東日本大規模地震1

 

(1)大地震被災者へのお見舞い
今回の大規模被災後、津波前の市街地が池や海あるいは干潟のようなってしまった惨状を見ると敗戦後の東京等大都市が焼け野が原になった写真よりもひどい状況で、言葉も出ない状態です。
しかもこの惨状が海岸線約200kmに及ぶのですから、その救援と言っても容易ではありません。
九死に一生の難を逃れた被災者の方々の肉親や身近かな人を失った悲しみだけでも想像に絶するものがあります。
根こそぎ流された状況から見ると自営業者だけではなく、勤務先であったであろう地元の事業所までなくなってしまい、被災者のほとんどが生活の全手段を失っていると思われるので、(私の家族も私が赤ちゃんの頃に東京大空襲で焼けだされました)緊急事態が終わった後には居住地の変更や職種転換を含めて大変な苦難が待ち構えていることを考えると、もしもこれが自分であったなら・・と想像するだけでもくじけそうな気になるのは私だけではないでしょう。
しかし、敗戦時と違って列島全部で見れば大多数の地域が被害を全く受けていないうえに、国力は敗戦時の比ではありませんから、国全体での助け合いの精神・工夫次第となります。
被害に遭われた人々と心を一つにして、文字通り同胞(おなじはらから)としての心で、彼らの再起にみんなで暖かく息長く協力して行きたいものです。
彼らの居住空間の復活とその後の息長い職種転換を援助する方策の充実・・それには国民の多くが支援する心を維持して行く必要があるでしょう。

(2)大地震後の当事務所の執務体制についてのお知らせ

事務所自体は、書類等が散乱したリ食器類がほぼ全部壊れた被害程度で今回の地震によって特段の被害を受けておりませんので、通常通りの執務を予定しております。(当面お茶を出せませんのであしからず)
しかしながら、計画停電等が実施される運びになっているなど、インフラ面での制約がいろんな方面で生じることが予想されるために、(さしあたりお弁当が配達されるかも分らないし・・外食産業もどうなるやら)月曜日(本日)以降、場合によっては予定が変更になることもあり得ますので、当面は予め電話確認等の励行をお願いします。
また、当事務所が一定時期までに行うべき事務処理が少し遅れる場合もあり得ることをご了承下さるようにお願いします。
ちなみに3月14日・月曜日の事務所の停電予定時間を調べると事務所付近では停電計画がないようですのでご安心下さい。
(毎日予定が変更されるようです)
計画停電時間帯はネットどころか電話もファックスも繋がらないことになるのかな?
真っ暗闇での仕事もできないのでみんな早く家に帰れて身体には良いのですが、(街灯がついていないので真っ暗な道を歩いて帰るのかも・・いろんなことが未体験ので想像がつきませんが)せっかく早く帰っても家の中が真っ暗でお風呂にも入れない(ガスがリモコン・電気で点火する仕組みですから)とは驚きです。
私の自宅の場合、4時間近くもテレビもなければ新聞も読めない暖房もない真っ暗な生活は今のところ想像を絶しています。
今の生活は電気に何もかも頼っているのが分ります。
電気のない体育館で避難している人たちは大変だと思っていましたが、思いがけないお裾分け・・共感の時間が与えられたのは、天の配剤でしょうか?

