伝言ゲーム的拡散とフェイク1(余命3年)

http://www.osint-japan.com/index.php?514%E3%80%80%在日韓国人と改正韓国国籍法②

新版・余命三年時事日記第6部その2
・・・在日同胞は現在、兵役法の(在外国民2世)という制度により、兵役義務は延期されており、実質的に免除されているような状態だ。
しかし東京と大阪で行われた兵務行政の説明会では、2012年から施行されている兵役法令により、1994年以後の出生者は、18歳から通算で韓国滞在期間3年を超えれば、「在外国民2世」とは認められないことが明らかになった。
3年を超えて、韓国に長期滞在(1年のうち半年以上)および営利活動をすると、兵役義務が課せられるようになっている。この時点で日本に戻るか、兵役義務を果たすかの選択を迫られる。
これまでは(在外国民2世)制度により、兵役は延期され、韓国での長期滞在および営利活動に制限はなかったが、94年以後の出生者からは制限されるようになっている。
海外同胞のうち9割の対象者が在日同胞であり、大きな法改正であったにもかかわらず、日本国内における兵務庁の説明は不十分だった。
民団中央本部で兵務行政担当の洪京振主任は「今後、改正の根拠を確認したうえで、在日同胞の立場を理解してもらえるような要望活動を検討している。 94年以後の人も、以前の人と同じ待遇にしたい」と話している。http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=74374&thread=04
前置きが長くなったが、今回の兵務行政の説明会では、韓国人として生きるか、日本人として生きるか、それともこのまま在日韓国人として生きるかを問うているのである。
・・・つまり、生まれたまま韓国籍を維持して18歳になる年の元旦を超えてしまった人そして満37歳の元旦に至ってない在日は兵役を果たさなければ国籍離脱ができないのだ。
在日韓国人の家庭で両親のどちらかが日本国籍の場合、22歳までに「日本国籍を選択」すれば、「日本国籍」を取得できる。よって、在日韓国人男性への兵役実施が決まると、日本国籍選択者が間違いなく増える。すでに韓国籍を選択した在日韓国人男性の場合は、韓国での兵役が終了しない限り、国籍離脱を認めないよう法律が改正されたため日本への帰化はできなくなった。

上記を見ると流石にプロの情報家らしく慎重に1994年以後の出生者は、18歳から通算で3年の滞在期間を超えれば、「在外国民2世」とは認められない」という紹介をきっちりしているので18歳から37歳までの通算3年滞在しなければいいのか?と思って読んでいると続けて
「3年を超えて、韓国に長期滞在(1年のうち半年以上)および営利活動をすると、兵役義務が課せられるようになっている」
と書いていて最も重要な滞在期間の説明が単純でなくなり、何か複雑な要件があるらしいと予感させながらその具体的説明に進まないのでよく理解できず思考停止させておいて、いきなり
「この時点で日本に戻るか、兵役義務を果たすかの選択を迫られる。」
と結論をぶっつけて前に進む仕掛けになっています。

