利害調整能力6(二条河原の落書・価値激変)

この世相を表した傑作は偽綸旨に始まる落首です。
ウイキペイアで「二条河原の落書」冒頭部分だけ引用しますが、全文を読んでいくとなかなか面白いものです。

此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
生頸 還俗 自由(まま)出家
俄大名 迷者
安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛(ほそつづら)
追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上スル成出者(なりづもの)
器用ノ堪否(かんぷ)沙汰モナク モルル人ナキ決断所
キツケヌ冠上ノキヌ 持モナラハヌ杓持テ 内裏マシワリ珍シヤ
賢者カホナル伝奏ハ 我モ我モトミユレトモ
巧ナリケル詐(いつわり)ハ ヲロカナルニヤヲトルラム
以下省略

ウイキペデイアの解説によれば「二条河原の落書」は建武2年頃成立という説が強いようですから、そうとすれば観応の擾乱のかなり前ですが、引き続きもっと訳のわからない「擾乱」が始まる前触れを嗅覚鋭く読み込んだものかもしれません。
合戦ごとの恩賞沙汰の不満等で武士団が昨日までの敵将に付き従うのは、(ゲンキン過ぎるといえばそうですが)武士団は命がけで戦闘参加する以上は、郎等にも目に見えるように報いる必要がある・・目に見える成果が欲しいのは当然です。
現在でいえば、ある元請け業者の下請けで働いたのにその元請けが工事代金を払ってくれなければ、その元請けの競合相手の元請けから仕事が来れば受注したくなります。
役に立たない主君は「頼うだる人」は言えないので、すぐに見限るようになります。
これが、次に始まる応仁の乱→戦国時代の下剋上につながっていくのです。
蒙古襲来に対して奮戦した武士に対して恩賞を与える領地がなかったので武士層が不満を抱いたのが、鎌倉幕府衰亡の原因と学校で習った記憶ですが、実は二回の蒙古襲来に備える西国防備のために西国方面で北条一族の守護を急激に増やしています。
北条一門の守護を増やした分、誰かがその地位を失っているのですから、学校の歴史では習いませんが、これが不満の種として鬱積していた可能性が高いでしょう。
北条氏に関するウイキペデイアからです。

第8代執権・北条時宗は元からの国書を黙殺して、御家人を統率して元寇と戦う。これを機に鎌倉幕府は非御家人への軍事指揮権も獲得したほか、西国での支配権が強化され、北条一門が鎮西探題、長門探題として派遣された。また、北条一門の諸国守護職の独占も進む。

何かの本で具体的国名など読んだ記憶ですが、急激に増えた・・その分押しのけられた有力武士の不満が溜まるのは当然です。
源平時代もそうですが、平家が播磨守や安芸守など7カ国だったかの受領になっても、足元の武士団は小さな集落ごとにそれぞれ地縁血縁で繋がった集団であって天下ってきた〇〇の守や北条氏の守護にいきなり忠誠心を抱く訳ではありません。
地元ごとの何とか党のボス(戦国時代で言えば国人層)が参加するかどうかを決めることです。
守護に任命されても公式業務に限り一応朝廷や幕府の名で動員命令出せる程度のこと・・公式な戦いでは武士が朝敵になるかどうかが重要だったのですが・・。
北条一門が西国守護に名を連ね、対蒙古軍防衛線のために強制的に地元武士団を動員できた点は戦略的必要性があったのでしょうが、そうしないと動員できなかったということは、裏を返せば地元武士団は乗り気ではなかったということでしょう。
(命がけで働く以上は、命がけの紛争の時に応援してくれた過去の恩義とのバランスです)
乗り気でないのによそ者がいきなり来て、出動命令で仕方なしに出動したのに相応の恩賞がなければ不満が募ったでしょう。
ちなみに武士出動の場合、現在の労働者のように日当が出るわけではなく自腹で分相応の戦闘員を引き連れての出動が原則ですから、毎回ただ働きでは資金(出動経費だけでなく配下が負傷すれば相応の面倒を見る義務があります・・・)気力が続きません。
地元武士団同士の死活的紛争に尽力してくれたちょっと上の中規模武士団のボスの要請があれば、日頃の恩義に報いるチャンスです。

利害調整能力5(観応の擾乱)

