身分2・婚姻離婚の自由1

明治憲法では婚姻は習俗に委ねる趣旨で何も触れていませんでしたが、現憲法では婚姻は両性の合意のみによって成立すると明記して、国家意思や神の意志を問題にしないことと・契約法の原理が色濃く入っています。
憲法

第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
○2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

日本人からみれば結婚する当人たちの意思によるのは当たり前すぎて意味不明ですが、GHQの起草(特に人権部分の原案はユダヤ人女性が中心的に練り上げた記憶です)にかかる憲法ですから、国家や神・宗教の関与を明確に否定しておきたかったのではないでしょうか?
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ベアテ・シロタ・ゴードン(Beate Sirota Gordon, 1923年10月25日 – 2012年12月30日)は、アメリカ合衆国の舞台芸術監督、フェミニスト。ウィーン生まれでユダヤ系ウクライナ人(ロシア統治時代)の父母を持ち、少女時代に日本で育った。1946年の日本国憲法制定に関わった人物として知られており、このうち2012年まで存命した唯一の人物であった。
22歳で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局に所属し、GHQ憲法草案制定会議のメンバーとして日本国憲法の人権条項作成に関与した。
日本では日本国憲法第24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)草案を執筆した事実が1990年代になって知られ、著名となった。

ちなみに戦後改正される前の親族相続編旧規定(明治民法)でも男30歳、女25歳までは原則父母の同意が必要でしたが、30歳未満でも同意があれ婚姻(近親婚、重婚など婚姻禁止要件に当たらない限り)届けるだけ=許可制ではない・・婚姻の効力がありました。
いわゆる自由婚姻制度でした。(旧772条)
(ネットに旧規定が出ていないので引用できないのが、残念ですが自宅にある戦前の六法全書を見て書いています)
ですから、禁止要件(例えば親子や兄弟間婚姻届)に当たれば、今でも受け付けられませんので、新憲法の規定によって何も変わっていないのです。
いかに日本の法習慣に対する無教養な人が憲法草案に関与していたかが分かる一端です。
憲法に合わせて変更した戦後の婚姻法関係は親の同意を得る年齢が下がった程度です。
現行民法
第七百三十一条 男は、十八歳に、女は、十六歳にならなければ、婚姻をすることができない。
(未成年者の婚姻についての父母の同意)
第七百三十七条 未成年の子が婚姻をするには、父母の同意を得なければならない。

成年=20歳ですから、戦前に比べて10年早く親の同意がいらなくなったことになりますが、この変化は新憲法の精神によるというよりは、核家族化〜郷里の中高校卒業後就職列車に乗って都会に出る時代・・いつまでも親元にいる時代ではなくなった変化を反映したものでしょう。
憲法は骨格を決めるだけでこれを具体的に決めるのは法レベルですが、・・結婚、離婚等は合意を基本とするものの、婚姻や離婚養子縁組等を含む親子親族関係を決める基礎法である民法では、財産法一般の法原理である行為能力による制限・親の法定代理権などのいろんな原理が及ばない点などで別の法体系になっています。
そもそも代理権制度自体考えられない分野です。
日本では仲人が立って事実上結納の儀式日その他交渉ごとを進めますが、それは首脳会談前の官僚による事前すり合わせ同様の準備行為でしかなく、最後の決断は古来からずっと当事者が最終決断してきたものです。
ただし西洋ではオペラの知識ですので真偽不明ですが、領主に初夜権があったようで日本とは大分違う印象です。
また財産法では、合意を守らない相手に対する強制執行=国家権力行使による権利実現が用意されていますが、婚姻に関しては約束違反があっても損害賠償請求できても、婚姻関係を直接強制することはできません。
婚姻年齢は行為能力を基準とする成年年齢と関係なく、しかも男女別になっています。
離婚は、契約法の原理で言えば契約の解除に当たりますが、親族法では協議離婚を認めるものの合意できない時には一般の契約のように一方からの解除の意思表示によって解除の効力が生じません。
財産法関係では解約事由があれば一方的解除の場合相手が納得していないのですから、解除による効果・・アパートの引き渡し等の原状回復を求めるには、結局裁判するしかない点は似ていますが、財産法関係では、裁判所は過去の解除の意思表示が有効かどうかを判定するだけであって、裁判所が契約解除を命じる仕組みではありません。
離婚の場合は、一方の出した離婚宣言が有効かどうかを判定する裁判ではなく、一方からの訴えによって裁判所が離婚すべきかどうかを決める仕組みです。
結婚、離婚子供の出産等々の生命誕生に関する分野は元は神(日本では神々)の領域であり、人間が勝手に変更できない・カトリックでは離婚も中絶も認めないと日本に伝わっているのはこのせいです。
西欧の近代化とは、神が決めていた仕組みを裁判所が決めるように切り替えることであり、他方オカルト国家傾向の強いアメリカなどで、今でも中絶・同性愛反対などの運動が根強いのは、このせいです。
今日のネットニュースでもアメリカでLGBTの決起集会みたいなものがあったと出ていますが、日本でそう言う運動が少ないのは、遅れているからでなく元々差別したい人がいない・好きにしたら・・と言う社会だからでしょう。
msn ニュース
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2019/07/01 18:03
NYで15万人パレード=原点の暴動から50年-LGBT運動

