半官半民と第三セクター1

第三セクターに関する本日現在のウイキペデイアの解説です

国際的には、第三セクター(サードセクター)とは、NPO、市民団体その他の民間の非営利団体を示す。
※英語圏(特にイギリス)では、NPOや慈善団体など、公共サービスを提供する民間団体のことを指す。
第一セクターが公共目的のための国や地方自治体、すなわち「官」が担う部分
第二セクターが営利目的の私的団体(営利企業)、すなわち「私」が担う部分
第三セクターが公共目的のための市民レベル、すなわち「民」が担う部分
ちなみに、日本では第4セクターと表現することが多い。
日本は、国または地方公共団体(第一セクター)が民間企業(第二セクター)と共同出資により設立した法人を指すことが多い。 多くは設立が比較的容易で運営方式も自由な株式会社の形態を採る半官半民の中間的な形態。 また、第三セクターは法的に概念が規定されているわけではなく、株式会社・財団法人など、それぞれの法人形態に従った制度が適用される。

特質
宮木康夫による第三セクターの効用[要出典]
利益追求を目的とする手法ではなく、もっぱら公共的事業をコストミニマムに実行するための手法である。
株式会社形態である利点を活用することにより、第一セクターに係る収支改良(多くの場合赤字軽減)が可能となる。
施主(自治体)から付託された仕事(公共領域)を、もっとも効果的・効率的に実行するための、自主性をもったプロ集団である。

日本における第三セクターの現状
債務を抱え破綻する第三セクターが続出。東京都や大阪市の臨海開発関連の会社などがその代表格。また、2006年(平成18年)に表面化した北海道夕張市の財政破綻には観光開発を担う第三セクターの赤字も関係。

以上によれば特別な制度設計がなく、民間向けのいろんな組織に自治体や政府機関等が出資している場合を言うようです。
上記特質に関する意見は、コスト削減機能を書いていますが、それ以上のことがないようです。
40年以上前に児童登下校の安全のために横断歩道で旗を振る緑のおばさんや、清掃給食など現場系の人が地方公務員で年功で給与アップしていく・年収7〜800万が普通と報道があって、この批判を受けて現場系労務の下請け化が始まったような記憶です。
下請け化が普及すると今度は市町村が給食センターヤ市営プールを経営する必要がないのでないかということから、第三セクター化が進んだように見えます。
役人的発想が有効なのは、江戸時代の三大改革と言われるものを含めて質素倹約くらいでしょう。
企業活動が人件費削減を中心の発想・・おやつを減らすなどのマイナス思考..質素倹約の発想のみで成功するはずがありません。
ただし、あらゆる産業はコストダウンに向けた改良によって、コンピューター部品や自動車部品の最小化、軽量化競争、電池等の持続生の長期化などの工夫によって発展したきたのですからはコストダウンのための試行錯誤・・研究開発は重要で、今産業界の寵児半導体製造だって競争力の源泉はいかにして安く微細化できるかの競争です。
コストダウンと冗費節約とは方向性が違います。
第三セクターの破綻例は枚挙にいとまがないほどですが、観光客誘致系で言えば、観光客減少に対してコスト削減のみ・・高賃金の公務員から非正規のバイト中心の民間運営に切り替えれば開始当初はいくらか赤字削減できるでしょうが、数年後にはまた赤字が始まります。
GEやIBMの例を見ればわかるように企業は事業内容を絶えず組み替えて行く必要があり、これがリストラクチャリングの本質であり人減らしではありません。
日本の第三セクターや半官半民と言われる事業は、事業内容を(政府が決めて)固定してコスト削減中心ですからもともと無理があるようです。
半官半民とは言う場合でも多くは国や公共団体に決めた枠内での共同事業的なことが多いのですが、官民あげてという報道がある場合、どちらかというと「官が主導権を握る」という意味アイがより強そうです。
そもそも官が主導権を握るということは政府ではなく、臣たる役人が主導権を握る意味です。
政府主導という意味を官主導と表現するところが、政府における政治家と官(役人)の関係をうまく表現しています。
第三セクターとは別に平成10年台半ばから始まった自治体の指定管理制度の運用をみると、法的には自治体役人が選定するのではなく選定委員という在野から選任された有識者会議で決めて行くのですが、審査基準の策定が役人内部会議で決まっていて(あるいは基準策定自体が、別の第三者委員会でおこなわれているのか?)その基準に合致するかどうかの審査でしかない仕組みです。
管理の委託ですから、事業内容を決める権利がないのは論理的言えば言えますが・・・。
応募に対する審査基準は障害者雇用基準に合致しているか、市民雇用を守る視点が何点とか公平運用しているか地域連携に努力しているか、市民の意向調査をきちんとしているか、市民対応に問題かないかなどなどで、反対する特別な理由がないのですが、あまりにも当たり前すぎる印象です。
これとは別ですが、ある審議会委員の公募委員枠あって、公募者から数名選任するための面接を担当局長と私の2名がペアで2年に一回やってきましたが、それぞれの目的に合わせて審査基準があってその項目別に点数をつける仕組みで個人的裁量の余地がほとんどない・合理的に考えぬかれていますが、これらを考えるのは公務員・事務局側のお膳立て・面接・採点者はマシーンの代用です。

