江戸時代産業構造の変化1

同時期の水野家の転封先浜松藩の表石高は、ウイキペデイアによれば以下の通りです。

肥前唐津藩から水野忠邦が6万石で入る。忠邦は天保5年(1834年)に老中となったことから1万石の加増を受けて7万石(7万453石とも)の大名となる。しかし天保の改革に失敗したことから弘化2年(1845年)9月に2万石を減封され、さらに家督を子の水野忠精に譲って強制的に隠居の上、蟄居に処された。11月に忠精は出羽山形藩に移封となる。

浜松は同じく表向き6万石ですから唐津とは石高では同格転封ですが、実高15万三千石ですから、伸び率が唐津に比べてかなり低かったことがわかります。
浜松は家康の本拠地であったことからか?転封に際しては実高による損得よりは格式獲得のために?大名が数年ごとに変わっていたとようで、領内産業構造改革の気持ちが乏しかった分成長力が低いのか、交易窓口の長崎に近い九州との距離で変化差がついたのか今のところ私には不明です。
当時の日本各大名家の実高表を知りませんが、列島の位置関係で見れば、西から東〜東北に移るに従い構造改革の波及が遅くなっている印象です。
例えば私が育った頃にどこの小学校にもあった?薪を背負って歩きながら本を読む二宮尊徳像が目に焼き付いていますが、彼は1856年70歳で死亡ですから、水野忠邦とほぼ同時代人で天保年間中心に活躍した偉人です。
(小田原藩で生まれ育った人で中高年期に今の栃木県中心に活躍)
彼の事績を見ると、経営才覚の良さもありますが、活躍の場の関係で成功例の多くは農産物増産・・農村振興政策でした。
このあとでhttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134214/1/eca1403-4_105.pdfの論文を紹介しますが、和泉国や尾張の国では同時期にはすでに今でいう農村工業地帯が成立していたのに比べれば、幕府直轄地を含めた東国の後進性が明らかです。
参考までに長州・・毛利家のGDPを見ると以下の通りです。

(徒然道草その39)毛利藩の幕末石高は実質100万石? 200万石?


(徒然道草その39)毛利藩の幕末石高は実質100万石? 200万石? | 公益財団法人 芸備協会

・・・石高は、農業生産高はある程度反映されるが、鉱工業・商業関係の生産高は限定的にしか反映されていない。斎藤修・西川俊作らによる『防長風土注進案』についての研究によると、1840年代の長州藩経済は、ほぼ200万石規模だったと推定している。
幕末の長州藩は島津藩や浅野藩を遥かに凌ぐこの財力によって、銃や軍備を整えることができたため、徳川幕府を倒す主役を演じることができたのである。

各藩がそれぞれの環境に合わせて改革に精出していたのですが、会津など東北系は生産増政策でも稲作の普及に成功するかどうかが藩政改革の中心であったのに対し、西国大名系は・・家内制手工業やサービス系への構造変化に対応できていた違いのように見えます。
例えば以下の記述です。
いわゆる家内製手工業の発生・成長がどうなっていたかの関心で検索すると以下のネット記事がありましたのでこれを紹介します。
読んでみると私の考えているのとほぼ同内容というか、学校教育で知る程度の常識紹介かな?ですので、大方引用紹介します。
ただし、その次に紹介する中村氏の京大論文のような具体的データ記載引用先がなく、誰かの意見の受け売り的意見でしかないように見えるものの、分かり良い説明です。