日本人の気持ちでは同性愛でも中絶でも離婚でもそんなに抵抗感がないのは、(自分はそんな気がないけども)それぞれの考え・・神の領域のような気がするが、いろんな神様がいるのでそれぞれの神の意見でいいのでないかという価値観が基本にあるからです。

身分と古代の位階制1

奈良〜平安時代の貴族社会といっても、要は家柄と能力によってどこまで昇進できるかの不文律があっただけであり、今で言えば医師や弁護士裁判官の資格がないと裁判官や医師になれないというのと似ています。
平安時代にも家柄が良くても総合能力がなければ、三位以上に昇進できない人もいっぱいいました。
家柄が良ければ皆三位以上になれれば、天皇家から臣籍に降った一族や摂関家等で4〜5人子供がいた場合みんな三位以上になれるのでは、数世代経過で三位以上が数十人〜100人規模に膨れ上がっていきます。
ところが関白や左右の大臣、大中納言等の官職数が決まっているので、際限なく殿上人を増やません。
ちなみに、中国王朝の場合、官職任命があってそれに合致する位階が決まるらしいですが、日本の場合官位相当職制度・官職補任と関係なしに位階が決まるようなので、官職数以上の官位叙爵可能ですがそれにしても限度があるでしょう。
今で言えば、部長待遇であるが所属する課がなく、部下0名とか、国務大臣であるが担当省庁がない無任所大臣みたいな温情主義?制度が昔からあったのです。
課長補佐もこれに似た待遇です。
太政大臣の息子でもできの悪いのは昇進できなくなるのは当然ですし、一家一世代で一人も三位以上にあがれない家も出てくるでしょう。
しょっちゅう天皇家から天下り的に清和源氏とか嵯峨源氏とか桓武平氏とかの新規参入があるのですから大変です。
これらの家も1〜2世代は上級貴族の格式でしょうから、三位以上の位階と官職はものすごい狭き門になります。
箱根駅伝で言えば、シード校に入れば翌年のエントリー権がありますが、翌年(次世代が)シード校落ちすれば翌年は予備選から勝ち進まないと出場できません。
箱根駅伝の場合シード予選から勝ち上がった大学・・初出場でも実力次第で優勝することが論理上可能ですが、(実際実際には多分一回もないでしょう・・)
上級貴族の子に生まれても、あまり昇進できなくて終わる(シード落ちした)人の子孫はもっと下(六位以下)から始まり、昨日紹介した本間氏の説明によれば、最高昇進でも従4位上だったらしいですから、親の地位まで行けない人材が数世代も続くといつの間にか貴族階層から脱落して事務官僚や地方官僚等に下がっていきます。
一旦六位以下になると優秀な人材が出ても四位上止まりらしいですから、1世代足踏みがあるので、2世代続いて能力が高くないと公卿に復活できない仕組みのようです。
大相撲でいえば前頭の下位で平幕優勝してもいきなり横綱になれず昇進の限度があるのと同じです。
能力の低い子が出ると中級貴族さらには下級貴族等に世代交代ごとに下がっていきますが、それでも途中で優秀な人材が出れば、伴大納言のように中〜上級貴族に参入して行けるし、(大納言まで昇進したのは、大伴旅人以来130年ぶりとのことです)天皇家出身でも世代が降るごとにどんどん下がって地方に下って源氏や平家にもなって行くわけです。
源氏や平家の嫡流に生まれても能力がなければ、どんどん傍流に落ちて行って、並みの武士になっていきます。
一般に上級貴族〜中級〜下級貴族といいますが、位階制ですから、必然的にその人の能力に応じた一身だけの地位が決まるのであって、生まれつきの身分で決まる制度ではなかったのです。
江戸時代の将軍や大名の地位は世襲ですので身分制そのものですが、実は大名家、徳川家と言うように実は家(家業・家産)を世襲をするだけであって、大名や旗本の家を継いでも、自分の家の中で当主としての地位を承継するだけで〇〇家相続人として新たに出仕する徳川家内の老中や町奉行職等の役職を世襲することはありません。
藤原氏内で、氏長者を世襲しても朝廷の役職を世襲するものではありません。
ただ強力な勢力を有する一族の代表者ということで朝廷内で尊重されるというだけです。
この辺は東京電力社長就任=電力業界の会長を世襲するのではなく、最大大手代表者として尊重されるというだけのことで、原発事故があって味噌をつけるとその尊重がなくなるなど本来流動的なものです。
徳川秩序では家格によってどの程度の役職につけるかと言うだけのことで、今風に言えば、一種の参加資格でしかなくデビュー後は本人の能力次第で役職を上げていく仕組みした。
そして能力が家格の枠を越えるときには家格の引き上げが行われてきたのです。
今の資格は、厳格で無資格者が能力が高くとも・・ベテラン看護師が新米医師より診立てが良くても医師の領分の仕事をすると違法ですし、この人に限って医師より有能だから許可すると言う裁量権もありません。
今で言えば一応学歴や過去の実績等が就職試験や審議会委員選任等の大枠資格基準になる程度ですが、
各種資格については、試験制度等の発達で資格制度が透明・ルール化されて、裁量による救済措置がどんどん減っていく過程と見ることができるでしょう。
大名家に属する大身(知行持ち)家臣も先祖代々の領地(知行)を世襲するだけであって、大名家の家老職等役職の世襲をしません。
今風に分解すれば世襲制度といっても、個人資産相続の観念で大企業オーナーに限らず小農・個人商店、庶民に至るまで自分のものは全て子供らに相続させるのを当然と思っている点は今でも同じです。
親が駅前商店会や同業者団体の会長をしていても、企業の相続人が業界団体会長職を相続しない点は今も同じです。
私が弁護士になった頃には、民法中の親族相続編は、講学上身分法という分類でした。
親子関係は生まれによって関係が決まり、終生変わらない関係であり、相続もこの身分関係によって決まる分野という意味でしょう。
位階等は生まれでだけ決まるのではなく、能力次第で変わっていく仕組みでしたので身分そのものではなかったように思えます。
近代社会の特徴は「身分から契約へ」と一般に言われますが、契約で決まるのは財産法の分野であり身分法に及ばないという二分法の考え方でした。
相続に関しては遺言で修正できる点で個人の自由がある程度あるものの、それは契約ではなく、一方的な関係です。

