司法権の限界6(人権・正義の相対性2)

夫婦別姓に関する最高裁合憲判決に戻りますと、社会の道義や正義はその社会が決めると言うあたりまえの前提・・誰か偉い人が正義を決めるべきではないと言う確認が必要です。
人権や平和と言う名目で反日行動する勢力は、日本の上位機関として国連を想定しているらしくそこへ食い込んで、ご託宣を得れば良いと言うやり方が多いようですが・・かれらは社会ごとに正義があると言う前提を無視していることが分ります。
国や民族の意思をバカにして上に聳える?超然たる正義を決める神のようなモノを措前提する勢力と言えます。
別姓支持勢力からは最高裁判決に対して落胆の声がありますが、国民多数の支持を得ているならば政治決定を求めれば実現出来ることであって、法改正を求めずに何故裁判で決めようとするのか分りません。
本来法律改正で間に合うものをあえて司法での決着を求める勢力は、国民意思に反している前提・・民意を超越した偉い人の御託宣が欲しいと言うに等しいことになりませんか?
民主国家においては多数の支持を受けた意見が法になり得るので、国民の支持を受けている勢力は憲法違反など主張する必要がありません。
何か気に入らないと直ぐに憲法違反と主張する勢力は、多数からの支持を受けられない・・民意=多数意思を無視するか軽視している勢力のことになります。
憲法が気に入らないと国連決議や勧告、報告を持ち出します。
国民の支持を受けられない勢力=民意を代表しない勢力が、「多数市民の意見を無視している」とか、「大衆迎合主義」とか自分を支持しない国民を衆愚(バカ)扱いして都合良く分類していることになります。
政治の場で議論するべきことをしないで、(あるいは政治論争で負けて)司法に持ち込む運動は、憲法の予定している国民主権原理を無視した・・憲法違反の主張になります。
別姓に関しても時代・・国や社会を越えた超越的価値観がある訳ではありません。
「同姓めとらず」の原則による中国・朝鮮では別姓のママですが、別姓論者の基礎的価値観は中韓の価値観を下敷きにしているように見えますが・・。
中韓の方が古代から人権意識が優れていたと思う人はいないでしょう。
西洋系でもクリントン大統領候補で周知のとおり、前クリントン大統領夫人ですが中韓を除けば、世界中で同姓が普通です。
別姓に関しては(女性に不利だと言う意見を中心に)多様な意見があると思いますから、社会意識の落ち着き・・民意を汲むのは政治家の仕事です・・政治の場で決めたら良いことです。
他所のどこかの原理を持って来て、司法権がどちらの方が優れていると決めるのは行き過ぎです。
意見が分かれている分野・・法で決め切れていない分野で司法がどちらの方が良いと決める権利はありません。
意見が拮抗しているときにどちらを進めるかこそが政治家の決断力の見せ場ですが、新たに国民の進べき方向を司法権が決めるのは権限外です。
またこれを司法に求める運動・憲法を守れと言う運動は・・逆説的ですが、司法に民意を超越したどこかの外国意見の強制を求めるもので、憲法違反をさせようと唆す犯罪的運動です。
安楽死で言えば、担当裁判官が、個人意見として安楽死させるべきと考え、あるいは国連から「安楽死を認めるべきだ」と言う勧告があっても、国民意思による刑法改正をしていないのに、合法であると判断することは法創造をするものであって許されません。
この後で「法と良心」の定義で書きますが、司法による法創造が許されないだけではなく、個人の主観的意見による法解釈は「良心」に反するものであって許されません。
歴史的に見て、天皇制に限らず権力維持するには権力の乱用をしない・・余計な口出しをしない・・謙抑性が必須要件です。
裁判所の最終決定(全国的影響のある事件は最終的には最高裁まで行くのが普通ですが諫早事件でのように政治利用が進み過ぎると却って、高裁どまりになって困っている事件もあります)にどの機関も異議を唱えられないことを良いことにして、最高裁を含めて司法権が出しゃばり過ぎる・・権限濫用すると司法制度自体の革命的改正機運が高まるでしょう。
似たような機関としては軍部があり、軍部がのさばってしまうとみんな怖くて黙っているしかない・・不満蓄積による革命的運動以外にこれを取り除くことが出来なくなります。
不満爆発まで行くと多くは勢いがつき過ぎるので,タイやエジプトのように一時の混乱を沈めるために已むなく軍が介入しても1日も早く軟着陸しようと努力しています。
司法権は国民から要請されてもいないのに、政治に介入するのは愚の骨頂です。
必要もないのに政治介入し過ぎて国民的反発を受け信用をなくすと、本来必要な司法機能(法暴走したときのチェック機能)まで縮小するリスクを心配しています。