2017-10-12

【マニュファクチュア】日本の産業革命!明治維新の地殻変動の始まり。
江戸時代後期、貨幣経済は全国の農村に普及し、マニュファクチュア(工場制手工業)が成立しました。農民達は農業から工業へと労働形態をシフトさせていきます。
これによって大成功を収めた藩が薩摩藩と長州藩。いよいよ明治維新の地殻変動が水面下ではじまったのです。
18世紀後半、農民達が農業を捨てるという現象が起きました。
「農民が農業を捨てる!?じゃぁその農民は何をやっているの?」と思った方もいるかもしれません。
実は工場で働くようになったのです。農業ではなく、工業に従事する農民達が現れるようになったのです。
これが18世紀後半から成立する工場制手工業(マニュファクチュア)です。いわば日本独自の産業革命です。今まで農業が主流だった農村に工場が建設され、工業が台頭してきたのです。これはすなわち、資本主義経済の発達を意味します。
時の老中・田沼意次は貨幣至上主義の政策を行いましたが、彼の政策が上からの変化だとすれば、下からの変化が起きていたのです。
今回はそのマニュファクチュアが成立した過程について見ていきたいと思います。江戸時代中頃から後期にかけて農業以外の産業の発展が顕著になります。
例えば、林業、鉱業、水産業、または漆器、陶磁器、製紙、織物といった各地の特産物において著しい発展がみられました。
しかし、これらは一部の富裕層のみが購買していたため、商品の生産も問屋の注文を受けて農民個人が副業として細々と作っていたに過ぎませんでした。
この副業形態を農村家内工業と言います。例えば、砂糖や塩があれば、普段作っている汁物をより美味しく作ることが出来ますよね。一般庶民だってこれらの特産品が欲しいと思うようになるわけです。
・・人間には欲がありますから、やはり便利で最新鋭で快楽を与えてくれるものは欲しいのです。
庶民の物欲と購買力はどんどんあがり、大量消費の時代がやってきました。すると、問屋制家内工業では生産が追いつかなくなります。さらに多くの人手を集め、さらに大規模な生産施設が必要になったのです。
問屋自身が大規模な設備投資を行い、広い土地と生産道具を購入し、工場を建設し、労働者を募りました。農民達も農業をやるよりも、工場で働いたほうが効率的に賃金を稼ぐことが出来るため、積極的に工場労働へ応募するようになりました。

以下引用明日に続く

摂関家支配の構造変化(彰子死亡)

社会変化に関する次の時代の例として如何にも長く続いたかのように見える藤原北家の摂関政治を見ておきます。
例えば、摂関政治が平安時代政治の原型と思われていますが、元はと言えば光明子の設けた紫微中台・・後世の院政機関設置が始まりではないかと私は考えています。
何かの論文で読んだ記憶ですが、この予算は朝廷の予算を超えていた・・全ての人事を含めた政策決定が行われていました。
摂関家・特に北家・道長以降天皇を凌ぐ権力を振るえたのは、藤原詮子、姪の彰子2代が長期間キングメーカーであったことによるようです。
キングメーカーがいなくなって、摂政関白になるのが天皇や上皇の一存になると、結果的に天皇上皇の方が事実上権限が強まります。
道長が伊周との抗争に競り勝って権力獲得できたのは姉詮子の応援があってのことと知られていますが、道長の娘彰子が偶然長寿であったことにより摂関家=北家道長流と言われるほど、藤原北家の独壇場になり、天皇を凌ぐ権力を握れていたにすぎません。
彰子の影響力については、彼女が天皇家の家長として天皇や摂政任命権を長年握ってきたので摂関政治の基礎たる外祖父制度が続いた点については以下の通りです。
藤原 彰子に関するウイキペデイアの記事です。

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) – 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、日本の第66代天皇・一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号は上東門院(じょうとうもんいん)。大女院(おおにょいん)とも称された。
国母へ
長和元年(1012年)2月14日に皇太后、寛仁2年(1018年)正月7日に太皇太后となる。この間、長和5年(1016年)正月29日には敦成親王が即位し(後一条天皇)、道長は念願の摂政に就任した。翌年、道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引いた。
なお、道長の摂政就任と退任の上表は幼少の天皇ではなく彼女宛に出され、退任後の太政大臣補任も彼女の令旨によって行われている。
これは天皇の一種の分身的存在である摂政(およびその退任者)の人事が、天皇や摂政自身によって行われることは一種の矛盾(自己戴冠の問題)を抱えていたからだと考えられている。道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えた
曾孫・白河天皇の代、承保元年(1074年)10月3日、法成寺阿弥陀堂内で、87歳で没した(『扶桑略記』『百練抄』など)。同年2月2日に死去した長弟頼通に遅れること8か月であった。翌年には次弟教通も没し、院政開始への道が敷かれた。

上記の通り彰子が道長死後も国母としてキングメーカーの地位にあって摂関政治の実態を支えていたのですが、彼女が死亡するとすぐに摂関家体制の崩壊が始まります。
北家出身の女御に男子が生まれなくなったこととによって外祖父になれない後三条帝就任が、摂関政治弱体化の始まりでした。
その後院政開始の白河帝となった上に、キングメーカーであった彰子死亡後次期摂関白の指名権者が上皇に移ることになり、摂関家は急坂を転げ落ちるように政治権力から遠ざかり儀式要員になっていきます。
彰子がキングメーカーになった根拠と彰子死亡後、上皇にその権限が自動的に移行した経緯は以下の通りです。
院政に関するウイキペデイアの記事からです。

