メデイアの事実報道能力4(実質賃金低下論のマヤかし2)

全国平均という数字もよく出ますが、都道府県ごとの平均数字を出してそれを合計して都道府県の数で割って平均を出しているのか?
これでは人口百万の県と1100万の東京都と同じ1単位になって全国の趨勢をあらわしません。
全国平均というからには、各県のナマの数字を単純合計して総人口で割るのが簡明ですが、過疎地と大都会を合わせた(神戸市と丹波地方のように)平均を出してもあまり意味がないので、交通事故数や医療機関・医師数で言えば、地域ごとの人口10万あたりの比率などで出す方が合理的です。
それも平均ではなく10万人あたり医師数の最大地域の医師数は何人でどこそこで、最小の地域の人数は何人でここ」などと具体的に書いた方が分かりよい感じです。
平均というのはどのように何を平均したのかの定義自体が、実施主体によって不明瞭なことが多い印象です。
マンション販売では最多価格帯という表示がありますが、商売ですから客に分かり良くする努力が現れます。
賃金動向や国民の総消費能力を見るには、総就労者数の増減と総収入の前年比を見るのが単純・可視化できて分かり良いでしょう。
とは言うものの、NHKは平均年収が1100万円前後と言われますので、1500〜2500万の人(が一杯いるということでしょうが管理職等には残業手当がない)あるいは公務員は、原則景気変動に関係ないのが普通です。
仮に人口の2割の人の給与総額が全体の半分を占めていて人口比で2〜3割の中間層の公務員や団体職員等も岩盤のように景気によって動かない社会で、半分以上を占める庶民層で給与総額が2割上がっても、あるいは最下位層の月15万前後しか仕事のなかった人が毎日仕事が出来て2倍の30万になったとしても、全給与総額の平均値で見ればその上がり方は微々たるもの・本来の景気動向を表していないばかりか、そもそもなんの平均かすらわかりません。
まして新規参入は最低賃金層層が圧倒的多数ですから、これを頭割りに入れれる平均値がぐっと下がります。
各階層別平均ならわかりよいのですが、月収18〜20万の枠の人がアップして22万になった場合、その枠から出てしまうのでそれでは各人の追跡調査が必要ですから、複雑すぎます。
簡明化するには、月収2万きざみの枠をABCDEF〜等と区分し各区分の就労者数をデータ化し、その推移を(グラフ等で)発表すれば時間経過でCD前後の各クラスの人口が上下いずれに移動しているかがわかります。
ネット検索すると「実質」と言うもののなんら難しいことをやっているわけでなく、全企業の総支給額を就労人口で単純に割った平均賃金を名目賃金と言い、これに毎年毎月の物価変動率で調整したものと言うことがわかりました。
「実質」とは言うものの単純平均したものを物価変動率で修正したに過ぎないものを「実質」といかにも難しい計算をしたかのように銘打っていただけでした。
景気の循環と実質賃金の前提たる平均賃金を見ると現実の賃金支給総額を就労人口でわる単純平均が基礎数字ですから、物価変動率のブレが殆どないこの10〜20年単位でいえば実質賃金と平均賃金はほぼ同じですから、単に「平均賃金の推移」といえば国民にわかり良いのですが、「就労の裾野が広がれば平均賃金では下がるのが当たり前」すぎて政府批判トーンにならないので「実質賃金が下がっている」という報道が横行するようになったように見えます。
ちなみに(私の思い付きですが)好景気と平均賃金の関係を時間軸で見ると以下のようになると思われます。
① 景気が良くなる→社内失業者のフル稼働→残業でしのぐ
(この間、末端労働者の残業代が増えますが、彼らへの支給額が1割増えても全労働者・・製品出荷が1割増えても事務系の労働時間が1割増えないので売り上げが1割増えた1企業内だけ見ても支給額全体でストレートに1割あがりませんし、好景気の影響を早く受ける業種とすぐに受けない業種が混在するほか、公務員系あるいは業界団体などの事務局員は好景気で残業が増える関係でもありません。
就労者全体では景気の影響度はかなり緩和された数字になります)
② → 低賃金のパートなど非正規を増やす→正規職員の残業増に比べて(ゼロ収入→20万前後新規収入発生は)桁違いの影響力です。
③ →(正規雇用中の最低賃金層である)新卒採用を増やす(高給の部課長や重役から増やす企業はないでしょう)