観応の擾乱に戻しますと、中央権門は地方有力武士団同士の利害対立には目配りできても、これに馳せ参じる小集団の武士団同士の争いにまで目配りしきれないので、収拾つかなくなってきたようです。
守護の動員兵力は地元国人層の集合体ですから、数人から数10人規模の兵力を擁する(今の地方名でいう郡(こおり)単位の小豪族・数十人規模の動員兵力?その配下の武士団・・10名前後の動員兵力?)間利害・多くは隣接集団です・・をまとめるのは容易ではありません。
国人層にとっては、天下国家の問題より地元勢力争い(農地の取り合いだけではなく姻戚関係のもつれその他いろんな恩讐があるでしょう)の帰趨が重要です。
中央の勢力争いの結果守護職を獲得しても、地元に土着できるほど長期に守護職を続ければ別ですが、観応の擾乱の頃のように数ヶ月ごとに守護職がめまぐるしく入れ変わる時代には、守護になったというだけでは地元武士団のトップとして動員をかけ号令できるようになるだけで、自分の家の子郎党がそれほど増えるわけではありません。
北条氏は元々は伊豆の小さな地盤から始まっているに過ぎず、いざとなると寄るべき地盤がなく、高一族は足利家の執事でしかない・先祖伝来の集落・領地を持っていない(筈)?ので、観応の擾乱で権力を失うとたちまち影も形もなくなってしまったのでしょう。
他方楠木正成のように地元武士団を背景にしている場合、一旦戦に負けて落ち延びてもすぐ再起できるし、正成自身が湊川で戦死してもその一族の集落が残っているので、息子の代になればまた旗揚げできた底力です。
吉良上野の場合、歌舞伎その他物語では悪役で有名ですが、それでも地元三河国吉良では、とんでもないことだ!名君であったというありがたい応援団が今でも健在と言われます。吉良の郡(こおり)?は足利家の分家支配地として有名ですし、このために(何の武功もないにも関わらず?)徳川政権において、高家筆頭の待遇を受けていたのですが、血筋が連綿と続く強みでしょうか?
名付けて「擾乱」とは、言い得て妙です。
「擾」とは20年ほど前に刑法の口語化の改正で騒乱罪に書き換えられる前には、刑法の騒擾罪の「擾」でした。

刑法
第八章 騒乱の罪
(騒乱)
第百六条 多衆で集合して暴行又は脅迫をした者は、騒乱の罪とし、次の区別に従って処断する。
一 首謀者は、一年以上十年以下の懲役又は禁錮に処する。
二 他人を指揮し、又は他人に率先して勢いを助けた者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。
三 付和随行した者は、十万円以下の罰金に処する。

室町時代になると、草の根の武士団が地力をつけてきた結果、中央の争いの他にその孫受け的小集団独自の利害対立も生じて、それが(守護の決める全国的方針に従わずに)独自の利害で尊氏についたり直義についたり日替わりメニュウのようにしょっちゅう勢力関係が変わった原因もように見えます。
刑法条文の口語化で「擾乱」から「騒乱」という文字に変わったのですが、騒がしいのは「はた迷惑」という意味では共通ですから、文語を口語体にしただけで刑法の改正でないという当時の説明があっているのでしょうが、微妙に意味が違います。
騒乱罪では騒ぐという物理的行為を前提にしての「乱れ」ですが、擾乱の場合には、「憂い」を含む手扁ですから、騒音行為がなくとも、煩わしいはた迷惑全般を取り締まるニュアンス(昭和末期にはやった国鉄の「遵法スト?」の場合これに当たるでしょうか?)です。
「騒乱」の場合、物理的な騒ぎ・・粗暴系・暴力行為必須に絞ったように見えます。
騒乱罪と内乱罪の違いは目的の有無による違いですから、政権転覆の目的不要・・ハタ迷惑な行為が続いたという歴史評価によって擾乱という名称がついたのでしょう。
当時の合戦は大規模なものではなく、全学連騒動のように都内で新宿一帯の交通が麻痺するような「騒乱」状態がなかったけれど、武家同士でしょっちゅう争いが絶えないので、(暴力団抗争がしょっちゅうあれば、近所の人が一人も死ななくとも、)はた迷惑だったということでしょう。
(偶然ですが、私の年来の意見に呼応するかのように数日前の日経新聞に「応仁の乱で都が焼け野が原になったというこれまで一般化されていた理解は間違いと」いう説が紹介されていました)

利害調整能力4(トルコとクルド・日韓対立)