樋口健太郎は白河法皇の院政の前提として藤原彰子(上東門院)の存在があったと指摘する。彼女は我が子である後一条天皇を太皇太后(後に女院)の立場[5]から支え、以後白河天皇まで5代の天皇にわたり天皇家の家長的な存在であった。
天皇の代理であった摂政は自己の任免を天皇の勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身が自己の進退を判断する矛盾状態になる)、摂関家の全盛期を築いた道長・頼通父子の摂政任免も彼女の令旨などの体裁で実施されていた。
師実は自己の権威づけのために自己の摂関の任免について道長の先例に倣って父院である白河上皇の関与[6]を求め、天皇在位中の協調関係もあって上皇の行幸に公卿を動員し、院御所の造営に諸国所課を実施するなどその権限の強化に協力してきた。また、白河上皇も院庁の人事を師実に一任するなど、師実を国政の主導者として認める政策を採ってきた[7]・・・・

ゴッドマーザーを失った摂関家は、自己の後任(息子)を任命してもらうのに上皇の関与を求めるしかなくなったようです。
これでは摂関家は院の意のままになるしかありません。
この構造変化が、保元〜平治の乱に繋がり摂関政治が完全に終わりを告げ、摂関政治対抗のために権勢を振るった院政共に時代に取り残されることになったのです。
保元の乱の原因は天皇家内の恩讐や、摂関家内の恩讐など入り乱れていますが、その一つに摂関の後継争いがあった記憶です。
これが鳥羽法皇にいいように操られた(本気で中立を保ったのか不明ですが)ことが複雑化した原因でした。
ちなみに氏長者は、藤原家内の資産継承者の地位決定ですが、保元の乱の戦後処理では後白河天皇から、忠通が氏長者に命じられますが、忠通は藤原一族内への干渉の先例作りをにわかに受けることができず、かなり経過してからやむなく受諾した経緯があります。
次期摂政の地位を息子Aに譲るのにこれまで藤原彰子の指名でよかったのに彰子死亡後は上皇の任命が必要になっただけではなく、保元の乱以降では藤原氏の権勢凋落につけ込んで?藤原一門の家督相続・・氏長者決定にまで朝廷が介入するようになってきたことになります。
ちなみにこの慣例によるかかどうか不明ですが、例えば、徳川将軍任命の宣旨には、源氏長者の任命とセットになっていたようです。

  社会変化2→短命な班田収授法

吉宗自身いろんなことを知りたい好奇心の塊であった結果、自由な学問領域を認めたのでしょう。
下々の意見を聞いて政治をするといっても既定の(朱子学)枠内の諮問では結果が知れています。
吉宗の改革は植木鉢の根が絡まったような窮屈な状態になっているのをほぐし直すようなものだったでしょう。
これによって幕藩体制が生き返ったようです。
千年も2千年も社会構造そのままで来た中国や朝鮮と違い日本社会は古代から絶え間なく変化していますので、6〜70年・・約2世代経過でその前の成功体験・制度構築が合わなくなります。
3代将軍家光の子供世代の最後が綱吉でしたので家宣の時代は、徳川政権成立が関ヶ原後とすればすでに3世代以上経過しています。
社会変化・現実対応力が秀才には弱いように見えます。
例えば、班田収授法が始まってから例外たる私有地公認が始まるまでの期間は以下の通りほんの数十年間あるかないかです。
班田収授法に関するウイキペデイアです。

