我が国の文化受入れ態度1

ドイツの最近の対中国接近等の動きを見ると、(昨日紹介した鳩山政権同様に)充分に考えないで目先の損得・国民受けを狙ってあわてて行動しているような印象です。
ドイツは長い中世時代には領邦国家であった関係で地域間競争があった点は我が国と同様で、じっくり社会の成熟と文化を育んでいたので、その点が強みです。
英仏では王権が強かったので早くから、国家一丸として時代の進運に逸早く対応出来る・・重商主義政策に邁進出来た優位性がありました。
歴史教育では、ナポレンによる民族国家成立を理由にしていますが、その前のルイ大陽王の時代は民族国家成立前ですから、その成功は中央集権制度確立の成果によると言うべきです。
その代わり、中央集権制の宿命で国内競争が弱いので、国内的に文化成熟しなかった(フランスの得意とするものの多くはイタリア文化のパクリです)と思われます。
日本では庶民相手に浮世絵や歌舞伎、俳句、落語その他の芸術が花開いているのに、西洋では、王侯貴族相手の肖像画程度しか芸術や音楽がなかった原因です。
統一の遅れていたイタリアでは、今でもフェラーリや料理文化などの各種の技術があるように、ドイツでも、領邦制が国際展開が遅れる関係であった代わりに、国内諸候の領土主権が強固であった分、競合する技術や文化発達の歴史を持っていました。
これがドイツイタリア共通に音楽が高度に発達し各種技術力が高い所以でしょう。
ドイツは封建制のために国内諸候に対する対応に忙殺されていた外に、西洋の端っこ・田舎にいたために都会人としての気配りや国際情勢対応能力が身に付いていない点は宿命的です。
(・・このために宗教戦争の舞台にされて外国軍がドイツで入り乱れて30年も戦うようになったなど)
田舎者のままで機敏な国際対応能力が劣ってはいますが、同じ国際体制が続くと、国内技術・文化の厚みが底力を発揮するので、ドイツが地力を発揮する前に作られた国際秩序がドイツの底力と合わなくなってきます。
第一次、第二次世界大戦も大きな目で見れば、実力に比例した国際交渉能力不足を武力で解決しようとした結果とも言えます。
この弊害克服のために、EUは、設立当初からドイツの意見が入って作られた初の国際制度ですが、今回南欧諸国に対するEU処理の混乱は、田舎者のドイツが牛耳っているので、うまく行かない面があると思ってみています。
我が国は、ドイツ同様の封建制でしたから、各地領主ごとの経済(特産品)競争があり国際経済組織としての為替制度など発達していたほか、いろんな文化が西洋よりも発達していました。
明治維新の大変革時でも我が国は、当時圧倒的覇権国家だった英米の統治方式をあわててそのまま取り入れませんでした。
古代佛教や律令制の取り入れや儒教の取り入れ、キリスト教の受入れ・・等々我が国はその都度智恵を働かせて慎重に対応して日本人の精神(和魂洋才)を大事にして来たのですから、本当に祖先は偉かったと思います。
左翼・人権派系は(兎も角)「世界の流行に乗り遅れるな」今では国際人権委員会の動きがどうのと言う主張・・思考方式が普通です。
英米思想の根本=ユダヤ系の金融資本主義であり、「宣伝に勝ちさえすれば良い方式」ですが、今はアメリカ支配だからとそれ一色で進みたいのが日本の文化人です。
中韓では、国を挙げてこれが良いと思ったら一直線に全面取り入れですから改革は早く(韓国ではアメリカ支配になるとすぐにキリスト教徒が多数になっていますし・法制度の改革も急激です)「金儲けにさえなれば何でも良い」「噓でも何でも宣伝戦に勝ちさえすれば良い」と言う思想そのままに邁進している様子です。
韓国は「アメリカの力が落ちて中国の時代が来そうだ」となれば中国寄りに露骨に舵を切ります。
中国政府の主導するアジアインフラ銀行に乗り遅れるな・・政府の判断ミスだと言う政府批判が一時マスコミを賑わせましたが、ネット発信による批判によって、すぐにトーンダウンして来ました。
ネットの発達によって、中韓寄りのマスコミによる世論誘導力(何故誘導したいのか不思議ですが・・)が格段に落ちて来たことが分ります。
明治維新直後・自由民権派によるヤイノヤイノの憲法制定要求には、政府は拙速に応じませんでした。
20年近くもかけてじっくり市町村制度など地方制度を整備しながら、世界の実情を調査研究した上で、(帝国憲法は明治22年発布です)国情が似ている上に、実際には長い歴史経過を見るとドイツ諸国の方が文化その他の基礎が進んでいると見抜いた我が国は、法制度や医学・文化学問の基本をドイツから学ぶことにした智恵と似ています。
緊急に決めるべきことと、充分な準備時間をかけて慎重にやるべきことの区別をしてこそ大人の智恵と言うものでしょう。