a  企業の省力化投資+目や腕の力の弱い人腰に弱った人でもできる補助器具の開発などが並行して進む
b →戦力外だった高齢者雇用や子育て中の主婦の短時間労働参加が広がりさらに低賃金(高齢者は週3日、半日勤務などで月7〜8万でも満足な人がいる)就労人口が増える
⑤ 就労者数の増加限界(高齢者で対応できない若手必須分野の逼迫)→若手労働者の奪い合い→時給アップが始まる→製品価格やサービス価格への転嫁開始→物価アップ→実質賃金アップ
上記②〜④の間は低賃金労働者の就労人口増→頭割り平均であれば平均賃金が下がっていくのは当然です。
実質賃金とは「課長になって残業代が減った」り、年収2000万の人の給与がそのままで時給800円のバイト時給が1000円になった場合どのように修正して平均を出すかではなく、上記の通り単純合計で平均賃金を算出してこれが物価変動でどうなったか?だけですから、物価が一定であるときには平均賃金の変動率とピタリ同じですから、実質賃金も下がり続けます。
実質賃金の概念統計は、持続的インフレ下にあった高度成長期には毎年のベースアップがあっても同時にインフレ進行中でしたので、実質的購買力がどうなのかを知るために有用な概念でした。
しかし中国の改革開放以来日本は、物価下落に苦しんでいてリーマンショック以降は世界中の先進国が異次元緩和・・いかに物価を引きあげるかに奔走しているときに物価変動率による修正の必要性は乏しく、実質賃金を持ち出す意味がなくなっています。
今は・・ストレートに平均賃金動向をありのまま報道すればすぐわかることです。
上記1〜4を見れば、平均賃金が上がるときとは、完全雇用になって新人や非正規の就労率がこれ以上上がらない→採用時給与引き上げ競争に入った瞬間=平均賃金の下げ止まり・・就労率アップの限界・完全雇用状態で非正規等の末端人件費が上がり始めたときに生じるものです。
比喩的に言えば、不景気の時に10点の人材でも何割か失業していたのに好景気が続くと、10点の人の補充が終わってもまだ人手不足が続くと8点〜6点4点と次第に人材能力低下させるしかないのに、同じ時間給で募集しなければならないこと自体が生産性低下ですから、従来基準の10点の1人前人材を確保しようとすれば、競合他社より時間給アップして多数応募者確保→選別権確保のために人件費を上げるしかなくなる段階で初めて(物価変動がないときには)実質賃金=平均賃金がアップします。
生産性アップに関係ない(どころか半人前でも採用するしかなく、生産性低下に直面しているにも関わらず)賃金単価上昇は、1年前後のタイムラグで商品単価への転嫁が始まる・物価上昇するので、物価調整後の実質賃金は、再び下落に転じます。
実質賃金下落は、好景気前期の末端週労者増加による平均賃金下落による場合と(これ以上就労率増加見込めない)好景気後期の物価上昇による場合の二種類があるので、この分析なしに上位概念の「実質賃金が・・」と大規模連続報道する社会的意味がありません。

メデイアの事実報道能力3(実質賃金低下論のマヤかし1)

