近代法理の変容12・破綻3(日本固有の法理4)

左翼・マスコミは、何か災害や事件があると先ず責任者を捜し出すことに精出す傾向があります。
避難指示の出し方に落ち度があるとか、防災対策は政治の責任であり、救援物資に「済みません」と感謝するのは筋違いであるとか、政府こそが謝るべきであるし、イスラム国テロによる人質事件は安倍総理の責任であり、その追及こそすべきであって親が謝るべきではない・・こんな振る舞いが求められるのはとんでもない後進性の現れであるかのような印象で報道します。
西洋法理を信奉するマスコミや文化人の立場からは、大震災の事故があって被害者が出ると事前の避難訓練がなかったとか、避難指示の拙劣さなど学校や幼稚園・・企業経営者などの責任追及に精出すのが、先進的であり鋭い?能力があることだと思い込んでいるようです。
西洋的行動であることはそのとおりですが、西洋的と先進的とは同じではありません。
日本人の古来からの考え方・智恵は、何か大事件が起きると、個人責任追及に時間を割いて見せしめを探し出して吊るし上げて満足するよりは、起きてしまった結果をみんなで悲しみ、みんなでこう言う不幸をなくすために地道に克服努力して来たのではないでしょうか?
アメリカ式に戦争責任を追及して吊るし挙げて満足する社会ではありません。
日本以外の諸国では民主化したと言っても「リーダーを選ぶところまでが民意重視」ですが、選ばれた(民主化されていない国の場合はもちろん)リーダーが独断で引っ張って行く社会ですから、リーダーが結果責任を負うことになりますし、(この辺のことはアメリカの大統領制のコラムで紹介しました)その責任追及が必要ですが、日本では政治家はリーダーではなく、世話役・ご用聞きとしてみんなの意見を集約して行動するボトムアップ社会ですから、結果はみんなで責任を負う(・・みんなの智恵が足りなかったと反省する・・)仕組みです。
戦国武将が城明け渡しに際して腹を切るのは、代表として犠牲になる意味であって、命が助かったその他の兵は感謝こそすれ、その恨みを買ってはいません。
一揆の責任者として責任をとった佐倉宗吾郎だって同じで、彼がみんなを煽動したのはなく、一揆を起こせば最後は誰かが責任をとらされること分っていて衆議に従って責任者に祭り上げられただけですから、犠牲者として一揆参加者・子孫の尊敬を逆に集めています。
この辺の意味を中国や韓国やアメリカでは理解出来ないので、ナチス同様に戦犯を作り上げて処刑したことで日本国民を分断したつもりになっているのですが、(ドイツとは違い・・)逆に戦犯は日本人の代表として「見せしめに処刑された」意味に日本人が受け取っている・・これをいつまでも辱めることを許せない心情を理解出来ていないのでしょう。
諸外国基準で戦勝国が日本の政治家を血祭りに上げて「あなた方国民は悪い政治家のせいで酷い目にあっていた」と言われても釈然としません。
飢饉があると為政者批判しているよりは、宮沢賢治の詩にあるようにみんなで悲しみ、その次の再発を防ぐ工夫こそが求められて来た社会です。

「雨ニモマケズ」

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ  イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ ワタシハナリタイ

我が国は古代から、飢饉や天災があれば、為政者批判に力を注ぐよりは先ずは助け合い、(よその国では助け合いよりは略奪にハシリます)その経験を生かして備荒食物の作付けなどの智恵を発揮した人が(サツマ芋普及に関する青木昆陽の事例は有名ですが、梅の作付けやソバ奨励もその一種です)全国に教えて歩く人が出るような仕組みです。
江戸時代には上杉鷹山その他藩政改革者あるいは佐久間象山や二宮尊徳のような農政改革者が多く出ますが、その前任者の政策批判して責任追及に熱心な事例をあまり聞きません。
津波被害があれば、先ずは助け合いに精出して救援された方は感謝します。
落ちつけば今後のことをみんな考える・・一定間隔での避難用高層構築物設置など、被害最小化のためにどうするかの工夫こそが重要です。
建設的意見よりは、責任者探しをして・損害賠償を求めるやり方は建設的議論にならないばかりか国民間の不信や報復の連鎖・・自己弁護に終始したり亀裂を生み出すばかりでマイナスです。

近代法理の変容11・破綻2(日本固有の法理3)

