アメリカ優位性喪失5(物量作戦の限界2)

第二次世界大戦終了後の東南アジアでの植民地独立戦争で英仏蘭が敗退していったこと(日本兵が現地に居残って指導していたことが知られています)やアメリカのベトナム戦争の失敗は、既に日本との戦いの経験で研究済みどおりの展開になっていたことが分ります。
アメリカ得意の物量作戦は広大な海戦や砂漠での戦いでは有効ですが、硫黄島戦終了時に大規模戦以外の戦闘形態・・ジャングルや都市ゲリラその他での限界が見えていたのに、ベトナム戦争や第二次イラク戦争・・占領行政までやったのは、これを学ばなかったことになります。
第一次イラク戦争(湾岸戦争)ではあっさり兵を引いたのは、占領後の統治困難をパパブッシュが知っていたからかも知れません。
2週間ほど前に、イギリス政府によるイラク戦争に関する調査報告書が出ましたが、これによると戦争開始に関する判断ミスの外に終結後・・占領後の展望についての戦略不足が現在のテロ社会化・・混迷の原因になっていることが書かれているようです。
ただし、ちょっと話題がそれますが、アラブ世界の大混乱を別の角度から見れば別の結果も見えてきます。
イラクに留まらずリビヤ〜エジプト〜シリアに連なる連続的政府転覆の結果は偶然ではありません。
敢えてアラブ民族内での無政府状態化・・内部対立激化・大混乱に陥らせて、アラブ民族のトータル弱体化を図ってイスラエルの安泰を図る裏の統一的目的があったとすれば、(裏の目的は政府調査報告書には出ません)がその作戦は大成功している見方も可能です。
アラブ諸国の無政府状態化の進行によってどこが得しているかの結果から見れば、イラク戦争以降長年中東の火薬庫であったイスラエルとアラブの対立問題が話題にもならなくなったことから明らかです。
イスラエルの陰謀(があったとすれば)に加担した西欧諸国(何故かリビアにはNATO軍が積極的に支援していましたし、シリア反政府軍応援にはフランスが積極的でした)は難民流入の報復を受けているのはその反作用として合理的です。
数日前にも南仏ニースで大規模テロが起きていますが、フランスでのテロが多いのは、アラブ混迷化にフランスがかなり貢献?している・・貢献度合いによるのではないでしょうか?
私は異民族と混在するのは良くないと書いていますが、移民がいればテロになるとは限りません。
フランスでのテロ頻発は、移民の多さだけではなくフランスのやり過ぎに対する反感が動機・モチベーションになっているのではないでしょうか? 
占領政治の難しさ・・原始的恐怖政治をしたのでは、支配地の経済力を活用出来ませんので巨額軍事費を使って占領しても却って損をするだけですからフランスもアルジェから、手を引いたのです。
民生を安定させながら占領統治をしようとすれば、占領後の統治の方が難しいのは当然です。
イラク戦争に際してイギリスの調査報告ではその研究不足のまま参戦してしまったと言うのですが、素直に報告している点が真新しいところでしょうか?
アメリカが日本占領後の統治をどうやって良いか分らずに苦慮したときに当然米英は協議していた筈なのに、(混乱させること自体が目的だったとする上記ユダヤの陰謀でない限り)この反省が充分にされていなかったことになります。
企業買収も金さえあれば買収までは可能ですが、その後成功するかの研究調査こそが重要です。
いみじくもブッシュだったかが「日本でうまく行ったから・・」と当時言い訳をしていたのは、日本占領前後の研究をしていたことが分りますが、この発言を聞いた当時ブッシュのバカさ加減に驚いた日本人が多かったと思います。
幼児に家事のお手伝いをさせて大方はオヤがしてやっても「良くやったね」とおだてるようなもので、超々高度な政治経験のない中東・アラブ民族には日本のようにうまくアメリカをおだてて泳がせてくれる能力などないことを知らない意見です。
日本の場合、硫黄島や沖縄での勇敢な戦いでアメリカ軍に対して衝撃を十分与えた後にビビっている占領軍をうまく手なずけて占領後日本人を奴隷化してしまう計画を変更さて、柔軟支配に持ち込んだ何千年単位で築いて来た高度な政治力によるものです。
(November 12, 2013「マッカーサーの功罪5(軍政の撤回3)」で直接統治の占領軍指令を結果的に発効させなかった経緯を書いたことがあります)
アメリカは最後の詰め・・終結の見通しに関する手詰まり打開のためにヤルタ会談(1945年2月4日~11日〜ポツダム宣言ポツダム宣言(1945年(昭和20年)7月26日)その他で頻りに降伏を迫っていましたが、日本が受入れる様子が見えないまま硫黄島作戦の大損害などがあって困ってしまいソ連を対日戦争に引き込み・原爆投下に踏み切るしかない状態に追い込まれていたことが分ります。
これがアメリカで主張されている原爆投下正当化論の背景根拠ですし、沖縄人が日本軍に無理矢理に死に追いやられたとするでっち上げ歴史教育を強制して来た原因です。
原爆投下正当論は言い換えれば、原爆投下しないと日本に大規模野外戦では勝てても、最終的に勝ち切るには大損害が予想されたという自白そのものです。

