍法は、国民の身分登録簿としての性格に変革して来た。その後大正3年戸籍法の施行(大正4、Ⅰ、Ⅰ)されたのを機会に寄留法(大正3・3・31法27号)が新たに設けられ、本籍と住所との関係が名実ともに分離された。
従って、大正3年戸籍法施行以後は戸籍の索引機能として本籍を営むに過ぎないものとなったわけである。」
と書かれています。
ま、これまで推理に付き合っていただきましたが、推理を楽しんで来た結果とこの著作の意見とはほぼ100%一致していまることが分りました。
上記に書いてある壬申戸籍当時から本籍があったと言う点は、同時に始まった寄留簿には、帰省先・本籍を書くようになったであろうと言う推測に一致しますし、他方で戸籍簿自体に本籍を書くようになったのは、明治31年式戸籍からであると言うことは、この頃までに戸籍移動をやめて寄留届けが流行するようになっていた結果とする推測に一致します。
ただし、この引用部分は著者の意見であって、そこに条文まで引用されていないので事実か否かまでは分りませんが、戸籍の専門家が書いているので、ま正しいと見ていいでしょう。
今でも何代か続いた田舎の家が本籍地と一致していることが多いのですが、これが今や例外扱いのように思われていますが、元は住所地で編成していた名残です。
戸籍編成が始まったときは住所地で戸籍を作ったので戸籍記載場所と住所が一致し、不一致は寄留だけだったのが、明治31年時点では戸籍記載場所と住所とが分離するのが普通になって行ったことになります。
本来の住所変更を寄留として届ける習慣が根付いて行くと本来の寄留と住所変更による寄留の区別をして受付しないと、国民の実態把握が出来なくなるので、何時の頃からか実情をふまえて住所寄留と本来の寄留に区分した受付簿が出来て来たのでしょう。