「つまり、生まれたまま韓国籍を維持して18歳になる年の元旦を超えてしまった人そして満37歳の元旦に至ってない在日は兵役を果たさなければ国籍離脱ができないのだ。」

と、どんどん結論がズレて行きますが、これは兵役義務免除のない一般韓国人の兵役条件を書いているだけです。
今回引用のネット記事は韓国の兵役法改正によって在日の兵役義務免除要件がどう変わったかの解説をしている筈なのに、義務免除がなくなれば義務が復活しますよ!という同義反復しているにすぎません。
結論部分で法定の滞在期間を超えた場合に限るという最重要限定条件を外して書いているのでうっかり読んでいくと在日の多くがこうなるのか?という不安を誘導する仕掛けになっています。
私のように暇つぶしで「他人のネット記事によれば、こうなりそう」という感想を書く無責任ブログを公称しているブログと違い、今日引用しているネット意見は、いかにもその道のプロらしい・生の情報・・第一次情報による意見的な書き方をしているのでこの意見を基礎にした二次〜3次意見が流布するようになっています。
韓国語を直接読解できる・原典に直接当たれる能力を売り物にしているならば、兵役法あるいは施行規則などの条文そのままを日本誤訳で引用して条文解説するのが誠実な書き方でしょう。
この重要部分を明確に引用紹介せずに、しかも兵役義務除外がなくなる長期滞在に当たる場合という限定を付さずに、韓国にいる韓国人同様の兵役義務不履行に該当する場合の結論を断定的に書いていますので、通勤電車内やちょっとした時間で急いでさっと読むと今後在日のほとんどがこの結論部分になるのかな?と誤って記憶してしまう誘発効果があります。
もともと営利目的で年間半年以上も長期滞在する在日は滅多にいないでしょうし、昨日書いた通り、この法定期間を超えて長期滞在すると兵役義務除外効果がなくなることが法で明記されたとすれば、(自己選択権があるので)あえて法定期間を超えて長期滞在し営利活動する人は兵役義務覚悟の上の人だけでしょう。
法定期間(営利活動で1年のうち半年以上も)韓国に長期滞在するごく例外事例(そういう人はもはや在日ではなく韓国人そのものとほとんど変わらないでしょうから兵役義務その他本国人と同じ義務を負担すべきは当然のように思われます)を、あたかも在日の大多数が自動的に兵役義務を負うようになったかのような断定的表現をしていることになります。
これをさっと読んだ人は、在日は37歳までに兵役義務を果たさないと国籍離脱できなくなったのか?と誤解を誘発するような書きぶりです。
以下長くなるので明日続行します。

江戸時代産業構造の変化3(GDP指標1)