アメリカ優位性喪失4(物量作戦の限界1)

特攻機でも、アッツ島玉砕でも硫黄島や沖縄の戦いでも日本兵は自分個人の命のためではなく背後の自国民族のために1分1秒でも本土侵略を受けるのを遅くさせるために戦いました。
自分の損得で参加している志願兵・傭兵のアメリカ・強制的に徴用される中国兵の場合、命を失うと意味がないので危険のない限度でしか戦わない→負け戦になると踏ん張る気力がない・・中国・朝鮮の陣立ての基本は古来から先頭の兵が逃げないように後方から見張る兵がいて先頭の兵が逃げたら真っ先にその兵を射殺する仕組みになっていると言われています。
損得勘定で参加し逃げると血祭りに上げられる恐怖によって戦う兵を前提にしているのが多くの国の兵士ですから、圧倒的兵力のときには何とかなりますが、勝つか負ける分らない状態になると味方の監視をかいくぐって如何に逃げるかばかり考えるので、しのぎを削る戦いには弱くなります。
日本の場合,命令に従わないと処罰される恐怖感によるのではなく、自分の命を棄てても犬死にならない限り子々孫々のために役立ちたい思いですから死んでも食らいついて離さない根性が諸外国の兵との違いです。

以下はhttp://www.iwojima.jp/data3.htmlのデータです。
1945年2月19日 – 1945年3月26日
硫黄島戦の両軍の損害

硫黄島戦の両軍の損害

     日本軍               米 軍
   戦死者(人)
   陸 軍 12,723        海兵隊 5,931
   海 軍 7,406         陸 軍 9
   島 民 (82)           海 軍 881
   小 計 20,129        小 計 6,821
 
   戦傷者(人) 陸 軍 726     海兵隊 19,920
   海 軍 294           陸 軍 1,917
   島 民 (21)           海 軍 28
   小 計 1,020         小 計 21,865

   合  計 21,149        28,686

以下は沖縄戦に関するウイキペデイアのデータです。
1945年3月26日 – 6月23日
沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる[5]。 その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908 人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は14,006人、 イギリス軍の死者が82人で、アメリカ軍の負傷者72,012人であった[6](日本側被害の詳細は#住民犠牲についてを参照)。

