対支21か条要求(観念論政治家の跳梁)

政府は、日露講和条約締結までは大局を知らないで騒いでいる7博士やメデイアの意見など聞いていられないと「一蹴して」断固講和条約を締結したまでは骨があって良かったのですが、日比谷焼き討ち騒動を経て結果的に内閣総辞職させて収拾したのが後世に禍根を残して行きます。
アメリカはこの時から日本進路・排外的意見に影響を受けてしまう政府の弱さを見抜いたらしく、対日オレンジ計画をスタートさせています。
内閣が民意によって成立していない元老の下請け機関だったことが、真の権力機構に累を及ぼさないようにしたい・・騒ぎが起きればトカゲの尻尾切り的な「ことなかれ主義」で世論動向が国際常識に照らして正しいかどうか・本当に民意を代表しているかを基準にしないでその都度内閣を総辞職させて野党に政権を交代させる仕組み・西園寺ルールを導いたのです。
西園寺ルールによれば、根拠があろうがなかろうが「世論?さえ煽れば勝負あり」という変な政治形態・・がはびこるようになります。
(天皇機関説事件その他全て根拠のない騒動を起こしさえすれば政権交代の慣例になったことを紹介してきました)
戦前の経験があるので、安保騒動も同じように騒ぎを大きくさえすれば、内閣総辞職が当然というような意識のもとで大騒動でしたが、選挙してみると自民党の大勝でした。
中韓の気に入らないことを言えば「暴言失言」と大騒ぎしては閣僚の引責辞任を獲得し、最近も根拠なく「疑惑、疑惑」と騒げば良いとする野党やメデイアの報道を批判してきましたが、この数日の新聞記事では私同様の意見があるのか?与党からの解散論が出てきている様子です。
戦後はメデイアの作為的な世論調査で政治を左右するよりは、国民の意思を問う選挙制度があるのですから、メデイアの言う通り国会審議を止めても騒ぐべき内閣総辞職すべきほどの大きなテーマならば選挙で民意を問うのが本来の民主主義です。
解散が怖くなったのか?最近(この原稿は今年4月末頃のものです)では、「野党は総辞職を求めているわけではない」という小さな声が出てくるようになりました。
本当に国民が疑惑に怒っている・・自民党や内閣支持率が下がっているならば、解散して国民の意思を問おうとすると野党や朝日新聞がこれを批判し怯むのですから不思議です。
野党や朝日新聞系は例によって「もりかけ問題」を煽っては一方で「大義なき解散批判」を煽っているので、現実政治に疎い私も(4月末ころには)解散風が吹き始めていることに気がつきました。
https://www.asahi.com/articles/ASL4L4SQJL4LUTFK012.html

自民党の石破茂元幹事長
石破茂・自民党元幹事長(発言録)
連休明けに解散だ、なんて話がある。いつでも解散になって構わないように準備しておくのが衆院議員で、こんなはずじゃなかったという人は、ならないほうがいい。
(解散風は相次ぐ不祥事をリセットし、政権運営にお墨付きを得る狙いがあるのではないかと問われ)解散論を唱えている人はそういう思惑でしょう。(ただ)多くの人が思っているのは、どっちを向いているのかということ。国民を向いているのか、首相官邸を向いているのか。