司法権の限界5(人権・正義の相対性1)

最近最高裁が夫婦別姓に関して、国民議論が熟していないとして違憲主張を斥けたのは・・司法の限界を弁えた賢明な判断だったと思います。
正義は数学の原理とは違って社会原理ですから、その社会の経て来た歴史経緯や実態を無視して抽象的・・超然として存在するものではありません。
日本には日本列島の経て来た歴史があるし、アメリカや中国インドそれぞれにちがった経験や歴史がありこれに応じた正義があります。
同じ社会でさえも、時間軸による差があります。
超短期的時間・・大規模テロ発生直後の現場では、全てのインフラ利用や人権保障を停止して先ずは救急救命や厳戒態勢の構築・捜査犯人検挙・連続テロ防止が優先されます。
中短期的にも、テロ被害が恒常化すると先ずは、治安を優先する必要があって・危機対処要員・・軍人の意見が優勢になるのと同様でその置かれた状況に応じた価値・正義の比重が変わります。
今、西欧で通信傍受その他の必要性(平時の人権が遠慮する必要性)が真剣に議論され始めたのが、その兆候・・アメリカでアップルの暗号解除が大議論になっているのもその一種です。
自分が安全なところにいて危険地帯での治安強化を非難していたのは、不公正な議論であったことを西欧諸国も身を以て知ったでしょう。
3月初めころに女系天皇を認めない皇室典範が、男女平等原則違反と言う趣旨(ネット報道なので文言不明)の国連人権委員会による対日勧告案(日本人弁護士委員長)が提示されて、おお騒ぎになりかけました。
憲法に平等の人権規定がありながら、同じ憲法に天皇制と言う世襲制度を設けている以上は、(男系優先まで含むかは別ですが・・)これは憲法の例外です。
まして以前書きましたが、天皇家・皇室は「国民」ではありません。
憲法がどうであれ、憲法に超越する上位規範を作って?皇室内にも男女平等原理や長子家督相続をやめて均分相続原理を認めるべきかとなりますが、天皇制がどうあるべきかは正に「国民総意」によることで国連・外国からとやかく言われることではありません。
こう言う問題提起している集団は憲法より上位の規範がある・・それを自分たちだけが知っている・・そのお墨付きを国連勧告などに求めているように見えます。
国民多数の支持を受けられない現実に対しては、多数派を衆愚とか大衆迎合主義者と言って無視し、自分が憲法を無視したいときには国連勧告や報告を持ち出すなど、都合良く切り分ける集団がいます。
この問題が大きくなると国連で誰がこんな画策をしていたのか!と言う大きな動きになりかねないと思ったのか?国連の(内で画策していたグループ?)方で直ぐに取り下げたので大騒ぎにならない内に終わりました。
国連委員会の勧告制度は、元々相手国がいやがることを勧告するものですから対立関係を前提とするものですが、日本の反応に驚いてホンの1週間ほどで取り下げになってしまった安直な動き自体おかしなものです。