植民地化と民族文化喪失2

国内産業が疲弊すると職場が少なくなり、浮浪者が溢れ、することがない人が増えれば民心が無気力になります。
世界中が植民地と植民地を持つ国に二分化されて、際限ない収奪が進むと被植民地の産業構造の破壊が続く結果、世界中で強国と弱小国・民族格差・・文化の差が開く一方になりました。
植民地化によって関税等の防壁のない社会になると、イギリス・フランス等からの輸入攻勢で被植民地の事業主が倒産し経営者が夜逃げするような事態が増えて、その子世代では食うに困ります。
更にそのまた子の代には高度または中級の教育を受けられる人が少数化し、独立時代に中級教育を受けていた階層の多くが低級教育しか受けられなくなり、低レベル教育を受けていた階層は何らの教育も受けれないようになって行きます。
千葉で言えば地元商店街で酒屋や数カ所のレストランなど経営していた人が店舗を閉鎖して、入れ替わりに非正規系のファーストフード店長やコンビニ店長やマクドナルドの店長が赴任して来る社会になれば、地域社会の脆弱化は明らかです。
これが4〜5世代続くと地元文化にお金を出す余裕のある人が減り、文化人の比率が減り文盲中心社会になってしまう・・・・国全体が貧しくなれば文化の担い手(文化に金を使う人)が減り教育レベルが下がります・・・。
英仏企業との競争に敗れて事業倒産が増えて英仏企業の輸入案内人になった企業だけが生き残り、英仏等に抵抗して滅ぼされる地元豪族の中にあって、支配国とうまくやった支配に協力した豪族だけが生き残るのでは地元文化の担い手が減る一方です。
生き残った少数エリートの子息の多くは、(元々迎合主義者の子息です)宗主国の英仏等の首都へ留学し、その国の文化をまぶしいような気で受入れて帰国するのが普通です。
シンガポール国家創設者の李クアンユーが日経新聞に書いた「私の履歴書」にこの辺の気持ちが詳しく出ています。
土俗的なあか抜けない文化や踊りなどよりも、西洋のクラシック音楽やバレーやオペラをどんなに素晴らしいか・古くから地元にある酒やお菓子よりも、パリで飲んだワインやケーキが素晴らしいと自慢するのが普通です。
我が国でも横文字を縦にすれば博士になれる時代が長く続きましたし、私が成人したころは、何かあると「欧米では◯◯」としたり顔で講釈するテレビ番組が普通でした。
植民地争奪戦争は経済的には市場争奪戦争であり、支配服従関係に着目すれば帝国主義戦争であり、民族感情を基底に持って戦い侵略する結果、植民地の文化が劣化し続けることと相俟って人種差別意識を生み出し、世界中に民族格差を拡大する仕掛けだったことになります。
民族意識強調の時代に成立したアメリカ合衆国は、合衆国という我が国の名称にもかかわらず(正確にはUSAですから、合衆国ではありません)世界で最も人種別意識が強く、且つ実際に黒人に対する恐るべき人道差別をして来た国であるのは時代の申し子であるからです。
民族意識強調の最後の戦いを挑んだナチスが、ユダヤ人という標的を作ったのもその結果・必然であったと言えます。
日本の場合、支配地でもドンドン現地人教育に資金をつぎ込んでいたことから分るように人種差別目的ではありませんでした。
元々欧米の弱肉強食論理による餌食にならないために、アジアで団結しようと言うのが明治維新以来の国是ですから、協力者を増やすための国力伸張でしたから意味が違っています。
アメリカや中国が日本的自他愛・献身の精神を理解できないので、人道など問題にしない自分たちのどん欲な価値観で、日本も同じことをした筈と言う信念で悪宣伝をしたがるのです。
中韓やアメリカは、全くのデッチ上げを主張している自覚すらもないのではないでしょうか?