選挙で負ければ、総理退陣ですからそのリスクを冒しても、選挙で民意を知ろうとすることが、(地位にしがみついて選挙を先送りすることと比較しても)国民の方を向いていないという意味がわかりません。
石破氏は自民党員意識からずれてきたのでしょうか?
選挙になれば、政策で競うのが本来ですが、肝心の政策のない野党は「解散に名分がないとか国民無視だ」という訳の分からない主張になるのでしょう。
メデイアがこれだけ疑惑疑惑と大騒ぎしておきながら、解散阻止に動くのはメデイアの煽りは民意を代表していない・メデイア発表の世論調査結果が実は実態と違うことを自覚しているからでしょうか?
昨夏の衆議院解散時も同様の主張で大敗・メデイアの内閣支持率の世論調査結果とはまるで違っていましたが・・。
選挙があれば国民の政治参加チャンスが広がります・・国民は「選挙するより国会抗争に明け暮れて議事をしない方が良いと思っている」かのような石破氏の意見は奇異です。
文字通り「どっち向いて意見を言ってるの?」という疑問を持つのは私だけでしょうか?
21カ条要求に始まる満州建国〜泥沼戦争への道は、西園寺ルール・揉め事になれば政権交代のルールができた結果、その後の政治家・内閣は、半可通な知識に基づいて勇ましいことをいうメデイアの煽りを無視できなくなったことが国家の命運を誤らせたことになります。
歴史にイフは許されないとしても、もしも明治初年からの日本の独立維持のための欧米対抗戦略に李氏朝鮮が協力的であれば、朝鮮の先にある大陸にそれほどの関心がむかなかったでしょう。
日露講和条約でもしも一定の賠償金を得てその代わり満州からロシアを全面的に追い出すのではなくロシアと共同権益程度にしておけば、日本は賠償金を戦費で疲弊した国内回復につぎ込めたので、国内対策のためにしゃにむに大陸進出する必要がなかったかもしれません。
結果から見れば、講和条件が支配地獲得(領土欲)の方に偏りすぎたのです。
企業買収するのに自分の企業規模・資金力から見て適正規模以上の大企業を買収して資金を使い果たしたようなものです。
ただ対華21ケ条要求を見ると、当時は欧州の戦争・・対岸の火事でこちらは儲けられるばかりの、戦争景気を謳歌していた時ですし、国内窮乏打開のための進出を超えて植民地支配欲に凝り固まってしまった印象を受けます。
日露戦争後僅か10年あまりでなぜそんなに意識が変わったのでしょうか?
やはり表向きだけでもロシアに勝った(本当は米英の後押しによってかろうじて勝ったことにしてもらっただけでしたが・・)事で、舞い上がってしまった庶民・・一等国になったとこれを煽る政治評論家などメデイアに政府・識者も引きずられてしまったのでしょうか?
戦前の日本政治はナチスのように一定の方向へ引っ張る政治家や思想家はいなかった・・むしろその時々のメデイアの煽る風潮に無原則に流されていたのが戦前の政治であったとどこかで読んだことがあります。
今でも「メデイアが煽りさえすれば内閣総辞職すべき」という論法が勢いを増し、一方では解散反対を主張するのは、戦前の悪しき西園寺ルールを守りたい勢力によるのでしょうが、彼らは民意を問うべき選挙制度など全く無視です。
革新系やメデイア界は考えが古いので、戦前の誤った経験・「揉め事になれば内閣が総辞職し野党に政権を渡す」といういびつな政党政治観・「憲政の常道論」を後生大事にしているように見えます。
メデイアやエセ学者が政治を動かすことに味をしめた結果、国の行く末などに思いを致さずに、軍部をバックに政争を繰り返してきましたが、戦後後ろ盾の軍部がなくなったのでメデイアは何をバックにするようになったかの関心です。
敗戦によって軍部は無くなったものの、その代わりGHQがスポンサーになりました。
GHQが占領軍の威力で文字通りの検閲をしていましたし、メデイア界はこれになびいてGHQの意向に忠実に世論を誘導していました。
では何故左傾化がひどくなったのでしょうか?
戦前は左右両派の均衡で成り立っていたのですが保守・民族系はGHQによる異民族支配に邪魔ですから、軍部と一緒くたにGHQによって全面排撃されてしまったことの他に、GHQの民政局自体が共産主義思想に支配されていたことも大きな意味があったでしょう。
この結果思想界では、左翼思想が全面支配になっていったことをこの結果思想界では、左翼思想が全面支配になっていったことを南原繁の思想紹介以降March 17, 2018「左翼系文化人の伸張3」頃まで連載してきました。
民政局の思想については、どこで紹介したか?コラム再開したばかりでコラム内で探す気力がないので、以下の通り(当時別の引用をした記憶ですがもしかしたら)重複かも知れませんが引用しておきます。
https://blog.goo.ne.jp/kirakiraboshi31/e/76c97529e3c539542b0ae3aa199ae1faによれば以下の通りです。