15年ほど前に三重県の方で母親が友人?に幼児を預かってもらっていたところ、事故でなくなった事件があって、あずかってくれていた近所の人相手に損害賠償請求裁判した事件・・隣人訴訟が耳目を集めたことがありました。
昨日書いた成人した息子の事件に親が謝って歩くのは、西洋法的責任論によるのではなく、日本固有の法理によるものです。
話し合いでも解決すれば法的な効果がありますので、これも法的解決ですが、世の中にはこれで丸く収まっている場合が多いのですが、これで納得しない人が裁判を起こすことになります。
共同体分野で裁判をすると「人でなし」のような印象で語る人が多いのは、日本固有の法理無視・・古代からの共同体価値の否定・・共同体の一員としての付き合いを出来ないような印象を持つからでしょう。
子供を預かっていた事件では、元々営利目的であずかった行為ではないことから、日本固有法理・共同体的解決が働く場面であると多くの人が思ったから、西洋法理に訴えたところがショックだったことになります。
訴えた人がその地域共同体から出て行くことになったか否かまでは知りませんが、共同体法理で解決すべき分野で西洋法理を持ち出すと民族意識が頭をもたげて来て、近所付き合いが難くなります。
1〜2年まえに判決が出た別事件では、認知症の人が家を抜け出して徘徊していた結果、線路に立ち入って電車事故を起こしたことで、電鉄会社から損害賠償請求をされて、その介護をしていた長男夫婦だったかが徘徊を阻止しなかった監督責任=損害賠償責任を認められたことがありました。
故意・過失責任を問う法理では、忙しいから・・遠くに住んでいるから・あるいはどんな身勝手な理由であろうとも、面倒を見ていなかった次男等の弟妹には、責任を問えないのは当然の論理帰結となります。
故意過失責任論では、自分の生活を犠牲にして親の世話をしていた人が損をする感じですから、大きなニュースになりました。
実態の詳細を知りませんが、もしも鉄道会社に管理責任がなく、死者側の管理責任の方が大きい=賠償責任があるとした場合(元々どちらかに責任があると決めつけねばならない仕組み自体が変です・・災害保障保険制度にして余程大きな責任のあるときだけ追及すれば良いことです)でも、国民感情としては、面倒見ていた人だけではなく一家で連帯・分担して責任を持つべきであろうと言う印象です。
家族間で後日そう言う話し合いがされたと思いますが、(遺産分けに際して損害賠償額を天引きして残りを分ければそうなります)これは日本法理であって、弟妹が話し合い・分担に応じなければ、西洋法的には弟妹(その場にいなかったので監督しようがなかったこと・無過失になります)は責任がありません。
長男固有の責任と言う西洋法理・過失論であれば、遺産から払うのではなく、過失のあった長男の固有資産から払うことになります。
介護施設などの管理不行き届きで死亡した場合と同じとすれば、長男の管理責任不行き届きで母が死亡したのですから、弟妹に対する慰藉料支払義務・弟妹からの裁判さえ起きかねません。
西洋法理を貫徹すると隣人訴訟同様に兄妹の付き合いがなくなります。
むしろ、「お兄ちゃん一家に任せていて申し訳なかったね」とねぎらうのが我が国普通の法意識です。
東北大震災津波被害で言えば、被害者が全国からの応援に有り難いと感謝し、今度のIS(イスラム国?) の人質事件では親が「皆様にご迷惑をおかけましたとお詫びし感謝するのが日本では普通の社会意識・・法意識です・・。
近代法の個人主義精神を有り難がっている立場からすれば、津波被害は人災に違いない・・責任追及こそが必要とする前提で議論が進みます。
事故や災害があると、原因究明をするのは、教訓を探すために必要なことですが、責任追及の目的で究明するのとでは・・、目的が違うと社会の進展には大きな差が出ます。
韓国でのセウオール号事件その他何かある都度、鬱憤ばらし的責任追及に精出している状態に日本社会との違いを感じる人が多いでしょう。
左翼・文化人・マスコミ人は、こうした社会になるのが望ましいと言う意見の人が多いのではないでしょうか?
東北大震災のときに東電社長が奥さんと奈良方面旅行中だったと言う報道が流れて、大事なときに旅行と何事か!と言わんばかりの印象の報道でした。
地震は前もって分っていなかったのですから、休暇をとっていたのが悪いかのような印象づけは不当な報道でした。
地震当初には、如何にも鬱憤ばらし目的の吊るし上げ対象を求めていたかのような、低レベル報道が幅を利かしていました。
マスコミは地中海での旅客船事故や韓国のセウオール号事件など大事件が起きると「全て責任者がどうしていた」と言う低レベル報道に偏る傾向があります。
日本国民のレベルが高く冷静ですから、そんな低レベル・煽り行為的報道に殆ど反応しなかったので、その内この種の報道は縮小して行きました。
その後も、マスコミは自己の立脚する価値観で(国民全般の意向に反して?)訓練を受けて来たせいか?飽くまで責任者のあぶり出しに精出していました。
朝日新聞の吉田調書事件は、東電社員が現場放棄して逃亡していないのに逃亡したと言う虚偽報道に発展したのは、東電の体質批判・責任追及をしたい方向性・・角度付けから生じた結果ではないでしょうか。