戸籍と住所の分離1

傍系の子供まで際限なく書き込んで行く戸籍編成方法では、傍系が将来分家して行かない限り大変なことになって行きます。
江戸時代までは傍系(外に流れて行った弟らが)が子孫を増やして行くことは滅多になかったので、明治4年(壬申戸籍制度を命じた太政官布告は壬申の前年・4年でした)頃には、(江戸時代までの経験の上に将来を見通して考えていたのでしょうが、)その辺は想定外だったかも知れません。
分家するには家産の分与が前提となりますが、(食うや食わずの庶民にまで家の制度を強制したので)分家出来るような財産家は滅多にいないので、芋づる式に傍系がぶら下がる一方になっていました。
しかも明治4年当時までの産業の大多数が農業でしたので無意識に定住を前提としていて、その後に経済活動の活発化によって戸籍記載場所=住所移動が頻繁に起こってくることも想定していなかったのではないでしょうか?
このように考えて行くと、そもそも律令制導入とともに入って来た戸籍制度は口分田・・農地の配給の前提として必要な制度であったことが想起されます。
配給を受ける農民が他所へ移動することは前提になっていないし、耕地面積が一定としたならば、一家の人口が際限なく増えることも前提になっていません。
口分田・耕地配給制度は新田開発がない限り・・今で言えば分家して行かない限り無理な制度でした。
これが新田開墾に連れて私有地が増えて行き、班田収受法が崩壊して行った原因でした。
明治の戸籍制度は、耕地配給と関連がなくなっているので、いくら構成員が増えても、移動があっても良いと思ったかもしれませんが、DNAは争えないと言うか、元々移動前提の制度ではなかったので戸籍制度が重たくなり過ぎて、移動が激しくなるとついて行けなくなったと言えます。
戸籍制度は、戸籍=住所であり、それ以外は寄留地とする2段階制度で始まりましたが、戸籍と住所の分離が始まったのです。
浮浪するためではなく正規職業のための住所異動が頻繁になり、しかも戸籍簿が大部になって行くに連れて、住所移転=転籍の度に戸籍を書き換えるのは実務上困難・・現場から悲鳴が聞こえそうですから、転出先を「寄留として届けてくれないか」と言う窓口指導が多くなったように思われます。
寄留届けなら戸籍全部の移動ではなく、移動・寄留者の名簿登録だけですみますので、元の戸籍役場から送ってもらう資料もその関係者だけの一部証明で済みます。
こうして、人が移動しても戸籍の場所を滅多に動かさない習慣が根付いて行き、元は現住所で編成していた戸籍簿が、その後の住所・生活の本拠移転には対応しなくなった・・・戸籍記載場所と住所(寄留と称し)とは別にする運用・・制度が定着し始めたものと思われます。
何回も書いていますが、明治初年の戸籍作成当初は現住所と戸籍記載場所が一致していたのでしょうが、本当は住所=戸籍移転であるのに転籍手続きが大変なために届出上は学生の下宿先のような「寄留場所」とする便宜的届出習慣が一般化してきました。
その結果、カラになった戸籍記載場所と(実質的現住所)である寄留地と本来の仮住まいである寄留地の三元化になって来て,戸籍のある場所を(下宿しているような寄留者でもないのに)本籍と言うようになったのでしょう。
寄留届け出は江戸時代までの無宿者の受け皿として始まったので、寄留者にとっては本来の籍のあるところ・・親元の戸籍記載場所を本来の籍=本籍として届けていたと思われますが、(この辺の推測は18日のブログ冒頭にも書きました)この場合には本籍には親兄弟がいる前提でした。
本籍地は、親元を離れた寄留者・・臨時出先にいるもののみが、使う用語だったのです。
ところが一家そっくり引っ越した「住所」の移動まで寄留届出で済ますようになると、戸籍記載場所には誰もいなくなります。
この運用が定着し始めた時点で戸籍簿記載場所と本来の寄留との中間概念である住所と言う熟語が生まれて来たのではないでしょうか?
・・寄留の中には本来の寄留と生活の本拠=住所であるが、方便として寄留としているものがあること=住所寄留が一般化して来たので、その定義として本来の寄留と区別するために前々回(19日)紹介したような「生活の本拠」となったように思えます。
そのような区分け・・住所の定義が何時頃から生まれたかの関心ですが、現行民法財産編は明治29年成立ですが、これまで民法典論争で紹介しているように、反対運動が強かったために一回も施行されずに終わったのですが、旧民法が1890年(明治23年)に国会を通過・公布されています。
この旧民法の条文に既に住所の定義が出ていたかを知りたいのですが、図書館に行って調査しないと旧民法の条文をネットでは見られません。
他方で、戸籍記載場所が、「何とかの郷宮ノ前誰それ」程度の表記時代には、少しくらい家屋敷が移動しても同じままで良かったでしょうから戸籍表記が地番表記に変わってから、問題が大きくなったものと思われます。
戸籍の規模が次第に(傍系に子供が生まれるなど)大きくなって行った時期と地番表記が進んだ時期・・近代化が緒について住所移動が盛んになって行った時期を総合すると明治15〜20年前後がその境目だったかなと言う直感で(データにあたれないので)書いています。
生活の本拠たる住所概念が確定するとこの定義によって寄留との区別は分りますが、本籍との関係は不明のままです。
元々本籍は寄留者のために親の住んでいるところを現した用語ですから、親の住所の定義が出来てしまえば、戸籍の記載場所=本籍自体存在意義がなくなる運命だったのです。
このように戸籍記載場所には実態がない・・「空」になると、却って本籍と言う単語が何か価値のある言葉のように一人歩きを始めた印象です。
ちょうど家の制度が構想され始めた時期とこれが一致したので、「空」である分よけいに何か有り難いような・・神社など我が国ではは、何にもない空間が有り難がられる傾向がありますが・・特別な観念になって行ったのではないでしょうか?
何か有り難いものがあるかと思って家の制度の本拠地である本籍に行ってみると、風吹きわたる草むらだったと言うことになります。

