表現の自由市場論4(ゴッホは例外か?1)

日本列島の場合いつも書きますがボトムアップ社会で、民衆レベルが高いので特定権力者の保護のあるときだけ文化の花開くのではなく、芸術に理解のある有名権力者が出てもその影響がある程度です。
江戸時代の浮世絵、落語、歌舞伎、浄瑠璃各種(八犬伝や東海道中膝栗毛など読本等々は庶民消費力・・文字通り自由市場によるもので、権力者の保護と関係ないのが明らかですし、古くは万葉集を見ればわかるように貴族や地方支配層に限らず民衆も性別、地位を問わずおおらかに歌を詠み、それがよければその地域で支持・広範に流布し伝承してきたものを国家事業で編纂したものです。
平安時代以降の伊勢物語や源氏物語に始まる王朝時代の女流作家の日記等(平家物語等のの戦記物)の著作物も特定権力者の秘蔵で成立するものではなく、多くの人に口コミで広まり、需要があってこそ多大な努力で(印刷でなく手書きで写すので相違が生じるし全巻揃って残りにくい)書写され広範に流布してその多様な写しが何々本という系列で残ったものです。
ちなみに飛鳥時代にはすでに印刷技術があって貴重な漢籍お経などは印刷された国産自然発生系は書写しかされなかったようです。
彫刻でさえ、民衆がありがたく拝む対象・実用品(円空仏のように)として成立し、秘仏ご開帳のたびに大衆が押しかける対象として生き残ってきた・・火事のたびに仏像や絵画古文書などを命懸けで運び出して残ってきたのは、末端下人に至るまで文化(良いもの)を愛で、あり難く崇拝する気持ちが行き渡っていたからでしょう。
東博の法隆寺館に行くといかにも個人蔵だったらしい小さな仏像が大量に展示されていますが、有名寺院の立派な仏像だけでなく名もない小さな仏像、個々人が大事に念持仏とし愛蔵されてきた歴史が分かります。
愛知トリエンナーレ「不自由」展に戻ります。
他人の金(公金給付補助基準を)で審査する以上は、平均的価値観・・その時代の目(世相・時流に流される)による基準しかあり得ないはずです。
現在低評価・・売れてない作品・制作費の補助がいる作家・市場評価の低い作品から後世に残る優秀作品、論文を各界現役実力者=現在市場高評価を受けている芸術家や思想家の審査委員(お歴々が)が審査するのは自己矛盾です。
彼らが本気で良いと思うなら自己の作品発表等で世に問うべき→一定方向へ業界内基準を変えて行く努力をすべきで、日展/院展であれ芥川賞、登竜門的音楽祭、博士論文その他の審査で入選させ引き立てれば済むはずです。
業界内基準を引きあげる努力をすべきで、それをしないで、いきなり公的機関でクー・デター的展示を強行する必要があるでしょうか?
「入賞→プロ仲間に入るレベルに達していない」と評価した同じ審査委員らが将来高評価を受けるはずという眼力を持って審査委員を務めるのは矛盾でしょう。
「逆は真ならず」で現在低評価=将来性が高いことになりません。
草野球程度の人材を創作に参加させる・・草野球程度レベル未熟者の作品展の機会を与えるのは、その分野の次世代継承者や消費の裾野を広げるためと、アマチュア的市民の自己実現機会を与えるために各サークルごとの展覧会の場を自治体等が設けていますし、各分野ごとの育成や支援制度の必要を否定するものではありません。
これらは市民サービスや教育制度充実の問題であって、ゴッホのように生きているときに高評価されなくとも、後世高評価されることがあるから異次元評価の仕組みを作ろうというのとは方向が若干違っています。
今回の「不自由」展で出品された作品がゴッホのヒマワリのように、後世高評価される芸術作品としての評価でなく、(ネット情報によるだけで実物を見ていませんが)テーマ通り政治色が強すぎることによって政治中立を前提にする公的支援を受けられない「不自由さ」を訴える作品を選んだ意図が出ているようです。
不自由とは何かですが、政治主張するには公的支援を受けにくい不自由を言うのでしょうか?
昨日まで紹介した論者はゴッホの例を比喩的に持ち出し、時勢に合わなくとも・・と言うのすが、これも比喩であって不自由展の強調にゴッホの例を持ち出すのは論点のスリ替えです。
ゴッホが生前より死後の方が高評価になったことを誰も否定しないことと、今回の不自由展とどんな関係があるかの説明がありません。
ゴッホの例を持ち出すことによって、「現在」市場評価はあてにならないと言えても、それは市場評価にも時間差があることが分かる程度で、だからと言って今の専門家が市場評価より優れていることにはなりません。
その時点での専門家の論評が同時点での市場動向に影響力を持っているので、(市場が受け入れる価値観同時性があるからこそ当時の一流批評家で理想作者となっているのです)百年単位以降の評価を予測評価できることの証明にはなりません。
百年単位先の予知能力を開発した立証がない限り現在業界首脳・審査員が英知を絞っても無理ではないでしょうか?
どういう根拠で自分らに限って100年先の価値が分かると言えるのでしょうか?