「ルーズベルトの戦争責任とOSS」、「GHQ日本改造計画と戦後左翼の正体」と、二回続けて田中英道氏(東北大学名誉教授)に講演していただいた。

なんとルーズベルト大統領は社会主義者であり、スターリンの友人でもあった。そしてそのルーズベルトが創設したOSS(戦略情報局)の構成要員のほとんどが米国共産党、フランクフルト学派(名乗らない共産主義者)であった。そのOSSで1942年前半に日本に対する二段階(共産主義)革命を計画していたこともOSS文書で分かった。かつまたOSS、フランクフルト学派の多くがユダヤ人であった。日本国憲法の草案にもっとも大きくかかわったGHQ民政局次長ケーディスもバリバリの共産主義者でありユダヤ人でもあった。1945年から2年間はGHQ内部の共産主義者たちがあらゆる日本の精神的、制度的解体を策略した期間でもあった。後にレッドパージされるまで日本国憲法をはじめ、ほとんどの諸改革が断行されてしまった。すべては二段階革命の布石(特に憲法九条)であったのだ。結果的に革命は行われなかったが、そのつけは大きく、戦後左翼の台頭、あらゆる階層にフランクフルト学派が跋扈し、日本を蝕んできた。

ルーズベルトは、1945年4月に急死した。急遽、大統領に昇格したトルーマンはOSSの存在をまったく知らされておらず、驚愕した彼はこれを廃止した。やがて蜜月時代は終り、米ソ冷戦の時代となった。それとともに赤狩りが始まった。

上記は名誉教授の責任のある人の意見ですが、一つ立場による意見であって、(裏付けがあるかどうか)事実かどうかはわかりません。

 

対支21か条2(中国の反日運動激化)「コラム再開」

※8月29日から昨日までは約1ヶ月間コラムアップできなかったので、今日からアップできるようになりましたが、書く気力がなかなか復活しない・・8月30日以降昨日までの分は、時節の話題に関係なく半年〜数年前からの原稿先送り分そのままの掲載になっていますが、今日からのコラム同じく過去原稿のアップですが、掲載時現在で少し見直して手入れした内容復活です。
こうしてみると「高齢者が入院すると退院後歩いて良い」と言われても歩けなくなる状態がよくわかります。
時事問題をすぐに書く気力が復活しないのでまだ過去の先送り原稿の手直し程度ですが、今後おいおい、書く気力が復活していくと思います。

昨日引用の続きです。

日本の要求書を受けとった袁世凱は、即答を避け、ポール・ラインシュ米公使やヒンツェ独公使らと緊密な連絡をとり、相計って国内世論を沸騰させ、外国に対しては、日本の要求を誇大に吹聴して列国の対日反感を挑発した。
在中ドイツ系機関紙である北京ガゼットや独華日報は山東問題に関する袁世凱との直接交渉を攻撃しはじめ、20余紙はドイツの新任公使ヒンツェに買収されたなどと言われた[13]。排日派や宣教師らは日本軍の暴行を喧伝し日本軍の撤兵を要求した[14]とされる。
アメリカは第1号第2号第3号については抗議する意図なく、あるいは敢て反対しない態度を日本政府に提示したが[15]、第4号第5号に関しては明確に反対であり、とりわけウィルソンの関心は第5号に集中していた[16]。
大隈内閣は3月15日に日本側に提示されたこの対日覚書の意図を正しく理解することができず、第5号に関して米国は「左シテ重キを措カサルモノ」と判断し安易に対華強硬策に転じたことは、4月中旬以降のアメリカの極東政策に影響をあたえることになった