近代法理の変容10・破綻1(日本固有の法理2)

学校内の事故も同様で、損害賠償→責任追及されると教員も萎縮する一方で、マトモな教育が出来ません・・。
西洋式の意思責任主義・故意過失原理から解放して、校内の事故には(先生の故意過失の有無に関係なく)運営している学校が責任を持つ制度にすれば良いのではないでしょうか?
ここでは学校内事故を参考に書いていますが、介護施設や病院・スイミングクラブ内・工場内その他施設内の事故については、被害者に自招行為責任がない限り、似たような運用で足りると思います。
法理論・哲学的側面では、意思主義=故意・過失責任論をやめて、法技術的には原則と例外の入れ替え・・被害者が自分で危ないことをしたなどの自傷・自招行為・・施設側が自己の無責任を主張立証しない限り、原則として施設が責任を負う仕組みです。
教育方法の技能アップのための原因究明ならば、内部調査して責任を問うたり譴責して行く・・今後の教訓にして行く方が合理的です。
故意過失の有無にかかわらず学校や組織が賠償・保障すれば、事故にあった子供の親は先生の個人責任を問う必要がなくなり、・・裁判するコスト(熱心に指導してくれていた柔道などの先生を訴えなくても済むし精神面でも)負担がなくなります。
個人責任を問うのは、特に酷い対応をした場合の例外的制度にすれば、既に民事賠償が終わっているので、被害者に関係のない今後の再発防止などの研究や内部秩序維持・・再発防止目的の刑事責任や昇進・格下げや懲戒等の違った側面の問題になります。
現状の民事賠償責任制度では、無理な過失認定仕組みですので過失があると言われた方が納得し難い・・裁判に期待される合理的説得をする機能を裁判が果たしていないで、弁護士に頼っている状態です。
裁判所は個人の選任・監督責任と言いながら、本来の尺度は、古来からのどこまで組織(親)が責任を持つべきかの価値基準で判断しているように見えますが、これを口に出して言えない矛盾です。
このために本人訴訟では、なかなか納得しない被告相手に裁判所から、弁護士に相談してくれと言う勧誘が行なわれている様子です。
しょっ中裁判所から弁護士を頼んだら勝てるようなことを言われた・・だから先生さえやってくれれば勝つに決まっていると言う主張して相談に来る人がいますが、「逆でしょう」と言う事例が殆どです。
裁判所がその人に対して負ける理由を噛み砕いて説明出来ないからその役割を弁護士に振って来る感じの相談が多いのです。
振られた弁護士としては、この主張では負けるしかないと言う理由を苦労して説明するしかなくて、何故負けるかの説明です・・その人の信念・・価値観と噛み合わない説明ですから、大変な苦労をさせられています。
西欧由来の近代法は意思責任のフィクションに頼っているので、そのフィクションどおりに理解すると(秀才型の人に多いのですが・・)却って「俺にどう言う過失があるのだ」理解不能になるる人が出て来ます。
同居して親が監督している場合、どういう風に親が努力していても結果的に監督不十分の責任を取らされるのに、「この子は外に出して大丈夫かな?」と心配のある子供を都会に就職させたり学生寮等に入れている場合、何かがあっても「国許の親が却って監督する余地がない」と言う理由で、何の責任も負わない結果になります。
4〜5年前に私の受任していた大学寮内の暴力事件で、(私は加害者側でしたが)「親には監督責任がない」ことを前提に、親の日本的責任として事実上親が金を出して和解しました。
前近代的かどうかは別として成人した息子であっても、同居している息子が隣の家のガラスを割ったり、怪我をさせたりすれば、成人しているから親に責任がないと開き直る人はいない・・親が謝って弁償するのが普通でしょう。
アパートの独身居住者に何かあれば、親に連絡して(遺体など)引き取ってもらうのが普通です。
親の過失責任などを問題にしていません。
謝りに行って相手から、「親御さんは大変すね」とねぎらってもらえればお互い円満ですが、「あなたの監督が悪いんだ」と居丈高に言われれば、謝る気持ちが薄まってしまう人が多いでしょう。
監督の仕方が良くても悪くとも、(親に過失がなくとも)息子が不祥事を繰り返していると近所の人にとっては迷惑で不安なことは同じですから、無言の圧力があって、障害を持った息子を抱える一家は、その土地にいられなくなってどこかへ引っ越して行くしかなくなります。
親の過失の有無が問題ではなく、傷害や放火行為者の故意・過失にこだわらない・・病気だから故意も過失もないと言って無罪=放置→事実上親まかせにしていた心神喪失者等医療観察法のような隔離する法制度成立前の不備・運用の問題です。
(ただしこの法律は殺人・放火・傷害等一定の重要事件を起こした後の制度ですから、予防・・奇声を発していて不安だと言う段階では全く役立ちません。)