日本で身分制度があったか?2

武士社会内の身分格差が固定的でなかった点に戻しますと、もともと武士は古代秩序の枠外に生まれて貴族社会内の秩序内での競争に関係なく、別世界・庶民から実力競争で頭角を現したものでしたから・・実力重視意識が強いのは当たり前です。
当初は各自の自衛のために自然発生した武士でしたが、長期経過で集団自営する必要から、地域武士団となりさらに大規模化適応化過程で、中央の貴種を軸に団結するようになったのが源平時代でした。
鎌倉時代に源氏の将軍が飾り物になっていたのが、足かが政権で源氏の権威が一時復活したものの、観応の擾乱を経てグチャグチャになり、義満が絶対君主的地位を誇ったのが最後の光芒であったというべきでしょうか?
すぐに嘉吉の変があり応仁の乱を経てついに中央貴種の価値がほぼゼロになって下克上の戦国時代に入っていきます。
それまでは、一定の武士団内ではいつも団結していて、その武士団トップが源平どちらにつくかを決めれば集団がそれに従うというパターンから、源氏のうち足利尊氏につくか足利直義につくかの下位基準での選択となり、応仁の乱以降は守護大名家内でこの人に任せたのでは、隣国にやられてしまいそうとなれば、もっとしっかりした人をリーダーに盛りたてたい動きが起きます。
いわゆる家人が主君を裏切るのは文字通り謀反であり、(古くは長田の庄司が主君義朝を討った)これは現在に至るまで道義的に許されないのですが、戦国時代に起きた下克上とは守護代が(ボンクラでは国が持たないという切羽詰まった状態で国人層の支持を受けて)上司の守護を放逐するものであり、正義があったのです。
すなわち幕府の威令が行き渡らなくなると、源氏との血筋の濃淡・幕府内の外交力で昇進して有力守護大名になっていたとしても・・幕府組織内で必要とする能力より、領国統治能力(家臣掌握力)自国防衛力が優先ですから、中央でこういう顔が効くという能力は地元武士団には何の効力も持ちません。
源氏の棟梁という段階から守護大名に権限がうつり、実務能力にたけた守護代が実力相応の権限を要求するようになったので・・守護大名家内の実力主義によるトップ交代が起きたというべきでしょう。
ちなみに上杉謙信・長尾家は越後の守護代でした、織田信長も尾張の守護大名斯波氏(足利一門)の守護代の織田一族内末席に連なる小領主でした。
織田一門内の抗争で頭角を表した信秀の子供・2代目である点は、父為景が守護代として越後を大方まとめた跡を長男を放逐して継いだ謙信同様です。
2代目という点では、武田信玄も甲斐国をほぼ統一した父信虎の跡を継いだ点では同じです。
ただし武田信虎は守護大名から戦国大名化に成功したもので、守護代が戦国大名になったものではありませんが・・・。
観応の擾乱を見てもわかるように当時は中央の政略によって朝令暮改のごとき論功行賞によって、有力御家人があちらの守護になり、こちらの守護になったりで土着する暇がなかったのですが、応仁の乱以降居場所をなくして領国に着任土着化していくのですが、(多くは内政実務能力がない・地元出身でないので浮き上がっていきます)武田家は中央から派遣されて守護大名になったのではなく八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の時から土着していた点の強みだったのでしょうか?
土着成功していた結果、戦国大名化に成功した薩摩島津家も同様です。