班田収授法の本格的な成立は、701年の大宝律令制定による。班田収授制は、律令制の根幹をなす最重要の制度であった。

律令制度では年齢男女別一人当たり何反歩という面積の割り当て方式でしたが、現在基準で考えると法令ができても、全国民に配分すべき農地の登録(農地の規模を決める測量その他のルールの整備?だけ考えても・その後実際の測量図面作成や地番の付け方)や配分すべき国民の統計・戸籍簿が完備するわけではありません。
事前にこうしたインフラがあってこそ政治的可能性だけ(反対派の抵抗など)の議論ですが、前提になる全国規模の統計整備などしたこともない時代に、律令だけ作ってどうやって実行しようとしていたのか理解不能です。
ちなみに幕末頃でも地番制度がなく、知行地の書き方をみると(今はうろ覚えですが)「〇〇の庄何町何反歩」という程度の書き方です。
明治民法ができても前提になる土地登記をするには、上記の通り地番制度自体がなかったので民法に登記が対抗要件と書いてあっても同時に登記法を作ることができなかった・・・前提になる地番等の表記制度がなかった・・ボワソナード(旧)民法成立時には戸籍制度の実務基盤ができていない状態で、約10年後の現民法ができた明治30年頃にようやく関連制度が出来上がりつつあったことを明治の法制度シリーズで紹介したことがあります。
関連整備を待つ必要がったので旧民法はすぐに施行出来ず施行時の特定さえできずにいた間に民法典論争が激しくなって結果的に施行しないうちに、現行民法制定なってしまったものでした。
反対運動があったので施行しなかったのではなかったのです。
例えば消費税が正しいという意見が仮に明治初年頃にあって法律が出来たとしても、売上帳簿制度がない状態でどうやって捕捉するのか考えれば、画餅論に過ぎないことが分かるでしょう。
今でも、もしもゼロからスタートすればこんな大事業の準備が5年や10年で終わるとは思えませんが、律令制当時土地の特定方法や測量技術がどんなものだったか知りませんが、大雑把でよかったとしてもその時代に応じた場所や範囲の特定作業その国家登録制度が必要だったでしょう。
以下に見るように本当に実施できたかどうかすら不明な723年には、すでに私有を認める制度が始まっています。
この制度はあっという間に崩壊し(本当は実施不可能だったのではないか?)私有化が認められ、私有化公認されると今度は租税回避目的で荘園制に移行しました。
口分田に関するウイキペデイアです。

導入 – 衰退の経緯
記録上は、8世紀=奈良時代を通じて順調に農地の支給(班田)が行われているが、800年の記録を最後に班田は行われなくなった。これに伴い、口分田制度も急速に衰退したのではないかと見られる。
ただし、班田が規定どおり行われていた時期においても全てが順調に機能していたわけではない。水田による班田が原則でありながら、水田の不足より陸田が混ぜられて支給されたり、地域の慣習法(郷土法)によって支給面積を削減されたり、遠方に口分田を与えられるケースもあった。
特に志摩国では水田が極度に不足していることから伊勢国尾張国の水田を口分田とする例外規定が認められていた。
都城の区域内も水田の耕作が禁じられていたため、口分田が設置されておらず、京に本貫を持つ京戸は畿内に口分田が与えられていた。

荘園パターンも内容は時期によって異なり同じ状態が続いたのではありません。
荘園_(日本)に関するウイキペデイアです。

日本の荘園は、朝廷が奈良時代に律令制下で農地増加を図るために有力者が新たに開墾した土地の私有(墾田永年私財法)により始まる。
平安時代には、まず小規模な免税農地からなる免田寄人型荘園が発達し、その後、皇室や摂関家・大寺社など権力者へ免税のために寄進する寄進地系荘園が主流を占めた。

700年始めに制度導入後養老7年(723年)に出された三世一身法に続いて墾田永年私財法は743年ですから、723年にはこの前提になる制度が始まっていてこの歳になって完全な私有承認に至るのです。
墾田永年私財法のウイキペデイアです。

背景
養老7年(723年)に出された三世一身法によって、墾田は孫までの3代の間に私財化が認められていたが、それでは3代後に国に返さなければならないことが見えており、農民の墾田意欲を増大させるには至らなかった。また開墾された田も、収公の時期が迫ると手入れがなされなくなり、荒れ地に戻ってしまいがちである。それを踏まえ、食料の生産を増やす為、この法の施行をもって永年にわたり私財とすることを可能とした。
原文には「由是農夫怠倦、開地復荒(これにより農民が怠け、開墾した土地が再び荒れる)」とあるが、三世一身法の施行からまだ20年しか経っておらず、3代を経過して農民の意欲が減退するという事態が本当に生じたかは疑問が残る所である。これを根拠として、むしろ農民というより富豪や大寺院の利益誘導ではなかったかという見方もある。

「富豪や大寺院の利益誘導」と言うのですから、大富豪の下で働く仕組み・・この頃には荘園化の進行を前提にした意見に見えます。
以上のように古代においても日本では目まぐるしく社会構造が変わっています。