宗門改めから戸籍整備4

徳川政権で認められていた仏教寺院の宗門人別改め権限(・・このときでも登録は名主層等村役人の仕事でした)を取り上げて、これを神社に移管した象徴として前回紹介した太政官布告が一般的に紹介されているようですが、実態は違うようです。
国民管理構想は壬申戸籍どころかその前の明治2年6月4四日民部官達をもって府県に対し示した、京都府編製の戸籍仕法書(長州藩の制度が採用されたとか言います)が頒布されて全国施行された庚午戸籍(明治3年3月施行)に始まるようですが、このときから既に名主等の旧組織利用による言わば行政府が独自に管理する方向で準備が進んでいたもので、江戸時代との違いはお寺抜きになっただけです。
戸籍制度の直後に布告された前回紹介の布告が宗教選別権をお寺から取り上げて神社に与えた布告であるとは一概に言えないでしょう。
全国版ではないので法令とは言えませんが、明治政府は天皇の行幸に間に合うように東京だけの戸籍管理を応急的に実施していますが、この段階で既にお寺経由ではなく、名主制に代えて年寄りの仕事になっていたこと(お寺や神社の関与がなくなったこと)が分ります。
この戸籍管理は、東京には脱藩浪人や失業武士が溢れていて治安に問題があったので、(治安維持名目に旧幕臣を中心に彰義隊が結成・鎮圧された経過を想起しても良いでしょう)彼ら旧幕臣ら失業武士の実態把握・・第一に治安確保目的に人別管理を行うために急遽実施していたのがその基礎にあります。
今でも地域の交番は、域内居住者の動静把握に熱心ですが、治安維持にとって先ずどこにどういう人が住んでいるかの情報把握こそが、基礎・第一歩です。
以下は、http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/koseki_nihon_k1.htmからの引用です。
「東京では明治2年〔1869年〕3月ころに「東京府戸籍編製法」と「戸籍書法」(以下これを二法という)が施行されていた。
 それは同月の天皇の東京行幸と遷都に関し、東京の都市下層窮民の救済と無禄無産の者の取締、総合すれば治安対策のために制定された。
 とりわけ「脱藩者」への取締が急務となっていた。彼らが生活に窮し暴動など起こされては遷都自体が無意味になるからである。
 同月10日に市中改正により旧名主が廃止され、彼らの入札により中年寄、添年寄が任命され、50区制が発足した。彼らの第一の仕事が帳籍編製だった。まず、「現在人別調」をこの時点ですでに「入別入」している者と「無人別」の者とに分け、別々の帳籍に登載して把握するというものであった。
 こうして把握された「脱藩者」などが全国各地の開墾事業に動員されたのである。
現在、静岡県では茶の栽培が有名であるが、これもそのときに行われた旧武士階級の救済のためのものである。」
とあります。
明治政府は元々脱藩者・・浪人・武士の失業者は存在自体が危険な存在としてどこに誰が住んでいるかの実態把握を急いでいたので、彼らが真言宗か浄土宗か(仮に切支丹であっても)にあまり関心がなく、先ずは誰がどこに住んでいるのかの実態把握を急いでいたのです。
その記録ついでに、宗派も分れば良い程度であって、お寺による宗教に関するチェック機能を事実上問題にしていなかったと見るべきでしょう。
宗門改めのお触れをMarch 4, 2011「牢人から浪人へ」のコラムで紹介しましたが、江戸時代初期以来刃物を持った武士の失業者は、切支丹同様に危険視されていたのです。
天草の乱も浪人が関与しなければあそこまで大きな事件にならなかったでしょうし、明治になってから起きた上野の山の彰義隊の戦い・各種不平士族の反乱は士族がいなければ事件にならなかったし、有名な秩父困民党事件も浪人・失業士族が絡んで騒ぎが先鋭化したものです。
現在のリビアの争乱も、デモ隊側に寝返った元兵士がデモ隊側に参加し、内乱の様相を呈してくると政府軍側も丸腰の民衆・デモ隊相手とは違い武装兵士相手なら思い切って銃火器の使用をしやすくなり、却って争乱が長引き・・一種の内乱状態に発展してこれまでアフリカ諸国で長引いた内乱に似た状態になりかねないリスクを抱えています。

戸籍制度整備3と連座制の廃止

 