植民地化と民族文化喪失1

全国展開の大手百貨店やスーパー・コンビニやファーストフード店居酒屋等に地元商店等が入れ替わって行きますと、昔の地元小規模店舗に比べて設備も売上も何倍もありますが、オーナーと違い支店長クラスはまじめなばかりですし、大した経済力もないので、いろんなことに手を出さないので、もめ事も少なく、我々弁護士の顧客にもなりません。
我田引水のキライがありますが、雑多な弁護士需要のなくなって行くモノカルチャー社会は脆弱です。
千葉市で言えば、千葉市内を通るJR京葉線と総武線沿線の違いです。
総武線沿線は古くからの鉄道沿線ですので、中小零細企業がひしめき種々雑多な働く場があります。
これに比較して京葉線開通は出来てまだ3十年前後ですから、東京通勤向けの大規模な団地やマンション群が中心ですので、子育てが終わった主婦等の近場の働く場が少ないのが難点です。
海浜幕張駅周辺も大手企業の事務棟が職場の基本です。
我が家では、一定の場所に毎年数百株のビオラなどまとめて植えているのですが、そうするとその草花に適合した特定種のみの昆虫しか発生しません。
雑草の草むらや雑木林の場合多種類の昆虫が生息でき、ひいてはそれを餌とする多種類の中間種の動物や鳥が生活できます。
植民地経済はいわゆるプランテーション農業が知られているようにモノカルチャー社会になり勝ちです。
ウクライナ危機で世界に知られるようになりましたが、ソ連時代に中央の計画でココは鉄鋼業ココは農業と地域別に割り振られていたので、ウクライナ東部が工業化が進んでいて(チェルノブイリ原発もウクライナにありました)西部は農業地域でこれと言った産業がないし、燃料は別の国からの供給に100%頼る構造になています。
抵抗するなら燃料供給を止めると言われれば、国内産業全て息の根が止まる仕組みです。
東京の大手企業本社に勤めるサラリーマン用の団地では彼らが何らかの事情で失職し中小企業に再就職しようとすると、地元には中小企業がなくて大変です。
中小零細企業に就職するには、通勤時間がかかり過ぎると割に合わなくなります。
(採用側も通勤費を何万円も出したがりませんし、新幹線通勤などは論外です)
失職しなくとも子育ての終わった主婦が再稼働しようとすると多くは中小企業への再就職ですが、(東京まで行くには交通費を出してくれないと就職できません)この働き場があまりありません。
この辺の構造的弱点は、多摩ニュータウン、千葉ニュータウンその他全国のニュータウン共通の問題点です。
英仏蘭等の欧米植民地と本国とは陸続きではないので、ウクライナのようにパイプラインの元栓をひねれば瞬時に息の根が止まるほどの極端な支配構造ではありません。
それでもモノカルチャーになって数世紀も経過すると抵抗運動の結果イキナリ独立しても重層的産業構造・・技術経験がないので(仮にコーヒーしか作ってない場合イキナリ外の作物に転換できないので)食糧を売ってくれなくなると大変なことになります。
零細中小企業の密集している大田区下町(京急線沿線)の方が国際競争が激しくなっても生き残りが期待できるのに対し、地方の特定大手企業進出に頼る企業城下町がその企業が撤退すると何も残らない脆弱性を抱えているのと同じです。
欧米のプランテーション農業の強制やソ連の地域別分業政策は、言わば半永久的に支配国から完全独立できないようにしてしまう奥深い支配の仕組みでした。
千葉の地元文化と言っても東京の真似程度の木更津甚句(師匠弁護士の芸者を上げた宴席に陪席して何回も聞かされました)程度でしかないので、地元文化の顧客がいなくなって、地元文化がなくなってしまっても東京で存続する限り民族としては困りません。
しかし、国単位で先進国に隷属すると民族や地域全体の文化の担い手がなくなり、欧米文化の下請けになって数世代経過すると民族のアイディンティーが喪失してしまいます。
日本に古来からの伝統文化がそのまま残っているのは、異民族支配を受けたことがないご先祖の努力によります。