転籍と寄留届け

ところで、どうせ寄留届けを出す必要があるなら引っ越した人にとっては本籍異動届でも良いようなものですが、本籍異動届では、(人別帳とは違い戸籍簿には)同居していない一族全部が記載されているようになったので、構成員全員の書き換えになるので手続きが面倒だったこともあるでしょう。
届ける方は簡単でも届けられた村役人の方が、その都度僅か10〜20番地違いの場所で新たに戸籍簿を造り直さねばならない・・外に出ている人の再確認などの必要性・・役人の方が面倒がっていたのかもしれません。
(今のようにまとめてコピー・ペースト出来る時代ではなく、すべて毛筆書きの手作業ですから大変です)
何十年に一回しかない農家の家の建て替えと違い、都市住民の場合、経済活動が活発化してくるに従って移動が頻繁となりますから、現に一緒にいる家族の居場所変更だけで良い寄留届出で済ます例がもっと多かったと思われます。
農家の建て替えのような同じ村内移動の場合、みんな知り合いなので「あなたのところの次男・弟さんはその後どうしてますか?」など・・質問も簡単ですが、都市住民の場合別の生活圏への移動が多くなります。
東京から大阪神奈川県(逆に地方から上京する場合が多かったでしょう)など遠くへ移動する場合、受け入れる役人の方では、同居している家族だけではなくその他の家族構成まではまるで知る手がかりがないので、新戸籍編成作業は困難を極めた筈です。
転籍すると従前戸籍の承継ではなく、転籍先の役場での「新戸籍編成」になるのは現在でも同じです。
(機会があればご自分の戸籍謄本を見て下さい・・婚姻あるいは転籍と同時に新戸籍編成と書いてあって、その当時に存在する戸籍内の人全部を記載して始まり、その後増減した家族の記載をして行くする仕組みです)
従前地の戸籍謄本を持って来させれば簡明で良いようなものですが、今のようにコピー機がないので、従前地の役人に(当時は毛筆です)一々全部書き写して貰って持ってくるとすれば大変な作業になります。
現在の戸籍謄本は家族構成も少なくて簡単ですが、前戸主から傍系の嫁や子供まで書いている戸籍謄本は何ページにもなる大部なものです。
私は職務の必要性から、いわゆる改正前原(ハラ)戸籍謄本(戦前までの家族法に基づく戸籍謄本)を職務上しょっ中取り寄せていますが、これらには、前戸主から戸主夫婦及びその子とその嫁や孫、弟らの嫁、その子・甥・孫の代までみんな入っている戸籍ですから(ご存知のとおり除籍された・・死亡や嫁や婿に行った人もその該当箇所に×上書きして戸籍記載にはそのまま残っています)何ページにもなっている大部のものです。
今はコピーで出てくるので5ページでも6ページでもそれほどの手間ではないですが、これを全部間違いなく手作業・それも毛筆で写すとなれば、大変な作業になります。
戸籍謄本交付制度が何時から始まったか知りませんが、(もしかしてコピー機以前のいわゆる(PCBをつかった)青焼きが発達してからのことだったかもしれません)かなり大変な作業であったことは間違いがないでしょう。
古くは平家納経、現在でも写経と言えば大変な作業ですが、何ページもある戸籍簿を正確に写し取ることはよほどの事態でもない限り出来ないので、誰でも気楽に申請さえれば(今では何百円ですがそんな安いお金で)発行するようになったのは、戦後大分経って機械化が進んでからのことかもしれません。
手作業・毛筆の時代には全部の写しは大変すぎるので、一部の記載証明で済ましていた時代が長かったと思われます。
(いわゆるお寺の過去帳を研究者が資料として見せてもらうことはあっても、お寺で書き写してまで貰えることは・・かなりのお礼をしない限り・・殆どなかった筈ですから、自分でメモして帰るしかなかった筈です・・今ではコピー機持参?)
現在の住民登録制度では、転出証明を持参して転入届けする扱いですが・・・明治の昔では持って来た文書の正確性の担保もない・・今のように電話で確認・問い合わせることすら出来ない時代です。
届出人自身からしても、自分の子の生年月日や婚姻日くらいは知っているでしょうが、(これも結婚式の日と届け出日はずれていることが普通ですので意外に分らないものです)甥姪の生年月日や名前や弟の婚姻日、嫁の名前やどのような漢字を書くかなどその他詳細を正確に知っている人は稀です。
仮に文書の真正の有無を確認するとすれば、受け入れた役所で持って来た文書をそのまま(当時は毛筆しかない時代です)毛筆でそっくり写して転入者の前住所の戸籍役場に郵送して正確かどうかの返事をもらうような手続きが必要になります。
これを繰り返すくらいならば、転入者が予め写しを持って来ても無駄ですから、受け入れ役所の方で、転出して来た前住所の役所へ連絡して写しを送ってもらう形式になって行ったのでしょうが、いずれにせよ元の役所の方では大変な手間になりますし、受け入れる方も送って来た文書を元にもう一度転入者を呼び出して現状の事実・・・・・送って来た戸籍簿の写しに記載している外の事情・・甥姪などその後の結婚や死亡者がいないか嫁や婿に行ったものや生まれた子供がいないかなど・を確認する必要があるので双方の役所で膨大な手間がかかります。