中世に式目が制定された所以を書いている内に、現在社会のマニュアル必須社会化事例紹介になってしまいましたが、中世社会が宗教解決で済む段階を超えてきたことが背景にあるべきでしょう。
中世社会のルールに戻しますと、奈良〜平安時代までの生活環境が激変したことが、武士の時代を到来させ(武士が力を持ったから生活ルールが変わったのではなく、生活が変わったので、武士がが頭角を表したと見るべきでしょう)これによって生きて行くべきルールも武士社会と公家社会とでは違ってきたのです。
しかも現場に根ざした現実的処理に通じた武士が紛争解決に関与するようになると、ルールが実践的化する・・具体化するようになっていたと見るべきでしょう。
公卿朝廷に対する強制力のない二頭政治の時代には、内容の公正さと決めたことの実行力の競争社会になっていたと見るべきです。
今の国際社会は、中国も国際道義をまもる気持ちがないというか、守る能力がないし、アメリカは武力を持っているが、国際合意を一方的にひっくり返すようになった点で・・双方似たような状態ですから、日本中世・既存価値がぐらつく観応の擾乱開始〜応仁の乱〜戦国時代化に似てきました。
第一陣終了・・「平家にあらずんば人にあらず」の再来のように羽振りの良かった高一族消滅後は、足利兄弟間抗争になっていきますが、戦のつど戦後処理に関する不満・・武士団はその都度どちらにつくか入れ変わるめまぐるしい争いでした。
中核的支持者の入れ替わりは少なかったようですが、自分と対立する武士がAに着けば自分は今度Bに着くなど個別利害優先だったからこうなったとも言われます。
源平合戦では、地元武士団の争いで平家が平家系千葉氏の肩を持たなかったので千葉氏が頼朝の旗揚げに馳せ参じた例同様で、アメリカが対シリア戦略でクルド族を優遇すれば、クルド族の独立運動を内部に抱えるトルコが親米欧路線から、宿敵ロシアに擦り寄るなど今でもよくあることです。
日韓対立でも同じで、この段階で米国が撃ち方やめ!仲良くやってくれと言い出せば先制攻撃した方がやり得ですから、これを強行すれば反撃開始したばかりの方は不満で一方を敵に追いやるでしょう。
そこで、今はやむなく黙っている状態です。
双方にいい顔をするには、争いになる前に未然に防ぐ目配り・工夫・政治力が必須です。
この複雑利害調整能力が衰えたというか、資源力と武力(この辺はソ連〜ロシアも同じ)に頼っていただけの米国が、資源価値が下がって馬脚を表したというのが私の解釈です。
いずれにせよ、米国は日韓関係でも仲裁能力を失ったことは明らかです。
世界中で仲裁能力を失って行く・・パックスアメリカーナの鼎の軽重が問われる事態が静かに潜行していきます。
国際戦略上韓国の武力の必要性が大幅に低下したので、米国は日本の機嫌を損ねてまで日本に我慢しろ!というほどの関わりを持つ必要性がなくなったのを韓国が気づかないようにみえます。
韓国は経済力が上がったので、もっと対日要求できると思ったのでしょうが、日本は際限なく要求をアップしてくる韓国に対する我慢の限界を超えたと思っているので、いつも我慢させられてきた不満がアメリカに向く構図になってきています。
アメリカにとっては韓国の理不尽な要求を毎回飲まされている日本の対米感情悪化が限界にきていることも知っているし、韓国の軍事的必要性が低下しているので当事者の力関係で勝負をつけてくれれば良いという立場に変わったのでしょう。
韓国政府の国際情勢読み違えが、今回の暴走を招いた原因です。
アメリカが味方しないならば中国カードがあるかというと、もはや中国と韓国は経済競争関係になっている・・例えば米国から締め出されているファーウエイの穴を埋めて儲けようとするサムスンをこの機会に叩きたいことがあがっても応援したくないのは明らかです。
同様に中国国内自動車販売が落ち込んでいる状況で現代自動車が日本からの部品供給が細って困れば中国にとってありがたいだけのことです。
韓国系造船、重工業その他企業を救済するよりこの機会に潰してしまいたい意欲満々のようにみえます。