列強支持のもと21ケ条要求貫徹・成功・・これを不服とする中国人民の抵抗・条約の無効化による不服従抗争→宣戦布告なき戦争の泥沼に入って行った原因です。
野党系政治家の弱点・民意把握より観念論で押し通す習癖→唯我独尊傾向を繰り返し書いてきましたが、大隈内閣に対する戦後メデイアの偏った高評価が多いのですが、日本の命運を間違った方向へ導いた元凶であったことが上記引用でわかります。
(明治憲法制定前からの大隈重信の行動は今の革新系野党同様の現実無視の主張が多かったように・記憶だけですが・・)
大隈重信のアメリカ訪問時に大統領との会談記録に「こんな激しい主張をする人は見たことがない」(要は「話しにならない人物」という評価)と記録されている記事を引用紹介したことがありますが、なんのコラムで引用したか忘れましたので、以下の通り再引用します。もともと自由民権運動政治家で、今で言えば鳩山〜菅内閣で知られる民主党政権の先祖のような性格です。
要は政治能力がないのです。
第一次大隈内閣に関する本日現在のウイキペデイアの記事からです。

またアメリカのハワイ併合に対して、「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招いた。そして組閣後4ヶ月余りで総辞職を余儀なくされた。

対し21か条要求は、日本の協力を必要として指定た連合国の承諾で国際政治力学上で日本の主張が通ったとはいえ、要は日本が中国で火事場泥棒的に「やりすぎた」点について、政治家としての反省が足りなかったのです。
強い国や強いものからの不当な要求を跳ね返すために、訴訟や国際政治力学を利用するのは良いことですが、不当な要求を通すために国内であろうと国際であろうと政治力学.権力を利用して弱者をいじめると、時間の経過でその無理が跳ね返ってくるのは政治の常識です。
さらに話題が変わりますが、先の大戦ではたまたまドイツと同盟しましたが、日本を世界孤立に追い込んだ元凶は実はドイツの反日宣伝に始まるものでした。
日本が世界の思想変化(植民地支配に対する批判精神浸透)について行けなかったのが原因ですから、今更ドイツを恨むのは大人気ないですが・・事実は事実です。
7年ほど前の中国の反日暴動後日本に代わって着々と進出しているのがワーゲンを代表とするドイツ企業であったことからわかるように(慰安婦騒動でドイツを見習え論が韓国等で強いですが、)、もしかして?今も中国や韓国の反日運動にはその背後にドイツの陰・・「日本排撃しても高度部品の供給は引き受けるから」と言う後ろ盾示唆がある可能性があります。
21か条要求と現実支配が始まると中国人民を巻きこんだ不服従運動が高まるに連れて、現実に合わせて英米は日本離れを加速していきます。
日本はあくまで戦後講和会議を乗り切った以上譲る必要がないという立場で、強制→不服従行動の激化→弾圧強化→治安維持のための満州の切り離し(要は野党系の好きな観念論強行です)→欧米人権思想家の反発・運動→国内世論に影響を受ける米英政府の上申の徐々に変更・反日方向への転換へとなって行きます。
日清戦争後の三国干渉を範にとると法理上横車であれ、それを受け入れるしかないのが国際政治の現実でしたし、第一次世界大戦時の対支21か条要求は、国際的に日本は多くの支持を受けて決まったこととしても、敗戦国ドイツは中国在住メデイアを通じて(日本に奪われた権益回復のため?)反日感情を煽っていて、現地反日運動が激化してきた以上は妥協をするしかないのも政治の現実です。
日本はこの辺で世界情勢を読んだ上での謙抑的行動が必要だったのですが、これができなかったのは右翼メデイアや学者が世界情勢を読むことが(素人・半可通のメデイアが政治を左右する悪弊)できなかったことが第一の原因でしょう。
日露戦争時に半可通の知識人が、妥協を拒み国民を煽って日比谷焼き討ち騒動になったように、今朝の日経新聞を見ると安倍総理がプーチンの無条件平和条約締結先行提案にその場で明白に拒否すべきだった」という立憲民主の主張を引用し、数日前の日米首脳会談の日米円満合意を批判して日本が多国間協調主義に反して2国間協議に応じたのは許せないという観念論を宣伝?しています。
旧社会党の国会戦術・通りそうもない強硬意見を言い張りで妥協しない結果、最後は何の主張も通らない強行採決誘引しては、国民大多数の批判無視と声高に主張する・・「執行部は筋を通した」と虚勢を張ることの繰り返しでした。
彼らは国民や労組のためではなく、(自分はやるだけやったという)保身のためにのみ行動している勢力ではないでしょうか?
大隈内閣は、隈板内閣と言われたようにいまの立憲民主党のようないわゆる野党系の観念論の集団でしたがこれに似ています。
今回の日米会談で多国間協議以外受け入れないと頑張って決裂して帰る選択肢はあったでしょうか?
何かを受け入れない限り交渉は成立しないのですから、自動車の輸出数量制限を受け入れない代わりに何かの輸入を受け入れるしかないのが現実です。
何しろアメリカが、一方的に関税をかけた場合、日本は打つ手がないのが現実です。
国際ルール違反だと騒いでも、どうなる訳ではありません。
日本が報復関税をかけて相互貿易が滞れば日本にとってもっと大きな被害になります。
だから中国だって焦っているのです。
カナダもメキシコも「約束違反」といっても仕方ないので、結局なNAFTAの再協定に合意しているのです。
日本のメデイアや野党は、なんらの対案もなしに批判だけする・・安倍総理が円満解決したのが減点かのように騒ぐのは、日露講和条約時以来の無責任な煽り体質に終始している印象です。
元に戻しますと、日本の大陸進出政策への邁進に対する米国の警戒は日比谷焼き打ち事件の頃から、すなわち満州事変の約25年も前から始まっていたのであり、これが21カ条要求事件後、日本がアメリカの修正要求に応じないところから顕在化し、日本は逆に強硬論の拡大一方・・満州事変〜北支事変〜上海事変へと広がっていき、その都度欧米の反日姿勢が強まっていきます。
日米開戦はその延長上の結果でした。
野党系観念論者が政権を取るとこういう結果になる歴史です。