表現の自由市場論3

思想界では憲法学界を中心にした専門家が大衆同様に「自由市場論に酔い痴れた」まま思想の自由市場とは何かの分析研究を怠って来たように見えます。
むしろ自由市場論=部外者の介入拒否論は、文壇や学会等の支配確立後は、支配グループにとって居心地良いので、自由市場論に寄りかかって閉鎖社会を守ってきたのではないでしょうか?
経済学の場合、現実無視のマルクス経済学が学内主流でもグローバル化の進む実業界は義理で付き合ってると倒産するので学者のご高説を祭り上げて別に進んできましたのでそのまま信じるのは無垢な世間知らずの学生くらい・・いわゆる過激派全学連にその影響力を残すだけで、こういう人を育てるために巨額費用を国民が負担する必要があるのかの議論こそが必要でしょう。
憲法学とその関連思想界では平和憲法という世界に例のない憲法なので「日本は特別」という議論で世界とまともな学問的交流の必要がないので、経済学のようにグローバル化の進む世界との整合性も不要・・破綻しない・・「平和憲法を守れ」というスローガンだけで済むので、今も過激派学生だけでなく一般人左翼系に影響力を持っていますが、これも最後の段階でしょう。
学問の自由と大学の自治の関係では東大ポポロ劇団事件で一定のケリがついたのですが、自治にかこつけた治外法権的主張がいきすぎた・・自治にかこつけて学界外の批判を受け入れないで派閥の独占的立場が強まりすぎると学問も芸術も窒息していくしかないでしょう。
仲間内のかばい合いだけの芸術なんて誰も支持しない時代が来るのではないでしょうか?
今でも、自由市場論=部外者の介入拒否にこだわるのが一般的ですが、一方で本来の市場で売れなくとも構わないと言い張るのが彼らの同時主張です。
上記浜崎氏の引用でも出ているようにゴッホの例を出すのが普通で、言葉の意味での自由市場を否定=公権力の保護=予算要求するのが彼らの主張です。
自由市場で売れない芸術も国家や自体権力の保護・美術館買い上げや、作成費補助金支給の基準はその分野の自治・分野のヘゲモニーを握るグループ支配に委ねろという論法です。
慰安婦像が韓国による政治目的の制作であることが、国際的周知の事実であるにも拘らずその制作費等を日本政府が補助金を出すべしという矛盾を要求したのが今回の愛知トリエンナーレ展主催者の主張でした。
以上は憲法の表現の自由論について法律雑誌に出ているのを余暇に拾い読みする程度の雑な記憶によるものですので、専門家の間では深い研究が進んでいるのかもしれません。
もしもそのような研究が進んでいるならば、憲法や思想会の有名学者が安易に思想の自由市場論を前提にした議論を進めないはずと思うのですが・・。
こういうまともな研究論文があるが、学会で無視されて市場評価に出られない・・干されているだけという場合にはお教えくだされば、ありがたいことですのでよろしくお願いします。
以下に現在の自由市場論が出ていますが、ちょっと読む限り「自由市場論が比喩的に表現されるようになった経緯を紹介しているだけで「だからどうなの?」という私の関心のある現状分析まで進んでいないように読めるのですが・・。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit#