圧倒的物量で始めた硫黄島占領作戦・・ヤマの形がなくなるほどの艦砲射撃や空爆の後に戦車を先頭に上陸して来る米兵に対して何十日も殆ど水しかのんでいない日本兵が大砲もなく素手に近い・・弾薬すらほとんどない鉄砲だけで戦ってこの結果でした。
続けて予定どおりに実施した沖縄戦でも、攻撃側の死傷者数が10万人近くになっています。
沖縄戦での死傷数が硫黄島の戦いと大して変わらないのは正規軍同士の戦いが多かったこと・・この場合物量に優る米軍の損害率が下がることによります。
この結果を見て日本本土上陸作戦遂行にはこの10倍〜100倍の被害が出る・占領後もゲリラ戦になればどのくらいの被害が出るか計り知れないと言う計算が立ちますし、兵の方も圧倒的安全な戦いでないと尻込みしたくなる兵が多くなります。
知覧にある特攻機出撃基地に行けば分りますが、みんな銃後の家族・民族のために散って行ったのです。
敗戦を数分、数秒遅らせれば良いと言うよりは、その後の占領支配に対する影響を考えて生命を賭してみんな頑張ったことが分ります。
特攻機攻撃の激化は、今の自爆テロの先行事例で占領完成後にも日本人の命知らずの襲撃・・長期的テロが続くことが当然想定されていたと思われます。
蒙古襲来を防いだのも地元武士による夜襲の連続によること・・このために蒙古軍は昼間の戦いで占領した橋頭堡を夜間維持出来なかった・・船に帰るしかなかったので台風被害になってしまったことを紹介したことがあります。
幕末での長州対四国連合艦隊の戦い後の戦後処理でも、連合艦隊側が占領した島の租借要求が高杉晋作にあっさり蹴っ飛ばされて引き下がったのも、全てこの恐怖によります。
アメリカは日本の歴史を研究していますので、硫黄島作戦では日本軍得意の夜襲を研究していてその想定での橋頭堡確保作戦をしていたようです。
膨大な死傷者を出したアメリカ軍の恐怖・・この恐怖心の現れが・・白兵戦に頼るしかない本土上陸作戦をためらうようになった要因です。
本土の場合島とは違い奥行きが深い・・海岸線の戦いでは艦砲射撃が届きますが内陸部には届きません・・海岸線だけの支配では夜襲その他ゲリラ襲撃に悩まされて維持出来ない点は蒙古襲来時と同じです。
制圧までの被害想定とその後の武力一辺倒の占領統治には無理がある・・原爆投下と言う歴史に残るマイナス行為に踏み切るしかなくなった・・・追いつめられた決断でした。
硫黄島〜沖縄作戦後アメリカ軍内に恐怖心が支配していて、アメリカは軍事的には手詰まり状態に陥っていたことが分ります。
第二次世界大戦終了後の東南アジアでの植民地独立戦争で英仏蘭が敗退していったこと(日本兵が現地に居残って指導していたことが知られています)やベトナム戦争の失敗は、既にこの日本との戦いの経験で(力攻めで最後までやった場合の占領後のリスク)研究済みどおりの展開になっていたことが分ります。
アメリカ得意の物量作戦は広大な海戦や砂漠での戦いでは有効ですが、硫黄島・沖縄戦終了時に大規模戦以外の戦闘形態・・ジャングルや都市ゲリラその他での限界が見えていたのに、ベトナム戦争やイラク戦争を起こしたのは、これを敢えて学ばなかったことになります。
第一次イラク戦争(湾岸戦争)ではあっさり兵を引いたのは、占領後の統治困難をパパブッシュが知っていたからかも知れません。
2週間ほど前に、イギリス政府による第二次イラク戦争に関する調査報告書が出ましたが、これによると戦争開始に関する判断ミスの外に終結後・・占領後の展望についての戦略不足が現在のテロ社会化・・混迷の原因になっていることが書かれているようです。