幕府による平和がなくなり自力防衛が必要となりその体勢をいち早く整えた国が第二次リーグ参加資格になってきたので、(19世紀に民族国家統一に成功した国が列強になったのと同じです)統率能力が上がってきたので、家柄による形だけの上位者が邪魔になったのが武士社会内での下克上の始まりです。
このように武士は農地を守る必要に応じて生まれてきた以上は、実務能力社会ですのでいつも実務能力が落ちると下克上・地位の入れ代わりを前提にしてきました。
江戸時代の上士と下士の区別も、たまたま戦国時代末期にたまたま騎馬武士の地位を確保したに過ぎない程度の意識です。
同輩中の上下関係にすぎないという意識だったでしょう。
坂本龍馬で言えば、たまたま一領具足(いわゆる国人層)として属していた長宗我部が関ヶ原で西軍について敗軍の将となった結果、進駐してきた山内家臣団と区別されて郷士(身分階級的には下士階層)の地位でしかなかったに過ぎないという矜持があり、山内家家臣団も国人層に一目おく関係でした。
農民と武士の関係も、武士そのものが農民の中から専門化したに過ぎない点で同根でした。
実例としては将軍綱吉の母親は町人の娘でしたし、酒井抱一のように大老家の子息が市井の絵描きになったり、武士が俳諧師に転職することもあれば、伊能忠敬のように商人が隠居後に帯刀して幕府御用で全国を測量して歩くこともありました。
武士層自体の身分格差については、昨日ちょっと紹介したように井伊家や酒井家のように戦国末期の天下どりに貢献した実力者も、次の平和な時代に必要な実務処理能力が問われるようになると事実上飾り物になっていきます。
実務官僚が台頭していきます。
例えば田沼意次の相続した石高はわずか6百石の小身旗本・・出陣時の騎馬武者としては従者2〜3人(荷物持ちを含めて?)程度の最小兵力でしたのに、最後は大名になり老中首座として国政中枢を握って行ったように人材登用には積極的でした。
田沼意次に関するウイキペデイアの解説です。

享保4年(1719年)7月27日、紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれる。幼名は龍助。父・意行は紀州藩の足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が第8代将軍となると幕臣となり小身旗本となった。

要するに親の代まで武士どころか紀州家の足軽だったのです。
父親が偶然吉宗不遇時代に登用(初めっから吉宗が世子であれば側近.小姓は家柄の子弟がなるので登用されることもなかったでしょう)されて運がひらけ(気が利いていたのでしょう?)何人もの兄がいたのに、吉宗が紀州徳川家の家督を継ぎさらに徳川宗家を継いだことによって、父親が一緒に江戸についていき、その結果元足軽の父親が武士の中でもとびきりの格式である旗本になれたという針の穴を通すような幸運な運勢によります。

意次は紀州系幕臣の第2世代に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継いだ[1][要

有能な父親が足軽から武士に取り立てられ、目を見張るような出世をしても石高は600石止まりだったのですが、次の意次はさらに能力発揮して最後は大名になり老中首座・平安朝でいえば太政大臣に上り詰めて幕政を切り盛りしています。

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