以前の児童売買春に関する対日調査報告だったか記者会見もそうでしたが、やることが特定の反日少数グループによる安易な報告や勧告が量産されている印象を受けます。
何かと「国連で批判されている」と言う論法で憲法に優越する前提の主張を持ち出す論者には、人権と言えば国ごとの差が許されない人類普遍の原理・・遅れている国民の意見などいらないと言う選民意識がある(・・何かあると憲法違反論を主張する勢力と重なっているようですが・・本音は憲法や民意無視の勢力です)と思いますが、さすがに「天皇制そのものを批判するために国連を利用するのか!」と言う世論が沸き立つ前に早々と引き下がった印象です。
嫌韓感情の発火点は、李明博前大統領にによる天皇侮辱発言が伝わったことによります。
慰安婦騒動は韓国には迷惑をかけた以上はある程度の誇張は仕方がないとか、「またバカが言ってるか!」バカを相手にするとこちらまで品性が下がると思っている程度の人が多かったのですが、天皇侮辱発言となると、ついに民族感情が爆発してしまい日本人の韓国に対する思いやり・寛容の精神の限界を越えてしまいました。
韓国は国連のように直ぐに軌道修正すればよかったのですが、(国連委員会がすぐに修正出来たのは日本人委員がこのテーマに影響力を持っていたからではないかと推測されます)朝鮮人の民族性を発揮してパク大統領が開き直りに徹したので遂に修復出来ないところまで進んでしまいました。
今になって日韓合意になりましたが、日本からの観光客激減が続いていることに象徴されるように傷ついた国民感情を簡単に修復出来る訳がありません。
親族や友人間の裁判で和解したからと言って、・・その裁判での主張をこれ以上進めないと言う程度の合意に過ぎず、過去の人間関係が修復出来ることが皆無に近いのと同じです。
政治用語の「不可逆的」とは、法概念の「確定」「既判力」の言い換えです。
日韓合意に対するいろんな立場からの意見がありますが、裁判上の和解を下敷きにして考えると容易にその効果・・射程範囲を理解出来る筈です。
専制支配の経験しかない韓国では、指導者・政治家あるいはマスコミさえ抱き込めば良いと言う動きが最近急ですが、ボトムアップ社会の日本民族性を十分理解していないようです。
抱き込まれた政治家があまり露骨な動きをすると朝日新聞やフジテレビみたいな目に遭うでしょうから慎重です・・当面韓国批判をさせない間接的動き・ヘイトスピーチ禁止論から始めている印象です。
国連を利用した男女平等にかこつけた実質的天皇制批判・・勧告案に対する日本社会の憤激の大きさに驚いたのか、(韓国と違って機を見るに敏です)大急ぎで国連人権委員会が案を引っ込めたことから分るように、「人権」と言いさえすれば人類普遍原理・・国連が価値観を示して民族の総意を無視して主張出来る・・超越的高みから指導出来る訳ではない・・・社会ごとの人権・正義があることを認めざるを得なかったことを女系天皇騒動が証明しました。