来し方を振り返って(千葉県の被災1)

今年はクリスマス・イヴをサボって年末準備こそが本命と考えていたのにいつの間にか年の瀬になりました。
毎日どうでもいいことを頭の体操のつもりで書いて来ましたが、今日からは年末特番シリーズです。
今年は、平成から令和に変わりめでたい行事が続きなんとなくおめでたい雰囲気で1年が終わりそうです。
雰囲気だけでなく国民生活に影響の大きい景気動向・雇用状況も人手不足を嘆くほどの活況で1年が終わり多くの人に笑顔が見られる良い一年でした。
戦後長く続いた日韓関係も新たなステージに入った年になりそうで、その評価は後世に待つとしても日本全体では何となく良い1年だったように思います。
以上は総括的印象であって個々人や地域によっては大変な1年だったことも多いでしょう。
例えば、私の住む千葉県では想定外の台風被害で、あちこちで復興に苦しんでいる方が多くいらっしゃるようです。
千葉県は台風がくるといってもほぼ百%予報止まりで、その日になるとちょっと強い風が吹く程度で台風がそれてしまうことの繰り返しで暑すぎもせず寒すぎず、住みよいところだと言うのが自慢の県でした。
気候風土が温暖な結果、お人好しというか、あっけらかんとした朗らかな県民性です。
洪水になるような大きな川もなければ山、谷も深くないので、人間だけでなく樹木や岩石の方も安心していたようで、今回の想定外の強風〜大雨であちこちで十分根を張っていなかった樹木が倒れ崖崩れが起きました。
崖崩れが起きるほどの大雨がない前提で高圧線や鉄道線路や道路も走っているので、電線も道路も樹木も崖上の岩石土砂も抵抗力が弱かったようです。
しょっちゅう大雨があれば崩れるべき崖は崩れ、倒れるべき高圧線や樹木は倒れ、おっこちるべき岩は落ちていたでしょうが・・。
人間界でも農家などが農業施設がどうなる?と言う危機感がなく台風通過する数時間だけ自分が家に引っ込んでればいい程度の感覚だったようでしたし、県組織自体の台風対策もあんちょこだったようです。
災害当時の対応が緩かったと県知事が追及されていましたが、県知事の意識の低さは県民意識の反映だったようです。
12月26日毎年行っている千葉県在住弁護士同期会で房州枇杷の話題が出ましたが、ビワはみかん畑のように日当たり水はけのために山の斜面に植えているようですが、今回の大雨でその斜面が崩れてビワ畑全体が崩落してしまった例が紹介されました。
事務所は千葉市にあるが自宅が館山市にある同期の弁護士・・話題提供者の説明によると崩落した斜面を復興してビワの苗を植えても、収穫できるまでには何年もかかるので、その間の生活費や今働き盛り?(今では5〜60台が大半でしょう)年齢の人が元気なうちに投資(借金返済)回収可能かの心配があるということでした。
長年丹精込めて作り上げた肥沃な土が崩落してなくなっているので、土つくりからの作業になるでしょうし、・・果実がつき始めても、品質の良い特産品への改良工夫〜業として安定出荷できるようになるには年数がかかる面もあるでしょう・・。