近代法理の変容9(破綻・日本固有の法理1)

殆どの経営者や親は裁判所の・・「もっと監督すべきだった」「監督不行き届きの過失がある」と言うこじつけ的過失認定論理に納得していませんが・・何をしていても駄目(過失がある)と言う裁判に対して、親や経営者としてはどうすれば良いのだと言う不満があります。
元々一家あるいは組織の構成員が何か不祥事を起こせば、その組織全体で責任を負うのは我が国古代からの法理でしたが、西洋近代の個人責任の法理によれば、子供がやった責任を親が負う・・従業員がやったことを別の人格者である経営者に負わせるのは論理的に無理があります。
しかも意思責任を問う近代法理によれば、その事件に直接関係していない親や経営者の責任を等には、何らかの、「故意または過失責任」を認定(擬製)してその責任を問わざる得ませんので、以下のような監督責任を問う法律になっています。
そこで裁判所は、経営者や親が「監督責任」を怠った・・と認定して企業等に責任を負わせる判決をするのですが、親や経営者・企業担当者に対する固有の責任認定・・過失があると言うだけで・・あなたが「悪かった」と端的には言ってませんが、「過失があるから責任がある」と言われている方はあなたが悪かったと言われているような感じを受けます。
親だから・・親方だから、仕事中の事故についてはあなたが、責任を取ってくれと言われた方が納得し易いのです。

民法
(責任無能力者の監督義務者等の責任)
第七百十四条  前二条の規定により責任無能力者がその責任を負わない場合において、その責任無能力者を監督する法定の義務を負う者は、その責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、監督義務者がその義務を怠らなかったとき、又はその義務を怠らなくても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
2  監督義務者に代わって責任無能力者を監督する者も、前項の責任を負う。
(使用者等の責任)
第七百十五条  ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
2  使用者に代わって事業を監督する者も、前項の責任を負う。
3  前二項の規定は、使用者又は監督者から被用者に対する求償権の行使を妨げない。
動物の占有者等の責任)
第七百十八条  動物の占有者は、その動物が他人に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、動物の種類及び性質に従い相当の注意をもってその管理をしたときは、この限りでない。
2  占有者に代わって動物を管理する者も、前項の責任を負う。

自分は親として、使用者として子供や従業員の不始末に対して責任を負う必要があるのは分るが、自分に過失があり、悪いことをした本人であるかのように言われると釈然としない国民が大多数です。
車で言えば、国が免許を与えているのを信用して運転手を雇っているのに、経営者が何故運転手の運転ミス・交通事故について「過失」責任を持つのだと言う意見もあります。
要は「あなたが悪い」と言うのではなく、
「従業員・あなたの子供の方が悪くてこう言う結果が出れば、組織体として、親としての責任を取るべきでしょう」
と言う私のような弁護士が説得をすると、古代からの日本社会の価値観自体を否定する人は滅多にないので、(自分が何か悪いことしたかのような裁判には納得していませんが)私の説明には納得して引き下がっているに過ぎません。