親元から系統を辿って国民を把握して行く芋づる式方式は、February 16, 2011「戸籍制度整備2(芋づる式)」で書いたように早期に国民を把握するには適していましたが、実際に一緒に住んでいない人まで一つの戸籍に登録すること自体が観念的な取扱ですから、親元に記録する戸籍制度が出来たときから、観念的な家の制度に発展しやすい素地を持っていたことになります。
庚午戸籍あるいは壬申戸籍は、その前提として各戸の存在する場所での現状登録(戸籍作成時の居住地=本籍)を基本とし、そこから出て行って現に同居しなくなった元の未成熟の子(成人した人)までこれに併合して登録するようになったとしても、最初は直系血族だけだったので、今の核家族とほぼ同様で大したことがなかったと言えます。
しかし、この仕組みでは外に出た子の子(孫)まで登録して行き、その後、親(祖父母)が死亡して長男が次の戸主になっても、長男の甥姪(傍系)までその戸籍に記載されたままなってしまい、これを繰り返していくと一戸籍に傍系の傍系まで広がって膨大な数の人が登録されて行く事になります。
この結果転籍手続きが重たくなってしまい寄留簿の流用に繋がって行ったことを20日前後に書きました。
急激な社会変革・・維新進行による旧来の共同体意識解体に対する不満勢力・・醇風美俗を守れと言う反動思想を押さえ込むために、新たな家集団の編成を唱えれば便利だったことから、新戸籍制度による膨張体質が家の制度の説明に結びつき「家の制度」と言う大層な観念が生まれて来たように思われます。
明治政府は国を家に擬制した国「家」と表現し、ムラの内部の集落を字(あざ)と言って、あたかも人為的につくった行政組織である村を親に見立てて従来からあった集落をその子のようにしてしまい、(26日に少し書きましたが「字」の漢字の意味は家にいる子と言う意味ですが、これについては村と邑の違いを書く時に再論します)何もかも家の仕組みに擬制して行きます。
徴兵、徴税その他の目的で、国民に対する国家直接管理が進んで行った結果、郷里を出て行っても出身地の名簿(戸籍)から抹消できなくしたのが新たな戸籍制度ですが、その代わり刑事での連座制が廃止されました。
それまでは累が及ぶのを恐れて除籍していたのですから、除籍を禁止するには連座制を廃止するしかなかったでしょう。
忠臣蔵で仇討を決意した大石内蔵助が妻子に累が及ぶことを恐れて離縁状を書くシーンが有名ですが、明治の40年の刑法では個人責任主義に徹していて、家族の名簿に載っているだけで連座責任を負うことはなくなったのはこうした背景があります。
(たまたま、昨年12月14日赤穂浪士の討ち入りの日の午前に東京地裁の弁論があったので、その終了後に三宅坂の国立劇場に回って「仮名手本忠臣蔵」・・討ち入りを含む通し狂言(幸四郎と染五郎外一門出演)を見て来ましたが、この離縁のシーンはありませんでした・・元禄忠臣蔵で出てくる場面だったかな?)
ちなみに、私ごとですが最近結構な歳になって来たので、仕事ばかりではなく東京地裁の事件が午前中にある時には、直ぐに事務所に帰らずに弁論終了後(証人尋問ん問う長いときは別ですが・・・)に妻と日比谷の松本楼でゆっくり食事して、近くの日生劇場その他開演時間の合う劇場へ行って演劇等を楽しむことにしています。
話を連座制に戻しますと連座制の歴史が長かったので、今でも借金その他不祥事・刑事事件があると離婚した方が良いかの相談を受けることが結構あります。
(先に離婚届を出してしまってから相談に来る人もいます)
連帯保証さえしていなければ夫婦であることと夫の借金とは関係がないと説明するのですが、November 22, 2010「男の存在意義3」その他で「金の切れ目は縁の切れ目」のテーマで書いているように、妻の方はこの機会に離婚したい本音がある場合もあって実際は色々です。