また山(千葉県には地図に乗るような高い山はありませんが丘陵地帯の丘のことです)の中腹から麓へ荷下ろしできるように斜面にロープウエー?(私の独自翻訳)を設置しているとのことでしたが、これらも根こそぎ倒れてしまったので、この復旧費用も巨大らしく災害用特別融資を受けても5〜10年程度で返せる自信がないので困っているとのことでした。
その他の農家も多くはビニールハウスやガラス張りの温室栽培(今は内部に温度管理用の設備)が多いので、これらがほとんど壊れているようで、これらを復旧するかしないかに悩んでいる農家が多いようです。
精密管理のためにか?ガラス張りの温室が最近増えているようですが、粉々に割れて畑に散らばっているので同じ場所で耕作できない問題があるようです。
一般農家がビワ等果樹栽培への転向やビニールハウス等への投資は、少しずつ栽培面積、ビニールハウスや高級なガラス張り温室等を増やしてきたものでしょうが、台風による一斉倒壊の場合、一斉巨額再投資が必要になるとともに軌道に乗るまで収入ゼロになる点が大違いです。
近代産業の場合、遠隔地展開の30店舗のうち1店舗が浸水して1店舗の営業を半年休んでも残り29店舗の売り上げでカバーできますが、農家の場合一箇所に集中しているのでビニールハウス30棟その他が同時被災する点が大きな違いです。
基本的に農業後継者が滅多にいない現実・・多くの農家で子供らが都会に出てしまっている現実があり、後継者がいない大規模投資はリスクが大きすぎるということらしいです。
東北の津波被害でもこのような問題・・遠くてこの種の苦しみが首都圏の人には、直に伝わらないだけで似たような苦悩が起きていることでしょう。
このような問題は緊急時のボランテア活動ではどうにもなりません。
弁護士会のメーリングリストを覗くと災害対策関連者間でこの種の悩みが出てくるようになっています。
東北の災害復興関連報道でも、鉄道駅の再建やスーパーの再開など目に見える復興の映像だけ伝わりますが、その何倍も消えていった姿は目に触れません。
過疎化が進む地域・・次世代後継者のいなくなった地域で60代の人が、自分の世代だけは先祖代々の漁業(関連加工業)や農業(畜産や果樹園など)や村唯一の商店を守っていこうと思っていた場合に、被災して根こそぎ事業資産を失うと事業再開気力をなくしている点では多分同じでしょう。
人気シリーズの「ポツンと一軒家」の場合で言えば、麓での現役リタイヤー後にいろんな事情を背景に「ポツンと一軒家」に戻って先祖の家を守っている姿が多いので人気なのでしょうが、こういう家が仮に災害で倒壊してしまうと、再建はほぼ不可能で黙って消えていくしかないのでしょう。
過疎地で5〜10年に1軒づつ住人が消えていくのと同じです。
東北大震災や千葉県の台風災害は、たまたま大量被害が一斉に発生しただけといえば言えますが、「ポツンと一軒家」の場合、一円被害でなく麓の家や農地が無事であれば「ポツンと一軒家」を維持できなくなるだけで日常生活に支障がない点が大違いです。