司法権の限界4(謙抑性1)

大学入試はテストによるしかない・・しかもテストにもルールがある・問題を予め教えたり、個人的耳打ち情報や裏金・コネで特定生徒の合格を決めたらいけないように、裁判も訴訟手続に出た資料以外の材料を判断材料にするのがいけないのが基本です。
野球や相撲でも大方ルールがあり、裁判には勿論ルールがある・・これを決めているのが訴訟法です。
訴訟手続を踏んで出されていない心象風景を判断材料にするのはルール違反です・・野球で言えば、ピッチャーの投げた球を打つのであって、別の人が投げた球を打ってもホームランやヒットにカウントされませんし、料理コンペでは同じ具材条件で競うものであって、こっそり別の調味料を加えるのはルール違反です。
ましてや政治決定の優劣を最終審査する権利は司法にはありません。
料理審査員が政治に口出ししているようなものです。
料理やスポーツ等の審査員が政治意見を言っても国家意思にはならず影響力程度のことですが、司法が判決で政治を持ち込むと国家意思の最終決定・・権力行使になるので、性質が違ってきます。
司法権の限界を越える=越権行為をする裁判官は一部の不心得者に限定されるとしても、仮に裁判官全体の一部の人でも自分の個人的主張を通すために裁判形式を利用すると、国家権力・強制力として効力が生じるので大変な影響力があります。
医師の独断による安楽死実行は、規範的効力がなく逆に規範により処罰される犯罪行為としてのインパクトでしかない・・被害者は個々人だけですが、国家意思としての司法決定は全国民の行動規範・・法の解釈となるので影響が大きくなります。
民間や行政組織は組織的決定を経ないで外部発表するのはルール違反ですが、司法・・裁判官は単独(多くは単独事件ですし、合議体でも対等者間ではなく経験10年以上の格差のある先輩後輩の3人でしかないことをMarch 12, 201「個人責任と組織の関係3(仮処分制度の領域1)」のコラムで紹介しました)で国家意思として強制力を持つところが大違いです。
医師は病気を治すのが本業ですが、人の生死に関連しているうちに生死を左右出来る権利があるかのように振る舞うようになると怖いものです。
医師の個人信念で安楽死をさせている事件が時々殺人罪のニュースになりますが、医師は生死の場に多く関わっているだけであって、生死を決める優越的判断権を有している訳ではありません。
テーマがズレますので簡潔に法的整理すれば、「自死」に関してどう言う場合に自己決定権を認めるべきかその援助を容認するかの国民合意形成分野です。
刑法
(自殺関与及び同意殺人)
第二百二条  人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。
国民合意がないのに、特定医師あるいは医師会が勝手に国民意思を決めて実行する権利はありません。
このように一定の力を持つと限界をはみ出す人が生じ易くなります。
武道家がグレて違法行為に走ってしまうのに対抗する姿三四郎の映画や、チャンバラ映画のようなものです。
27日に紹介した日経新聞の「春秋の筆法?」によれば、大津地裁の仮処分決定は「国民の心象風景を認定しているように見える」ようですが、司法権には国民意思を認定して法をどのように創造すべきかを決める権利がなく、既存の法に該当するかどうかを「訴訟手続によって得た証拠を「自由心証」で評価した事実認定権限しかありません。
訴訟手続によらない心象形成・・独断決定は禁止されています。
とは言っても条文自体の解釈・・学問的甲論乙駁も定説もない分野では、裁判官の個人信条が反映され易くなる危険があります。
名古屋だったか三重県だったかで友人の子供を預かった間に起きた事故で、損害賠償を認めた事例が世間を騒がせました。
名古屋高裁の妻や長男夫婦の介護責任を認定した事件のように司法判断がおかしい・・司法権がそう言うことまで決めていいのかの疑問を持つ人が多いでしょう。
国民的議論がまだ熟していない段階で、司法が勇気を持って?率先判断を示すと「法」を創造することになります。
憲法上司法の最終決定が国の最終決定となることから、国は司法の決定に従わねばならない・・これを是正する方法がない分・・その分司法には自己規制・・謙抑性と言われています・・が要請されます。
憲法が司法に法解釈の最終決定権を与えた・最終決定機関と言うとはこれが誤っていても是正する手段が用意されていないことになりますから、その代わりに内在原理として自己規制・謙抑性が要請される原理ですが、最近これが狂っていないか、社会的に疑問をもたれる判例が時々出ます。
社会のあり方に関して国民議論が熟していない上に法の基準がない場合には、司法が率先して基準・法を定立しようとするのはおこがましい・・国民主権原理に反しています。

司法権の限界3(証拠による事実認定)

政治決定の場合、情報源・判断資料が何かを開示する義務がありませんし、国民もAと言う政治家を選んだ理由を説明する義務がないどころか、誰を選んだかも秘密に出来ます。
司法権は国民から政治決定の委託を受けていない専門家と言う位置づけですから、専門的判断である以上は判断根拠を示す義務があります。
しかも根拠とする事実は、証拠によって認定された事実に限られます。
刑事訴訟法
第四十四条  裁判には、理由を附しなければならない。
第三百十七条  事実の認定は、証拠による。
第三百十八条  証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。
第三百三十五条  有罪の言渡をするには、罪となるべき事実、証拠の標目及び法令の適用を示さなければならない。

民事訴訟法
(判決書)
第二百五十三条  判決書には、次に掲げる事項を記載しなければならない。
一  主文
二  事実
三  理由
以下省略
2  事実の記載においては、請求を明らかにし、かつ、主文が正当であることを示すのに必要な主張を摘示しなければならない。
(自由心証主義)
第二百四十七条  裁判所は、判決をするに当たり、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して、自由な心証により、事実についての主張を真実と認めるべきか否かを判断する。