対支21か条と日米疎遠化1

辺境といえばオスマントルコの最盛期も同様で、ロシア顔負けの暴虐ぶりでしたがウイーン攻略失敗以来、ジリ貧の歴史が長いので被害を受けるばかりの弱者のように見えるだけです。
勢力拡大期の行動を見ると粗暴性ではロシアと大差ないイメージですが、この本質が出たのが最近のトルコでしょう。
ロシアは西欧化するためにギリシャ正教を受け入れた結果、一応キリスト教国に入っているのに対して、トルコの場合世俗化に舵を切り、且つ西欧接近を図って来たものの一応イスラム教の国という点が大きな違いです。
「凶暴なロシアに虐められそうなアジアの小国日本を応援する」という欧米=全世界的支援のもとで対ロシア戦争を戦うまでは国際環境は良かったのですが、日本のロシア撃退成功によって西欧世界の最大脅威であったロシアが敗退し、その後革命勃発などで世界膨張圧力が低下するように見えるとロシア脅威を前提にした日本利用メリットが薄れました。
これが第一次世界大戦終了時の世界情勢でした。
一方の日本の方は、対ロ戦勝?の結果に舞い上がって(戦費調達のための国内疲弊があってやむを得なかった面もありますが・・)、自国防衛目的から大陸進出政策に変わっていくと欧米国際世論の目が徐々に変わっていきます。
それでも欧米の親日姿勢が変わらず日本の強引な対中行為に対しても(第一次世界大戦中の有名な対支21ヶ条の要求や後の山東省権益問題に始まり満州事変に至るまで)その都度諸外国の黙認〜日本支援の環境が続いていきます。
一つには第一次世界大戦を戦う都合上、日本を対独戦に協力させる必要があったことによります。
https://www.y-history.net/appendix/wh1501-011.htmlによる第一次世界大戦の記事からです。

日本の参戦 開戦直後の1914年8月、イギリスは日本に対して東シナ海のドイツ艦隊を攻撃してほしい」と要請した。日本は日英同盟にもとづいてただちに出兵を決定したが、日本の中国・太平洋方面への進出を警戒するアメリカがイギリスに要請を中止するよう申し入れたたため、イギリスはそれに従ってドイツ艦隊攻撃要請を取り消した。しかし日本は第一次世界大戦への参戦を強行、8月15日にドイツに対する最後通牒を出し、回答がないとして9月2日に山東半島に上陸、11月までに膠州湾入口のドイツの青島要塞を陥落させた。この時、日本の飛行機が初めて実戦に参加した。さらにドイツ領太平洋諸島のマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリン諸島を占領した。
こうしてドイツの中国・太平洋の利権を接収した日本は、1915年1月中華民国の袁世凱政府に対し、二十一カ条要求をつきつけ、欧米諸国が世界大戦で動きが取れない中、中国本土への帝国主義的侵略を開始した。日本の露骨な大陸での利権拡張にはイギリス・アメリカは警戒したが、日本を対ドイツ戦争にとどめておく必要から、その中国に対する要求を黙認し、抗議しなかった。
対支(対華)21カ条要求に関する以下の記事を引用します。
http://www.y-history.net/appendix/wh1503-019.html