臣民とは1

例えば明治40年以降続いている現行刑法の3条は現在のネット検索では昨日引用したように本日現在の条文しか出ないので、戦後改正されて「国民」という用語になったのか、40年現行法制定当時も「国民」であったのかを知ることができません。
これが戦前どうだったかを見るには、昭和8年版六法全書がたまたま我が家にあるので刑法を開いて見ると、3条の文章が文語体であるほかは「国民」という単語が「帝国臣民に之を適用ス」となっているほか全語同じです。
(漢文調が口語体に変わったのは平成になってからです)
これによれば、もしかしたら明治40年制定当時から明治憲法に合わせていたように思われますが、そうとすれば旧刑法も、明治憲法制定に合わせてほぼ同時に国民を臣民と変更していた可能性がありますが、旧刑法については、制定当時の条文しかネットに出ないので明治憲法制定によってどうなったかの変化が今の所私には不明です。
ところで、国民という概念が明治13年の旧刑法記載だけで、一般に知られていなかったのかといえば、日露講和条約反対の日比谷焼打事件の集会名は国民集会といったようですし、暴徒押しかけ先対象になっていた新聞社名が「国民新聞」と言うようですから、当時在野で「国民」という表現がすでに利用されていたようです。
ですから、国民という単語は日本国憲法制定時に創作された単語ではなくずっと前からあったのです。
もともと明治憲法で創作した?臣民という用語の方が我が国古来からの用例から見て無理があったように直感します。
敗戦→新憲法制定の必要性から、国民意識に合わせて是正されたと見るべきでしょう。
私のド素人的語感からいえば、「臣」とは支配者あるいは誰かの手足となって働く支配者側の人間であり、「民」とは権力との対で言えば領民・・権力集団の外側にいて支配される側の総称でしょう。
領民の中から権力機構内にいて権力者と主従関係にある状態の人、現在風にいえば従業員の内労働組合に入らない管理職がオミ・・天皇家直属の大豪族トップを「おおオミ・大臣」中小の豪族を中臣、小臣と言い、江戸時代でいえば大名?小名、旗本、御家人であり、天皇家の朝臣は、江戸時代の直参旗本クラス?御家人や小者までいろいろですが、このように領民中権力機構に関係ない人を「民」というのではないでしょうか?
権力機構外の民の中にも経営者と従業員がいますが、それらはまとめて民です。
言葉の意味では単純な「たみ」でいいのですが、日本人は漢字にした時に二字熟語にしないと落ち着かない国民性ですので「民」に何をくっつけるかの違いでしょう。
皇族以外は臣民というのは一応当たり前過ぎですが、臣民を合わせた二字熟語をなんというかの問題で抵抗権に魅力を感じるグループは人民といい、その他の人は「日本国の民なのだから国民」千葉県の人は千葉県民というようにこれが普通になってきたのでしょう。
県民の中で、県の役人とその他をあえて分ける必要を感じないのが現実です。
明治以降の一君万民思想で天皇(皇族)以外は全部「臣であり民である」と分ける必要がなく、単位に日本国の民=日本国民とすれば単純だったと思いますし、憲法で「臣民の権利義務」などと書く必要がなかったのです。