宗門人別帳から戸籍へ

人民管理の方法として、それぞれの現住所を基本としながらも一戸を単位とする方式を取ったので、(都会に出ていても戸籍整備時にそこで既に一戸を構えていたり、親兄弟が死亡していればそこを基本として戸籍を作ったのでしょう)戸籍(それまでの個人別の人別帳との違いです)と言う名称になっているのですが、本籍と言う熟語も戸籍編成時の最初は現住所を登録したのが始まりで、その後そこを本拠地・本籍として行ったものと思われます。
ちなみに「帳」から「籍」になったのは記帳・登録後移動があった時には、同じ箇所に変化した事柄を貼付けて使うようにしたからではないでしょうか?
仮に元の先祖の本拠地まで詮索することにすると、みんな500年、千年前の出身地を探し出さねば本籍地が決まらない事になってしまいますので、現実的な方法とは言えなかったからです。
現住所に限定せずに、3代前まで、あるいは4代前に家を構えていたところと言う一定限度で区切る方法もあり得たでしょうが、どこで区切るかの議論自体無駄ですし、これをしているとその証明が困難なうえに手間ひまがかかりすぎます。
明治維新直後で、まだ公務員さえ江戸時代の組織そのまま流用の時期ですから、人別帳を管理していた同じ村役人がその任に当たったと見るべきですし、宗門人別帳に既に記載されている人はそのまま横すべり・・引き写して、これに若干の修正を加えていたと見るべきでしょう。
明治に戸籍制度が始まったと聞くと何もかも新たに作ったような印象ですが、徳川期の宗門人別帳(お寺による宗旨のお墨付き→村役人管理・年一回調査義務がありました)がかなり完備していましたので、これを国家直接管理の従来の人別から1戸単位に戸別の籍に編成し直す(記載事項が少しづつ違って来ますが母体があったのです)のが中心の仕事だったとも言えます。
東京の環状7号線を作っている時にその道に沿って往来していた事がありますが、イキナリ何もないところに作ったのではなく、細い道が途切れながら今の環7通りを縫うように走っていました。
それを拡幅したり途切れたりしているところを繋いだりして環状7号線が出来て行ったのです。
ですからそれまで池袋に帰るための抜け道として利用していた我々にとっては工事中は却って利用出来なくなって大変なマイナスでした。
同じ事は千葉を通っている国道16号線の工事にも言えます。
ちょうど宇都宮から千葉へ引っ越すために道路地図に従って、鬼怒川沿いに南下して行き岩井の橋を渡った後は、一路南下して行けば良いと思って進んでいたところちょうどその道が現在の16号線に拡幅されたり繋がったりする工事途中だったために却って、あちこち迂回させられて大変な思いをした事があります。
煬帝の運河もスエズ運河もパナマ運河もすべて、元それなりのものがあった場所を開鑿して繋いだものです。
国家直接管理を目指したと言っても、イキナリ国家公務員を全国の村々に派遣出来ませんので結局は従来通り村役人にその整備を命じていた筈ですから、人別帳の管理をしていた同じ人が今度は作り方がこのように変わったと言う指示受けていただけの事になります。
郡県・市町村制度が完備して行くのは大分たってからですし、人材に至っては旧藩時代の人材を名前を変えて使っていた・・藩知事を罷免しただけで家老・参事以下はそのままだった事を廃藩置県のコラムでも少し書きました。
庚午戸籍や壬申戸籍では屋敷地番別に書いていたり、壬申戸籍までは宗教や檀家寺などをまだ記載していたのは宗門人別帳管理者がその系譜を引く・・引き写しプラスファ(村の人でなくと分りよいように職業や資産・売上高から身体の特徴その他何でも最初は書き込んでいたようです)が中心だったからです。