「言論の自由市場」再論 情報管理. 2017, vol. 59, no. 10, p. 699-701, doi: http://doi.org/10.1241/johokanri.59.699 大谷卓史(吉備国際大学アニメーション文化学部)
「言論の自由市場」とは,自由競争市場で,最適な資源配分が行われるという経済学的な仮定を意識した比喩だ」

という見出しですが、まさにそこで主張が止まっている印象です。
上記論文がなくとも元々商品市場の比喩に決まっていますが、比喩であるならば、そのまま準用できる分野と準用してはいけない分野の峻別が必要です。
産業系は原則自由市場で良いのですが、後進国においては、自国産業育成のために関税による保護が必要ですし、先進国でも公共事業は自由市場に委ねられないので税を徴収して警察組織を維持し、橋をかけたり港湾整備、美術館整備などしています。
芸術表現・例えばピカソやゴッホが制作当時売れなくとも後に価値が生じる例もあります。
思想表現も即時に市場評価で優劣を決めて良い分野か?そうでないとすれば将来の価値ある意見や芸術として保護すべきかどうかの判断は誰がすべきかが重要です。
将来に価値のある思想か?芸術品かの判断も市場評価に委ねるのも一方法です。
将来に価値ある思想か?芸術品かの判断も市場評価に委ねるのも一方法です。
事業でいえば将来性を織り込んで現在の評価がある・・株価が決まっていく仕組みです。
すなわち過去には、そういう目利き・・事業や政治分野等で成功した人材が時流に流されずに自己の見識に従って保護したり、パトロンになって過去の色んな優品制作を助けたので、後世に残ってきたのです。
現在高評価されていないが「これは凄い!」と後世に残す権利・・パトロンになれるのは、自己資金を投じることのできる一代の成功者にのみ許されることではないでしょうか?
公金給付補助基準を各界現役トップクラスが審査する以上は、その時代の目(世相、時流に流される)による基準しかあり得ないはずです。

表現の自由市場論(愛知トリエンナーレ展)2

大学でも共産主義思想の本丸というべき経済学でいえば、戦後すぐから、いわゆるマルクス経済学が大学教育界の主流でした。
(第一の原因は戦後占領政策によって右翼系学者が追放されてしまい、左右バランスで成り立っていた各種学界内のバランスが崩れ、左翼系学者がほぼ占領状態になったことが大本の原因です)
一旦学内で左翼駅独占の根をはるとその系列弟子以外の学者候補が出ないので、この再生産になる仕組みです。
戦後5〜60年経過で他大学出身の公募が始まっても、その間に東大等の旧帝大有力大学の系列化が進んでいるので、地方大学出身者が公募で東大助教授になっても、その恩師自体が東大や京大から来た先生の愛弟子だったりするので、3世代ぶりの本家直参に返り咲いた程度の意識になるのではないでしょうか?
この種の関心で私が経済原論講義を聞いた土方成美教授とはどういう系列の学者であったか今まで考えたこともなかったので、念のためウイキペデイアで見ました。
もちろん右も左もわからない時でしたので、何もわからずただぼやーっと講義を聞いていただけですが、効用逓減の法則の講義を不思議に感銘を受けた記憶だけが残っています。
ウイキペデイアによるとなんと戦前東大経済学部長の経歴を持ち、学部内で以下ウイキペデイア記載の通りの抗争事件を起こして喧嘩両成敗的に休職命令を受けて下野したという歴史上かなりの著名事件の主役だったことを初めて知りました。
この事件は南原繁だったか学問の自由、大学の自治のテーマだったかの関連コラムで少し書いた記憶ですが、恩師?土方教授が主役だったとは知らず、いつどこに書いたか忘れました。
ウイキペデイアの記事からです。