臣民によって適用法が違う場合には分類する必要がありますが、同じ法が適用されるならば、分類して法に書く必要がないでしょう。
臣民=皇族以外のものといいうことですが、そうとすれば民そのもの済むはずです。
民の中には大工も官僚も商人も漁民もいますが、あらゆる職種を羅列する必要がなくまとめて「民の権利義務」で良かったのです。
臣民・天皇直属の役人とその他の権利義務と書いても、臣と民で権利義務が変わるものではない・・どちらも日本国民であり同一の刑法民法の適用があります・高級官僚も庶民も皆家族法の対象ですし、買い物代金を支払う義務=民法の適用があり、殺人傷害等すれば刑法の同じく刑法対象です)ので2分類の必要がなかったのです。
これに対して人民は政府権力に対する対抗概念ですから、人民と官僚になる人は対立概念でありこれを含めてまとめる上位概念はありません。
支配されていた人民が抵抗権行使の結果、支配者になれば人民ではなくなるのですから、人民解放軍とか人民政府とかいうのは言語矛盾です。
臣民を今で言えば、官僚も総理大臣も皆国民であり、国民(国内に居住する人全員?形式的には国籍取得者)の中から、官僚や民間人に分かれる大元の上位概念です。
この結果官僚を辞職すれば在野ですし在野から官僚にもなれる、「臣と在野」は互換性をもっています。
法の適用は法の下の平等であって、官僚と一般国民との違いによって適用される刑法や民法に違いがありません。
明治憲法下でも高級官僚も一般の人も(家族法分野で言えば、婚姻や親子関係など)皆同じ法の適用がありましたので、明治憲法で臣民の権利義務とわざわざに分類したのは無用な分類だったことになります。
江戸時代までは、身分階層によって刑事法等の適用が違うことが多かったし婚姻制度も主君の許可がいるなど法適用が違っていたので武家諸法度、禁中、寺社など違ったルール適用を前提にしていましたので、その伝統に従って臣民と書いたのでしょうか?
我が国で「臣」の漢字を歴史的に見れば、天皇直属を大オミ・臣・・・でしたが、時代が下ると末端武家の従者も家人から家臣へと変わっていきます・・。
臣・・誰かに従う人・・サラリーマンといっても、勤務先は企業も中小企業〜個人事業主もあるように、天皇家・権力機構にに仕える豪族とその豪族に仕える人との違いが生じます。
古代王朝で言えば八色の姓」制定前には「オミ・臣」がありますが、八色の姓制定後従来貴族は全員朝臣(家の制度完成後に一般化された「家臣」同様に朝廷の「臣」いう点で同質表現)になり、その後は地方豪族にもオミが広がり、朝廷のカバネ制度と関係なく?武家の台頭後武家内の秩序・・主従関係を漢語的表現して、君臣というようになっていきます。
臣は一般的に権力機構に仕える従者に使い、民間の人に従うのは、色々な表現があったでしょうが、臣と言うようになったのは、権力の対象でしかなかった地下人・武士団が藤原氏など権力者の下請けをやるようになり〜武家自体が権力者になっていく過程で家人などと言っていた従者が家「臣」に昇格してきたような気がします。