戸籍と住所の分離4

戸籍と本当の住所の乖離が進行する状態・運用がどの程度進行していたかに戻りますと、明治29年民法制定時には、この実態が進行していて先行していて実態に合わせるだけになったから、民法と同時施行になった明治31年式戸籍法では戸籍から住所記載をイキナリ全面的にやめることが簡単に出来たように思えます。
その直前の旧民法(明治23年公布)ではどうなっていたかについては、有斐閣の注釈民法(昭和48年初版の「住所」の総説や新版注釈民法(昭和63年初版)の「住所」の総説に少し紹介されています。
これを読むと、旧民法はフランス方式のインスチチュート方式で編纂されていて住所に関しては、
 旧民法人事編226で「民法上ノ住所ハ本籍地ニ在ルモノトス」
 同第266に「本籍地ガ生計ノ主要ナル地ト異ナルトキハ主要地ヲ以テ住所ト為ス」
とあったようです。(新版注釈民法334ページ)
住所の定義について、旧民法では「本籍地」と第一義的に決められる方式ですので、これを形式主義だったと上記注釈では書いているのですが、「生計の主要地をもって住所とす」と言う修正条文もあるので、言わば折衷主義だったと思われます。
上記の通り旧民法でも住所は第一義的に本籍を住所とし生計の主要なところが別になっている時にはそこを住所とすると言うのですから、旧民法編纂作業の頃(明治10年代以降)には、戸籍のある場所から便宜寄留名目で実際には住所移転している人がかなり増えて来て、戸籍のある本籍だけ住所とする画一処理が出来なくなった状態・・実情を無視出来なくなって来た・・過渡期の状態を表しています。
これが、現行民法(明治29年成立)になると19日に紹介したように「生活の本拠」として実質主義に変化しています。
これは、この頃(現行民法編纂作業は明治26年から始まり29年には国会通過です)には戸籍と本当の住所と一致する人が殆どいなくなってしまい、本籍を基準とする形式主義が折衷的にも維持出来なくなって来たことを現しています。
ところで住所は人の属性の問題として旧民法では人事編にあったのですが、現行民法では折柄発表されていたドイツ民法第1草案・・概念法学のパンデクテン方式です)を基本的参考にしたために、(この結果我が国ではドイツ法学が隆盛を極めることになります)住所が人事編だけの定義ではなく、明治29年成立の現行民法では総則に入って全体の基本概念に昇格したように思われます。
ところで、住所の定義が現行民法では「人」の次に配置されたのは、我が国は農耕・定住社会が長かったので、人の特定には「どこそこの誰それ」と言う名乗りが普通でしたし、政府も国民の特定には氏名・年齢・職業・親兄弟の氏名などの外に、住所を重視していた面もあって国民の特定には住所が最重要要素だった歴史によるところが大きかったかもしれません。
現在でも刑事事件の開始にあたっての被告人に対する人定手続きは、本籍、住所・氏名生年月日・職業の質問で行っています。
後に書いて行きますが、アメリカなど保険番号などによる特定で足りるので戸籍制度はありませんし、5〜6年前から韓国でも戸籍制度を廃止しています。
移動の盛んな現在では住所や親の住所による特定自体が意味をなさなくなって来たからでしょう。
業務上初対面の相手を知るのには、親兄弟が誰か出身地などはまるで意味がありません。
現在の名刺に企業名や役職を書いているのは、これこそが真に必要な情報であるからです。
(名刺の住所電話番号を見るのは何か連絡したいときだけですし、その時必要に応じて見ながら書き写すだけですので一々記憶している人は皆無に近いでしょう。)
明治民法の大家族制度・・観念的な家の制度がその他の諸制度との矛盾をはらみながらも一応概念上だけでも成り立ったのは、このような観念的・・現実に何ら関係のない本籍と言う概念が事実上生まれていたところを有効利用・・観念と観念の組み合わせだったからこそお互いに有効利用できたとも言えますし、この時に家の制度が出来なければ、国民の管理は住民登録制の完備だけで済むので戸籍制度は不要・・この時点でなくなっていたかもしれません。
実際、今でも何のために本籍があり住民登録の外に戸籍簿が必要か、理解に苦しみます。(その関心でこのシリーズは書いています)
もしも、明治31年以降の戸籍制度が家の制度を支える物理的骨組みであったとすれば、戦後家の制度を廃止した時に、本籍を中核とする戸籍制度も廃止すべきだったのではないでしょうか?
戸籍制度は、国民の管理把握のためには当初必要な制度でしたが、その内寄留簿に集約されて行って国民管理の機能としては戸籍の役割がなくなっていたのです。
今では本籍地を届けるには、自分の住所でもない親のいる場所でもない、何らの関連性も問われない・好きなところを届ければ何の根拠も不要で、受け付けてもらえる仕組みです。
それでも婚姻による新本籍地の届出に際しては、親の戸籍所在地をそのまま届ける人と婚姻時住所で届ける人が多い・・全く関係のない千代田区霞が関何丁目・・番地と届ける人は皆無に近いでしょう・・のは、前者は明治の初めに一般的であった新所帯では寄留簿登録していた時代の名残であり、後者は今更寄留(仮住まい)ではない、自分たちの住むところが生活の本拠であるとする自信のある人がそこで戸籍を作った名残です。
生活の本拠=住所を本籍とする明治の戸籍制度開始当初の意識が今でも強いことが分りますが、婚姻時の新居・現住所を本籍として届けるだけではなく、転居の度に本籍も移動する人がいますが、こうなってくると問題の所在が明らかになってきます。
同時に二つの届け出が何故いるのか?と言う疑問です。
逆説的ですが、戸籍を作った当初は一種の核家族直系だけの記録だったのが、時間の経過で傍系まで記録するようになって行き記載が複雑すぎて・・太らせ過ぎて戸籍の移動には手間ひまがかかり過ぎるようになった結果、(転居の都度戸籍新編成が難しくなった)移動に不便になってそのまま残されてしまうことになりました。
移動から取り残された結果、本籍地とは何を意味するのか・・先祖代々の本拠地と言えるかと言うと、せいぜい明治維新当初の住所地(今では婚姻届け出を出した時点の住所?)を現すに過ぎないのですから、存在意義が不明になってしまいました。
本籍地には親類縁者が一人もそこにいないなど本籍の意味が空虚になり過ぎたので、却って何のために本籍・・ひいては戸籍制度が必要かの疑問を持つ人が(私だけかも知れませんが・・元々その疑問があったのでこのシリーズを書いています)になって来たのです。