戸籍制度整備2(芋づる式)

従来の無宿者をどのようにして登録するかについては現地調査による方式と、無宿者扱いをやめさせて親元で登録を維持することの2方式が考えられますが、前者の場合当時は現地登録するには都会の住まいは安定していない人の方が多かったことと、現住所を確定して行く作業・・しらみつぶしに調査するのは大変なことになります。
現地調査から入って行くとその間に住所移転があったりして・・動き回っているひよこの数を数えるようなもので大変ですし膨大な調査員が必要です。
例えば現在でも、銀座や新宿の雑踏の中で行き交う人を捕まえて東京の人口を特定をするのは不可能で、どこかの住所等から芋づる式に特定して行くしか方法はないでしょう。
このように書いていると、数十年前に白血病の事件をやっているときにある時点での白血球・赤血球の数値が問題になった時の事を思い出しました。
データの正確性を検証しようとしたところ、血液を採取して顕微鏡でのぞいて動き回っている白血球だったか赤血球だったかを目で追いかけて大体の数を数えると聞いて驚いた事を想起します。
そのときの説明では一定量だけ数えて後は倍数を掛けて計算するので如何にも緻密な端数まで結果が出るのですが、その前提は殆どいい加減な認識によるものです。
勿論同じ医師が何回も採取して数えればその変化のグラフは同じ比率で変動します・・2〜3割の誤差のある医師の場合同じ比率で、多め少なめの傾向も数値が同じように変動するのでそれで良いのかもしれません。
しかし、前後の流れから見て途中の数値に間違いがあったのではないかの疑問による検証作業の場合、写真にとって固定して数えて置かないと、データの正確性についての検証の方法がなく、そんないい加減な事で良いのかと驚いたものです。(今は知りませんが・・)
話を戻しますと、一戸を構えている親元を特定した上で、そこから芋づる式に特定して行く場合、出先でまだ一戸を構えていない子らを無宿者扱い・除籍さえやめさせれば自動的に親元に名簿が残るので把握が簡便です。
しかも親に東京や大阪にいる息子や娘などの居場所を申告させて、後に紹介する寄留簿(現在の現住所登録)を作って行く方が簡便ですから、この方策がとられたのは自然の成り行きですし、これが同居していないものまで家族に組み入れるというか残して行くことになった始まりと言えます。
ちなみに、このまま無限に残して行くと大変になったので、死亡した時には除籍する制度が出来たのは戸籍法中出生死去出入及寄留等届出方並違背者処分 (明治19年9月28日内務省令第19号 )と戸籍取扱手続(明治19年10月16日内務省令第22号 ) による大改正によるものです。
平行して都会の未定着の住まいは親の申告に基づいて都会地の役所自体が寄留地として管理・・徐々に整備して行き、この寄留簿どおりかについて役人が確認して歩き同じ長屋に寄留簿のない人がいれば確認してその人だけ身元調査すれば良いので寄留簿の完備も簡単です。
(これが後の寄留簿・・現行の住民登録制度に結実して行ったと思われます。)
中には親兄弟がいない人もいるでしょうが、そういう人には独立戸籍を作ればすむことです。

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