社会保障とその限界2

介護サービス分野の労動力不足問題は移民導入で解決する問題ではなく、これを提供する側のコストを利用者が負担出来ない・・税で負担しようとするところに無理があります。
給与4〜50万も払えば求職者が殺到するでしょうから、人口不足ではなく給与水準の低さにあることが明らかです。
移民導入論は、移民の労働条件は日本人よりも低くて良いという思想を前提にしないと成り立ちません。
この思想は移民が他産業へじわじわと浸透して行くのを期待して最低賃金水準を結果的に引き下げて行きたい思惑が背後にあると思われます。
この効果が出ているのが欧米であり、今や中国に負けないほど賃金水準が下がったと豪語している状況ですが、これがイギリスやアメリカ国民の不満爆発に繋がっているのです。
日本をそう言う社会にして良いかの議論が必要です。
有料老人ホームの待機問題が起きないように、保育所や介護費用も利用者が必要なコストを払うならば民間参入が進むし税負担がいりませんので、国会で議論する必要すらありません。
高齢者介護は医療同様に家庭内で見るのが無理なのでこれを社会化・・サービス産業化して行くのは必要ですが、補助比率を徐々に下げて行き民間参入を増やして公的比率を減らして行く工夫が必要です。
明治維新当時を振り返れば分りますが、国営製鐵や国営鉄道その他揺籃期には、税で後押しする必要がありますが、いつまでも公営であり続けるべきかは別問題です。
千葉の例で言えば、モータリゼーションが始まったばかりの昭和40年前半頃に繁華街での路上駐車対策で?始まった公営駐車場がまだ残っていて、5〜6年前からこんな施設を税で運営している事自体おかしいと思っていたら遂に、今年から一部廃止することになったようです。
今では100円パーキングがあちこちにあって、税負担でインフラとして用意する必要性がなくなっているからです。
美術館・・公営会館などは一見ペイしないので、税が必要と言う意見が多いでしょうが、東京になると民間美術館が一杯あるので、民間と競争するために税を投入する必要があるの?と言う想定外の視点が必要でしょう。
公民館やスポーツ施設などもフィットネスクラブや民間のいろんな組織・貸しホールが発達して来るとコミュニテイーセンターなどの役割に疑問が出て来ます。
ビジネス街の公民館の利用を見ると民間より数十円安いから利用する人が中心になって来ると何のために巨額の税投入で維持しているかの疑問が出て来ます。
まだ結婚式が個人宅で行われることが多かった昭和30年代始め頃に大田区のどのあたりだったか忘れましたが、(奥沢か雪谷だったかなあ?)をクルマで通りかかったときの光景を今で思い出しますが、・・新装なった公民館で結婚式をやっていましたが、それが当時の新生活運動だったのです。
屋敷を持たないアパート住まいの労働者も一人前に結婚式をやれる時代到来の象徴でした・・いま公民館で結婚式や葬儀をやっている人は滅多にいないでしょう・・役割が終わったのです。
学校制度も公営は民間が育つまでの過渡的制度であるべきで、最後は民間の授業料を払えない階層のための社会保障としての公立小中高校・国公立大学制度に絞れば税負担が大幅に減りますし、自由な競争に曝した方が、教育レベルがあがると思われます。
明治維新時の織物工場や製鐵や鉄道・今のロケット技術等先端分や制度創設当初には補助金・・公営が必要かも知れませんが、創設時に民営化するまでの工程表を策定しておく発想・・民営化して行く前提がどんな分野でも必要です。 
明治維新の官営工場がいつまでも官営のママであれば、日本の近代国家への離陸発展がなかったでしょう。
保育所や介護関係は、業界の自立が見込めない・・いつまでもコストの大部分を政府が出し続けなければならない点に無理があります。
必要なコスト負担しない・・この差を埋めるために国家支出・・みんなの善意?を求められているのが今の保育所増設や介護士増員や特養増設要求であって、払えないコスト分は国家支出に頼る以上国策の優先順(宇宙飛行士の給与、大学教授の給与〜公務員の給与・・・道路や文化予算等々)で総枠が決まって行くしかありません。
利用者がコスト負担する場合・・放っておいても需要がある限り供給されるでしょうが、税でコスト負担する場合には需要がある限り供給すべしと言う理屈にはなりません。
介護や哺育関連従事者の賃金も税で供給されているから市場価格と乖離する・・人が集まらなくなるのは仕方がないことです。
自分の収入に匹敵する費用を払っても良いと言う国民合意があってこそ、賃金の市場価格が成立します。
介護士や保育士は平均賃金で良いがコストの5分の4を政府が負担すべき(保育所の敷地購入負担・建物建設や管理その他運営費用がかかるので、介護士や保育士の給与だけでは運営出来ません)と言う現在の要求では、いつかは国家予算が持たなくなります。