昨日見たように大阪市場に出回る金額比率では1711年にコメ100対綿製品18だったのが、1804年以降100対105の関係に逆転しています。
しかも主力製品である縞木綿等が統計から抜けているというのです。
他の商品も同率変化かどうかまでは分かりませんが、綿に関しては大幅な比率変化です。
1800年代に入ると、(工業制手工業の発達によって)大口取引は大阪市場を通さない直接取引が一般化していったとも一般に解説されていますので、コメの経済比重は大幅低下していたことが明らかです。
今では、食品でさえもコンビニその他大手スーパーの食品工場化によって農産物や魚介類も公設市場経由はなく、大手の場合契約農家から直接仕入れが普通になっていますが、こうなってきたのはまだ数十年のことです。
魚貝類も同様です。
小池都知事就任以来、築地市場移転問題が一般の注目を浴びましたが、実はこの数十年で魚介類や、農産物の市場離れが激しく市場に頼る率が急激に減少しています。
(今でも市場経由で仕入れている業者は個人経営のレストランをちょっと大きくした程度で全国展開規模の企業で築地や太田市場購入を基本にしている企業は皆無に近いのではないでしょうか?)
千葉市中心部で見ると青果物や魚などの商店は、ほぼ壊滅状態です。
数十年前には、各地域には数店舗以上経営する個人的商売(地元スーパーや飲食店の成功者など)がありましたが、昭和末頃から平成に入った頃から大手に負けてあるいは吸収されて、地元地盤の百貨店やスーパーなど事業体の多くが姿を消しました。
領内から集めた年貢米換金の場合、今のような食品工場化=大規模購入先がないので、領内消費地の大部分を占める自分の城下町での換金だけでは外貨(幕府発行の貨幣)を稼げないので余剰分を従来通り大名は大阪市場で換金するしかなかったのでしょう。
戦国時代が終わると大名領国の一円支配確立・・農村地域内での自給自足分プラスアルファを残して徴税する関係上・領内の大規模米取引が原則として成立しません。
大大名であればあるほど、大規模に集まった米の換金には京大阪江戸三都での大消費地へ輸出するしかないのですが、そのためには直接個別大名が直接販路を求めて輸送するのは無理があるので自然発生的に大阪のコメ市場が成立したものでしょう。
江戸時代中期以降藩政改革の一環として、特産品開発→専売制は広がりますが、もともとコメを大名が年貢として取り立てた結果、(今の金曜市場で年金資金が大口運用者になっているような現象?)コメの出荷者として大名・旗本等の領主が大口市場参加者になったことから、結果的にコメの専売制度の基礎になっていたようなものです。
大阪市場に消費者(例えば江戸の町民が)が直接参加できないので、問屋が大量買い付けして各地の二次問屋〜三次問屋〜小売に分散していく・・結果的に問屋資本蓄積が発達し、問屋資本が、家内制手工業を組織化するまでの過渡期があったのです。
現在でも公設の魚市場や青果物では、セリ参加資格のある仲買人がセリを通じてまとめ買いして、その仲買人から各個人商店が買って帰る仕組みです。
このように家内制手工業を組織化したのが問屋資本でしたが、すぐにこれが直取引拡大によって問屋資本から離れて行きます。
家内制手工業の初期イメージは、今は姿を消しましたが、私の高校時代以降・・昭和3〜40年台に一般的であった家庭内内職が十数人規模の雇い人利用規模に変わった程度の光景でしょうか?
家内制手工業がさらに成長して工場制手工業に脱皮していくといわゆる産業資本家が勃興し、問屋資本による家内制手工業が淘汰されていきます。
これに比例して工業製品の直接取引が始まり、大阪市場を経由しなくなってきたのが天保の改革頃の経済状況でした。
製鉄や車造船テレビみんなそうですが、工業製品は市場での競りによる取引ではなく相対取引が原則です。
以上のように綿製品等の主要製品が大阪市場離れを起こしていたにも関わらず、大阪市場だけで見てもコメの比率が綿製品にくらべて大幅低下していたことがわかります。
徳川政権樹立当時コメ収益を基本(実は当時もコメだけを基準にしたのではないので厳密には複雑・・コメを基準値とした換算であったと思われます)として、幕府や大名家の格式・経済力差・軍役基準を決めていた物差しでは、1800年頃には対応できない時代が来ていたのです。
まして約100年前の1600年代初期との比較データが出ていませんが、幕府草創期に決めた石高との比較では、まるで基準になっていなかったと思われます。
9月4日に唐津藩の石高が表6万石に対して実高25万石と紹介しましたが、幕藩体制確立時の当初格付けは意味をなさなくなっていたことがわかるでしょう。
「鉄は国家なり」とか建艦競争の時代には「造船力」で国力を測る時代がありましたが今は違います。
200年前の大企業が200年間リーデングカンパニーであり続けているか・・仮にリーデイングカンパニーであり続けているとした場合、主力商品入れ変えに成功しているからこそ生き残っているのでしょう。
江戸時代270年間に主力商品産業が入れ替わっていたのです。
最近では旧来型GDP数値にこだわるのは意味がないのではないか?という印象を持つ人が増えていると思いますが・・。
そういうメデイアの意見を見かけませんが・・。
いわゆる失われた20年論では、GDPの上昇率が低いという主張ですが、個人の生き方で言えば、収入や売り上げ前年比なん%増で嬉しいのは青壮年期のことで、一定以上の年齢や年収になれば、これ以上売り上げ増や新店舗展開のために長時間働くよりは、この辺でスピードを緩めたいと考え若い頃の行動パターンを修正するのは不合理ではありません。
(個人で見れば、ある日救急車で運ばれるまで猛烈社員を続けるのは愚の骨頂です)
国家や社会も生き物?としては同様で、一定の高原状態に達すれば現状維持するのが合理的であり、ゴムが伸びきっている状態で際限のない成長を目指してある日突然ゴムが切れるような事態・・急激な国家破綻を招くより合理的です。

江戸時代産業構造の変化2(工場制手工業)