「自由心証主義」と聞くと自由自在のような印象を受けますが、証拠評価について自由な心証によると言うだけで、(法律論としては「法定証拠主義」でないと言うだけで「事実の認定は証拠による」義務があるので)証拠のないことを認定することは許されていません。
上記のとおり、判決するには、訴訟手続で厳格に管理された「証拠によらないといけない」のですから、証拠調べしていない・・裁判官が個人的に知っていることや感じたこと・・心象風景を判断根拠に持ち込むのは、ルール違反になります。
訴訟に出た証拠からそのような事実認定が合理的であるかの基準には、経験則が用いられ当事者が不満の場合には上訴審でチェックを受け・・社会的影響力のある事案では、学者や世間の批評対象になります。
昨日紹介した日経の意見によれば、社内で証拠を吟味したところ、証拠からは決定理由となる事実を導けない・・・・だから証拠以外の心象風景を根拠にしたのではないか?と言う遠回しの評価意見になったと思われます。
訴訟手続の技術論を離れて司法権と政治の関係に戻りますと、司法権の優越性と言われることがありますが、国民心象・民意・・心象風景を理解し実現する政治判断能力ではなく、法の解釈・精神がどこにあるか・事実が法に合致しているかの最終認定能力・権限でしかありません。
憲法上は、国会が国権の最高機関ですし、実質的にも妥当です。
法の解釈を司法手続内でしか覆せないので、最終決定権者のように見えるだけです。
それがいつの間にか、拡大されて法そのものを創造出来るかのような振る舞いを始めようとしているように見えるのが、現在社会と言えるでしょうか?
古来から南都6宗に始まり叡山のゴリ押し、弓削の道鏡や宦官等の側近・・近代では軍部が戦後では農協や総評・日教組・医師会などが政治に口を挟むなど、特定分野が強くなると政治に容喙したくなり勝ちですが、司法権もその一事例を加えるようなことにならないように司法に関わる人々は自戒する必要があります。
どんな分野も突き詰めれば政治の影響を受けるので、古くは衆生済度を目指す宗教界が影響力を持ちました・・戦争の危機時には軍人の発言力が増すし、経済危機には経済関係者・・オリンピックが近づけばその関係者のニュ−スがにぎわいます・・台風が近づけば気象ニュースとそれぞれ変わって行きますが、特別なことがなくても衆生済度は永遠のテーマですので、今ではこの役割を担う弁護士会が「人権擁護」(平和・難民)を主張する限りいつでも主役を張れると言うところでしょうか?
何事でも熱心になるとツイ、政治に口出ししたくなりますが、政治を後援するのは別として政治決定そのものに参加出来るのは、昨日書いたように選挙手続を経て民意代表として公認された人だけです。
古くは一定組織で昇進を重ねた人は、多くの支持を受けているので間違いがないと思われてきましたが、中国のように内部ネゴ(付け届けや足の引っ張りあい)のうまい人がはびこるマイナスもあるので、結局は多数の民意による選挙・・テスト社会になったのです。
中には感性が発達していて選挙を経ないでも民意吸収能力の高い人もいるでしょうが、自己満足の場合が多いので、選挙の洗礼を受けた人だけを有資格者とする現在の制度が合理的です。
評論家や弁のたつ人が選挙に出て落ちるのは,選挙制度は自己主張をおしつける人ではなく民意吸収能力(御用聞き能力)のテストである本質からすれば当然です。
自分らの気持ちを代弁して主張を通す能力のある人に託すのが合理的ですから、一定の説得力・・弁論能力が要求されますが、先ずは良く聞いてくれる人が第1の要件です。