これからの防災対策は、夜間帰宅難民だけではなく昼間の滞留人口を含めてどう捌くか・・ターミナル駅周辺に遊水池みたいなゆとりのある施設をどうやって準備しておくかの工夫・都市計画が必要でしょう。
病院に限らず駅などの拠点では、(発電機より今後は蓄電池の方が合理的?)緊急電源準備も必須です。
千葉駅ですら電車が一斉に1〜2時間でも止まったらどうなるかですが、幸いここ5〜6年かけて駅ビル再開発によって容量がアップしている・・・改札の内外で従来の何倍ものゆとりのある広場ができていてベンチも数多く設置されているほか、駅ビル内のショッピング街周遊でもかなりの滞留人口が収容されるようになったはずです。
私は公の施設の民間への管理委託の選定委員会委員として制度発足当初から関与していますが、東北大震災の翌年の審査では駅近くで音楽ホール等を擁する施設では、帰宅困難者に対してどのような収容努力したかの報告項目もありました。
その他ホテル等は一般的に駅近くですから、駅周辺ホテルや各種ホール等の協力を得られれば、エントランスホール等が大きければそこの解放だけでもかなり役に立ちます。
市としては災害時にこういう所との協力協定を進めるなど地道な努力が始まっています。
最近都心付近の超高層ビルでは概ね1階部分は全面的にホール仕様で公共的空間化していますので、いざという時には、企業の社会貢献の一環として(企業秘密/保安上の問題があるので)一階部分に限って滞在を受け入れる・一定量の毛布等の提供協定に応じているようになっていると思われます。
こういう意味では、京都駅と大阪駅のホテルグランビアにそれぞれ泊まったことがありますが、どちらもホテル受け付けロビーの狭さには驚いたものですが、これではイザという時の受け皿になりません。
メデイアに限らず政党も、何かあれば内容如何にかかわらず、政府批判の決まり文句・表層的批判を言ってればもてはやされるような態度ではなく、もう1〜2段の掘り下げ能力が求められている時代に入っているのではないでしょうか?
熊本地震ではみのもんた氏が、決まり文句・自衛隊批判のツイートしてすぐに大反論を受けましたが、メデイア界では従来型決まり文句の強調・思考停止状況が見られます。
情緒的・表層的報道だけで信じ込むおめでたい階層が減ってきたことが、何でも反対の社会党がダメになった原因です。
ところで、メデイアに事実をカチッと掘り下げられる人材がいるかの疑問です。
「次郎物語」の時代〜戦後の「24の瞳」(それでも小学校の女性教師が主役で新時代の到来を告げる程度)の時代までは、小学校の教師が村の指導者クラス〜憧れる対象でしたが、今もそう思っている人が何%いるでしょうか?
そのころは、なんとなくではなくきちっと文字が読めて数学もある程度分かっていればエリートだったし、海外文献(論文まで理解できなくとも英語やドイツ語の新聞程度)を読めれば国家のエリートでした。
今では、高校教師度どころか大学教師さえその分野で何かの専門かな!(企業で製品開発している人と同)程度の認識でしかなく、一般的な意味の指導者と思っている人はあまりいないでしょう。
端的に言えば、メデイア人材レベルが小中高教師(早くから「でもしか先生」と言われるようになっているのと)同様に国民のレベルアップについて行けていないので、国民の求めるレベルまでの掘り下げ能力がないまま、情報・ニュースに飛びつき浅い理解のままマイナス思考で「社の意向に合わせて」決まり文句で批判報道している状態にみえます。
本来社会の落ちこぼれ人材で小さくなっていたのが、ヤクザになるとみんな避けてくれて大きな顔をして街中を歩ける・昭和50年代のヤクザについて書いたことがあります。
新聞〜メデイア界は明治から大正までは一定の高学歴で文筆能力のある人材のつく分野でエリートでしたが、今や社会のエリートでも何でもないのにメデイア=情報に近い場所にいる→操作できる場所にいるために、社会の指導者ブルことができていた弊害・.実力とあっていない弊害が出てきたと思われます。
事実報道の重要性を軽視し、自社意見に有利な事実しか報道しないのでは、メデイアの役割放棄ですが・・メデイア界の人材では民度のレベルアップに合わせた事実分析能力がついていけないとすれば仕方がないですが・・。
事実といっても言葉・単語により記述するのですが、その単語の理解力にかかってきます。
このコラムでは、日経批判をしょっちゅうしていますが、記憶に残っているところでは、アベノミクスの始まり(13〜4年?頃)に、「好景気といっても実質賃金が逆に下がっている」「庶民には実感がない」という意見が続いたので、実質賃金の誤用でないかという批判・反論を書いたことがあります。
統計発表の都度今月も実質賃金が下がったと大規模報道が続き、「国民に好景気の実感がない→アベノミクスは失敗だ」という批判論が盛んでしたが、粗忽な私は何気なく「へ〜こんなに景気よくても賃金が下がるのかな?」程度の不思議感?で読んでいました。
しかし、あまり続くので「実質賃金」ってどうやって計算しているのかが気になって調べたら単語の「実質」と言う語感による錯覚効果を利用していることがわかったのです。
例えば人口減を煽るために?「合計特殊出生率」あるいは経済用語で「季節調整後」という専門用語がしょっちゅう出てきますが、その計算根拠を確認する暇のある人はいないでしょう。
・・「何か難しい計算をしているのだろう」とそこで一旦思考停止して、正しい数字なのだと自分をなだめて、その前提でメデイアの主張する意見を読んでいくのが普通です。
これと同じで反アベノミクス論の中で(国民消費が増えていないとは言わないものの)中国人の爆買いやインバウンド消費でデパート等が潤っているのを強調し、爆買いやインバウンド消費に乗り遅れた個人商店や地方百貨店には恩恵がないことや、地方に景気の実感がない・・等々の報道と実質賃金が今月も下がったという毎月の記事と噛み合わせれば、私のような粗忽人間あるいは純朴な人間は、難しい計算はわからないが、実質的に見れば購買力が下がっているのかな?日本人の国内消費が落ちてるのかな?という印象を受けます。
メデイアによる景気悪化のイメージ報道と私の実感が合わないので、「実質賃金って」なんだろう?と自分で考えるようになったのがこの疑問の最初です。
私の素朴な経験値・管理職になって基礎賃金がアップしたが、そのかわりゴツく稼いでいた残業手当や成績優秀な営業マンの歩合給がなくなって実質的に手取りが減るようなイメージで受け止めていたので、こういう個々人の変化ってどうやってエコノミストが調査できるのかな?という疑問から始まったのです。
あるいは、バイト時給が800円から1000円にあがると2割以上のアップですが、一方で年収2000万の人の給与は年1回しか上がらないが、どうやって平均しているのだろうか?
2000万円の人の給与が1割・・200万上がった場合、時給200円上がった人何人分と合算して平均するのかなど疑問が尽きません。
ある公共施設でアンケートをとっていて、回答者の属性・・・年齢やどこから来ているか、利用頻度など聞いて集計して%を出しているのですが、サークルなどの利用が多い(ほとんど)のに、集団利用者と個人の区別なくアンケートしているので、回答者合計で何%がどこから来ている高齢者率何%などとしていても、それが、十数人のグループの代表者や幹事役の意見を一人に数えていて、個人で来ていて個々人全員が回答(率100%近い)する場合、個人で来ていた人の比率が大きく出すぎないかの質問をしたことがありました。
集団員全員にアンケート依頼しても全員が書いてくれる団体と、代表者が書けばいい(その他は受け付けに普段から顔を出さないのが普通)グループもあるでしょう。
この辺は受け付け実務をしている人は詳しいでしょうが・・ある会議で質問してみると、事務局の方は施設運営者に聞いていないので分からないという回答でした。