共産党支配下の人民1(天安門事件)

中国では政府発表は政権維持のための宣伝機関と位置付けられている以上は、不都合なデータを改ざん捏造するだけではなく、あることないことを宣伝するのも当然となります。
一般の広告の場合、あまりにも事実に反する広告をすると消費者が信用しなくなるので、逆効果を恐れて出来るだけ事実に反しないようにする努力をします。
中国政府の場合、専制支配の延長で言論の自由がないので、「馬を見てこれを鹿と言え」と嘘でも臆面なく強制できると信じている体質がそのまま海外でも出て来ます。
韓国の現代自動車があろうことか燃費性能を大幅に誤摩化して宣伝していたことが米国で明るみに出ましたが、韓国や中国ではこう言うことが仮に発覚してもどうってことのない社会・・実際米国では、売れ行き激減ですが、中国や韓国では何の問題にもなっていません・・であるから成り立つのです。
政府発表でさえ実態と大幅にかけ離れている以上は、広告宣伝は元々嘘で当たり前・・嘘と分って何で驚くの?というのが、中韓両国民の反応でしょう。
話を戻しますと、中国では今でも国内言論統制が厳しいのでどんな虚偽意見も弾圧もまかり通る社会ですが、海外との人材交流が自由化されている以上は外国人のウオッチを遮断できない時代になっている点が解放前と後の大きな違いです。
この違いが天安門事件での国際反応の激しさで、中国政府としていつものとおりに普通に鎮圧したつもりだったでしょうが、世界標準から見るとその粗暴さに驚きました。
何しろ、学生運動に対し戦車出動→実弾発砲したのですから、自国民に対してこんなことやるの?と野蛮さに世界中が度肝を抜かれてしまいました。
中共政府にとっての人民は、(何故か国民と翻訳しない理由です)愛すべき国民ではなく、統治・搾取の対象であり、イザとなれば世界で最も政権転覆に走る可能性のある身近で危険な敵と言う認識です。
言わば西欧諸国が植民地支配していたときのアジアやアフリカの現地人の扱いと同じです。
政治体制としては植民地の人民がイギリス等本国の政治に参加する権利がゼロである点は中国人民が政治に参加できないのと同じです。
中共政府にとっては人民は欧米にとって植民地の現地人同様に支配の対象である以上は、敵対する・・いつ政権転覆運動に走るかもしれない最大の仮想的の関係です(歴代王朝はいつも人民の蜂起によって倒壊してきました)から、身近にいる分、世界中で最も警戒すべき相手です。
学生運動であれ反政府運動であれ、刃向かうもの刃向かう恐れのあるものを徹底して弾圧するのは古来からの中国地域のやり方です。
中国地域では、漢楚の興亡時代に章邯が漢中平野に進出して秦軍を破ったときに20万人を抗(穴埋め)したと言われるように、相手が弱いとなれば温情などかける余地がなく叩くべきときには、徹底して叩く・・皆殺しにすると言うポリシーで容赦なく行動するのは古来から当たり前の行動です。
章邯は抗穴埋めしたことで有名ですが、前漢末の騒乱には結果的に人口が3分の1に減り、後漢の終わりの三国志の時代には人口が約6分の1に減少したと言われていることからも分るように、騒乱時代に戦闘で勝つ度に相手をほぼ皆殺しにして来た習慣であるからこそ、こんな大変なことになるのです。
日本は戦国時代にも人口が増え続け、(明治維新でも大した騒乱にはなりませんでしたし)社会文化がジリジリと進展し続け安土桃山文化が花開いたのに対して、中国地域では王朝崩壊の都度、1からやり直しになる理由もこにあるでしょう。
モンゴル襲来時の壱岐・対馬その他での被占領地での現地住民に対する残酷・残虐な仕打ちは、今も日本人の記憶に新しいところですし、日中戦争発端の大きな切っ掛けになった中国での通州事件での日本人に対するむごたらしい行為は(日本人は多いに怒りました)今では報道写真に残っていますので、戦後秩序が公平に見直される時代が来れば、中国人がナチス以上に残虐な行為をしていた事件として世界歴史に記憶されて行くべきでしょう。
これは近代に入ってからの事件ですから、今でも、もしも日本の一部でも占領されるとそこの住民は悲惨・・残虐な仕打ちを受けることは想像に難くありません。

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