昨日引用の続きです。

そこに十数人の賃金労働者を雇い規格品を分業制によって大量生産する方向へと移っていきました。
これがいわゆるマニュファクチュア(工場制手工業)の成立で、現在の工場勤務の原型とも言えるでしょう。
量産化に対応すべく技術革新もどんどん行われるようになります。
織物業では機織り機は「いざり機(ばた)」からのより高性能の「高機」へ。糸撚り機は人力の「紡車」から水力利用した「水力八丁車」へと機械がグレードアップしていきました。
マニュファクチュアは全国的に広がり、中には藩全体がマニュファクチュアを積極的に推進する動きがみられ、藩自らが工場を建設したり、生産された特産品を藩の専売とし、大成功を収める藩が出てきました。(専売→その藩のみが独占的に特産品を売ること。)
中でも雄藩としてのしあがったのは・・・そうです。薩摩藩と長州藩です。薩摩藩は砂糖の専売、長州藩は紙やロウの専売によって藩政改革に成功したのです。
「農民が工場に出勤し、製品を作り、賃金をもらう。」こうした農村の賃金労働のはじまりは、農村を貨幣経済へとどんどん巻き込んでいきます。一方で、農業従事者が減ったことで田畑が荒廃していったことも紛れもない事実です。
田沼に代わって老中となった松平定信は従来の土地至上主義へ回帰を目指し、自給自足を推進するため、商品作物の栽培を禁止する法令を出します。つまり、「お金儲けのための作物や特産品を作らずに、お米を作れということです。」
だって、貨幣経済が農村にまで普及し、経済は活性化。さらに技術革新によって飛躍的に経済成長しているというのに、この後に及んでこんな法令・・・・時代錯誤も良い所。
定信の政治が民衆の反感を買ったのは、これですよ。これ

上記意見でも定信の改革?の時代錯誤性を書いています。

藩が主役になる産業・・専売制度は長州が有名ですが、例えば阿波徳島に旅行した時に見学した藍屋敷・・の藍の専売制度もそのような一例でしょう。
産業構造変化については、木綿産業限定ですが具体的記述のある以下の論文がネットで見つかりました。
https://repository.kulib.kyotou.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134214/1/eca1403-4_105.pdf

昭 和 62年 9・10月 京都大学経済学会
江戸後期における農村工業の発達 日本経済近代化の歴史的前提としての一一 中 村 哲
II 近世社会〔江戸時代の社会〉の経済的性格と木綿
日本では,中世社会〈鎌倉・室町附代〉と近世社会〔江戸時代〉は封建社会 という点で共通した面をもっているが,他面,非常に異質である。経済的側面 におけるもっとも大きな相違は,商品経済の発達であるυ
・・・幕末開港以後の主要 貿易品,すなわち輸出の生糸,茶,輸入の綿織物,砂精などは, もともと日本 にはなかったものであれ中世には輸入品であり,中世末から近世初に国屋化 されたのである。低技術の生糸は古代からあったが. 15位紀から発達した高級 絹織物である酉陣織の原料となる生糸はすべて輸入であり中世末,近世前期 (16~’17世紀)においては生糸は最大の輸入品であった。
木綿は・・・日本で国産化されたのは. 15世紀末からで 16世紀に全国に普及した。最初は かなり高価であったと思われるが,普及するにつれて大衆衣料となった。
この木綿をはじめとして,中世末から近世初にかけて,それまで輸入品であっ た砂糖,たばこ,茶,絹織物,生糸,磁器などが国産化されていった。
それによって日本人の生活が大きく変った。国産化された場合,農民でも生活するためには,商品経済関係に入 らなければならなくなったのである。
・・・木綿は16世紀, とくにその後半か ら急速に全国に普及し, 17世紀の初めに庶民衣料としての地位を確立したとみ られる。
ところがこの頃から商品生産としての綿作(原綿栽培), 綿工業は畿内(大阪,京都を中心とする地域で,当時,日本で経済的にもっとも進んでい た)に集中する傾向がみられ,畿内では農工の分離が始まる。
北陸,東北,九 州など綿作の立地条件のよくないところは畿内から大量の原綿を買い入れ,原 綿から綿糸を作って綿織物にするようになり,東北J 九州という後進的な農村 も全国的な商品経済のネットワークの中に入ることになる。
・・・1714年に大阪に集められた商品は銀44万貫余と いう巨額に達するが,そのうも35.8%は蔵米, 即ち年貢米であった。幕府,藩 は農民からとり立てた多量の年貢米を大阪に送って販売し,その金で大阪で必 要な物資を買うか,江戸や国元(自分の領国〕に送金して財政を維持していた。