メデイアの事実報道能力2(在特会)

言論の自由市場論のトリックに挑戦し始めたのが、在特会の派手な言動(やりすぎ?)がニュースに取り上げられるのを狙った方法ですし、別のグループが応援する弁護士会相手の懲戒の大量請求運動でしょう。
内容が無茶であればあるほど話題性がある・大規模な報道対象になることで、報道されない問題点を社会に拡大する戦略としては成功しているように見えます。
在特会は巨額賠償金を取られましたが、結果的に在日特権?の実態というか反感の広告効果が大きかったし、(朝鮮人学校?が長年続けてきた公園の独占的使用を中止しました)弁護士個人ではなく「弁護士会が朝鮮人学校への補助金について口出しをする」問題点も(是非は国民判断に委ねるとして)広く知られるようなりました。
朝鮮人学校への補助金の何が問題か,(補助金の内容や朝鮮人学校と一般の学校の違いも知らないし)問題があるとしてもなぜ弁護士会が意見を公表する必要があるかは多分専門の委員会で十分な議論をして決めたのだろう程度しか門外漢の私にはわかっていません。
この機会に勉強すれば良いことですが、自分のコラムを書いている勢いで関心の赴くままにテーマが移りそれに合わせて書いているだけで忙しくこのコラムに関係のない分野の研究をする暇がありません。
参考までにネット検索すると以下の記事が出ました。
https://www.sankei.com/politics/news/170427/plt1704270025-n1.html
2017.4.27 18:51更新

朝鮮学校への補助金を不交付決定 学校行事では北朝鮮指導者賛美の歌「白頭山に行こう」披露 日韓合意否定に「主旨に反する」 千葉市

千葉市が補助金を交付しない決定が、人権問題とどうつながるかまでは私には不明ですが、千葉県弁護士会がこれを問題視したのでしょうか?
メデイアは自分勝手に「市民感覚」を標榜して好きな方向へ世論を煽ってきましたが、実はメデイア自身が「市民意識」と遊離しているの知らずに?メデイア報道の尻馬にのって、(情緒映像だけで影響を受ける層を支持母体とする)なんでも反対の政治になってしまったのが、旧社会党であり、その系譜を引く革新系政党です。
いわゆるモリカケ問題も、「疑惑」と言うばかりで「何の疑惑か!」すら提示しない思わせぶり報道ばかりで2年も国会審議を停滞させているのですが、市民が納得していないのは思わせ振りな報道姿勢の方ではないでしょうか?
18日午前8時発生の大坂の大震災発生報道では、阪神淡路地震に比べて(地震規模が小さかったとはいえ)人的被害や大規模火災等の少なさ・・・・神戸震災と比較してのその後適応力の高さに驚いたものですが、翌19日の日経を見ると「都市防災の脆弱さが浮き彫り」などの批判一色には驚きました。
・・朝の通勤ラッシュ時の震災にも拘らず交通関連事故ゼロは(脱線等は皆無です)特筆すべき成果でしょうが、通勤客が歩くなどの写真を強調して脆弱さを強調していました。
交通機関や工場やエレベーターでは事故防止のために一時停止しての安全点検が必須ですから、そういうことをあげつらっても意味がないでしょう。
今後の課題として工夫すべきは当然ですが、頭っから批判姿勢で報道を始めるようなことではありません。
まずは、「大した被害がなくてよかった」と胸をなでおろしたのが国民大多数の感慨ではないでしょうか?
自治会や役所での防災関連での議論を見ていると避難場所と言っても、地元住民の自宅倒壊リスクなど誰も本気で想定していない・・住宅地内の避難経路など(みんな路地裏まで知り尽くしているし)にもあまり関心がありません。
マンション業界でも倒壊リスクの時代を卒業して、高層ビル内の揺れ幅をいかに縮小するか・・耐震構造から免震構造に移っています。
個人の関心では、耐震性のない家は論外として免震構造の家に住む他に、住宅内のタンスや本棚や花瓶などの危険をどうするかの自助努力の工夫にはいっています。
「大都市の脆弱性浮き彫り」と言ってもハードのリスクを卒業してターミナル駅等での滞留者対策など新たな課題に対する今後の課題でありいわば贅沢な悩みです。
東北大震災後は災害対策の重点がこのようなソフトに向かっていることがわかります。
公園等にトイレがあればいいのではなく、綺麗で使いやすいか、ウオッシュレット化しているかのように「より良いものか」どうかが問われる時代です。
この結果、耐震構造のないマンションや住宅は時代遅れの遺物意識が定着しているので、「耐震補強工事が終わっているか?」終わっていない結果神戸のような倒壊事故が多発していれば、「なにかあれば、まず政府批判」の報道姿勢・・これまでのセオリーどおり、震災対策不備であるかのようなイメージを真っ先に掲げる「脆弱性批判」も違和感がなかったと思われます。
ところが、蓋を開けてみると、耐震補強すらしていなかったことによる震災被害は、高槻市の小学校のブロック塀倒壊事故による児童の死亡事故1件ともう一人80歳の事故の合計2件だけで、その他の2名は自宅内の本棚等の下敷きになった80代高齢者等自宅内死亡事故だけだったようです。
以上によればビル倒壊被害対策は建築基準法令整備などでほぼ解決済みであったことがわかります。
高槻市のブロック塀倒壊事故による児童死亡事故は、前時代的事故でしかも最優先であるべき教育設備で起きたのですから、文字通り地元政治のレベルが問われます。
今後の事実関係の進展によるでしょうが、耐震補強工事などは努力目標ですがそれでも速やかに対応してきたのが普通ですが、ブロック塀の高さ制限等の既存規制法規に違反している(法規制後のブロック塀)とすれば、これを放置していた地元政府の政治責任問題です。
これこそがメデイア好みの政治批判テーマになるべきでしょう。
前時代的ハードの未整備の結果,児童死者まで出したことに対して、従来型メデイアの報道姿勢の延長であれば厳しく非難すべきですが、メデイアは一報しただけでその後は日経新聞で見る限りほぼ無視状態でネット空間で喧しいだけです。
一方で都市機能の脆弱さは政府の責任であるかのような、イメージが刷り込まれています。
今回の大阪北部震災では、老朽家屋対策その他の防災機能が(高槻市を除いて)飛躍的に進んでいたことがわかり、これを同胞としてまず慶賀すべきですが、今後はエレベーター等も即時停止しないで最寄の駅や階まで徐行運転して客を電車やエレベーターから解放するなどのソフトが必要ですし、一旦停止後の再開までの時間短縮などの工夫を期待する(この種の努力は分秒単位の短縮などの地味な努力の積み重ねになります)前向き議論が一切ありません。
ただし、私のように報道姿勢に違和感を感じた人が多かったのを感じたか、抗議の電話が行ったのか?すぐにこの種の批判的報道が下火になりました。
すでに耐震補強時代が終わっているのが普通、建物倒壊事故や電車脱線等による直接被害よりは、今後は一時停止のあり方や帰宅困難者や行路途中で行き場を失った人の受け入れ施設の整備をどう進めるかが重要です。
交通機関の事故がなくとも一定規模の地震があれば点検による運行停止が必須で、(一般企業工場再開もその後です)その間のサプライチェーンの途絶や滞留者の居場所が重要です。
過疎地のように2両編成で30分に1回の電車が3時間止まっても駅周辺滞留者人口は知れていますが、大都市では数分〜10ごとに10何両編成の電車が発着し、大量乗降客の大方は5〜10分後には別の電車ヤバスに乗り換えていなくなってしまう前提で駅施設が出来上がっています。
これが1〜2時間完全停止すると(道路事故の場合一時滞留しますが、そのうち迂回路に誘導できますが・・)駅内外に人が溢れて収拾のつかない状態になります。
帰宅困難者だけではなく今では、昼間の滞留者だって駅に立ちっぱなしというわけにいかないので、休憩拠点整備などに関心が向かっています。