第一次世界大戦中の1915年、日本が山東省の利権などドイツ権益の継承を中国に要求した。民衆の反発をうけたが袁世凱政権は最終的には一部を除き受諾した。
日本の帝国主義的大陸進出の第一歩となったが、ヴェルサイユ条約で撤廃されなかったことから五・四運動が勃発し、中国での民族意識が高揚する第一歩ともなった。
第一次世界大戦の勃発の翌年、1915年1月18日、日本の大隈重信内閣は、中国の袁世凱政府に対し、二十一カ条の要求を突きつけた。それは五項と二十一条からなっている。
日本政府(大隈内閣、与党は立憲同志会)は、事前に英、米、仏、露の列強に二十一か条を内示していた。しかし、それは第一から第四項までであり、第五項を秘密にしていた。それは1~4項は列強も戦争の帰結として当然と受け取るであろうが、第5項は日本が中国を保護国化する意図ととられかねず、列強の既得権やアメリカの「門戸開放、機会均等、国土保全」という中国政策の原則にも反することだったからである。
加藤高明外相は中国政府の実力を軽視する傾向があったので、あえて第5項を加えて迫ったのだった。
ところが、中国政府はこのことを知ると、第五項を強調して宣伝した。米英政府は第五項の内容を日本に問い合わせてきたので、外相加藤高明は第五項は「希望条項」にすぎないと弁明し、かえって不信を買った。
そのため政府の予測に反して交渉は難航、2月からはじまり、二十回ほど交渉し、満州・山東などの駐留軍を増強して圧力を加えたが歩み寄りはなく、5月、加藤外相の交渉に不満な元老山県有朋の意見で第五項を削除して最後通牒とした。当時、野党の政友会総裁だった原敬も、中国を侮った外交姿勢を批判している。
列強の反応
日本の要求は過大で高圧的な内容であったが、第5項が秘密にされていた段階では、帝国主義政策をとる列強にとっても日本だけを責めるわけにはいかず、また日本が第1次世界大戦に参戦してドイツとの戦争に加わった見返りの意味もあって黙認、基本的には容認した。
しかし、中国が第5項を暴露すると、アメリカとイギリスは、第5項には中国保護国化の恐れがあるとみて警戒し、中国を擁護し、日本に第5項の取り下げを要求した。5月に日本が第5項を取り下げたことを評価し、アメリカは11月に石井・ランシング協定を締結した。それは、アメリカの主張である中国の領土保全と門戸開放を日本が認める一方で、アメリカに日本の山東省権益を認めさせた。
パリ講和会議と五・四運動
1919年の第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議において、山東問題は重要課題として交渉され、中国政府は二十一カ条要求の無効を訴えたが、イギリス・フランスは大戦中の日本との密約があるので同調せず、ヴェルサイユ条約には盛り込まれないことになった。それにたいして中国民衆は五・四運動で激しい抗議行動を行い、中国政府もヴェルサイユ条約の調印を拒否した。

日本の山東半島権益放棄
日本は新たに山東半島の権益を獲得したが、大戦後の日本の大陸進出に対する列強の警戒の強まったことと、国際協調外交の進展によって、1922年のワシントン会議において日本は妥協し、九カ国条約で山東省権益を放棄し、二十一カ条の前の状態に戻すことに同意せざるをえなかった。
日英同盟の破棄へ
しかし、イギリスでは一部に日本の中国大陸進出を警戒する意見が強まり、日英同盟の継続に対する反対論も出始めた。日本の中国進出はイギリスの市場を脅かすだけでなく、日米間の対立が激化してイギリスが巻き込まれることを恐れたのだった。
アメリカも日英同盟の継続に反対したため、1921年のワシントン会議で日英同盟の破棄が決定された。