政治決定をする・・濫用的動きをしている裁判官がいるとした場合、ソモソモ「憲法や法と良心のみに従う」べき憲法違反ですし、(「良心」とは何かについて後に書きます)法創造する前提としての価値判断をどうやって形成するのか、どうやって民意を吸収したのかが問題です。
民意吸収能力差を基準にすると秀才はむしろ一般人よりも劣っている場合が多いのですから無理があります。
27日に紹介した日経の記事では、心象風景の認定」が基礎にあるようだと書いているように私には読めますし、本件仮処分決定は正にそうではなかったかの疑問(決定書をまだ読んでないので疑問でしかありません)を抱いて書いています。
(証拠によらない認定をすると、当事者に対する不意打ちになって反証を出すチャンスすら与えないことになり不公正な裁判になってしまいます。)
古来から南都6宗に始まり叡山のゴリ押し、弓削の道鏡や宦官等の側近・・近代では軍部が戦後では農協や総評・日教組・医師会などが政治に口を挟むなど、特定分野が強くなると政治に容喙するようになり勝ちですが、司法権もその一事例を加えるようなことにならないように司法に関わる人々は自戒する必要があります。
どんな分野も突き詰めれば政治の影響を受けるので、古くは衆生済度を目指す宗教界が影響力を持ちました・・戦争の危機時には軍人の発言力が増すし、経済危機には経済関係者・・オリンピックが近づけばその関係者のニュ−スがにぎわい、台風が近づけば気象ニュースとそれぞれ変わって行きます。
特別なことがなくても衆生済度は永遠のテーマですので、今ではこの役割を担う弁護士会が「人権擁護」(平和・難民救済)を主張する限りいつでも主役を張れると言うところでしょうか?
つい、政治に口出ししたくなりますが、政治を後援するのは別として政治決定そのものに参加出来るのは、昨日書いたように選挙手続を経て民意代表として公認された人だけです。
古くは一定組織で昇進を重ねた人は、多くの支持を受けているので間違いがないと思われてきましたが、中国のように内部ネゴ(付け届けや足の引っ張りあい)のうまい人がはびこるマイナスもあるので、結局は多数の民意による選挙・・テスト社会になったのです。
中には感性が発達していて選挙を経ないでも民意吸収能力の高い人もいるでしょうが、自己満足の場合が多いので、選挙の洗礼を受けた人だけを有資格者とするのが合理的です。
評論家や弁のたつ人が選挙に出て落ちるのは,選挙制度は自己主張をおしつける人ではなく民意吸収能力(御用聞き能力)のテストである本質を理解していないからです。
政治決定をする・・濫用的動きをしている裁判官がいるとした場合、ソモソモ「憲法や法と良心のみに従う」べき憲法違反ですし、(「良心」とは何かについて後に書きます)法創造する前提としての価値判断をどうやって形成するのか、どうやって民意を吸収したのかが問題です。
政治決定する正統性の根拠が、民意吸収能力差であるとした場合、秀才はむしろ一般人よりも劣っている場合が多いのですから選挙を経た公認資格がないだけではなく、実質的にも無理があります。
27日に紹介した日経の記事では、心象風景の認定」が基礎にあるようだと書いているように私には読めますし、本件仮処分決定は正にそうではなかったかの疑問(決定書をまだ読んでないので疑問でしかありません)を抱いて書いています。
(証拠によらない認定をすると、当事者に対する不意打ちになって反証を出すチャンスすら与えないことになり不公正な裁判になってしまいます。)