メデイアの事実報道能力1

高裁が地裁判断を否定すると「市民感覚に反する」とか高裁で判断が変わると「司法の信頼を揺るがす」という論理脈絡のない批判社説に何故なるのか、逆に「市民感覚」で理解できない人が多いのではないでしょうか?
野党が何かある都度「市民の声を無視」と市民代表を僭称して街頭行動するのは、メデイアが何かというと「市民感覚がゆるさない」という思い込み意見と軌を一にしています。
市民・国民の声は、選挙による結果が最も正確であり、数%しか支持を受けていない政党が、自分たちの意見が「市民代表」というのは無理があるのと同様に、選挙の洗礼を受けないメデイアが独断で市民感覚を決める権利はありません。
主張説明責任については、1+1=2の論理を説明する義務はありませんが、1+1=3の結果であれば、その論理根拠を説明する義務があります。
郷原弁護士の意見によればのちに紹介引用する通り

「確立された科学的手法ではない鑑定であれば、鑑定の経過やデータ・資料が確実に記録されていることや、再現性が確認されていることが、鑑定の信用性を立証するために不可欠と考えられるが、本田鑑定は、データ・資料が保存されておらず、再現実験による確認もできなかった。このような鑑定に客観的な証拠価値を認めることができないのは当然である。
本田氏のDNA鑑定は、「細胞選択的抽出法」によって、「50年前に衣類に付着した血痕から、DNAが抽出できた」というもので、もし、それが科学的手法として確立されれば、大昔の事件についてもDNA鑑定で犯人性の有無について決定的な証拠を得ることを可能にするもので、刑事司法の世界に大きなインパクトを与える画期的なものである。」