利害調整基準明確化・御成敗式目1〜武家諸法度

御成敗式目に関するウイキペデイアの引用です。

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武士政権のための法令(式目)である。貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)制定。貞永式目(じょうえいしきもく)ともいう。ただし貞永式目という名称は後世に付けられた呼称で、御成敗式目の名称が正式である。また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称もある。
沿革[編集]
鎌倉幕府成立時には成文法が存在しておらず、律令法・公家法には拠らず、武士の成立以来の武士の実践道徳を「道理」として道理・先例に基づく裁判をしてきたとされる。もっとも、鎌倉幕府初期の政所や問注所を運営していたのは、京都出身の明法道や公家法に通じた中級貴族出身者であったために、鎌倉幕府が蓄積してきた法慣習が律令法・公家法と全く無関係に成立していた訳ではなかった。
承久の乱(1221・稲垣注)以後、幕府の勢力が西国にまで広がっていくと、地頭として派遣された御家人・公家などの荘園領主・現地住民との法的な揉めごとが増加するようになった。また、幕府成立から半世紀近くたったことで、膨大な先例・法慣習が形成され、煩雑化してきた点も挙げられる。

関東御成敗式目は、それまで武家内の規律を定める法令がなかったものの事実上武家支配が広がったので、これを明文化した初めてのものらしいです。
源平物語では義経が頼朝の許可なく朝廷から叙任されたことを問責されて義経の悲劇が始まるのですが、これは武家内の常識?礼儀にとどまるもので、法令化されたものではありません。
幕府成立後も朝廷法(律令法)が基本的に通用している西国と武家法が基本的に通用している東国方面に分かれる二頭政治が行われている時代が続きますが、承久の乱(1221)によって西国へも地頭派遣するようになり全国的に武家法が浸透するようになります。
全国区化していくと武家法の内容が慣習によるだけでは、(地域差もあるし)全国基準がはっきりしない・・問注所の裁決基準を明瞭化する必要に迫られた・約4〜50年経過で事例集積が進んだので明文化する準備ができたこととの両面によるでしょう。
徳川家が1615年禁中並公家諸法度と武家諸法度をを公布したのは、戦国時代を経て武家と公家の二本立ての境界不明の法制度から、徳川家の定める法度(法)が武家と公家双方規制する「法」制定を宣言した事になります。
大坂夏の陣直後の制定ですから、高齢化していた家康は急いだのでしょう。
その後、後水尾天皇が勝手に高僧に紫衣着用を許したことで秀忠と後水尾天皇の確執になったことが有名ですが、沢庵など高僧が朝廷側の論理で幕府に反論した為に処罰されるなど実力装置を備えた武家に叶わず(・この点は清盛の実力行使以来実証済みでした)結果的に朝廷が屈服します。
ちなみに紫衣事件は(1629年)家光時代ですが、秀忠存命中(1632年死亡)の事件で抗争の主役は秀忠と後水尾天皇でした。
赤恥をかいた・・後水尾天皇の退位宣言騒ぎに発展し・・和子の娘女一ノ宮に譲位・・女帝は結婚できない不文律の結果、徳川氏を外戚とする天皇出現不可能となり、他の皇族男子がその次の天皇と決まる・・藤原氏以来の伝統である実力者が外戚になり影響力を行使する方法を徳川家が断念する結果になり、以後幕末の公武合体論まで天皇家と徳川家の婚姻はなくなります。
後水尾天皇側・・貴族流策略の勝ちとも言えますが、徳川家は開き直って外祖父によって事実上次期天皇に影響を及ぼす→天皇権威尊重の必要を求めず、実力で天皇家行動を支配する関係が露骨になって幕末に至ります。
もともと徳川家の定める法(法度)が天皇家の定めより上位(法度に違反した天皇の宣旨勅許が全て無効)になるようにした以上は、徳川家が外戚になって天皇の行動に事実上の影響力を及ぼす必要を認めなくなっていたということです。
これが江戸中期の非理法権天の法理→「道理に合わなくとも実力に裏付けられた法には叶わない」・・誕生・「悪法も法なり」で良いのか!という幕末倒幕思想にもにつながるようです。
紫衣事件に関するウイキペデイアの解説です。

幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している[1]。

いわば観念の世界ではまだ朝廷の権威(いわば有職故実の総本山程度のブランド力)があるとしても、実定法の世界では武家政権の定めた禁中並公家諸法度が朝廷の先例や決定より上位になる宣言でした。

利害調整能力3・問注所〜観応の擾乱

8月7日に書き始めた利害調整機関・・問注所に戻ります。
問注所に関するウイキペデイアの紹介です。

創設[編集]
元暦元年(1184年)10月20日、鎌倉に問注所が設置された。
当時、日本は国内を二分する大規模内乱(治承・寿永の乱)の真っ直中にあったが、この内乱の中でも(又は内乱に乗じて)訴訟事案は多数発生しており、非公式に発足した関東軍事政権(後の鎌倉幕府)にとって、これらの訴訟を迅速・円滑に処理していくことが、確固たる政権として認められる条件の一つとなっていた。