上記によれば1714年(吉宗の将軍就任1716年の2年前)時点で、大阪の商品取引高中で米の比率はすでに35、8%しかなかったことがわかります。
引用続きです。

III 近世後期 (18世紀後半以後〉の商品経済の発展
近世的経済構造は18世紀中期以後解体してゆく。
文化・文政期には,主要商品しかわからないが, 米以外の商品の中で,集荷量の不明のものが,判明する商品と同じ割合でこの 1世紀聞に増加したものと仮定すると,文化・文政期には蔵米は 150万石(1 石は約 5ブッシェル〉で1714年の112万石より増えているが,価額では全商品の13.7%に低下している。
他の商品のふえ方がはるかに多いことと,米の他の 商品に対する相対価格が下ったためである。
蔵米を 100として, 1711年に綿関係商品は18 であったが, 1736年に31となり, 1804~29年には 105 となっている。つまり木綿 関係商品が蔵米より多額になっているのである。
しかもこの資料には 18 4~29 年の綿関係商品には相当多額にあったと思われる縞木綿〔先染の綿織物〉と綿糸が欠けている。 蔵米と綿関係商品はたんに物として(素材的に)ちがう(米と衣料というように〉ということだけでなしその経済的性質が本質的にちがっている。

江戸時代産業構造の変化1

同時期の水野家の転封先浜松藩の表石高は、ウイキペデイアによれば以下の通りです。

肥前唐津藩から水野忠邦が6万石で入る。忠邦は天保5年(1834年)に老中となったことから1万石の加増を受けて7万石(7万453石とも)の大名となる。しかし天保の改革に失敗したことから弘化2年(1845年)9月に2万石を減封され、さらに家督を子の水野忠精に譲って強制的に隠居の上、蟄居に処された。11月に忠精は出羽山形藩に移封となる。

浜松は同じく表向き6万石ですから唐津とは石高では同格転封ですが、実高15万三千石ですから、伸び率が唐津に比べてかなり低かったことがわかります。
浜松は家康の本拠地であったことからか?転封に際しては実高による損得よりは格式獲得のために?大名が数年ごとに変わっていたとようで、領内産業構造改革の気持ちが乏しかった分成長力が低いのか、交易窓口の長崎に近い九州との距離で変化差がついたのか今のところ私には不明です。
当時の日本各大名家の実高表を知りませんが、列島の位置関係で見れば、西から東〜東北に移るに従い構造改革の波及が遅くなっている印象です。
例えば私が育った頃にどこの小学校にもあった?薪を背負って歩きながら本を読む二宮尊徳像が目に焼き付いていますが、彼は1856年70歳で死亡ですから、水野忠邦とほぼ同時代人で天保年間中心に活躍した偉人です。
(小田原藩で生まれ育った人で中高年期に今の栃木県中心に活躍)
彼の事績を見ると、経営才覚の良さもありますが、活躍の場の関係で成功例の多くは農産物増産・・農村振興政策でした。
このあとでhttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134214/1/eca1403-4_105.pdfの論文を紹介しますが、和泉国や尾張の国では同時期にはすでに今でいう農村工業地帯が成立していたのに比べれば、幕府直轄地を含めた東国の後進性が明らかです。
参考までに長州・・毛利家のGDPを見ると以下の通りです。

(徒然道草その39)毛利藩の幕末石高は実質100万石? 200万石?


(徒然道草その39)毛利藩の幕末石高は実質100万石? 200万石? | 公益財団法人 芸備協会

・・・石高は、農業生産高はある程度反映されるが、鉱工業・商業関係の生産高は限定的にしか反映されていない。斎藤修・西川俊作らによる『防長風土注進案』についての研究によると、1840年代の長州藩経済は、ほぼ200万石規模だったと推定している。
幕末の長州藩は島津藩や浅野藩を遥かに凌ぐこの財力によって、銃や軍備を整えることができたため、徳川幕府を倒す主役を演じることができたのである。

各藩がそれぞれの環境に合わせて改革に精出していたのですが、会津など東北系は生産増政策でも稲作の普及に成功するかどうかが藩政改革の中心であったのに対し、西国大名系は・・家内制手工業やサービス系への構造変化に対応できていた違いのように見えます。
例えば以下の記述です。
いわゆる家内製手工業の発生・成長がどうなっていたかの関心で検索すると以下のネット記事がありましたのでこれを紹介します。
読んでみると私の考えているのとほぼ同内容というか、学校教育で知る程度の常識紹介かな?ですので、大方引用紹介します。
ただし、その次に紹介する中村氏の京大論文のような具体的データ記載引用先がなく、誰かの意見の受け売り的意見でしかないように見えるものの、分かり良い説明です。

