自己実現と社会の関係5(判例時報増刊号)

「逆は必ずしも真ならず」という解説付きでなく、自己実現は崇高なもので最高に尊重されるべき人権という強調だけしている場合、どんなことを表現しよう(刑事民事の違法行為でないかぎり)とも内容審査は許されない?・・(内容如何によらずに「自己実現行為」であれば内容について何らの批判すらも許されないような誤ったイメージを広げる可能性が高くなります。
文化革命当時「造反有理」というスローガンが流行りましたが、以後自己実現であれば、どのような政治運動も許されるかのように振る舞う人が多くなっているように見えます。
精神医学で言うところの「赤ちゃんの万能感」状態が大人に引き継がれているようにも見えます。
私自身個人的には自己実現論・・心理学としてのマズロー理論はそれ自体には(人の内面心理構造としては)直感で共感するところ大(人は死ぬ瞬間まで自己実現に励む存在)ですが、それとは別に芦部教授が私の気にする社会関係論として無理がないかの批判に対してどういう反論をしてきたかも知りません。
また、心理学側面だけで見れば米国と違った国民性・国民レベルを前提にすると日本社会でこそ自己実現に努力する人が多そうで・イチローのようにあくまで求道者精神の発露・・・いつも真面目に自己実現にはげむ日本民族向けには妥当する理論ではないかと思います。
マズローの理論は米国社会をモデルにしているので、日本その他の社会に(日本の場合安全欲求度が高いという違いがあるので米国図式は)妥当しないという批判が強いようです。
私の理解では米国の民度では、求道精神的・・自己実現に邁進する人が逆に少ないので国民支持を得られなかったように思いますが、ここでは横道に逸れ過ぎるのでこれ以上深入りしません。
心理学用語としての自己実現論と憲法理論との関係に戻ります。
自己実現に価値を置く国民性だというかは別として、憲法学者が憲法の基本概念に心理学用語を取り入れるには、心理学→個人内面変化や生きがい・やる気を出させる等の心理側面概念と社会関係の規制のあり方・法概念との架橋をもっと素人にもスッキリ分かるように提示すべきでないかの疑問です。
普通の法学勉強者が理解できるように説明できない概念が広まると、図式的理解で満足している人が増えて行きます。
そうなると末端裾野(これが最大多数です)では本来の意味を外れた外延での利用が増えて誤解を招くリスクが起きてきます。
昨日紹介したように「逆は真ならず」の批判が起きるのは中核利用ではなく「外延」を目一杯広げて利用する法学関係者が多くなったからではないでしょうか。
芦部教授が憲法で保障される表現の自由と自己実現をイコールとして主張していたかを知らないので、(原典に当たっていないので)こういう疑問を書くのですが、芦部説の図式化による誤解が広がっているだけかの疑問で書いています。
ただし、昨日紹介したように学者が批判する以上は芦部説の内容と境界をきっちり研究した上での批判というべきでしょうが。
自己実現説を他の学者が「イコールではない」と批判している以上は、芦部説あるいは正当継承理論では、「自己実現=憲法で保障される表現の自由」と主張をしているとみるべきでしょうか?
Jul 12, 2018「表現の自由(自己実現・自己統治)とは2」を今見直してみると、同署13pには、「第4内容に基づく規制原則禁止に向けて」という節があります。
内容まで入る暇がありませんが、表現行為の内容チェックは許されないという主張のようです。
私も規制が必要という意見ではありませんが、政治運動する以上は政治責任をとるべき・批判対象になるべきという意見で書いていますので、結論自体に反対しているのではありません。
毛利氏論文は規制反対というだけで政治責任の否定を含まないとしても、「内容の是非を議論すべきでない」→無答責論的イメージ増殖に結びつきやすくはなっているでしょう。
私はこの臨時増刊号で表現の自由=自己実現論がいつの間にか主流になっているらしいのに気が付いて衝撃を受けてこのコラムで紹介してきたのですが、上記自己実現論に対する批判論もあるのにこれに反論もしない(ざっと見たので読み損ねているかもしれませんが・・)論文集です。
「すでに決まったことだ」という思考停止状態の学者グループの言いたい放題について、政治責任追求を受けそうな危機感をバネに自己実現論があるのさえ知らない我々世代向けに書いた本だったのでしょうか?
近年の集団自衛権であれ、共謀罪法案であれ反対運動のあり方・・内容議論に入らずに「近代法理違反」とか「平和憲法を守れ」「憲法違反を許すな!」など内容に踏み込むのを許さないかのような標語に頼る運動形態を何回も批判してきましたが、問答無用式議論がはびこるのは自己実現理論という高邁な?憲法論が下敷きにあるからかもしれません。
各種違憲論や反対論自体をおかしいというのではなく、法案の内容・どこが憲法違反かなど吟味する必要があるのではないか?というのがこうした主張に対する疑問です。
私のレベルが低いだけかもしれませんが、プロの弁護士相手に配布されてくる主張を見る限り、どの条文がどういう危険があるか・その危険性排除のために先進諸外国がどのような歯止め工夫をしているが、日本の法案にはこれが足りないのでこの修正が必要だなどの具体的主張を読んだ記憶がありません。
法律家の法案反対運動なのに内容議論を許さないイメージの押しつけばかりなので、不思議な人たちだと思っていましたが、自己実現論(の拡大解釈?)を下敷きにしているとすれば理解可能です。
自己実現であれば何でも許される思想は精神医学での定説を借用すれば「赤ちゃんは自分が世界・宇宙そのもの・全能」と思っているようなものですから、まともな議論・・まともな社会性のある議論にはなりません。
たまたま昨年から高裁判事のネット発信が問題視され、最高裁から懲戒処分(戒告)を受けただけでは済まずに、国会の訴追調査が始まっていると報道されています。
これに対し、裁判官も国民の一人として表現の自由(自己実現の権利がある)と擁護する意見が法律家の間で流布されているようですが、自己実現の一部かもしれないが「裁判官の発言として枠を超えていないかの吟味が必要」というのが国民大方の意見ではないしょうか。
自己実現であればなんでも許されるのではなく、それぞれの「社会的立場に応じて言って良いことと悪いことがある」というのが多くの国民の意見ではないでしょうか?
25日紹介した批判論・・表現の自由と自己実現とはイコールの関係ではないという批判を知らないのでしょうか?

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