司法権の限界2((良心に従う義務)

いつ地震が来るかその程度も分らないならば専門家がいらないか?と言うとそうではなく、確定出来ないと言うだけで専門家情報はそれなりに意味があります。
喩えば、インテリジェンス情報で言えば、それをどういう風に深読みし現実政治に応用するかは政治家の役割と言うだけで専門情報自体不要でありません。
あるいは大規模地震予測不能との比較で言えば、競馬は走ってみないと分らないと言うのが一般的理解で、そうとすれば生まれて直ぐの庭先取引あるいは競り段階ではケイバ馬の将来の個別勝敗はなおさら予測不能な例ですが、それでもプロの世界では海のものとも山のものとも分らない段階の庭先取引が主流になっている・・その後一定の競り値がついていて、競りでも値がつかないようなバカ安い馬が三冠馬どころかG1でさえ勝つ確率がゼロに近い実態を見れば、一人一人で見れば、当たり外れは大きいものの大勢のプロの目による平均値になれば、結果的に大方の馬主の予想があたっていると言えます。
ですから「不確定」と言ってもプロの方が不確定の幅が狭いことになります。
以上のように分らないなりに専門家の識見・・それも大勢の総合判断が重要になります。
それぞれの専門分野の知識・情報を総合すれば良いかと言うと、科学的に決め切れない分野こそ科学者の総合判断を前提にゴーかストップか静観するかの最終判断は、民意を吸収している政治家が担当するべきです。
専門家の意見は重要ですが、民意吸収や利害調整能力のない専門家が最終決定するのは(国民主権原理からして)行き過ぎで、民意を受けた政治とのミックスで決めて行くのが合理的です。
今では、いろんな分野で専門化が進んでいるので、各種審議会や委員会等の透明的制度設計で決めて行くしかない分野が多くなっているのはそれ自体合理的です。
原発の安全性等は、・・地震学者のみならず設備そのものの安全性・・それには地震波がどのように作用すると原子炉の構造(に対する深い知見)にどのような作用を及ぼすかなど総合的知見が必須です・・マサに各種専門家と政治家決断力の合作が必要な分野です。
これを「裁判官と科学者の合作」あるいは「裁判官が上段の席にいてせいぜい2〜3人の学者意見を参考として聞いた上で裁定する」方が優越性があるとする根拠は何か?です。
科学者総動員の英知を結集した上での政治決定に対して、実害の生じる前の段階で失敗しないとは言い切れないと言う論理を前面に出して、失敗可能性がある限り司法権が事前停止命令できるとなれば、人間活動の全否定に繋がりかねないので神様のような超越的権限を憲法が与えていることになります。
元は審判は神判でもあり神託から始まったものとしても、これが王権そのものとなった(イギリスでキングズベンチと言うのがその名残です)ものの、次第に合理化されて王権の恣意によることは出来ない専門家の職分になって行きました。
その後王権が制限され遂には国民主権国家になって行ったことは周知のとおりですが、これは経済分野の市場原理・「神の手」論の政治分野への応用です。
民意の総合をどうやって知るか?
裁判で事実を知るために訴訟手続があるように民意を知る手続としては選挙制度があって、これによって選任された政治家が民意の代表者となり国会で民意の総合的結果としての法を創造する仕組みです。
司法の分野においては、民意を直截吸収することを逆に禁止され、専門家は、法廷に現れた証拠のみを前提に判定するように手続法(証拠法則)が整備され、しかも法・憲法と良心に従って判断する義務が課せられています。
専門家・・司法官が従うように義務づけられている法は、民意を吸収した国会で作ったものですし憲法も国会経由で作られます。
以上によれば、司法官は「法・憲法と良心」に反して直截民意を慮って判断することは許されません。
憲法は、国会を唯一の民意吸収装置として位置づけた上で、国権の最高機関と定めているのであって、民主主義国家においては至極当然のことです。
三権分立と言うのは、学者が比喩的に言っているだけであって、日本は国民主権国家であり、国民意思を反映する国会が最高意思決定機関である・この決定意思=法に従うべきは疑いを容れません。

憲法
第四十一条  国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
第七十六条  すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
○2  特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
○3  すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

日経新聞3月12日朝刊一面の「春秋」欄によれば、司法が福島原発事故について国民が感じている重みを自由「心証」でなく「心象」風景として感じたことを反映したのだろうという趣旨で書いています。
大手新聞によるこの時点での遠慮がちで洗練された評価が見えて面白い書き方です。
※ただし、翌13日朝刊社説では、明白に仮処分決定を批判する意見を書いていますので、この間に決定書を吟味出来たのでしょう。
憲法は司法権が「国民心象を感じ取る能力」が政治家よりすぐれているとは認めていない・・心象感受性を特に高いとして司法権に優越する権利を与えていません。
むしろ上記のとおり、司法官は厳格な証拠法則に従って入手した証拠以外から私的に入手した証拠で事実認定してはいけないルールですから、「心象風景」と言う私的な感想や主観で判断するのは憲法で定められた「法と良心のみに従う」義務に違反しています。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC