各種反対〜政治家の責任2(集団自衛権1)

離島奪還作戦でみれば、日本の戦闘機能力が数%高く飛行士の能力が1割高いとしても、現場で中国軍機100機単位に対して日本機2〜3機の比率ではまともな戦いになりません。
近くに日本自衛隊の発進基地が必須ですし、日本単独では対中総力戦で数の上では勝てないので、米軍協力が不可欠であることも常識です。
集団自衛権反対運動はこの協力関係遮断が主目的であることが、昨日引用した目標で浮きりになっています。
要するに「中国が実力侵攻してきたら抵抗するな!」いう主張を別の表現にしただけのように見えます。
従来社会党が唱えていた非武装平和論は社会党政権時に現実的でないとして?自衛隊違憲論や安保条約違憲論を否定していたと思いますので、今更持ち出しませんが実際の抵抗をさせないための事実上の公約破り・・運動のように見えます。
社会党政権で何が変わったかはっきり記憶していないので、念のために検索して見ました。
http://www.kamogawa.co.jp/~hensyutyo_bouken/?p=445

社会党が凋落した原因
2013年6月7日
おもに左翼陣営からの指摘だが、自衛隊と安保を容認したのが決定打だったということだ。これは、ある意味で言い当てているが、別の意味ではまったく説得力に欠ける。
自衛隊と安保にきびしく反対する政党は伸びるかというと、まったく逆である。だって、国民の8割以上が自衛隊と安保を認めていて、自衛隊の縮小(廃止ではなく)を求める人が数パーセントしかいない状況において、尖閣で何が起ころうがが、北朝鮮のミサイルがどこに向かおうが、どんな場合も絶対に自衛隊を使ってはなりませんという立場を表明していたら、どんどん支持を減らすのは目に見えている。選挙で数パーセントを超えることはできない。単線的な見方しかできないと、社会党の凋落から学ぶことができない。

昨日紹介した論文?離島占拠された場合の奪還演習を「戦争法の先取り」の事例と主張するのを見れば、「不法占拠されれば、されっぱなしが良いし、自国が侵略されたら侵略軍に服従する」主張のように見える・・専守防衛も反対という旧社会党が方針変更する前の言い換えではないでしょうか?
要するに社会党支持層は表向き合憲論に変更しながら内実はまだ非武装平和論によっていて公約違反をしているのです。
こういう平和論は「何の反撃もないなら・・」と結果的に周辺国の侵攻誘惑を誘うことになり、却って無用心という意見が普通ではないでしょうか?
無防備の方が安全というならば、「女性の深夜一人歩きの方が安全」「幼児の一人歩きの方が誘拐されない」というのでしょうか?
なまじ大人付き添いの方が危ないということになりそうです。
警備するから襲撃が増えるということでしょうから、政府要人警備ももちろん不要でしょうこういう論法が合理的であるならば、自宅に鍵をかける必要も警察も不要です。
この論法が通らなくなったので、集団自衛権反対というのでしょうが、各種政策の必要があって行った国会議決(国民意思決定)後にこれに協力せずに、なお陰に陽に事実上妨害に精出してきた「何でも反対運動」と同じ手法です。
こういう視点で沖縄基地騒動を見直すと、集団自衛行動・米軍応援が阻止し切れないとした場合の第二段階戦略として、米軍基地縮小弱体化がその視野に入っているように感じる人が多くなるでしょう。
民主党は政権時代に普天間基地の辺野古移設容認に舵を切った以上、野党になったからといって今更表立って反対できないものの、裏で画策しているような印象です。

枝野幸男 民主党 普天間基地は「最低でも県外」→「やっぱり辺野古しかない」→「や、やっぱり辺野古移設反対」立憲民主党 玉城デニー支援

枝野幸男 民主党 普天間基地は「最低でも県外」→「やっぱり辺野古しかない」→「や、やっぱり辺野古移設反対」立憲民主党 玉城デニー支援

政治家は政党さえ変えればその前の行動が全部免責されるのでしょうか?
(成田空港開設反対運動では軍事基地に転用されるという反対論を地元弁護士から私は当時説明されました・集団自衛権では国民が徴兵され外国の戦場に駆り出されるかのような不安を煽る主張中心でしたし、軍国主義化反対とか憲法違反等の内容空疎な反対ばかりで反対し、国会ではこういう場合どうする式の長時間ネチネチ食い下がりで時間を稼ぐ(日本のために必要な政策実現妨害)のが国会議員の仕事のようなイメージが定着しています。
日本共産党赤旗の記事です。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-07-08/2014070801_01_1.html

長崎新聞6日付は、日本平和委員会の小泉親司理事を迎えて5日に開かれた「ながさき平和委員会」の講演を小泉氏の写真入りで大きく紹介。小泉氏が「今後は行使に関する法案の成立を阻止する運動が大事」と強調したと伝えています。
琉球新報6日付は県高教組の定期大会(4日)で、「先生、僕たち戦争に行かないといけないの?」と生徒たちが不安げに質問するようになったとの報告が現場の教諭たちから相次いだことを報じました。「こんなことは初めてだ」との教諭の声を伝え、「これからどうすれば良いの? 閣議決定で決まったらもう変えられないの?」という生徒の問いに、この教諭は「20歳になったら君たちには投票権がある。どういう政治をしてほしいか考え、そして選挙に行くことだ」と語ったと報じています。

国会は法案是非を論じるよりは阻止が目的であり、子供らが「戦争に行かねばならない」と誰からか宣伝されて行動している様子が窺われる報道です。
もしも侵略された領土奪還訓練をしていることを「戦争法の先取り行為」と宣伝しているだけであれば、これを聞いただけで「先生、僕たち戦争に行かないといけないの?」と生徒たちが不安げに質問するようにな」るでしょうか?
そういう飛躍的理解をする若者が皆無とは言わないまでも、そういうレベルの若者は10万人に1人もいるかいないかではないでしょうか?
もしかしたら、誤解する子供のレベルの問題ではなく、文字にならないところで法律内容を捻じ曲げて宣伝しているのを、そのまま信じ込む子供がいないとは限りませんが、荒唐無稽な宣伝を安易に信じ込む子供のレベルがやはり問題です。
嘘を言われたので信じ込んだという事件(振り込め詐欺など)がありますが、嘘も程度問題であってみるからに詐欺っぽい話にホイホイと乗る人はやはりもともと合理的チェックできないレベル人たちです。
(オレオレ詐欺や振り込め被害が能力のかなり落ちた高齢者にほぼ限定されているように、現役で非合理な意見を安易に信じ込む人はよほどの例外・数%しかいないという社会党に関する上記引用記事の結論でしょう)
理解力が弱く非合理な宣伝を安易に信じ込む人と、もともと本気で非武装論が良いと信じ込んで来た人を合わせても、上記引用記事の通り今どきそういうレベルの人は国民の数%いるかいないかではないでしょうか。

各種反対〜政治家の責任1

政策提案のうち何が重要かの方向が決まった後も、1分で5分でも政策実現を遅れさせるための議事妨害に一生懸命というのではその政治家が国家のために活動してきたかの疑問が生じます。
何が優先政策課題かを決めるための議論する権利義務と、どちらの推進する政策が多数の支持を受けるかの方向性が決まったのちの議決を先延ばし・抵抗するための議論のための議論にこだわるのとは次元が違います。
企業等で一定方向のプロジェクトが決まればその実現に向けてみんなで各方面に手を尽くすのが普通です。
自分の意見が通らなかったからと横を向いて協力しないようなことをしていると信用を無くすので率先して動くの一般的です。
国家にとって必要な政策を決めた以上は、国会議員を含めてその実現に向けて動き出すべきでしょう。
政策実現の遅れは、国家にとってそれだけの損失です。
多数の意見で「これが良い」と決まった政策実現を1分でも4分でも遅れさせるのに必死になっている人たちは、国家損失効果拡大を狙っていることになります。
もちろん野党としては政策の方向性に反対しないが、「その実現には最低こういうことを詰めておく必要があるという問題点を指摘しているだけ」という場合もあるでしょうが、それはまず方向性確認後法案では賛成し、政省令等の周辺事情の整備を求める次段階の議論であるべきでしょう。
企業でも多くの新プロジェクトは試行錯誤しながら修正を重ねて進めていくのが原則で、前もって何もかも見通せるものではありません。
今朝の日経新聞2pでは千葉県野田市の小4児童虐待死事件について、児童福祉司の対応について、傷害等の客観資料をもとに機械的に保護開始するのは難しくないが保護解除の見極めには5年程度の経験が標準的に必要であり、困難事案では10年程の経験がないと対応困難な事案が増えているとしたうえで、現在児童福祉司で10年以上経験者は全体の16%しかなく、全体の平均経験年数が3年程度しかないという実態が紹介されています。
他方で10年前に比べて相談が10年で3倍に増えている他、従来は母親の相談対応が中心であったのが、今回の事件のように父親による虐待の場合、家庭訪問しても父親が勤務等で不在のことが多く、直接面談できないことが多く実態把握が難しくなっている側面もあるようです。
児童相談所設置等の整備・大都市での設置が始まってからまだそれほど普及していない状態です。
私の実務経験では少年事件対応が主目的で県単位で(家庭裁判所本庁のある県庁所在地)1箇所あるかないかでした・・この点はうろ覚えです)まだ法の期待する設置が実現出来ていない自治体が多い現状を最近新聞だったかで読んだばかりです。
人材を急速に育成できないので以下の通り設置義務化ではなく、「設置しても良い」という程度から始まっている現状です。
https://kotobank.jp/word/%E5%85%90%E7%AB%A5%E7%9B%B8%E8%AB%87%E6%89%80-74428

2006年政令で指定された中核市なども児童相談所を設置できるようになった。2016年東京都の 23特別区に設置の権限が与えられ,中核市にも設置を促すこととされた。2015年現在,全国の施設数は 208。(→児童福祉)

今まで児童相談所が存在しなかった市が設置する場合、経験者を他所から引き抜くしかないのですが、こうした場合経験者が少ないから児童相談所増設置に反対するのではなく、まず相談所の任意増設から始めて人材を育成(需要に応じて経験者が増えていくのを期待)しながら・・走りながら考えて行くのが社会の暗黙の合意でしょう。
政治的立場による違いのない法案は、こういう方式が普通なのに、政党の主義主張に絡むもの・多くは国家社会にとって重要案件に限って・具体的対案もなく反対→実質的議事妨害が先行していましたが、社会党が政権を取れば自衛隊合憲論に修正し、長良川だったかのダムの工事を推し進めたことが知られています。
民主党政権ではそれまでの消費税反対論と正反対の消費税増税を決定し、沖縄の辺野古移設も認めた記憶です。
政権を取ればいきなり反対から推進に変わる結果を見れば、反対論者は日本のために何が良いかの議論をしてきたのではなく、「与党の政策には反対」という基準で反対しているように理解する人が多いのではないでしょう。
最近では集団自衛権反対運動や改憲反対論をネット情報で見ると「安倍政権だから反対」という点で共通性があるとネット発信者自身が自賛しているものが多く見受けられます。
以下はアジビラと違い表現が抑制されていますが、それでも第一目標が安倍政権打倒にあることが事実上宣言されています。
http://www.mdsweb.jp/doc/article/151011article03.pdf

論説民主主義的社会主義No.3
佐藤和義高瀬晴久山川よしやす
4.今後いかに闘うかこれからの闘いの方針を提案しておこう。
まず第1に、戦争法廃止、安倍内閣打倒の闘いがある。総がかり行動実行委員会は毎月19日の行動を提起し、戦争法廃止・安倍内閣打倒の闘いを継続することとしている。また、戦争法廃止署名を提起している。
第2に、戦争法の施行を阻止していかねばならない。2016年3月の戦争法施行に向けて、表5に示されるように政府は準備を進めていこうとしている。すでに自衛隊は戦争法を先取りする軍事演習を行なっている。2015年7月5日から21日までの米豪合同軍事演習「タリスマンセーバー2015」に自衛隊が初めて参加し、離島奪還上陸訓練を行なった。

第一目標が安倍政権打倒目的のようですし、
第二目標を見ると喫緊の課題になっている(中国によって尖閣諸島が実力占領された場合の)離島奪還演習を戦争法の実例に挙げていることからすれば、彼らのいう「戦争法」を許すな」というのは、離島を占領された場合、奪還行為をすることを「戦争法」と評価宣伝しているイメージが伝わります。
戦争法反対で盛りがっている人の内どれだけのひとが、尖閣諸島防衛反対運動と理解しているのでしょうか?
中国の公船と称する事実上中国軍によって連日行われている領海侵犯行為の現状で、ある日突然中国軍による上陸が行われるのを防ぐ手段がない・領土保全にはその後の奪還しかない現状を前提にすれば、奪還作戦阻止あるいは日本の奪還作戦の対応準備の遅れを目的にした運動と想像するのが普通ではないでしょうか?

対支21か条要求(観念論政治家の跳梁)

政府は、日露講和条約締結までは大局を知らないで騒いでいる7博士やメデイアの意見など聞いていられないと「一蹴して」断固講和条約を締結したまでは骨があって良かったのですが、日比谷焼き討ち騒動を経て結果的に内閣総辞職させて収拾したのが後世に禍根を残して行きます。
アメリカはこの時から日本進路・排外的意見に影響を受けてしまう政府の弱さを見抜いたらしく、対日オレンジ計画をスタートさせています。
内閣が民意によって成立していない元老の下請け機関だったことが、真の権力機構に累を及ぼさないようにしたい・・騒ぎが起きればトカゲの尻尾切り的な「ことなかれ主義」で世論動向が国際常識に照らして正しいかどうか・本当に民意を代表しているかを基準にしないでその都度内閣を総辞職させて野党に政権を交代させる仕組み・西園寺ルールを導いたのです。
西園寺ルールによれば、根拠があろうがなかろうが「世論?さえ煽れば勝負あり」という変な政治形態・・がはびこるようになります。
(天皇機関説事件その他全て根拠のない騒動を起こしさえすれば政権交代の慣例になったことを紹介してきました)
戦前の経験があるので、安保騒動も同じように騒ぎを大きくさえすれば、内閣総辞職が当然というような意識のもとで大騒動でしたが、選挙してみると自民党の大勝でした。
中韓の気に入らないことを言えば「暴言失言」と大騒ぎしては閣僚の引責辞任を獲得し、最近も根拠なく「疑惑、疑惑」と騒げば良いとする野党やメデイアの報道を批判してきましたが、この数日の新聞記事では私同様の意見があるのか?与党からの解散論が出てきている様子です。
戦後はメデイアの作為的な世論調査で政治を左右するよりは、国民の意思を問う選挙制度があるのですから、メデイアの言う通り国会審議を止めても騒ぐべき内閣総辞職すべきほどの大きなテーマならば選挙で民意を問うのが本来の民主主義です。
解散が怖くなったのか?最近(この原稿は今年4月末頃のものです)では、「野党は総辞職を求めているわけではない」という小さな声が出てくるようになりました。
本当に国民が疑惑に怒っている・・自民党や内閣支持率が下がっているならば、解散して国民の意思を問おうとすると野党や朝日新聞がこれを批判し怯むのですから不思議です。
野党や朝日新聞系は例によって「もりかけ問題」を煽っては一方で「大義なき解散批判」を煽っているので、現実政治に疎い私も(4月末ころには)解散風が吹き始めていることに気がつきました。
https://www.asahi.com/articles/ASL4L4SQJL4LUTFK012.html

自民党の石破茂元幹事長
石破茂・自民党元幹事長(発言録)
連休明けに解散だ、なんて話がある。いつでも解散になって構わないように準備しておくのが衆院議員で、こんなはずじゃなかったという人は、ならないほうがいい。
(解散風は相次ぐ不祥事をリセットし、政権運営にお墨付きを得る狙いがあるのではないかと問われ)解散論を唱えている人はそういう思惑でしょう。(ただ)多くの人が思っているのは、どっちを向いているのかということ。国民を向いているのか、首相官邸を向いているのか。

選挙で負ければ、総理退陣ですからそのリスクを冒しても、選挙で民意を知ろうとすることが、(地位にしがみついて選挙を先送りすることと比較しても)国民の方を向いていないという意味がわかりません。
石破氏は自民党員意識からずれてきたのでしょうか?
選挙になれば、政策で競うのが本来ですが、肝心の政策のない野党は「解散に名分がないとか国民無視だ」という訳の分からない主張になるのでしょう。
メデイアがこれだけ疑惑疑惑と大騒ぎしておきながら、解散阻止に動くのはメデイアの煽りは民意を代表していない・メデイア発表の世論調査結果が実は実態と違うことを自覚しているからでしょうか?
昨夏の衆議院解散時も同様の主張で大敗・メデイアの内閣支持率の世論調査結果とはまるで違っていましたが・・。
選挙があれば国民の政治参加チャンスが広がります・・国民は「選挙するより国会抗争に明け暮れて議事をしない方が良いと思っている」かのような石破氏の意見は奇異です。
文字通り「どっち向いて意見を言ってるの?」という疑問を持つのは私だけでしょうか?
21カ条要求に始まる満州建国〜泥沼戦争への道は、西園寺ルール・揉め事になれば政権交代のルールができた結果、その後の政治家・内閣は、半可通な知識に基づいて勇ましいことをいうメデイアの煽りを無視できなくなったことが国家の命運を誤らせたことになります。
歴史にイフは許されないとしても、もしも明治初年からの日本の独立維持のための欧米対抗戦略に李氏朝鮮が協力的であれば、朝鮮の先にある大陸にそれほどの関心がむかなかったでしょう。
日露講和条約でもしも一定の賠償金を得てその代わり満州からロシアを全面的に追い出すのではなくロシアと共同権益程度にしておけば、日本は賠償金を戦費で疲弊した国内回復につぎ込めたので、国内対策のためにしゃにむに大陸進出する必要がなかったかもしれません。
結果から見れば、講和条件が支配地獲得(領土欲)の方に偏りすぎたのです。
企業買収するのに自分の企業規模・資金力から見て適正規模以上の大企業を買収して資金を使い果たしたようなものです。
ただ対華21ケ条要求を見ると、当時は欧州の戦争・・対岸の火事でこちらは儲けられるばかりの、戦争景気を謳歌していた時ですし、国内窮乏打開のための進出を超えて植民地支配欲に凝り固まってしまった印象を受けます。
日露戦争後僅か10年あまりでなぜそんなに意識が変わったのでしょうか?
やはり表向きだけでもロシアに勝った(本当は米英の後押しによってかろうじて勝ったことにしてもらっただけでしたが・・)事で、舞い上がってしまった庶民・・一等国になったとこれを煽る政治評論家などメデイアに政府・識者も引きずられてしまったのでしょうか?
戦前の日本政治はナチスのように一定の方向へ引っ張る政治家や思想家はいなかった・・むしろその時々のメデイアの煽る風潮に無原則に流されていたのが戦前の政治であったとどこかで読んだことがあります。
今でも「メデイアが煽りさえすれば内閣総辞職すべき」という論法が勢いを増し、一方では解散反対を主張するのは、戦前の悪しき西園寺ルールを守りたい勢力によるのでしょうが、彼らは民意を問うべき選挙制度など全く無視です。
革新系やメデイア界は考えが古いので、戦前の誤った経験・「揉め事になれば内閣が総辞職し野党に政権を渡す」といういびつな政党政治観・「憲政の常道論」を後生大事にしているように見えます。
メデイアやエセ学者が政治を動かすことに味をしめた結果、国の行く末などに思いを致さずに、軍部をバックに政争を繰り返してきましたが、戦後後ろ盾の軍部がなくなったのでメデイアは何をバックにするようになったかの関心です。
敗戦によって軍部は無くなったものの、その代わりGHQがスポンサーになりました。
GHQが占領軍の威力で文字通りの検閲をしていましたし、メデイア界はこれになびいてGHQの意向に忠実に世論を誘導していました。
では何故左傾化がひどくなったのでしょうか?
戦前は左右両派の均衡で成り立っていたのですが保守・民族系はGHQによる異民族支配に邪魔ですから、軍部と一緒くたにGHQによって全面排撃されてしまったことの他に、GHQの民政局自体が共産主義思想に支配されていたことも大きな意味があったでしょう。
この結果思想界では、左翼思想が全面支配になっていったことをこの結果思想界では、左翼思想が全面支配になっていったことを南原繁の思想紹介以降March 17, 2018「左翼系文化人の伸張3」頃まで連載してきました。
民政局の思想については、どこで紹介したか?コラム再開したばかりでコラム内で探す気力がないので、以下の通り(当時別の引用をした記憶ですがもしかしたら)重複かも知れませんが引用しておきます。
https://blog.goo.ne.jp/kirakiraboshi31/e/76c97529e3c539542b0ae3aa199ae1faによれば以下の通りです。

「ルーズベルトの戦争責任とOSS」、「GHQ日本改造計画と戦後左翼の正体」と、二回続けて田中英道氏(東北大学名誉教授)に講演していただいた。

なんとルーズベルト大統領は社会主義者であり、スターリンの友人でもあった。そしてそのルーズベルトが創設したOSS(戦略情報局)の構成要員のほとんどが米国共産党、フランクフルト学派(名乗らない共産主義者)であった。そのOSSで1942年前半に日本に対する二段階(共産主義)革命を計画していたこともOSS文書で分かった。かつまたOSS、フランクフルト学派の多くがユダヤ人であった。日本国憲法の草案にもっとも大きくかかわったGHQ民政局次長ケーディスもバリバリの共産主義者でありユダヤ人でもあった。1945年から2年間はGHQ内部の共産主義者たちがあらゆる日本の精神的、制度的解体を策略した期間でもあった。後にレッドパージされるまで日本国憲法をはじめ、ほとんどの諸改革が断行されてしまった。すべては二段階革命の布石(特に憲法九条)であったのだ。結果的に革命は行われなかったが、そのつけは大きく、戦後左翼の台頭、あらゆる階層にフランクフルト学派が跋扈し、日本を蝕んできた。

ルーズベルトは、1945年4月に急死した。急遽、大統領に昇格したトルーマンはOSSの存在をまったく知らされておらず、驚愕した彼はこれを廃止した。やがて蜜月時代は終り、米ソ冷戦の時代となった。それとともに赤狩りが始まった。

上記は名誉教授の責任のある人の意見ですが、一つ立場による意見であって、(裏付けがあるかどうか)事実かどうかはわかりません。

 

総辞職と政権交代・西園寺ルールと政治家の劣化

選挙で負けての内閣退陣ならば、勝った方に政権を交代するのは健全ですが、選挙(国民の意思)によらずに「メデイアの煽る群衆がうるさい」から・・という事なかれ式・・「宸襟をお騒がせするのは恐れ多い」・・騒いだ方が悪いのではなく、人民が「騒ぐような政治をした方が悪い」という「両成敗」ならぬ一方成敗の片手落ち裁定が政治を病理現象に追い込んだ原因です。
騒ぐだけ騒げば、政敵を辞職させられるものの騒いだ方も喧嘩両成敗ばならば(佐倉惣五郎伝のように願いは聞き届けれても処罰は免れない)話が別ですが、騒いだ方にお咎めなしの代わり騒動を起こした要求内容は何一つききとどけられない・例えば日露講和条約の効果は1ミリも変わらないが、騒動になった結果責任だけを政権にとらせる・・騒動が正しかったか否か(選挙審判)にかかわらず、騒ぎを大きくしただけの功で政権が自分に転がり込むのであれば、野党は理不尽な要求でもなんでも騒げる材料があれば騒いで審議妨害に持ち込めば損がない関係になります。
審議が止まれば、騒動の原因にどちらが責任があったかについて議会解散して信を国民に問うならば合理的ですが、これがなく騒ぎが大きいか否かを基準に一方的に現内閣が辞めさせれるのはおかしなルールでした。
騒ぎのテーマの是非ではなく「騒ぎが大きいか否か」が基準という刷り込みが簡単に消えないので、戦後も左右を問わずこの種の「騒ぎさえ起こせば勝ち」みたいな風潮が残って現在に至っています。
日露講和条約反対論の頃から、騒動を盛り上げるには、メデイアとの連携が必須でしたが、敗戦後占領政策の結果右翼系は弾かれたので、メデイアは左翼系しか利用できなくなり、右翼はいわゆる街宣活動に活路を求めていましたが、むしろ国民の迷惑・・町の害悪イメージが広がり、竹下内閣に対する「褒め殺し」を最後に表舞台から姿を消したように記憶しています。
左翼系はメデイア界独占の結果、今なお元気です。
騒ぎの原因の是非にかかわらず騒ぎが大きければ政権が倒れて政権が野党に転がり込むシステム場合、政党は政策を国民に訴えるよりは、メデイアが騒いでくれるテーマに絞って騒ぎまくれば良い・・・結果的にメデイアの誘導する方向のお先棒担ぎに堕して、国会で騒ぎまくれば・・・連携しているメデイアは大々的に報道してくれます・・逆にメデイアが支持してくれないテーマでは生中継をしてくれないしニュースでも取り上げられません。
ニュースにならなければ、世論の盛り上がりはありえないのですから、世論といってもメデイア次第です。
ニュースで煽っても世論がメデイア意見に同調しているかどうかは内容次第ですが、その判定は選挙してみない限り真相は誰にもわかりません。
メデイア側としては自分が煽っている以上は、このテーマで政府批判が強い・他の主要政策の国会審議を止めても真相解明すべきと言うイメージを強調したい立場・中立ではないので実は民意がこれを支持しているか否かが、政権批判側の報道では不明です。
だからこそ戦前は、騒動の是非を問わずにともかく政権交代方式を採用して騒ぎの沈静化優先してきたのでしょう。
国会審議を停滞させれば審議再開のために総辞職させられる→それまで審議妨害していた野党に政権が転がり込む仕組みでは、倒閣理由は・・政党政治を否定する主張(天皇機関説=政党政治の理論的基礎→これの否定=政党政治否定論)でも何でも良いから手段を選ばず倒閣を主目的に熱意を燃やすようになって行きます。
選挙で勝たない限り政権交代がない現在でもこの習慣が抜けず、政党間の政策論争を忘れて、法案審議を妨害していれば政府が困って戦前同様に総辞職するのを待つ戦術「とも角安倍政権を倒せ」ばかりです。
憲法改正の是非に対しても、「安倍政権による改正だけは反対」と言う意味不明の主張が出回っています。
メデイアもしきりに内閣支持率の報道をしたがります。
4月5日に紹介したように最大野党の立憲民主でさえ5%あまりの支持率に過ぎないので、・・・ただしNHKで見ると自民党30%台、立件が8%台で軒並み上がっている←支持政党なしが減っています・・いずれにせよ安部政権を倒しても野党に政権が来る訳がないので、彼らは何のために倒閣に血道をあげているのか不明です。
自分の政党支持率を上げる努力よりは、倒閣に熱をあげる不思議さは戦前の政権交代ルールを潜在意識に持っているからです。
揚げ足取りの国会戦術で政策遂行妨害すれば、事態収集のために総辞職するしかなくなるのを待つ戦術ですが、(戦後も安保国会ではこれが成功しました)戦後は、何回内閣総辞職しても選挙で負けない限り、政党間権力移動がなくなっている点・政権移動は選挙結果しかなくなっている点を理解できていないようです。
理解できないからか、数十年前頃には「政権のたらい回し」はおかしい・「憲政の常道」に反するという意味不明の宣伝がメデイアで取り上げられていました。
責任を取って総辞職した以上は、野党に政権を交代すべきというものですが、そのやり方は民意を軽視する矛盾に基礎がある点に気がついていないのです。
その頃、しきりに「憲政の常道論」が宣伝されて「憲政の神様」尾崎学堂の名が報道されていましたが、最近あまり聞かなくなりました。
戦前の事実上の西園寺ルール・・選挙制度は作ったが天皇親政と矛盾するので政権担当者は大御心によって決まるヌエ的民主主義制度であった以上は、政権交代の基準がないので、西園寺の形式的交代論になってしまったのは、当然の帰結でした。
憲政の常道でもなんでもありません。
今の左翼系野党は選挙で勝たなくとも政権交代できた戦前の記憶にしがみついている・・・民意によって政権交代するのではなく、大御心によって決まる・・戦前のヌエ的民主主義制度を理想としている「政権たらい回し批判」が野党の潜在意識とすれば、日頃から私が書いている革新系政党の本質が超保守体質であることの一つの現れです。
戦後は総理は国会の選出による→多数党の党首が総理になるのが民意・・戦前のように元老の推薦→天皇の大命降下で決まるものではなくなっている・本当の民主主義制度ですから、野党は目先の審議妨害で内閣を倒しても野党が少数党である限り自分たちに政権は回ってきません。
戦後の内閣総辞職は与党内のナンバー2にお鉢が回るだけでは、何のために頑張っているか不明・・そんなことよりは次の選挙または次の次の選挙・・将来に備えて政策を磨くのが、戦後政党の本来の姿です。
それをやる能力がないので戦後も戦前同様の際限ない揚げ足取りや失言追及などで国会審議を停滞させるのが目的の国会戦術が続いています。
「なんでも反対の社会党」と揶揄されているうちに長期低落で4月5日に紹介したところでは0、5%前後の支持率ですが、あまり政策妨害に徹しているので、もしかして中ソ、中韓の手先か?と疑う人が増えてきました。
外国の手先というよりは頭が固くて独自性を出すには、反対するしかない・・何を提案して良いか分からないからでしょうが、これに外国勢力が利用価値を見出だしているという逆の結果ではないでしょうか?
国政が停滞すると国民の批判が起きてくるので、(予算が通らないと新年度の政策が停滞します。)与党も放置できない・・かといって強行採決がメデイアによって「暴挙」と批判されて簡単にできないので、一応野党の顔を立てるために総辞職して一件落着にして野党から総理を立てるという「ことなかれ」主義が日露戦争以降の習慣となりました。
ワシントン軍縮条約反対といえば総辞職、天皇機関説反対と騒げば総辞職・・その都度下野した先の与党=野党が今度は攻める側ですから、この繰り返し・・・戦後の社会党だけの専売特許と違い・・与野党共に交替してはその都度政権の揚げ足取りに終始して本来の政治そっちのけでした。
与野党共(戦後の社会党の役割を双方で繰り返していたので)に政治家が国民の信頼を失い、「何やってんだか・・」と最後は翼賛政治になっていった原因です。

戦前政党政治の終焉(政治家の自殺行為1)

政党は政策論で競うべきであって相手の揚げ足取りで大臣の解任要求を主目的にするのは邪道です。
本来やるべき政治論争をしない低レベルの政府攻撃の繰り返しで、国民が政治家を信用しなくなり、政党政治が死滅していった戦前の歴史を再現したいのでしょうか?
戦前せっかく始まった政党政治が(在野政治家のレベルが低すぎたために)国民の信を失い、「レベルの低すぎる政治家よりもエリートに委ねた方が良い」と国民が思うようになって、政党政治が根元から腐っていったことは歴史上周知のことですが、戦後野党政治家、マスコミ、文化人?にはこの反省がなく、一方的に軍部が弾圧した治安維持法が悪かったという被害者意識の教育をし、国民に虚偽のイメージを植え付けてきました。
日本は明治維新以降急速な近代化に成功したとは言え、(戦後の韓国民主化・・形だけ真似して苦しんでいる今の韓国や、現在中国同様)国民意識レベルの変化は・・文化は3代と言いますが・世代交代しないと簡単に行きません。
明治の農村で行きなり洋風建築を建てても居住者の意識(はある程度「器」に影響を受けますが)がその日から欧米風になりません。
明治以降産業近代化に合わせて急いで欧米法制度の取り入れに勤しみ約20年経過でようやく国会開設しましたが、ザンギリ頭にして洋服を着たり議事堂さえ作れば政治風土が変わるものではない・・まだ政党政治をするには早すぎた・・国民意識とそれを基礎にする在野政治家の人材が育っていなかったのです。
このコラムで繰り返し書いていますが、昭和40年代中頃までは、何かある都度欧米事情に通じた「識者」が出てきて「欧米では〇〇」と解説する時代が続いていましたが、戦前は国粋主義・排外的時代だから、留学組の権威がないかというとそうではなく、今では想像もつかないほど外国風潮に通じている人の権威が高かった時代です。
中韓の反日運動を見ればわかるように、排外主義とは言い換えれば対外コンプレックスの逆表現であることが多いのです。
明治初期の大隈重信や板垣退助植木枝盛など見ればわかるように戦前政治家とは超エリート・・欧米先進事情に通じた者の仕事でしたから、欧米留学組が最権威者で結果的に、各分野の競争に負けて(板垣や大隈重信も下野したときに在野で敗者復活戦を仕掛ける仕組み)有り体に言えば落ちこぼれた2〜3流の人材・・一般人に比べて元官僚等である程度政治を知っていることを鼻にかける点は今の野党も同じです。
今後日本は欧米並みの憲法が必要という明治初年の民権論はそれ自体正しかったし政府も追いつく必要を感じて必死に準備していったのですが、憲法の下位の刑事や民事の身近な法令整備→日常的法運用に慣れさせるには教育から始めないとうまくいかないので)国民意識を徐々に涵養していく期間が必要でした。
たとえば民法を見ればわかりますが、民法制定にはその前提になる不動産登記(その前提には地番や地籍など特定制度の創設・・・江戸時代までは大名や旗本の功績を愛でて加増した時の知行地の表示を見ると「何とか庄の宮前の何反何畝」程度の特定しかなかったのです)や戸籍制度が必須です。
これらの準備期間なしに、いきなり「全国民に普通選挙権を認めろ」といっても、まだ選挙権者特定自体に無理があったし仮に選挙権を与えても小学校へ行ったこともない人口が大多数の時代に(明治初年にはまだ小学校制度が始まったばかり)猫に小判で、結局は地域有力者意見に従うしかないし結果的に政治腐敗がはびこるばかりになります。
これが後進国に対して投票箱民主主義を押し付ける米国流民主主義強制が失敗した原因です。
中国アフリカ等の後進国で腐敗指数が高い原因ですし、韓国で政権交代がある都度前政権幹部の(汚職理由の)検挙(昨日あたりから李明博元大統領の逮捕が騒がれています)が繰り返される原因です。
日本戦前の政党政治が自壊作用を起こした大元の原因は、制度設計が実力より早すぎた点は同じでしょう。
明治22年まで時間かけてようやく憲法発布になりますが、(日常生活を律するルールである民法は10年遅れの明治31年施行)それでもまだ日本社会が庶民まで参加の民主主義を運用するにまだ無理があったことがわかります。
ウイキペデイアによると以下の通りです。

1896年、明治29年法律第89号により定められた民法第一編・第二編・第三編(総則、物権、債権)及び1898年6月21日の明治31年法律第9号により定められた民法第四編・第五編(親族、相続)で構成されており、また附属法例として6月15日、明治31年法律第11号民法施行令が設置され[3]、全体が7月16日から施行された。これによりいくつかのそれまでの法規が廃止された[4]。原案起草者は穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三名である。
この民法典は、社会情勢と価値観が大きく転換する明治維新の後に妥協的に成立したものであった
日露戦争講和条約時(1905年)にもしも普通選挙があったら、メデイアに煽られるだけの庶民が政治に直接口出しできていたら講和条約がどうなったかと思うとぞっとする人が多いでしょう。
逆の立場では、「情報を国民に知らせない方が悪い」ということでしょうが、戦争中に「日本はこれ以上継戦能力がない」と内外に明らかにするのは利敵行為ですし、軍部内で強硬論が採用されなかった不満者が一部だけメデイアにリークすることによりメデイアが極論だけ煽った結果です。
選挙でまともな判断ができる人かの基準として学歴がなくとも一定の商売等の成功者(サントリーや松下創業者のように)は相応の判断力があると見るのが普通ですから学歴で決めるよりは公平です)一定の納税者を基準にしていたのは簡単な能力の篩制度としてコストパフォーマンスもよく合理的です。
普通選挙に関するウイキペデイアの記事です。
1918年 イギリスで男子普通選挙が実施された。ただし居住地以外に財産を保有する者は複数選挙権を得る。
1919年 ドイツ共和政において、世界初の完全普通選挙が実施された。
1920年 アメリカで女性参政権を認めることが連邦憲法修正第19条により義務付けられる[3]。
1928年 日本で衆議院選挙(第16回総選挙)の際に男子25歳以上(最初の男子普通選挙)の者で実施された。(普選運動

やっと欧米並みの憲法を制定し対外的に格好をつけたのですが、(農民がいきなり背広を着たようなもので)・鹿鳴館時代がわかり良いので揶揄されますが、日本社会全体・・法制度も背伸びだったことが分かります。
文字さえ読めれば選挙民の能力があるわけではないですが、日本の江戸時代から明治にかけての識字率や就学率の研究をした論文が見つかったのでその中の表だけ紹介しておきます。
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3735/JNK001702.pdf

表1 学齢児童就学率
出典:文部省『学制八十年史』  『学制百年史』『学制百二十年史』
年度         就学率(%)    年度    就学率(%)
1875(明治08)    35 19     1935 (昭和10)    99.51
1880(明治13) 41.0 6 1940(昭和15)   99.64
1885(明治18) 49.62 1945(昭和20)    99.79
1890(明治23)  48.93 1950(昭和25)    99.64
1895(明治28)  61.24 1955(昭和30)    99.77
1900(明治33)   81.48 1960(昭和35)    99.82
1905(明治38) 95.62 1965(昭和40)    99.82
1910(明治43) 98.14 1970(昭和45)    99.83
1915(大正04) 98.47 1975(昭和50)    99.91
1920(大正09) 99.03 1980(昭和55) 99.98
1925(大正14) 99.43 1985(昭和60) 99.99
1930(昭和05)  99.51    1990(平成02)   99.99

上記の表はその年の就学率ですから、例えば明治5年の学校制度発足後3年経過時にこれだけ就学したと言うだけのことで、(実際にはたまにしか学校に行けなかった子供が多かったでしょうし)小学1年にあがったからといってすぐに複雑な政治判断などできるはずがありませんし、みんなが卒業したわけでもありません。
この子供が3年間の義務教育を終えて大人になる20年後といえば明治28年です。

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