・・鎌倉幕府の問注所設置・・訴訟の大多数は、荘園収入の分配・公卿と地元を預かる武士団との分配争いでしたが比較的公正な裁決が多かったので貴族利用が増えた・・幕府権威が定着していったと何かで読んだ記憶です。
建武の中興が短期で瓦解し、後醍醐政権から足利政権への移行してしまったのは、後醍醐政権の裁定(論功行賞)に対する武士団の不満によるものでした。
武士の多くが足利氏の花の御所に伺候して足利氏の口利きで決めてもらった方が有利あるいは納得するようになり、朝廷に向かわなくなった・文字通り市場評価に拠ったのです。
武士団が朝廷よりも足利氏の屋敷に向かうようになると権力が事実上足利氏に集中して、幕府の機能を持ち始めると、足利家近臣で実権を握った高一族と尊氏の実弟直義との抗争が始まります。
抗争の元はと言えば高一族が急激に勢力を伸ばし過ぎた・・平家一門が約7カ国の守を抑え、あるいは殿上人の地位を占めたのが隠れた不満を引き起こしたように、足利氏一門ですらない・・側近でしかなかった高一族がいきなり各地守護になり幕府内の権力を牛耳ったことに対する(その分守護になり損ねたか取り上げられた)門閥・各地豪族の不満が尊氏の片腕と頼む弟の直義担ぎ上げ・・支持に回ったのでしょう。
君側の奸を除けという不満の旗印に直義を利用しただけのように見えます。
緒戦では御所巻きで先行した高一族の圧勝でしたが、(兄尊氏邸に逃げ込んだ三条殿=直義は頭を丸めて表向き公務引退で決着しました)すぐに全国的に高一族への反撃・旗揚げが始まり、いつのまにか直義がみやこから脱出して、岸和田城だったか(うろ覚えです)に入ります。
待ってましたとばかりに、直義派の旗揚げが燎原の火のように広がり、都落ちした高一族が血祭りにあげられて観応の擾乱第一陣がおわりました。
平治の乱における緒戦で信西入道の処刑成功と同じ展開です。
(私の憶測によれば)しかし武士団の不満は高一族が代表して怨嗟のマトになっただけのことで、根本は論功行賞や荘園支配の権限争いの裁定に対する不満ですから、第二陣が始まり、収拾のつかない「擾乱」になっていきます。
ウイキペデイアによる御所巻きの解説です。

貞和5年(1349年)に高師直らが足利直義一派の追放を求めて将軍・足利尊氏の邸宅を包囲する(観応の擾乱)

御所巻きは年号が観応になる直前ですから、日本で言えば第二次世界大戦の前哨戦・日支事変のようなものでした。
観応の擾乱・・御所巻きに始まる高師一族と直義との抗争〜その後の尊氏(義栓)と直義の抗争も、直義がせっかく圧倒的支持を得て尊氏と高一族との抗争に勝ってもなぜか天下の権を尊氏に残したままにして有耶無耶にしてしまった(政権意欲がなかったようにも解釈されます)他、戦後処理としての論功行賞が旧弊であったことからすぐに各地豪族の人心が直義から離れていった(直義は関東御成敗式目を理想とする念が強かったとも紹介されています)ようにも見え、第二陣の足利将軍家内兄弟間抗争に発展していきます。
北条泰時によって制定された御成敗式目・および紛争裁定基準は考え抜いた立派な式目ではあったのでしょうが、もしかすると鎌倉幕府崩壊後の社会意識変化に合わなくなっていたのでしょうか?
建武元年は1334年、観応元年は1350年ですから、御成敗式目制定(1332)後約100年以上経過でその間に蒙古襲来が2回もあり、幕府体制崩壊などの大変革後ですから、荘園経営のあり方を始め社会意識はかなり変わっていた可能性があります。
教養(すなわち過去の価値観に親和性がある)にこだわる政治家が、実権を握ると失敗する一例だったかもしれません。
直義が最後に支持を失っていく経緯理由についての私の意見は、October 28, 2018「幕府権力と執行文の威力」で書きました。
教養(すなわち過去の価値観に親和性がある)にこだわる政治家が、実権を握ると失敗する一例だったかもしれません。

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