日清戦争後の3国干渉は自分たちにも「分け前をよこせ」と言う横槍でしたが、対華要求に対する対応は、国際風潮が民族自決機運の高まりなど植民支配の見直しの時代に差し掛かっていたので、西欧の世論は自国政府に対しても新規植民地支配に批判的になっていました。
日本では欧米は自分たちは世界中を植民地化しておいて遅れて参入した日本の植民地支配だけ行けないというのは一方的論理だという不満が常識ですが、欧米自身も新規獲得をやめて旧植民地は英連邦に編成し直すなど独立化方向へ進み始めていたのです。
中南米も続々と独立を始めていました。
アメリカでい言えばフィリッピンはその前に獲得したものですが、第1次世界大戦以降新規植民地取得していませんし、日本に対する奄美諸島や沖縄や小笠原など占領も自発的に返して来たことを書きました。
車の排ガス規制も建築基準も皆新たな基準は、遡及せずに今後の適用になるのが法の原則です。
対支21か条要求に対する列強の同意を要したのは不当な横やりに反発すると言うよりは、国際世論受入れのための問題であって、むしろ日本の利益貫徹のために第三者に仲介を頼むイメージです。
朝日新聞の慰安婦報道批判や企業や官庁で不祥事があると第三者者委員会を設置してその結論に従うと言うことで世論の沈静化を図る方法が流行っていますが、その走りです。
昨日(この原稿は5月頃の記事と思うのでその頃のことです)の新聞では財務省次官のセクハラ疑惑について、弁護士を交えた第三者委員会調査結果として減給処分をすることになったと言う報道がありました。
日本は火事場泥棒的に(欲張りすぎて?)最後通牒によって力づくで袁世凱政府に要求を飲ませた上で、講和会議でもその結果が承認されたのですが、国際世論の高まりによって、そのまま条約上得た権益をそのまま貫徹することができず、米英の同意を得て正当化するかなくなっていた・・徐々に国際孤立を深めていくのです。
米英も国内世論に押されると条約でこうなっているというだけでは、国内支持者抑えきれなくなり、次第に日本と疎遠になって行く様子が見えます。
しかし、国内世論と言ってもメデイアはこのような国際世論の変化を理解出来ず、列強に軍縮その他で色々と制限されると却って強硬論が勢いを増して行きます。
以下に見る通り、もともと英国は日本の要求の実現に応援してくれていた関係でしたし、アメリカも結果的に黙認ないし好意的だったのですが、大戦後国際世論の方向がおおきく変わって行ったのに、日本国内世論がついていけなかったことから日本の応援団も徐々に手を引いていって孤立化を招いたのです。
英米の当時の対日態度について、ウイキペデイアによれば、以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82

日本が中国に特殊利益を有することは、イギリス、フランス、ロシアは、明文あるいは黙示を以って承認していたが、ドイツは不承認でありアメリカの態度は明確でなかった。
3月8日、イギリスのグレイ外相は加藤外相に対し、「自分が非常に懸念しているのは、日中問題から生起すべき政治上の事態進展にある。
ドイツが中国において盛んに陰謀をたくましくしつつあるはもちろん事実であって、中国をそそのかして日本の要求に反抗させるために百方手段を講じつつあるのみならず、これによって日中両国間に衝突を見るようなことがあれば、ドイツの最も本懐とするところであろう。自分は今回の問題について何か質問を受ける場合、できる限り日本の要求を支持して同盟の友好関係を全うしたい精神である」と述べた[12]。
駐日英大使グリーンは加藤外相に、中国側の態度はまことに了解しがたい、駐華英公使は日中両国が不幸な衝突を見るに至らないよう、北京政府に注意しており、袁大総統に直接申しいれてもいる、と語っている。

上記の通り英国はなお対日協力的でしたが、独は自分の奪われた権益ですから、反日運動に邁進している状態が以下の記事で出ています。

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