臣民と人民の違い1

民衆・大衆と国民はどこかに違いがありそうです。
国民的英雄、国民体育大会など、国民葬などどこか国民代表的イメージですが、デモをしている民衆が5〜10万人いても一億国民代表とは言えないからでしょうか?
ゲテイスバーグ演説を信奉しているはずの米国ではすでに人民は支配される対象であるばかりではなく主権者になっているはずですが、そうはいってもそれは理念上のことであって事実としてはいわゆるエスタブリッシュメントと一般大衆の格差は広がる一方です。
男女平等といってもすぐにそうはならないのが現実社会です。
主権国家内には支配する側とされる側があるとしても、現在社会の理念では相互互換性があるので、例えば米国人の中には大統領や大統領側近や官僚も野党党首・党員も無関心な一般人も皆米国人です。
このように多様な分類可能であっても、それを統合する命名が米国人と言い日本人と言うのでしょう。
ただし、歴史的に日本人、韓国人、ドイツ人、フランスという用語には、人種名称とダブる利用が強かったので、いわゆる合衆国である米国人というだけでは人種特定に不向きなのでワザワザ何系米国人という紹介が今でも多い所以でしょう。
明治維新は、そもそも開国圧力とその反作用の攘夷論によって幕末騒乱の幕を開けた結果ですので、おのずから外国人の居留が進みます。
数日前に紹介した生麦事件は、英国政府関係者の被害ではなく横浜在住の商人かな?が川崎大師観光のために繰り出した女性を含む一行でした。
どこかで読んだ記憶ではこの当時外国人は2万人前後だったようですが、4〜5千万人口のうちわずか1〜2万でもそれまでのなんとなくの常識に基づく統治と違い、画一的法を制定するとなるとまず法適用の対象を決めることが先決問題になります。
そこで憲法以前に制定作業が進んでいた旧刑法や民法の草案作りで法の対象として外国人と日本人区別が必須になってきたと思われます。
13年成立、15年施行の旧刑法で国民という単語が使用されるようになっていたことを紹介しましたが、一回も施行されずに終わったいわゆるボワソナード民法内には人事編として日本人になる要件が記載されていたようです。
ただし同法では、国籍という単語ではなく日本人としての「分限」が決まるというな文言だったようで・・内容的には明治31〜2年の旧国籍法とほぼ同様に、男系出生と帰化の二本立ての基本要件は同じですが、・・まだ国籍という文言ができていなかったようです。
江戸時代の知行状を見ると加増土地の特定が「〇〇の庄の宮前何反歩」程度の特定に過ぎなかったことを紹介したことがありますが、明治に入っても人の把握も分限や分際が基本用語で明治憲法制定後付属法令・・不動産登記制度や戸籍関連制度の整備が進むにつれて、宮下、寺田、滝田、上田、橋本、橋爪とか川上等のアバウトな地名表示だけから地方制度整備により〇〇郡○村字何番地と細かく地番を付すように合理化が進んだことを明治の法整備シリーズで紹介してきました。
このように数字的表示の整備に合わせて人間の特定も住居地番特定と合わせて戸籍簿で管理できるようになってきたことにより、国内個々人は戸籍簿で管理し、外国人と日本人の区別は国籍法でけじめをつけたということになります。
ちなみにここ数年、長男長女次男等の区別表示が不要でないか等の動きが強まっているのも、記録進化の一環で今は両親名、生年月日の正確性が高くなった(適当な届け出だけでなく医師の出生証明添付など)も影響があるでしょう。
戸籍(当時家ごとの「籍」が整備されたので「戸籍」と言いますが)の整備が進むと国民が国家に登録されている籍=国家の籍があるかどうかで区分けする方がスッキリするので戸籍に対応するものとして国籍簿概念が登場して、明治31〜2年頃の現行民法制定施行と同時に「国籍法」が施行されて日本の姿を法的に整備する大枠が決まったように思われます。
家族関係の仕組み・家の制度は民法で決めるものですから(今も家族のあり方は民法所管です)民法が基本法で、戸籍法はそれを具体化する付属法ですが、国家所属者の登録は憲法から直接くるものですから、戸籍ではなく国籍として旧民法の分限ルールから切り離されて独立法になったものと思われます。
1800年代末頃には人種定義や民族定義では、外人との区別・厳密な特定不能というのが社会科学・特に法学分野で常識になっていたと思われ、結果的に国籍法ができて、日本国籍を有するものが日本人という定義(人種を正面にすえない定義)が生まれました。

旧国籍法
朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル国籍法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 睦仁
明治三十二年三月十五日
内閣総理大臣侯爵山縣有朋 内務大臣侯爵西郷従道
法律第六十六号
国籍法
第一条 子ハ出生ノ時其父カ日本人ナルトキハ之ヲ日本人トス其出生前ニ死亡シタル父カ死亡ノ時日本人ナリシトキ亦同シ
中略

いわゆる血統主義・これは現行国籍法もそのまま踏襲していますが、これによれば人種と同じようですが、帰化を認めざるを得なかったことから、他人種の日本人が存在することになり、国籍と人種とはほんのわずかですが一致しなくなりました。
こうして日本人の定義が決まりましたが、明治憲法下の日本人は皇族と臣民の2種類でした。
このような社会意識が定着してきて皇族以外の総称として日本国の民という「国民」概念が普及しはじめたように思われます。

国民2(旧刑法1)

ところで法律用語として登場する「国民」と「臣民」「人民」の関係を見てみると、明治憲法〜敗戦まで、我が国では、臣民という用語の他に自由民権運動で憲法制定運動が盛り上がる前の明治14年旧刑法で、すでに「国民」という熟語が出てきます。
ということは、その何年も前から国民という用語が議論対象になっていた(・・江戸時代までには、公卿〜士族や商人農民・・庶民を含めた総合概念)憲法制定運動当時には法律専門家の間では常識化していたことがわかります。
https://ja.wikisource.org/wiki/
刑法 (明治13年太政官布告第36号)