というのですが、こうした現在科学の到達点・事実の有無について論理検証があってから「迷走」かどうかの意見の是非・「市民感覚」が決まることでしょう。
どこかで読んだ意見では本田氏の鑑定手法では、肝心のDNAが消失してしまう方法であって再現実験できないと紹介している意見を読んだ記憶です。
(きっちりした記憶はありません)
決定が出て問題点が具体的に指摘されている以上は、昨日紹介した意見はジャーナリスト上がりの作家らしいですから、作家としては願望を書くのは勝手ですが、報道機関・公器を標榜する以上はムード的無罪願望・不当決定主張ではなく、決定に書かれている本田鑑定や写真に関する主張などに対する問題点に対する逐一の内容に対して具体的批判すべきです。
訴訟というのは、負けさせる方に十分な反論や説明チャンスを与えて・これ以上説明ができないと言う意見表明を待ってから弁論終結するのが原則・・不意打ちをしない原則ですので、高裁が年単位で弁護側に再反論のチャンスを与えていたのにいつまでも出さないので、「あるのかないのか」釈明を求めていたところ最後に「鑑定記録を廃棄した」と表明したので「それでは」ということで「結審」したものと推測されます。
(本田鑑定は弁護側の鑑定ですから、きちんと鑑定したことを立証するための資料提出責任は弁護側にありますが・この資料提出指示に対して何年も返事を引き延ばしていた挙句に「廃棄してありません」いう回答をしたとすれば、(記録自体を読んでいないのでこの経緯が事実かどうか不明・事実とすれば)驚くべき経過(弁護士倫理として如何なものか?)ですが、弁護側の無責任な訴訟態度を紹介しないで4年間も「訴訟が迷走した」と裁判所の責任であるかのように報道するのは実上のフェイクというべきでしょう。
「迷走」というためには本田鑑定が現在科学の到達した争いのない・疑問の余地のない(1+1=2のような公理)鑑定手法であるのに高裁が無駄な説明を求めたので時間がかかったという前提を提示しなければなりません。
(昨日紹介した不当決定主張派の記事内には別の鑑定人が本田鑑定の手法では再現実験できないと「サジ」を投げたらしい経過も出ていますから・・「本田教授が再現実験に応じなかった」という何処かで読んだ意見とも符合します))そもそも事実経過を吟味しない「市民感覚」で裁判批判するのってメデイアのすることでしょうか?
健全な思想・市民感覚は、事実を提示されて初めて生じるものでしょうから、そのために民意重視社会では情報開示が重視されてきたのですし、情報伝達手段としてのメデイアの役割が大きくなってきたに過ぎません。
情報を先に入手する関係で一般人よりも意見形成が早いでしょうが、メデイアの役割は事実を正確に伝えることが第一です。
それなのに肝心の事実報道をしない、あるいは軽視して自社の主張を流布することを優先しているのではメデイアの存在意義を自己否定することになります。
高齢化社会を反映して、最近認知症のかなり進んだ人(被後見〜被保佐相当?)に関する相談が増えましたが、「こういう場合どうするか」という意見では、むしろ人生経験のある分、ついてきた子供世代よりも立派な意見を言いますが、1〜2週間前にあった事実を前提とする意見では、みんな忘れてしまっているのでトン珍カンな会話になります。
ですから高齢者との会話では問題になっているテーマに関する過去の事実関係をおさらいしてから始めるのが妥当です。
それをしないで「おじいちゃんは話にならない」とバカにするのはバカにしている方のレベルが低いことになります。
4〜5人の会食中に過去のやり取りが会話のテーマになった時に、過去のやり取りの場にいなかった人がいる時には、その会話に入れない人に対して「実は10日前にこういうことがあってねと・・」といなかった人に過去の経緯を説明してから会話に入るマナーと同じです。
数学その他のテストでいえば、どんな優秀な子供でも一人だけ別の問題を渡れされたらゼロ点になります。
ボケたと言われる老人でも判断力は情報次第によるということです。
我々シロウトは(法律専門家でも自分の担当していない判決等は、専門雑誌に掲載されるのは特報以外は約半年後ですからそれまでは)生の事実どころか整理された事実すら入手できないので、「メデイアやネットの情報によれば・・・」という仮定形の議論しかできませんし、まして専門外分野では視聴者の知的能力に関係なくメデイアがフィクションを事実のように吹聴すると、世論を誤った方向へ誘導出来てしまいます。
17日紹介した毎日新聞の報道でいえば、文字情報では一見客観的に書いていますが、動画に入ると延々と「不当決定」をなじる批判や激励ばかりです。
毎日新聞に限らずその他ネット報道を検索して表面に出るだけを見て流していくとほとんどのメデイアは毎日新聞的なニュース的構成・・目に入るのは「不当決定」と垂れ幕と言うか看板ばかりです。
メデイア界では偏った報道をしているのではなく、「そういう集会があった事実を動画で報道しているだけ」と言うことになるのでしょうが、文字からの情報入手に疎い(専門分野では難解な単語が多く)民衆のおおくが、いかに不当決定が行われたかのイメージ操作・・刷り込みを受ける報道の仕組みです。
じゃ「決定が正当」だという支持者の方も集会をひらけばその事実を対等に報道するというのでしょうが、政府.裁判所がそういう集会を企画できるはずがないので、結果的に一方的なイメージ操作になります。
この辺は、工場進出〜廃棄物処理場やマンション建設反対その他反対運動や法案反対集会や反政府デモばかり報道するのと同じ問題があります。
こういうのって公平な事実報道と言えるのでしょうか?
集会を行なっていることやその集会で「〇〇反対」の意見が発表されていること自体は事実としても、そういう発言ばかり洪水のように流すと、肝心の工場進出による地元メリットや推進派意見が全く報道されません。
廃棄物処理場の必要性などのメリットデメリットの公平な解説がないと、情緒に与える影響では偏るイメージです。