2017-10-12

【マニュファクチュア】日本の産業革命!明治維新の地殻変動の始まり。
江戸時代後期、貨幣経済は全国の農村に普及し、マニュファクチュア(工場制手工業)が成立しました。農民達は農業から工業へと労働形態をシフトさせていきます。
これによって大成功を収めた藩が薩摩藩と長州藩。いよいよ明治維新の地殻変動が水面下ではじまったのです。
18世紀後半、農民達が農業を捨てるという現象が起きました。
「農民が農業を捨てる!?じゃぁその農民は何をやっているの?」と思った方もいるかもしれません。
実は工場で働くようになったのです。農業ではなく、工業に従事する農民達が現れるようになったのです。
これが18世紀後半から成立する工場制手工業(マニュファクチュア)です。いわば日本独自の産業革命です。今まで農業が主流だった農村に工場が建設され、工業が台頭してきたのです。これはすなわち、資本主義経済の発達を意味します。
時の老中・田沼意次は貨幣至上主義の政策を行いましたが、彼の政策が上からの変化だとすれば、下からの変化が起きていたのです。
今回はそのマニュファクチュアが成立した過程について見ていきたいと思います。江戸時代中頃から後期にかけて農業以外の産業の発展が顕著になります。
例えば、林業、鉱業、水産業、または漆器、陶磁器、製紙、織物といった各地の特産物において著しい発展がみられました。
しかし、これらは一部の富裕層のみが購買していたため、商品の生産も問屋の注文を受けて農民個人が副業として細々と作っていたに過ぎませんでした。
この副業形態を農村家内工業と言います。例えば、砂糖や塩があれば、普段作っている汁物をより美味しく作ることが出来ますよね。一般庶民だってこれらの特産品が欲しいと思うようになるわけです。
・・人間には欲がありますから、やはり便利で最新鋭で快楽を与えてくれるものは欲しいのです。
庶民の物欲と購買力はどんどんあがり、大量消費の時代がやってきました。すると、問屋制家内工業では生産が追いつかなくなります。さらに多くの人手を集め、さらに大規模な生産施設が必要になったのです。
問屋自身が大規模な設備投資を行い、広い土地と生産道具を購入し、工場を建設し、労働者を募りました。農民達も農業をやるよりも、工場で働いたほうが効率的に賃金を稼ぐことが出来るため、積極的に工場労働へ応募するようになりました。

以下引用明日に続く

摂関家支配の構造変化(彰子死亡)

社会変化に関する次の時代の例として如何にも長く続いたかのように見える藤原北家の摂関政治を見ておきます。
例えば、摂関政治が平安時代政治の原型と思われていますが、元はと言えば光明子の設けた紫微中台・・後世の院政機関設置が始まりではないかと私は考えています。
何かの論文で読んだ記憶ですが、この予算は朝廷の予算を超えていた・・全ての人事を含めた政策決定が行われていました。
摂関家・特に北家・道長以降天皇を凌ぐ権力を振るえたのは、藤原詮子、姪の彰子2代が長期間キングメーカーであったことによるようです。
キングメーカーがいなくなって、摂政関白になるのが天皇や上皇の一存になると、結果的に天皇上皇の方が事実上権限が強まります。
道長が伊周との抗争に競り勝って権力獲得できたのは姉詮子の応援があってのことと知られていますが、道長の娘彰子が偶然長寿であったことにより摂関家=北家道長流と言われるほど、藤原北家の独壇場になり、天皇を凌ぐ権力を握れていたにすぎません。
彰子の影響力については、彼女が天皇家の家長として天皇や摂政任命権を長年握ってきたので摂関政治の基礎たる外祖父制度が続いた点については以下の通りです。
藤原 彰子に関するウイキペデイアの記事です。

