宗門人別帳から戸籍へ

人民管理の方法として、それぞれの現住所を基本としながらも一戸を単位とする方式を取ったので、(都会に出ていても戸籍整備時にそこで既に一戸を構えていたり、親兄弟が死亡していればそこを基本として戸籍を作ったのでしょう)戸籍(それまでの個人別の人別帳との違いです)と言う名称になっているのですが、本籍と言う熟語も戸籍編成時の最初は現住所を登録したのが始まりで、その後そこを本拠地・本籍として行ったものと思われます。
ちなみに「帳」から「籍」になったのは記帳・登録後移動があった時には、同じ箇所に変化した事柄を貼付けて使うようにしたからではないでしょうか?
仮に元の先祖の本拠地まで詮索することにすると、みんな500年、千年前の出身地を探し出さねば本籍地が決まらない事になってしまいますので、現実的な方法とは言えなかったからです。
現住所に限定せずに、3代前まで、あるいは4代前に家を構えていたところと言う一定限度で区切る方法もあり得たでしょうが、どこで区切るかの議論自体無駄ですし、これをしているとその証明が困難なうえに手間ひまがかかりすぎます。
明治維新直後で、まだ公務員さえ江戸時代の組織そのまま流用の時期ですから、人別帳を管理していた同じ村役人がその任に当たったと見るべきですし、宗門人別帳に既に記載されている人はそのまま横すべり・・引き写して、これに若干の修正を加えていたと見るべきでしょう。
明治に戸籍制度が始まったと聞くと何もかも新たに作ったような印象ですが、徳川期の宗門人別帳(お寺による宗旨のお墨付き→村役人管理・年一回調査義務がありました)がかなり完備していましたので、これを国家直接管理の従来の人別から1戸単位に戸別の籍に編成し直す(記載事項が少しづつ違って来ますが母体があったのです)のが中心の仕事だったとも言えます。
東京の環状7号線を作っている時にその道に沿って往来していた事がありますが、イキナリ何もないところに作ったのではなく、細い道が途切れながら今の環7通りを縫うように走っていました。
それを拡幅したり途切れたりしているところを繋いだりして環状7号線が出来て行ったのです。
ですからそれまで池袋に帰るための抜け道として利用していた我々にとっては工事中は却って利用出来なくなって大変なマイナスでした。
同じ事は千葉を通っている国道16号線の工事にも言えます。
ちょうど宇都宮から千葉へ引っ越すために道路地図に従って、鬼怒川沿いに南下して行き岩井の橋を渡った後は、一路南下して行けば良いと思って進んでいたところちょうどその道が現在の16号線に拡幅されたり繋がったりする工事途中だったために却って、あちこち迂回させられて大変な思いをした事があります。
煬帝の運河もスエズ運河もパナマ運河もすべて、元それなりのものがあった場所を開鑿して繋いだものです。
国家直接管理を目指したと言っても、イキナリ国家公務員を全国の村々に派遣出来ませんので結局は従来通り村役人にその整備を命じていた筈ですから、人別帳の管理をしていた同じ人が今度は作り方がこのように変わったと言う指示受けていただけの事になります。
郡県・市町村制度が完備して行くのは大分たってからですし、人材に至っては旧藩時代の人材を名前を変えて使っていた・・藩知事を罷免しただけで家老・参事以下はそのままだった事を廃藩置県のコラムでも少し書きました。
庚午戸籍や壬申戸籍では屋敷地番別に書いていたり、壬申戸籍までは宗教や檀家寺などをまだ記載していたのは宗門人別帳管理者がその系譜を引く・・引き写しプラスファ(村の人でなくと分りよいように職業や資産・売上高から身体の特徴その他何でも最初は書き込んでいたようです)が中心だったからです。

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