戦前政党政治の失敗の原因(政治能力の未熟2)

政党内閣に関するウイキペデイアの記事からです。

大正7年(1918年)9月に立憲政友会の原敬が内閣を組閣した。この内閣は閣僚の大半が政党所属であった。また原が衆議院に議席を有する現役衆議院議員の初の首相であったことから政党内閣として画期的存在とされた。
特に1925年の男性普通選挙により成立した護憲三派の加藤高明内閣から始まる政党内閣6代の頃には政党内閣は「憲政の常道」として定着した。その背景には元老のなかでただ一人存命していた西園寺公望の意向があった。西園寺はイギリスの立憲政治を理想としており、政党内閣に比較的好意をもっていたからであった。
普通選挙は実現し、有権者は大幅に増加したが、それは政治資金の巨額化に伴うことであった。

その結果、選挙資金を得るためという政治腐敗の増加を招いた。政党間の政権交代は総選挙という国民の審判を通じて行われるのが本来の形である。しかし、この頃の政党は官僚や軍、枢密院などの勢力と結んで倒閣をめざし、それを果たした野党が議会の少数派のままで組閣し、与党という有利な条件のもとで総選挙に勝って第一党へ躍進するという形式が政権交代の基本的形式となった。政党内閣は政党間の対立という困難な問題を処理できないままに1930年代を迎えた。

そこに中国問題の深刻化、昭和金融恐慌、世界恐慌による経済危機、世界的な軍縮の流れに対する軍部の反発など、内外の危機に対して十分に対処しえなかった。その結果、海軍・陸軍、官僚、国家主義団体などを中心に政党政治への不満が高まった。そして1932年5月、海軍青年将校らによる犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)と西園寺が軍部・世論の反対から犬養後継に政党党首を立てるのを断念したことをもって政党内閣は終わりをつげた。

上記を見ると、在野政治家は実務能力が低いのに「憲政の常道」と称して、西園寺が(民意の支持を無視して)形式的な政権交代制を採用していたのが政党の健全な成長の芽を摘んでしまったように見えます。
経験がないなりに実務に基づいて堅実政治をしている与党の支持がせっかく多くなっていても、政変の都度毎回少数野党に政権が変わるので、結果的に野党が国民の支持獲得を目的にせず、メデイア受けする空虚なスローガン頼りで政権攻撃する習慣になっていったように見えます。
メデイアの煽りで(本当は国民の多くが冷めていても冷めている人はデモしませんので)国会周辺が騒がしくなると「民主主義」という言葉の魔力でこのままでは政権維持不能となって内閣総辞職になります。
メデイア頼りの運動の限界を補うために軍部でもなんでも倒閣に利用できるものは利用していった結果軍部がどんどん発言力を持つようになってガン細胞のようになってしまったと見るべきでしょう。
戦後は揚げ足取りで倒閣に追い込んでも次の内閣は(本当に国民支持を受けている与党から樹立されるので、野党の揚げ足取り攻撃は意味がなくなっています。
ところが戦前成功例を夢見て戦前の揚げ足取りの「世論」という名でメデイアとの二人三脚での政権攻撃を戦後も繰り返してきたことになります。
実際に揚げ足取りで倒閣してもその次の選挙で社会党が勝ったことがないので、(60年安保だって政権交代はありませんでした)国民多くは安保反対でなかったのです。
まして政策論争のない揚げ足取りだけでは、政権交代になるはずがありません。
今回も森かけ問題による倒閣運動が盛んですが、政策論争でないので、安倍内閣が辞任しても野党への政権交代になる余地がありません。
内閣弱体化運動=国家に必要な政策遂行能力を弱める運動でしかないのです。
実務経験のない野党は無責任な観念〜原理論しか言えないので、国民が成熟してくると支持が減る一方になります。
そこで元官僚を野党が取り込んで現実野党を目指し・これを売り物に民主党が政権を一旦握ったのですが、多くが官僚の傍流であり、明治初期の板垣らと同じ傾向が出て・第一次大隈内閣同様の大失望を買ってジリ貧になってしまいました。
話題を元に戻しますと、23日まで紹介した小西氏も東大卒・元官僚で・東大教授の名前程度は知っていることを鼻にかける特徴にも現れています。
明治期の政治家が、ちょっと官員さんをやったことを誇って庶民に訴える傾向がありましたが、今でも在野政治家はその傾向を引きずっているようです。
明治初年と違い今では、元「官員さん」東大卒の有り難みが薄れています。
東大卒や国家公務員の中でも2〜3流人材・出世できそうもない不満分子が在野になって政治家になっていたこともあって、戦前の政党レベルが低く「あら探し」しかできない結果政党の根腐れ現象を起こしたことが上記「政党内閣」の紹介でわかります。
それをうまく利用して(・・当時陸士や海軍兵学校出身といえば今の東大卒よりもエリートでした)空隙を埋めるように軍部がガンのように育っていったと見るべきでしょう。
戦前政治家は「アラ探し」政治に終始していたので、国民に呆れられてしまい政党政治を自ら葬ってしまった点を反省すべきです。
軍部に頼っていた野党は、(国民を欧米流の単純な2項対立社会化→民族分断を企図していた)GHQ占領政治・・軍国主義批判→国民や政党は被害者という宣伝に便乗し・・またもや時の権力に媚びへつらって「国民や政治家が軍部や権力の弾圧によって窒息させられた」・・・「軍部や治安維持法が悪い」と宣伝してメデイア・言論界が被害者意識強調ばかりしてきました。
挙句に「戦犯批判・靖国合祀を許せない」と中韓まで応援団に引き込んで国民分断作戦に肩入れしてきたのが左翼や文化人です。
今の慰安婦騒動に限らず日本の国難は戦前から今まで、ずっと野党とメデイアの二人三脚プラス軍部や外部勢力引き込みで育て上げてきたものばかりです。
軍部を育てて言論を窒素させて行ったのは野党政治家とこれを応援するメデイアそのものだったことを今日まで見てきました。
戦後ずっと、メデイアの宣伝にさらされている国民の多くが、メデイア界も政治家も戦前権力による被害者だったかな?と誤解している人が多いでしょうが、逆に彼らのほうが弾圧を煽っていた張本人でした。
政府権力者(滝川事件でも背後で就職先を世話するなど尽力していた西園寺公望)の方が、如何にして政党政治を守り育てるかに腐心していた・肝心の民意無視で形式的な政権交代に重きをおいた)様子を紹介します。
簡略にみるには以下の記事が重宝です。
https://hosokawa18.exblog.jp/20192131/