文化受容力と国民レベル4

江戸時代に文楽や歌舞伎、浮き世絵が盛んになり俳句が盛んになって、端唄小唄の師匠でさえこれを職業として食って行け、相撲興行や落語寄席等が維持出来たのはそれを維持するに足るファンがそこにいたことの証拠です。
オリンピックやサッカーのワールドカップ、ディズニーランド等の運営を順調にやっていけるのは、真に豊かな国に限られるのは、外国からの少数の客よりは地元民の大量集客・リピーター確保の成否に左右されるからです。
中国の新幹線もリピーターがいないと維持出来ないので、一時的にサクラに切符を配って乗客を確保する国威発揚形式では続きません。
その地の人・民衆がどれだけ自発的に集まって各種の興業・イベントを(自分の金で)支えているかが、その国の民度レベルを計るには重要です。
奥の細道を支えたのは、行く先々で芭蕉を宗匠として迎え入れて歓待し、(勿論相応の謝礼を支払います)句会を催すに足る・文化人が多くいて、しかも財力があったことを表しています。
現代でも有名美術展等は大都会でしか開催出来ませんが、奥の細道のすごさは、華やかな都会だけを歩いたのではなく、農村(田舎)から農村(田舎)への旅でありながら、農村地帯でも相応のファンや財力があって、点と点を繋いだ旅が出来たことにあります。
古代の孔子孟子の旅は、各地君主が顧客でしたし、言わばコンサル業者でした。
中国歴代の漢詩文は科挙制度と結びついて成り立っていただけで日本のように万葉集の時代から庶民が文化を受容して下支えして来たものではありません。
文化人がひとたび官界から浪人してしまえば杜甫のように食いはぐれの人生しかなく、これの受入れ下地がなかったのです。
日本の大老酒井家の次男酒井抱一が絵師になっても食って行けたし、芭蕉も武士をやめて俳人で独立しています。
西洋の芸術家・・ミケランジェロその他の芸術家は王侯貴族のパトロンがあって成り立っていたのですが、日本の絵師・茶道・華道や踊りその他芸術家は特定パトロンがなくとも民間需要で家業としてやってやって行けた社会です。
平賀源内や剣術家も独立して道場主で食って行くなど、世間・懐が大きかったのです.
江戸時代日本のすごさは、庶民大衆(江戸の豪商・中間層だけではなく)が各種文化を楽しんでいた・・担い手であったことにあります。
浮世絵や錦絵その他が、木版画によって大量に印刷が出来たことは、それだけ購買層が広く需要が盛んであったことになります。
今浮世絵の展覧会が盛んであることと、浮世絵が今の社会で支持されているかは別問題ですし、各地のお祭りが盛んでもその経済基盤が観光収入(他地域から来た)によるのであれば、その地域の力ではありません。
中国の韓愈など有名人の碑文などを見に行く観光客が多くいても、その碑のあるところの今の民衆が漢詩文に優れている訳でもありません。
これに比べて我が国では、今でも俳句や川柳人口が多いのは、ご同慶の至りです。
過去の遺物が多くあれば良いのではなく、その遺物・・貴重な歴史経験を活かして現在人がどれだけ文化的なレベルを維持しているかこそが重要です。
我が国では古くからの絵巻物や絵草紙類・・浮世絵その他の普及が今のアニメや漫画・コミックの隆盛に繋がっていることが明らかです。
江戸時代の細工物の優秀さが、現在の精密工業の隆盛に繋がっていますし、江戸時代の洗練された美意識が現在の洗練された日本人に繋がっています。
そのまた基礎には美しい自然があるでしょう。
東京のように現在進行形の文化最先端事象を見たくて来る人・・あるいは現在最先端社会の基礎となる過去の歴史を知りたくて来る人が多いのは意味があります・・。
トヨタ自動車等の現役世界企業の工場見学も意味がありますが、現在とあまり繋がらない過去の遺跡だけを売り物・見せ物にしても意味がありません。
いわゆるお上りさんが来る町は意味があるし健全ですが、過去の栄光だけを見に来る人にぶら下がって生きて行く社会は不健全です。
南米の遺跡やピラミッド見物などはマサにその典型ですし、中国地域の長い歴史も王朝交代の都度断絶して来たので、石碑があっても歴史文化が民衆に共同体験されていないために現在人と無関係にペルーの遺跡同様に遺物として存在しているだけです。