戸籍と住所の分離3

 明治4年の2つの太政官布告で戸籍簿と寄留簿の二本立てで始まった国民管理制度の内、時代の流れに合致していた寄留簿の方が発達して肥大化して行き、戸籍簿の方は逆説的ですが肥大化し過ぎた結果空洞化が進み、その結果が明治31年式戸籍だったことになります。
前回紹介した本では「社会経済の発達とともに国民の本籍と必ずしも一致しなくなった・・」と書かれていますが、私が21日まで推測を逞しくして書いて来たように、律令制下で農地配給のために生まれた戸籍制度は国民の頻繁な移動に適応出来ない制度であったのに、明治維新以降近代化が進み住所移動が激しくなったことから、制度に内包する無理が生じて来たからです。
農民が数年あるいは五年に一回移住していたのでは耕地の前提たる土造りも出来ないので農民にとっては定住が原則です。
しょっ中移動していたのでは食べて行けないので移動する人は農民以外の商人等稀な事例(商人も安定して店を構えないと信用されない社会)になりますが、近代化進行=経済活動の活発化・農業から商工業社会への変化ですから、人の移動が激しくなる一方・・未だに地方から大都会への移動が現在進行中です。
戸籍の空洞化が何時頃から進み始めて何時完成したかですが、大正3年成立の寄留法では既に住所寄留と言う区分が出来ていることから見れば、そのずっと前からこうした運用に変わっていたことになります。
前回紹介した本の意見によれば、明治31年式戸籍法(明治31年民法施行による家の制度にあわせて改正されたものです)では、住所記載がそぎ落とされて身分登録だけに純化していますので、この時点までに、戸籍と住所が切り離されている運用・・寄留届けが一般化し・寄留簿が事実上住民登録簿に変わっていたことが分ります。
ではそのどのくらい前から戸籍が(現住所を現さなくなって)空洞化していたかと言う疑問ですが、前回紹介した本では明治19年式戸籍では、まだ戸籍には住所を記載していて、本籍記載欄がなかったのですから、大分普及していたとしてもまだまだ戸籍制度に反映するまでは行ってなかったのでしょう。
明治20年代には普通になっていたとすれば、いわゆる旧民法成立(明治23年)の前後ではどうだったでしょう?
旧民法は、保守反動層の猛反対で施行されないうちに、明治25年に施行延期決議が議決されて明治29年に新たな(現行)民法が成立してしまうのですが、この時に新たになったのは主として親族相続編でした。
19日にも少し書きましたが「住所」は、フランス法やドイツ、スイス法などの学説を参照して作ったものであって、我が国の保守革新の抗争・・醇風美俗論争とは関係がありませんでした。
ただし隣国との往来の盛んな欧州諸国では、住所概念は対外的な裁判管轄を決める・・主に国際私法上必要な概念であって、民法と言う基本法に書くものではなかったようですから、我が国だけが突如民法の、しかも総則に書いたのは戸籍関係で、特に住所の意味が重要になっていた事情があったからかもしれません。
後にも書きますが、民法の実質主義によりながらも選挙権では選挙法で、税は税法でそれぞれの住所概念が必要・・民法で一律に決めるのではなく、と言うのが現在の通説のようです。
最近では武富士創業者の息子の住所が香港にあったのか日本にあるのかに関する最高裁の判断によって、2000億円前後の税還付が決まったことが報道されています。
民法の総則で住所一般の原則を書いたのは、古代から定住民族の我が国では人の定義として住所による特定の意義が重視されていて、これに基づき戸籍を整備したものの、戸籍の記載場所と本当に住んでいる場所とが乖離し始めたので住所=本籍とする形式理解ではすまなくなりました。
そこで「住所とは何か」を決める必要性の意識が高まっていたので、民法に定義規定が置かれたと思われます。
壬申戸籍では戸籍と寄留しかなく住所概念がなかったのですが、戸籍をそのままにした移住が多くなると住所とは何かが問題になって来るのが必然で、戸籍記載場所と(本来の)住所・寄留(居所)の3カ所の概念が出来て来たのです。

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