社会保障とその限界1

コスト負担したくない国民のために、需要全部賄えるように補助金を無制限に増やせば良いのでしょうか?
その負担が国家予算に占める比率が微々たる場合・・大川や海に捨てるゴミが少しのときには気になりませんが大規模になると公害になったように、負担額が国家予算の半分を超えて来ると可哀相だけの基準では済まなくなってきます。
個別分野の積み上げではなく、個人負担の分野をどこまで政府が面倒見るべきかの総予算に対する比率・・総枠に関する議論が必要です。
そう言う意識的な議論がないまでも事実上予算総枠の縛りが起きて需要・要望を満たせないのは仕方のないことです。
予算の制約上需要に応じた施設全部作れない・・需要の10分の1〜2しか作れないと待機が生じるのは当然ですし、待機比率が高いときには、理想的設備ではなくともある程度レベル落としても数を多くした方が良いかも政策判断の範囲です。
市場原理に基づく代金を払う有料ホームの場合、必然的に設備やサービス内容が高度化するし、これに比例して従事者のレベルアップが要求される→給与アップするので、人手不足になりません。
量を供給するためにレベルを落とせば、介護関係者の待遇が下がる→応募者が減って不足する関係です。
予算上総枠としていろんな要求に対する優先順位がいるように人材配分としての優先順位も必要です。
介護士の給与を大学教授や宇宙飛行士よりも高くすればドット集まるでしょうが、上記は極端な例としても、現実世界には微妙な待遇差で無数の職種が存在していて市場原理で微妙に決まっているのですが、計画経済的にどの職種より介護士や保育士が時給10円高くても良いかなど決めて行くのは無理があります。
利用者がコストを負担出来ない以上市場原理で決められないのは仕方がないことですが、中央が決めた点数で決める制度設計である限り人材供給がスムースに行かないのは仕方のないことです。
ソ連は経済原理無視の結果遂に崩壊しましたが・・中国の経済原理に反した国家介入の限界が来ていて近日中に大破綻するだろうと意見が普通ですが、「お金に色がない」といいますが、赤字の原因が社会保障分野ならば経済原理に反した支出しても構わない・・永続出来るものではありません。
使い道が何で(高邁な理想に基づくからと言って)あれ、収入以上の支払が永続することはありません。
日本でも国鉄の赤字拡大その他幾多の事例を見れば、市場原理を無視した国家運営にはいつかは無理が出ることが明らかです。
日本の財政赤字の元凶は歯止めのない社会保障負担拡大ですが、社会保障は赤字に決まっているからコストを無視しても良いという発想に安住しているといつか国家=民族が破綻してしまいます。
生活保護で以前書いたことがありますが、増額しろ、可哀相だと言う感情論の合唱ばかりではなく平均的生活水準の何割まで保障するかと言う国民合意が先決・必要です。
この議論がなくて生活保護基準を上げて行くばかりで最低賃金よりも高くなって来たら今度は最低賃金の方が低いのはおかしいと言う主張ですが、お互い引き上げ競争ばかりしていると国際競争が成り立ちません。
生活保護・社会保障は実働している国家総収入の限界があり、実働者の賃金は国際競争可能な範囲に決まっている・・一時的に引き上げても中期的に輸出産業がやって行けなくなり,輸入が増えて失業が増えます・・のを無視した議論です。
日本に限らずアメリカでも世界中の民主党系政党の主張は「社会保障は手厚い方が良いに決まっている」と言う姿勢・・総枠無視ですが、これではいくら消費税を上げても歯止めのないことになります。
最近奨学金の返還義務をなくせと言う主張が多くなっていますが、これは前途有為の人材が教育を受けられない弊害除去・・救済を予定せずに「授業についていけない子供でも」人並みに進学出来ないと「可哀想」と言う発想によっていることが分かります。
(育英資金・・普通の能力のある子供=普通に就職出来る子の場合、普通払って行ける返済額ですが・・免除原則にしろと言うことは、払えない前提→授業について行けない子にも奨学金を要求ししかも返済免除しろと言うの?)
学校に行くのをいやがっている子供をせめて高校・大学くらいは・・と言うオヤの願望・・自分のお金を出すのは勝手ですが、税で負担する必要があるかは別の議論であるべきです。
可哀想論になって来ると返済能力のない人に貸す・・「借りたら返す」と言う経済、道徳原理無視の主張になり易く、結果的に対価を負担しないことがあたかも当然の権利…いろんな分野でコスト負担忌避の風潮を煽るようになると税収をいくら上げても追い付きません。
コスト負担しない人が増える一方になるとまじめに働いて税を納める人の意欲を殺ぐマイナス・・(まじめに税を納める気持ちが失せる・・海外資金逃避増加)モラルハザードを誘発します。
商人が代金を払う客の望むものを売るのが結果的に正しい・・お金を出す人の意見が重要です。
お金を出さない評論家がこの商品が良いと言っても、飽くまで予測でしかなく実際の売れるかを決めるのは顧客です。
税の使い道を決めるのは原則として納税者の意見によるべきであって、・・納税者も人権・環境その他いろんな正論に耳を傾けるべきですが、これをどの程度重視するかを最後に決めるのはお金を出す人の意見であるべきです。
コスト負担しない・・お金を出さない人の意見が幅を利かして・・納税者の意見を無視し過ぎるのは邪道です。
財政赤字の問題点は消費税率の問題ではなく、社会保障負担・・個人が負担すべき対価をどこまで社会が負担すべきかの総枠設定こそが重要です。
この議論抜きで際限なく補助を増やして行くべきと言う意見・・「保育所落ちた日本死ね!と言う民進党のアッピールは、保育所予算と他予算とのバランス調整の必要性を無視した無責任政党の極み・・違和感を感じた人が多いのではないでしょうか?