土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年)7月10日 – 昭和50年(1975年)2月15日)は、日本の経済学者。専攻は理論経済学、財政学
21年6月教授。
「統制経済」の概念を日本で初めて提唱したという[2]。この語は、自由主義経済の欠陥を政府の手で統制するという意味のものであり、「計画経済」とは異なるものであるとする。また、日本経済の実証研究も行なっており、これは当時誰も手をつけていない分野だったという
1933年4月-1936年3月、1937年4月-1938年3月まで経済学部長。1937年の学部長在任時には学部内左派の矢内原忠雄の言動を批判。辞職に追い込むきっかけを作る。この頃の経済学部では土方の国家主義派(革新派)と河合栄治郎らの自由主義派、及び大内兵衛の左派の派閥抗争が激化しており、河合については著書発禁を受けての処分も待たれているところであった。そこで、1938年末に新たな東京帝国大学総長へ就任した平賀譲による、いわゆる平賀粛学のため、「大学の綱紀紊乱」と「東大再建の障害」との理由で1939年2月13日、休職発令される(休職期間満了後、免官)。
東京帝国大学時代の弟子に難波田春夫がいる[6

難波田春夫関するウイキペデイアです。

兵庫県出身。東京帝国大学経済学部卒業と共に母校の助手となる。東京帝国大学の土方成美の愛弟子である[1]。1939年の平賀粛学では同僚と共に辞表を提出するものの撤回して助教授に昇進、1945年には経済学研究所所長となるが公職追放で大学を追われる。
追放解除後の1952年に東洋大学教授。その後、東京都立商科短期大学・早稲田大学・大東文化大学教授を歴任する傍ら内外経済調査室理事長を務め、関東学園大学・酒田短期大学では学長となった。
ヴェルナー・ゾンバルトの社会経済学をいち早く日本に紹介し、共同体に基づく統制経済を主張。その独特の主張には、学界のみならず財界や政界に少なからず支持者を獲得した。『国家と経済』に感銘した読者の一人であった慶応大生の伊藤淳二(元カネボウ会長)が、太平洋戦争(大東亜戦争)出征前に難波田(当時東京帝大助教授)を訪問して教えを請い、以後私淑した[要出典]。
1991年9月1日死去。享年85。
弟子に武井昭、田村正勝(早稲田大学教授)など

以上の通りで学派というか?系統は弟子がいる限り絶えないのです。
現在日経新聞で連載中の元ユネスコ事務局長を務めた松浦晃一郎氏の私の履歴書でも、アメリカでケインズ経済学でさえも時代遅れ扱いで新自由主義論が隆盛になっているの日本に帰ったときかいつの時期の感想か忘れましたが、まだ大学ではマルクス経済学中心なのに驚いたというか落胆したというか?の客観状況描写を書いていました。
以下昨日引用のhttps://the-criterion.jp/mail-magazine/m20190902/

<p style=”padding-left: 40px;”>浜崎洋介】の続きです。

(3)左陣営で「不自由」を強いられた作品に比して、右陣営で「不自由」を強いられてきた作品を積極的に展示していないという点(この点については、呉智英氏が、以下のサイトでまことに適切な批評を書いておられます。https://www.news-postseven.com/archives/20190826_1438197.html

商品でいえば業界審査を通さない新商品の市場投入が許されないという仕組みです。
これが自由市場と言えるのでしょうか?
比喩というのは、誰か気の利いた政治家が注目を浴びるために用いるキャッチフレーズであって、それが一世を風靡した後は、その適用限界を研究して行くのが思想家あるいは実務研究家の役割ではないでしょうか?
例えば「人民の人民による人民のための政治」というゲテイスバーグ演説も同じで、これは大衆を酔い痴れさせるためのレトリックに過ぎず、その具体的適用範囲方法(3権分立が良いか代議制の場合、大統領制か議院内閣制か直接制かなどを決めていくのは分野別専門家の活躍分野なのと同様です。