文化受容力と国民レベル(GDP)3

企業の決算とは違い中国の公式統計の場合、国家のGDPは地方政府のデータの積み上げですから、これが地方幹部の成績判定材料と合致しているので成果上乗せ報告・・粉飾への誘惑が強くなります。
彼らが自分の懐から税を払う関係ではないので、出来るだけ多めに申告したい誘惑のみが強く、これを抑止するべき制度がありません。
(虚偽報告罪などがあるでしょうが・・政敵となって狙われて粛清の対象となった時に機能するだけで平時には多分機能していないでしょう)
中国のGDP発表が電力消費量の推移と合致していないと指摘があると、次から電力消費量推移統計の発表がなくなったり、政府発表のGDP成長率に合わせて発表するようになる・・今年で言えば、相手国の対中国輸入が減少しているのに中国発表ではその10倍の単位で輸出が増えているなどの矛盾を指摘されていましたが、これに対して今年の5〜6月ころには、輸出代金に偽装した違法外資流入があると(・・政府が嘘の発表しているのではないと言い訳)発表されていました。
要するに中国の貿易黒字というのはまるで当てにならないことを、理由は別として政府自身が認めたのです。
今年に入って貨物輸送量の推移が前年比零%〜マイナスなのに、何故7%も成長しているの?というのが最近の指摘がされていますが、そうなると次から貨物輸送量の統計も変えて来たり発表しなくなるでしょう。
このように中国政府統計はどこかの統計との矛盾を指摘すると次ぎからその統計も変えて来るので、いたちごっこと言うか際限がありません。
GDPや輸出入統計の発表は虚偽でもその国に対する制裁がないので、やりたい放題です。
中国では、このように毎年実態以上に高成長の数字を積み上げて行って(嘘の上塗りを一回やると収拾がつかなくなるのはどこでも同じです)⒉0年にはアメリカを追い越すと豪語して喜んでいるのですから、手に負えません。
実際には中国の経済規模はまだせいぜいまだ日本の6〜8割程度ではないでしょうか?
虚偽データの発表ですから、毎年全て計画どおりに達成して行くのでしょうが、嘘の上塗りをやめられない・・一旦豪語してしまった以上は国民が期待しているので大変です。
防空識別圏設定や領土紛争は、対外的にまだ弱いのに強硬態度をとらないと国内的に持たないのでいろんな無理な発言をするしかなくて、世界中から総スカンを食らっている状態です。
虚偽の景気の良い発表が続いているので、(国民はその気になっているし・・)実態との乖離に耐えられなくなって、いつ経済破綻→政権崩壊するかと言うところに関心が移ってきました。
企業トップに見栄えが良いように下部組織から上がって来る=加工されているデータだけに頼らずに、経営者がくまなく工場や店舗などの現場を見て回るのはこのためです。
政治家も現地調査や視察の重要性は(視察にあわせて綺麗に掃除したりいろんな準備をするでしょうが、それでもにじみ出る実態・雰囲気を隠し切れないものです・・)昔も今も変わりません。
国際国力比較には政府データの流用によらずに、庶民レベルがどの水準にあるか・・裏道を歩き庶民の生活実態の比較によって、本当の国の水準が分ります。
社会の道徳レベルを見るには、トップレベル道徳家の意見の優劣を競ってもどちらも立派なことを言うに決まっていますので殆ど意味がありません。
庶民の道義心レベルが、どこにあるか庶民レベルこそが重要です。
国の表玄関だけならば、北朝鮮のような貧窮国でも立派にし掃除することが出来ます。
庶民の住んでいる裏どおりがどうなっているかこそ、国のレベルを表すのです。
この意味で、Published February 14, 2013にでトップ競争よりは「最低レベル競争の有用性5(民族のDNA2)」のテーマで書いたことがあります。
裏道・庶民の生活水準が比較対象になるからと言っても、国内くまなく裏道まで綺麗にするにはお金がかかり過ぎます。
国威発揚のためには本気で庶民レルマで豊かにするしかない・・テスト問題だけ特訓するような狡いことは出来ないでしょう。

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