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) – 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、日本の第66代天皇・一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号は上東門院(じょうとうもんいん)。大女院(おおにょいん)とも称された。
国母へ
長和元年(1012年)2月14日に皇太后、寛仁2年(1018年)正月7日に太皇太后となる。この間、長和5年(1016年)正月29日には敦成親王が即位し(後一条天皇)、道長は念願の摂政に就任した。翌年、道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引いた。
なお、道長の摂政就任と退任の上表は幼少の天皇ではなく彼女宛に出され、退任後の太政大臣補任も彼女の令旨によって行われている。
これは天皇の一種の分身的存在である摂政(およびその退任者)の人事が、天皇や摂政自身によって行われることは一種の矛盾(自己戴冠の問題)を抱えていたからだと考えられている。道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えた
曾孫・白河天皇の代、承保元年(1074年)10月3日、法成寺阿弥陀堂内で、87歳で没した(『扶桑略記』『百練抄』など)。同年2月2日に死去した長弟頼通に遅れること8か月であった。翌年には次弟教通も没し、院政開始への道が敷かれた。

上記の通り彰子が道長死後も国母としてキングメーカーの地位にあって摂関政治の実態を支えていたのですが、彼女が死亡するとすぐに摂関家体制の崩壊が始まります。
北家出身の女御に男子が生まれなくなったこととによって外祖父になれない後三条帝就任が、摂関政治弱体化の始まりでした。
その後院政開始の白河帝となった上に、キングメーカーであった彰子死亡後次期摂関白の指名権者が上皇に移ることになり、摂関家は急坂を転げ落ちるように政治権力から遠ざかり儀式要員になっていきます。
彰子がキングメーカーになった根拠と彰子死亡後、上皇にその権限が自動的に移行した経緯は以下の通りです。
院政に関するウイキペデイアの記事からです。

樋口健太郎は白河法皇の院政の前提として藤原彰子(上東門院)の存在があったと指摘する。彼女は我が子である後一条天皇を太皇太后(後に女院)の立場[5]から支え、以後白河天皇まで5代の天皇にわたり天皇家の家長的な存在であった。
天皇の代理であった摂政は自己の任免を天皇の勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身が自己の進退を判断する矛盾状態になる)、摂関家の全盛期を築いた道長・頼通父子の摂政任免も彼女の令旨などの体裁で実施されていた。
師実は自己の権威づけのために自己の摂関の任免について道長の先例に倣って父院である白河上皇の関与[6]を求め、天皇在位中の協調関係もあって上皇の行幸に公卿を動員し、院御所の造営に諸国所課を実施するなどその権限の強化に協力してきた。また、白河上皇も院庁の人事を師実に一任するなど、師実を国政の主導者として認める政策を採ってきた[7]・・・・

ゴッドマーザーを失った摂関家は、自己の後任(息子)を任命してもらうのに上皇の関与を求めるしかなくなったようです。
これでは摂関家は院の意のままになるしかありません。
この構造変化が、保元〜平治の乱に繋がり摂関政治が完全に終わりを告げ、摂関政治対抗のために権勢を振るった院政共に時代に取り残されることになったのです。
保元の乱の原因は天皇家内の恩讐や、摂関家内の恩讐など入り乱れていますが、その一つに摂関の後継争いがあった記憶です。
これが鳥羽法皇にいいように操られた(本気で中立を保ったのか不明ですが)ことが複雑化した原因でした。
ちなみに氏長者は、藤原家内の資産継承者の地位決定ですが、保元の乱の戦後処理では後白河天皇から、忠通が氏長者に命じられますが、忠通は藤原一族内への干渉の先例作りをにわかに受けることができず、かなり経過してからやむなく受諾した経緯があります。
次期摂政の地位を息子Aに譲るのにこれまで藤原彰子の指名でよかったのに彰子死亡後は上皇の任命が必要になっただけではなく、保元の乱以降では藤原氏の権勢凋落につけ込んで?藤原一門の家督相続・・氏長者決定にまで朝廷が介入するようになってきたことになります。
ちなみにこの慣例によるかかどうか不明ですが、例えば、徳川将軍任命の宣旨には、源氏長者の任命とセットになっていたようです。

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