文化の進んだ唐の理念実現を絶対として、やみくもに進まず、我が先祖が変化に柔軟対応して来た歴史がここに見えます。
長屋の王の事件は藤原4兄弟との政争に負けた点だけ一般化されていますが、本当は最高の貴種で秀才であった長屋の王が、左大臣で権勢をにぎったときに荘園化進行中・これが社会現実だったでしょうが、これに対する否定論・・観念論にこだわって幅広く新興荘園経営層を政敵にしてしまい、バックの広がりの違いで4兄弟との政争に負けたのではないでしょうか?
長屋の王は、朝廷そのものですから藤原氏を中心に旧豪族連が推し進める荘園拡大=朝廷収入の空洞化が許せなかったでしょう。
律令制導入は中国の真似をして朝廷に収入を集中し豪族の収入源(今で言う領地)を奪い、旧豪族には八色のカバネ姓や官位を授与し単なるサラリーマン化する政策に対する旧豪族連合の抵抗が荘園化進行だったでしょう。
大化の改新は天皇権力を強めすぎ・やりすぎたので結果的に天皇家の地位を弱めたように見えます。
この辺は建武の新政で後醍醐天皇が朝廷権力回復政策を推進すると急速に武士の支持が離れ、尊氏の方にみんな寄って行ったのと同じ・歴史順に見れば建武の新政の失敗は古代律令制失敗の轍を踏んだように読めます。

  社会変化→秀才の限界 1

新井白石に関するウイキペデイアの記事からです。

新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。
引退後
致仕後、白石が幼少の家継の将軍権威を向上すべく改訂した朝鮮通信使の応接や武家諸法度は、吉宗によってことごとく覆された。また、白石が家宣の諮問に応じて提出した膨大な政策資料が廃棄処分にされたり、幕府に献上した著書なども破棄されたりしたという。
江戸城中の御用控の部屋、神田小川町(千代田区)の屋敷も没収され、一旦、深川一色町(江東区福住1-9)の屋敷に移るが、享保2年(1717年)に幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲した。渋谷区千駄ヶ谷6-1-1に渋谷区が設置した記念案内板がある。当時は現在のような都会ではなく、一面に麦畑が広がるような土地だったと伝わる。
晩年は不遇の中でも著作活動に勤しんだ。『采覧異言』の終訂(自己添削)が完了した5、6日後の享保10年(1725年)5月19日、死去した。享年69(満68歳没)。墓所は中野区の高徳寺にある。

外様大名や反間部詮房/新井の幕閣内の支持を受けて屁理屈先行社会の限界を根底から覆したのが想定外の野育ちの将軍吉宗の登場だったことになります。
吉宗は儒学を否定したのではありません。
吉宗も当時主流だった朱子学を学んで育っていますので、儒学者も重用されていることが紹介されています。
http://www.ne.jp/asahi/chihiro/love/ooedo/ooedo71.htmlでは以下の通り紹介されています。

同時に林信篤、室鳩巣も吉宗に重用された儒学者でした。
その室鳩巣が、吉宗の教養について「御文盲に御座なされ候」といい、6代家宣の正室天英院の父・近衛基煕も「和歌については尤も無骨なり。わらふべし〃」と酷評しています。
どうやら吉宗は、当時武家社会において教養とされた儒学や和歌については、あまり得意ではなかったようです。
しかし、先に述べたように薬学に明るかったり、また神田駿河台(後に佐久間町に移転)に天文台を作るなど、実用的な学問には非常に興味を示したものでした。
文系ではなく理数系の人であったのでしょう。