人種差別反対とか平和を守れ等のスローガンの繰り返しであれば庶民大衆の不満表明と同じで、平和を守るにはどうすべきか、格差是正するには、社会の仕組みをどうすれば良いかの具体策の研究・提言こそが専門家に求められているのです。

表現しての自由市場論(愛知トリエンナーレ展)1

憲法学者・戦後思想界は表現の自由市場論を金科玉条にしていますが、自由市場の定義がはっきりしません。
商品の優劣は市場が決めるのが合理的と多くが認めるようになると何でも市場の選択に委ねるべきかのような比喩が行われるようになりました。
しかし「比喩」という言葉自体がそのまま適用できないという意味を含んだ概念です。
思想表現の世界に、本当に自由市場論が成立するか、どう言う場合に成立するか等の吟味なしに、憲法学や憲法学に連なる思想界が安易に飛びついたまま一向に検証しようとしないで、約1世紀間も安易に比喩し続けているとすれば、憲法学界・思想学会の怠慢(人材不足?)が窺われることになりそうです。
研究成果を門外漢の私が知らないだけという可能性がありますが、その論争や検証作業が一般に知られずに、何かというと「思想表現の自由市場に委ねるべき論」が横行している現状からすれば、仮に研究する(したい)人がいても学会でまともにその種研究が相手にされていないから誰からも引用紹介されないからではないでしょうか。
最近の事例では愛知トリエンナーレ展の論争が知られています。
例えば以下の主張です。

採録掲載「公的芸術支援と表現自由 憲法の観点から」志田陽子さん 武蔵野美術大学教授(憲法、芸術法)

スピーカー:志田陽子
武蔵野美術大学造形学部教授(憲法、芸術法)、博士(法学)
2020年2月13日 於:Kosha33
・・・ここでいう中立というのは、例えばある政治政党に関わっている作家だけが優遇されることがあってはならないといったような意味です。芸術作品に対して政治的中立を求めるという意味になるべきではありません。そしてその選別は一般市民よりも専門家の判断を信頼し委ねるべきだということで、審査員が必ずいるわけです。税金を使う行政の側は、専門家の判断を信頼して選別には直接関わらず距離を置くという考え方です。この考え方は主にイギリスなどでとられていると聞いています。日本でもこの方面の知識がある人は、「アームズ・レングスの原則」という言い方でこの考え方を取っています。

出展審査は芸術家グループが決めるので、その審査結果に行政は中立であるべき→行政や一般人の口出し禁止論ですが、審査員という特権階級が出品権を奪うのは構わないと言うことになりそうです。
この論は権力からの自由はあるかもしれませんが、同業者の「検閲」とは言わないでしょうが出品審査を許すので、特定思想の支配する集団が営む芸術祭展示はその方向性の主張一色になるのをどうするかです。
報道の自由も同じですが、審査委員会を通りさえすれば特定政党のプロパガンダばかりでも中立と言えるのでしょうか?
放送の場合反対意見を平等に扱うことが求められていますが、愛知トリエンナーレ展で左翼系出展機会を失っているものの救済強調ばかりで、右翼系が過激すぎるとして?公共機関での出展できていない展示がなかったという批判もされています。
以下の記述です
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20190902/

浜崎洋介】芸術における「政治主義」を排す―「表現の不自由展・その後」をめぐって

・・・・・・百歩譲って、今回の企画展の「政治主義」を認めたとしましょう。しかし、それならそれで、かつて、「芸術は、政治的プロパガンダのためにこそある!」と言ってはばからなかった共産党のように、主催者側は、飽くまで自らの筋を通すべきではなったか。津田氏は、「大量の抗議や脅迫の電話によって現場の組織機能が失われ、トリエンナーレとは無関係の組織にまで同様の電話が殺到して文字どおり悲鳴があがっていました」(前掲)と言いますが、そんな脅しに一々屈しているようなら、「表現の自由」も何もあったものではない。せっかくの「芸術監督」制度なら、全責任は自分が負うとした上で 補助金カットをちらつかせながら恫喝してくる政治家や、「テロ」を仄めかす脅迫者=犯罪者に対して戦い続けるべきでした。

ここには、津田氏の覚悟のなさ、格好付けの表現の不自由展に過ぎない・・戦う覚悟のない芸術監督ってなんだ?という批判ですが、その中に共産党の過去の公式政治主張を紹介しています。
左翼系は芸術や思想界を支配する長期戦略で行なっている実態・・芸術界憲法学会思想界や報道界を支配してしまえば、学会の審査を通しさえすればどんな一方的な政治主張でも芸術発表とか思想討論会を名乗れば公的助成を受けて・・税を使って宣伝し放題という戦略を野放しにして良いかの視点がありません。
現在国際政治問題になっているユネスコや ILOやWHO国連人権委員会等が、特定国が事実上牛耳ってしまっている弊害が大きな問題に浮上していて、米国はすでにユネスコへ分担金拠出を停止しているしWHOもその対象になっています。
日本も国際捕鯨〇〇からの脱退を決めました。
日本の報道機関の多くが中韓等の事実上支配下に入っていると言う右翼系ネット批判が激しいですが、彼らの主張によれば言わば、日本の思想界学会、報道界教育界が根こそぎ左翼系の牙城になってきたような状況らしいです。
共産党の思想教育・得意の洗脳教育は、早ければ早いほど良い・子供の教育から・・と言う長期計画通りに戦後すぐに、日教組が左翼系の牙城になったのでしょうか?

任命5と市場競争(是枝監督の政府祝意辞退1)

1月21日「任命の効力4→選択権1」の続きです。
競合権力多数並立の場合、武将や武士、足軽等階層にかかわらずどの豪族〜戦国大名に従うかの選択肢があり、日本の戦国時代の英雄豪傑で言えば島左近や後藤又兵衛や藤堂高虎のように戦国大名を自ら袖にして有力大名家を渡り歩く例が多く見られました。
豊臣秀吉だって、小者の頃には渡り歩いて(今川家の陪臣松下加兵衛に仕えたことが知られています)最後に信長の小者になって落ち着いた遍歴です。
高名な英雄豪傑に見限られた大名は面白くないので、戦国末期で大名間交際が安定してくると黒田家?のように「奉公構」という回状を回して後藤又兵衛の再就職を妨害する例も出てきます。
企業で言えば、楯突いてやめた社員の再就職妨害行動をするようなものです。
のちに黒田家から後藤又兵衛との関係修復を目指して幕府に斡旋依頼したようですが、うまく行かない内に大阪の陣に突入して行くようです。
群雄割拠・並列競合状態が終わって最高権力・国家権力が確立すると、最高権力者=国家からのお召があると、これに応じないのは謀反の疑いがかかるので、契約以前に喜んで参上するようになっていたから契約概念が育たなかったのでしょう。
ところが経済水準が上がり、主食以外の嗜好品や寒さを防ぐだけでなく、おしゃれを楽しむ衣料品、その他文化芸術や娯楽性サービスが発達し、勤め先となる民間企業が発達してくると、国家権力に連なる分野以外の働き先が増えてきます。
今でも景気が良くなると、公務員応募が減るなど民間雇用状況次第の傾向が強まっています。アベノミクスの成果で民間は働き手不足で困っている→公務員に任命してやるありがたいだろう!という優越的関係が薄れてきました。
形式上一方的任命精神同様に叙勲や祝意は、一方的に授けるものでした。
最近国家の叙勲や祝意を辞退する(是枝監督のような)人が出ますが、これの盲点を突くと同時に国家権力の相対性をアピールしたい人がやるものでしょうか。
「公権力と距離を置く」と言うのが趣旨のようですが・・。
任命のように義務を伴わない一方的叙勲や祝意拒否は国家政府などに褒められたりおめでとうと言われたくない」という・・国家権威無視の態度をはっきりさせたものでしょう。
とはいえ、能力発揮・特に文化発露は個人の遺伝的能力のみによるものではなく、長い歴史・文化蓄積を切り離して考え難いものですから、生まれ育った社会を代表する公的な祝意・民主国家においては政府が国民代表です・・政府からの祝意は、生まれ育った、社会そのものからの祝福です。
これを受けられないと言うのは自分を育んでくれた社会や自然を否定したいという意味でしょうか?
よほど自分生い立ちに不満があるのでしょう?・・育った環境に不満があっても逆教を跳ね飛ばし、名を挙げ功を遂げられた以上は、結局感謝するのが凡人の心情ですが、こういう人が出てくると凡人には違和感を感じる人が多いから反響を読んだのでしょう。
いや、自分を育んでくれた友人先輩、環境に感謝しているが、今の政府におめでとうと言われたくないだけ・と言うのでしょうか?
今回のテーマ・・任命と拒否権の関連に戻り大臣就任要請を断るのは、一定の政策目標実現組織である内閣と意見が違う場合当然の権利ですし、政府の文化政策と意見を異にする場合それに協力しないのは映画人当然の権利ですが、是枝監督が映画製作段階で政府が介入したのをはねつけて映画を完成したなどの特別な遺恨があるのでしょうか?
それならばそれを公表すれば良いことですが、武士の情けで公表していないのでしょうか?
https://www.asahi.com/articles/DA3S13532802.html

是枝監督「公権力とは潔く距離保つ」 カンヌ最高賞、文科相の祝意辞退

https://bunshun.jp/articles/-/7743では「万引き家族』是枝裕和監督の「祝意辞退」と「助成金」の関係で「辞退」に対する擁護論らしく、是枝監督の映画が如何に素晴らしいかを書いていますが、最後に以下の引用があります。

文化庁の「日本映画製作支援事業」の定義を確認してみましょう。
「我が国の映画製作活動を奨励し、その振興を図るため、優れた劇映画、記録映画の製作活動を支援する。新たに、日本映画の魅力や多様性を強化し、その基盤を維持するため、中小を含む制作会社や新進映画作家向けの助成枠を設ける」。
助成金は「優れた劇映画」を作るための支援です。カンヌでパルムドール受賞を果たした『万引き家族』は、まさに正しく助成金の目的が達成された例といえるでしょう。

上記意見は、どちらかといえば政府助成金をもらっていても政府の祝意辞退は問題ないという擁護論のようなトーンですですが、その最後に解説なし引用があるので、擁護論の根拠としての引用かな?と予想されますが、読んでみるとこれが何故祝意辞退擁護根拠になるのか不明です。
上記引用部分によれば一党一派の立場からでなく、国民全体・国税を使った助成を受けたので自民党からの祝意を受けなくとも矛盾しないと言外に言いたいのでしょうか?
しかし、文科大臣の資格において祝意を示すのは出身母体はどの党であろうとも国民代表としての祝意です。
政府所管大臣/長官が補助金を出し、その時は自民党大臣だから受け取らないと拒否したなら一貫しますが、自民党政権の大臣あるいは長官から補助金を受けておきながら、祝意辞退の時だけ自民党政権の大臣から受けられない・嫌だというのは矛盾がないのでしょうか?
私の基本的立場は、補助金以前に同じ日本人としての快挙に素直に喝采したい人が多いのではないか・・政府は国民代表として祝意を表したいということではないでしょうか。
大臣個人は主観的にその映画を良いと思ったかどうかは別として、公人としての職務行為をしている以上、大臣の好みを持ち込むこと自体が許されないはずです。
国民の大方の気持ち・・総意を汲み取って国民代表として政府が祝福するのを自民党政権だから嫌だというのであれば自分の方から政治的立場の違いを芸術活動に持ち込み政治化するための発言でしょうか?

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