戦前の政党政治はなぜ終焉したか
・・・昭和になってからは 「西園寺公望」 しか元老がいませんでしたから、
昭和における首相は全てこの男一人の手によって決められたのでした。
西園寺は 「政友会」 と 「民政党(憲政会)」 から交互に首相を奏薦します。
若槻礼次郎(憲政会)が金融恐慌の処理にミスって退陣したら、その次は田中義一(政友会)。
田中義一が張作霖爆殺事件で昭和天皇の勘気に触れて総辞職すると、次は浜口雄幸(民政党)。
浜口雄幸がテロによって倒れると、その次は若槻礼次郎(民政党)。
若槻礼次郎が満州事変の処理を巡り総辞職に追い込まれると、その次に首相に奏薦されたのが犬養毅(政友会)。これが 「憲政の常道」 たる 「西園寺ルール」 ですが、首相がテロで倒れた場合は政権交代させてません。
さもないと暗殺合戦が始まっちゃいます。
浜口首相がテロで倒れた後、首相に奏薦されたのは同じ 「民政党」 の若槻礼次郎でした。
このルールでいくと、次の首相は新しく政友会の総裁となった 「鈴木喜三郎」。
鈴木喜三郎もその気マンマンで、首相になる準備を始めています。
しかし西園寺は 「海軍出身」 の斉藤実を次期首相に奏薦。
これで戦前の政党内閣は終わりを告げたのでした。
つまり戦前の政党内閣が終焉した原因。それは・・・
「西園寺が鈴木喜三郎を首相に奏薦しなかったから」
この一言に尽きます。
なぜ西園寺は 「鈴木喜三郎」 を首相にしなかったのでしょうか。
まず 「政友会」 と 「民政党」 の抗争が激しすぎたコトが挙げられるでしょう。
国内・国外で問題が山積みなのに、とにかく彼らは党利党略が優先。帝国議会はお互いのスキャンダル暴露合戦と化しており、日本にとって害を及ぼすレベルにまで来ていました。
そして 「政友会」 があまりにも親軍的な政党と化していたコトも問題でした。
犬養首相は 「憲政の神様」 と呼ばれただけあって、党内のこうした勢力を抑えていたのですが、鈴木喜三郎は親軍派の代表的な人物であり、むしろ軍部よりも強硬意見の持ち主。
「こんなヤツを首相にしたら、日本がファシズム化しかねない」
それに比べて 「斉藤実」 は海軍出身ではありましたが、穏健で常識的な人。
「政党は平和で、海軍は戦争」
決してそんなコトはありません。
この場合は鈴木よりも斉藤を首相にした方が平和を望めたのでした。

天皇機関説事件でも紹介しましたが、政府会は政敵を攻撃するために時の政府が機関説を支持していることを攻撃し政党政治の理論的支柱である天皇機関説を潰す方を選んだのです。
以上紹介して来たように、社会党や民進党が政策論なしに政権や大臣の揚げ足取りに終始する体質は、戦前政党の悪しき系譜・DNAを引きずっていることがわかります。

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