私の(思いつき)意見は上記紹介意見と違い、理系か文系かではなく現実主義政治家であったということではないでしょうか?
青木昆陽の献策を受けて馬加村・マクワリ・現在の千葉市幕張でサツマイモの実験農場を作らせて見たり、同じく房総半島で白牛を育成させてチーズを作らせるなど何かと進取の気性というか好奇心が強かったように見えます。
青木昆陽の献策はもともと目安箱に投じられた意見によると言われますが、今風に民主主義思想によるというよりは、自分のしらない意見を知りたかったのではないでしょうか?
天文方自体は渋川春海の研究業績によって、本邦初の国産歴である貞享暦がおこなわれるようになったことが知られているように、貞享年間頃からあるものです。
天文台の設置自体が、単なる移転?であったとしても、相応の出費(今でいう予算)を要することですから、この方面への好奇心や理解があったということでしょう。
個人趣味のように発達していた和算を実務で応用する体制が天文台という国立?機関設置によって活躍の場というか、研究家・レベルの高い人が集い意見交換の場ができたことによってより一層の発展ができたものと思われます。
これによって国立機関の充実によって、天文→もともと発展期にあった我が国発の和算・・数学の発達に寄与したことが後世伊能忠敬がそこに籍を置いて天文方公式職務として日本地図作成・・全国測量して歩けたことなどで分かります。
正確な地図測量には三角法の数学基礎知識が(当時プロの世界では常識?)前提ですが、(実際伊能忠敬は、岬の突端などまでの距離を三角法で測量しています。)それまでの天文学=占星学と違い、科学的に事実を知る・・数学素養が基本です。
伊能忠敬の地図作成申請目的が、子午線の距離をより正確に知るには底辺距離長い方が仰角差正確に計算できるので蝦夷地での測量が必要となったことによると言われています。
最新考古資料発掘は地元好事家の発見によることが多いのですが、そのためには基礎学力の普及が必要です。
25年ほど前に千葉県に国立の歴博ができたことによって、(正式には「独立行政法人〇〇共同研究機構」というようですが、特定大学の研究所ではなく全国研究者に開かれた機構にすることによって、歴史研研究の場が開かれるようになったことがおおきなインフラになっているのと同じでしょう。
16〜7年ほど前に岐阜県山中のプラズマ発生装置?の修習生を連れて行き見学をしたことがありますがそこは歴博同様の〇〇共同研究機構と銘打っていて日本中の研究機関が事前申し込みによって巨大装置を使った実験をできて見学時にもどこかの大学の実験中でした。
このように開放的インフラ整備は長期的には重要な役割を果たすものです。
その後の日本での数学発展(世界的に見て日本の数学水準が高いのはこの時からの基礎(インフラ整備)によると(個人思いつきですが)おもわれます。
私の理解によれば、吉宗は幼児期からの教育主流に従って従来の朱子学者を重用しながらも並行して蘭学その他実学を取り入れて、前政権の白石流儀の隅々まで朱子学に反しないか目を光らせる小うるさい政治をやめたように見えます。

外貨準備とスワップ1

スワップ拡大傾向の結果、スワップさえあれば政府は経済政策の失敗を隠すために安心して外貨準備やGDPの過大発表が安易に行われるようになって来たように思われます。
比喩的に言えば、真水の外貨準備が緊急時に脱出しそうな外債より500億ドル足りない時に(500億ドル分粉飾していても)スワップ協定の枠が500億ドル以上あれば安泰ですから、スワップ分だけ粉飾許容範囲が広がる仕組みです。
スワップとは、経営者相互扶助同盟のようなもので経営者が自己保身のために粉飾を重ねていてこれがバレて株暴落局面がくれば、経営者連合が買い支え資金を出してくれるので仕手筋との資金投入競争に打ち勝てる仕組みです。
言わば企業が粉飾決算しても倒産しないし責任者処罰もないように保証され、粉飾し放題になったようなものです。
流石に私企業にそんな仕組みは許されない・・これでは株式市場が成り立たないのでそういう発想をすることすら許されないのですが、国家経営の場合だけ人民がかわいそうとか、国際経済秩序大混乱を防ぐという名分で行われるようになってきたように見えます。
上記のうち大混乱を防ぐという点は企業の場合「大きすぎて潰せない」という論理と同じでしかないし、大企業ならどんな不正をしてもいいのか?という論理に勝てないのが一般的です。
企業の場合いかに規模が大きくても、国家全体の粉飾と違って法的開示義務情報が多い上に株式市場・債券市場の相場に日々反映されるので国家のデフォルトと違ってバレるまでの時間差が短いので2000年代に入ってからもエンロン粉飾等々時々世界を騒がせてきました。
リーマンショックも結局は潰すと影響が大きいとの理由では、政府が救済できないという判断でした。
この結果、企業では「大きすぎて潰せない」という過去の(大きさにあぐらをかく)変な風潮は一掃されたように思われます。
ところが国家の場合、この風潮が今だに強固に残っているので無責任な国家運営が行われ財務諸表?粉飾が横行する土台になっているように思われます。
国家を企業に置き換えれば、倒産すれば露頭に迷う従業員がかわいそうという論理でしょうか?
異民族に支配されていたならば別ですが、民族国家であればこそなおさら過去の粉飾を許し・・いわば詐欺商法でうまい汁を一緒に吸い、受益したのもその国民ですから、受益した国民が責任をとるべきでしょう。
30年以上前のことになりましたが、豊田商事という大規模詐欺商法事件がありましたが、この企業を潰すと詐欺商法に関わっていた多数従業員が可哀想だから、破産させない方がいいという意見があったでしょうか?
ベネズエラが今年1月には、何万%というインフレ率になっていると紹介しましたが、メデイア論調の主流は現政権が権力にしがみつくことに対する姿勢批判のみですが、まともに働かずに高騰した原油収入に奢って国際常識無視で突っ走る政権を支持してきたのは、その国民だったのではないでしょうか?
企業倒産の多くが積年の弊の積み重ね(過去のブランドに頼ってダラダラと働く社員が増えて)でじりじりと競争力を失い倒産するのが普通ですが(例外的に特定トップの暴走もあります)、その弊を積み重ねてきたのは従業員一人一人です。
5月11日の日経新聞2p「文在寅政権の2年」に出ていますが、ルノーサムスン工場では昨年10月から、60回以上のストライキを実施したとか、現代自動車労組の法外な?要求が代表例として紹介されています。
仮に現代自動車が倒産した場合、最大の戦犯は経営者と労組でないかと思う人が多くなるでしょう。
ルノーサムスンが、工場閉鎖し労働者が仕事を失う場合、労働者を税金で救済する必要があるかの問題に置き換えたらどうでしょうか?
国家破綻の場合も、無責任な行動を支持してきた国民が相応の責任をとるべきです。
過去の政策を支持してきた国民も一定の責任を負うとしても飢え死にするような最悪自体は別途人道的救済対象でしょうが・・。
スワップの拡大は、その限度で無責任同盟のような効能があります。
大きすぎて潰せないという言葉がバブル前に日本ではやりましたが、バブル崩壊では山一証券その他国策大手銀行も姿を消したように、国家運営破綻の場合も、影響の波及をどう防止するかの知恵をしぼるのとは別に、国家会計の明瞭化システムを国際的に整えるべきでしょう。
これに応じない国は、国際決済取引から除外される国家扱いでも仕方ないのではないでしょうか?
戦争原因の多くは国内政治・国民困窮化に由来する(トップの暴走もありますが)ものですから、経済情報を透明化して健康診断のように早期に国内経済の病根を明らかにして国際社会からノーハウ提供を受けるのが合理的です。
不都合な事実を覆い隠す口実として、国際評価を受けるのを国辱として隠蔽するため、対外強硬論や隣国非難に没頭するのは邪道です。
企業粉飾動機同様に、国家運営がうまくいかないのは指導者の無能によることが多いのですから、経営がうまく行ってない評価を市場で受けるのは政権担当者にとっては恥でしょうが、国辱ではありません。
国辱ものとメデイア総動員していきり立つのは自己責任のすり替えです。
韓国では、アジア通貨危機を乗りきれずIMF管理になったのを政治責任としないで?国辱として、これの再来防止を最大の政治目標化しているようですが、指導者責任の問題を「国辱」という民族の恥意識にずらし、国家運営管理をしたIMF支配に対する怨念に変容させているようです。
外国や国際機関の指導・支配?を受けるのは国政運営能力が1人前でないことを赤裸々にされることですから、政権担当者にとっては文字通り赤っ恥をかかされた思いでしょうが、これを国辱問題にすり替えているのではないでしょうか。
こういう争点ずらしは、日本の明治維新頃以降の李氏朝鮮の右往左往ぶり・朝鮮民族は欧米列強到来にうろたえるばかりで日韓併合に至ったのですが、一人前の政府のテイをなしていなかった結果亡国に至ったのですが、この歴史も自己反省よりは、相手批判ばかりです。
当時の世界大激変の嵐の中で、清朝の縋ったりロシアについたり、自己統治能力がないから世界中が放置できない状態になっていたのが諸外国の介入を招く原因でした。
今でも朝鮮問題が複雑化する一方なのは、自分たちの問題を自分で解決しようとしないで周辺大国を巻き込んでうまく・ずるく立ち回ろうとするから混乱するのです

この10年〜20年の動きを見ると関係国が皆辟易して手を引き始めると見捨てられるのが怖くて核兵器やロケット開発等で注意を引く小細工の繰り返しです。
最近では対米交渉が行き詰まったのでロシアを巻き込もうとして金正恩が4月末頃にロシア訪問しましたが、相手にされなかったようでした。

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