1880年
公布:明治13年7月17日
施行:明治15年1月1日(明治14年太政官布告第36号による)
廃止:明治41年10月1日(明治40年4月24日法律第45号刑法の施行による)
沿革(法令全書の注釈による)

第3節 附加刑處分
第31条 剥奪公權ハ左ノ權ヲ剥奪ス
一 國民ノ特權
二 官吏ト爲ルノ權
三 勲章年金位記貴號恩給ヲ有スルノ權
四 外國ノ勲章ヲ佩用スルノ權
五 兵籍ニ入ルノ權
六 裁判所ニ於テ證人ト爲ルノ權但單ニ事實ヲ陳述スルハ此限ニ在ラス
七 後見人ト爲ルノ權但親屬ノ許可ヲ得テ子孫ノ爲メニスルハ此限ニ在ラス
八 分散者ノ管財人ト爲リ又ハ會社及ヒ共有財産ヲ管理スルノ權
九 學校長及ヒ敎師學監ト爲ルノ權

上記の通り、旧刑法31条には国民の用語があります。
旧刑法とは現行刑法明治四十年刑法施行まであったものです。
この時点で既に「国民」という用語が採用されていたことに驚きますが、旧刑法制定の経緯を07/08/06「明治以降の刑事関係法の歴史6(旧刑法・治罪法1)(実体法と手続法)」前後で連載していますが、2006年7月8日のコラムを見直してみると、

「ボワソナードは、来日当初は自分で草案を作成せずに、気鋭の若手に講義する御雇い外国人そのものだったのです。
この講義を聴いた日本人が刑事関係法典の編纂事業に携わっていたのですが、うまく行かず、明治8年ころからボワソナード自身が草案作成に関与するようになったのです。
この作業は、フランス法を基礎としながらも、ベルギー、ポルトガル、イタリア各国の刑法案を参考にして編纂されたものでしたから、この刑法典は、ヨーロッパ刑法思想の最先端を集大成した法典化であるとも言われています。
この法典は約5年の歳月を経て結実し、明治13年(1880年)に太政官布告され、明治15年(1882)年施行されました。」

とあり、5年間も議論にかかったのは、ボワソナード民法が法典論争を引き起こしたように、何を刑事処罰し、刑事処罰しないか、且つ個々の刑罰をどの程度にするかは、他犯罪との比較が重要で民族価値観を敏感反映するものですから、国内価値観との調整などに時間をかける必要があったからでしょう。
例えば、古代から天皇家に対して弓をひくなど恐れ多くて許されないのは常識として武家諸法度その他法令が発達しても刑罰対象になるかの法定をしていませんでした。
例えば伊周の失脚の直接のキッカケは、(一般化されていますが、史実かどうか不明です)子供じみたことですが、女性問題で花山法皇の牛車に弓を射かけたというものでした。
朝廷に対する不敬罪を規定した御法度がなかったように徳川体制に刃向かう・謀反は当然許されない大前提でしたが、そういう常識的な御法度がなくて当然の社会でした。
これらも刑法で処罰関係が条文化されたものです。
もう一度旧刑法を見ておきます。

第2編 公益ニ關スル重罪輕罪
第1章 皇室ニ對スル罪
第116条 天皇三后皇太子ニ對シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス
第117条 天皇三后皇太子ニ對シ不敬ノ所爲アル者ハ三月以上五年以下ノ重禁錮ニ處シ二十圓以上二百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
2 皇陵ニ對シ不敬ノ所爲アル者亦同シ
第118条 皇族ニ對シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ處ス其危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期徒刑ニ處ス
第119条 皇族ニ對シ不敬ノ所爲アル者ハ二月以上四年以下ノ重禁錮ニ處シ十圓以上百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
第120条 此章ニ記載シタル罪ヲ犯シ輕罪ノ刑ニ處スル者ハ六月以上二年以下ノ監視ニ付ス
第2章 國事ニ關スル罪
第1節 内亂ニ關スル罪
以下略

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