司法権の限界13(人材と身分保障1)

人材採用方法には、面接、紹介、経験その他いろんな方法がありますが、ペーパーテストが一番公平で確率が高いと言われますが、それでも5%前後は箸にも棒にもかからない人物が受かって来る・・その程度の誤差は許容範囲と言われます。
テストを強化すればするほど、テスト問題に特化した勉強をした病的な人(いわゆる受験秀才)が何%か合格するのを防げません。
裁判官採用選考の場合にはペーパーテストだけではなく法科大学院制度が始まるまでは、司法修習中の2年にわたる観察期間がありましたが、それでも修習中の見習いとしての行動だけの判断と独立した裁判官となってからの独自性発揮出来る地位になって「地金」が出て来てからの人間性判断とは違うので一定率の当たり外れがないとは言えません。
民間で言えば、10数年の実績を見た結果で管理職にしてみたら意外に駄目だった人が一定率出て来るのが普通ですから、裁判所とは別の研修機関での研修成績だけで、一般事務官ではなく裁判官と言う生涯の身分を決めてしまうのは無理があります。
管理職としての身分を決めるのが早過ぎる分、民間よりも不適合発生率が多くても不思議ではありません。
法科大学院制度・新司法試験制度になってからは、修習期間が半減し研修所にいる期間が減ったので、人物観察期間がほぼなくなりました。
一旦裁判官として任用されると生涯事務官より格式が上・・身分官僚ですから、能力・・平衡感覚に難があっても管理職以下には出来ません。
仕方なしにドサ廻り・・裁判官が1〜2人しかいない地方の支部廻りになると、年功のある裁判官が支部長になりその支部で独裁的に君臨することになります。
私が修習生の頃には任官さえすれば、最低評価の裁判官でもどこか僻地(と言っても県庁所在地)の地方裁判所長になれる仕組みでした。
大津地裁民事部の裁判官をMarch 12, 2016に紹介したことがありますが、全部で4〜5名しかいませんので、年齢構成的に見ると10年近い平均差のある人で構成されます。
地裁本庁でこの程度ですから支部になると普通は1人か2人しかいません。
支部ばかりの転勤が2〜3回続くと、普通はイヤになって退官(辞職)して行きます・・そう言う予備軍ばかりになります。
私の修習生当時判事、検事の任官希望者が足りずに困っていたので、現役以外から採用すべきだと言う意見に対して,大卒現役〜直後合格者以外の採用をすると「定年まで所長や検事正になれないから」と言う尤もらしい(噓っぽい)説明がされるのが普通でした。
20年くらい前から30歳台半ばの任官がパラパラ出ていますし、全体採用数が増えたので地裁所長や検事正まで行かない定年退職者も一杯出ていると思いますが、その分定年が伸びたこともあり、(人格評価?)最低でも部総括(合議体の裁判長)や支部長等の管理職まで行くのが普通です。
企業の場合テストでは良い成績でも実務をやらせる中で人柄が分ってきますので、上に立つ人、立たせられない人など10〜20年かけて決めて行けます。
今朝の日経新聞朝刊にセブンイレブン社長更迭案の紛糾が出ていますが、コンビニ創業者とも言うべき会長の鈴木敏文氏してみれば、社長をやれる人材として社長に抜擢したが、この7年間やって来たことは全部自分が指示したことばかりで現社長の創意・・リーダーの資質がないと言う憤りがあるようです。
余談ですが、この7年のセブンイレブンの業績伸張は目を見張るばかりでここで解任(正確には任期満了による再任を認めない)にする名目もないと言うことで、大方の反対を受けているらしいですが、外部役員・・識者の判断基準の大方は前例踏襲・・穏便が本旨ですからその辺は思いっ切りのよいことが取り柄の創業者的才能とは相容れません。
裁判官の選考に戻しますと、20代前半の研修時点での選考だけで「裁判官」と言う資格が決まってしまいますので、実務の中で箸にも棒にもかからないような人材と分っても、裁判官から事務官に降格させられません。

憲法
第七十八条  裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない。

裁判所法
(身分の保障)
第48条 裁判官は、公の弾劾又は国民の審査に関する法律による場合及び別に法律で定めるところにより心身の故障のために職務を執ることができないと裁判された場合を除いては、その意思に反して、免官、転官、転所、職務の停止又は報酬の減額をされることはない。

上記憲法の身分保障があって、これを受けた裁判所法では解雇どころか意思に反して転勤等を命じることすら出来ないので大変です。
裁判所法の転勤禁止などは、労働者保護を濫用的に成長させて(日教組や総評など)政治運動体にしてしまったのと同様の憲法精神をはみ出した行き過ぎ立法と言うべきでしょう。
ただしこの法律の有無にかかわらず、裁判官に限らず日本社会では一旦採用してから変な人?と分っても解雇しない運用が普通です。
(ただし、この運用は裁判所法で保護されている裁判官(事実上自分の身に置き換えて考えること)による解雇転勤の有効性判断が厳し過ぎることが原因かも知れませんが・・)

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC