超国家・普遍思想4と現実との乖離2(全面講和論と安保騒動)

昨日紹介したウイキペデイアの清水幾太郎の記事を読む限りでは、彼は左翼思考から転向したのではなく、反米という一点で節を曲げずに頑張っていたように見えます。
丸山眞男氏ら「進歩的文化人」主流は、ソ連寄りの主張では戦えない・国民支持がないのを知っていたので「反安保」(ソ連支持)よりは「議決方法が民主的でない」と論点をずらしていくことにしたのでしょうが、清水氏はこのずるいやり方が気に入らなかったようです。
米ソどちらの側についた方が良いかの綱引きで社会主義に夢を持つ純粋な人が国民支持を受けずに論争負けた場合、自己主張が日本のためになると信じているならば支持者を増やすために自己主張の説得力を増やすためにさらに努力するのが本来です。
論戦に破れたからと言って例えば「相手の声が悪いとか聞き取りにくい」とか揚げ足取りの非難しても始まりません。
「日本のための思想信条の自由」であるならば、国民に受け入れられず挽回の余地がないとわかった時点でその思想の優劣が決まったのですから、潔く結果を受け入れるべきです。
討論で負けたのに土俵外の争いに持ち込むような卑怯な真似は日本社会では許されません。
敗戦時に日本の堅固な社会組織解体を目指すGHQの威力を背景に「過去の仕組み解体主張すれば何でも良い」という左右双方が共同歩調できた良き時代に勢いを増した観念論者・進歩的文化人?の限界が最初に出たのが、サンフランシスコ講和条約の股裂事件であったでしょう。
以後いわゆる(敗戦後米ソ双方から支援されてきた)進歩的文化人?はあくまで共産主義が良いと頑張る(確かな野党)勢力と議決方法に矮小化する(日本国家を超越した背後の支配権力に擦り寄りたい)勢力に別れていったように見えます。
そのトドメになった最後の大団円になったのがいわゆる60年安保騒動だったことになります。
左翼系ではこの騒動の大規模さとその高揚感を懐かしむ(続く大騒動を期待する)高齢者が多いですが、最後の大決戦が大きな争いになるのは歴史上普通で、豊臣家が滅亡した大坂の陣が大きな合戦であったことを理由にもっと大きな合戦が起きるの期待しているようなものです。
「進歩的文化人?」と言う変な種族が60年安保以降、土俵上の勝負で負けてしまったので正々堂々の議論をする能力・自信を失い、アメリカの民主的手続き重視の論理を借用して政府の足を引っ張ることを主たる運動に変えていったのですから、姑息な争い方に反対する清水氏の方が王道というべきでしょう。
政敵の足を引っ張ることに精出すことになった勢力の方こそ、自己批判すべきだったと思われます。
これが潔くない行動として批判したら、報道界で干され、従来の仲間から仲間はずれにされてもくじけなかった清水氏こそ侠客・男の生き方です。
日本人は「難しいことはよく分からない」と言いながらも、実はしっかりと正邪を見極める能力が高いので、邪道を続ける限り野党や「進歩的文化人」支持がジリ貧になるしかなかったのです。
安保騒動・・40年前の清水幾太郎の孤立化の経緯を(ウイキペデイアの紹介記事しか知りませんが・・)見ると、ここ数年顕著になっている国会の議論・集団安保法案などで法案の中身よりは議論の時間が少ないとか議決方法が民主的でないとかばかり主張したり、経済政策その他重要法案の審議そっちのけで、森友、加計学園問題等に何年も同じテーマで堂々巡りしている、(この数日では日銀人事案について事前報道があったことを理由に難色を示すなど(・・野党の関心は人材・能力の適性に関する賛否意見であるべきでしょう)近年の野党の国会戦術・揚げ足取りばかり煽る報道界の体質の源流を見る気がします。
国会ではちょっとした政府答弁のミス等があるとその責任をはっきりしない限り、審議に応じないなど議論が全て中断する慣習になっているのは、60年安保以来の悪しき伝統になっている様子が見えます。
昨日22日の日経新聞朝刊3pにも働き方改革の1年延期方針に対して「政争している場合か」という大きな見出しがあって、見出しで見る限り批判記事が出ています。
題名しか見ていませんが、政府提出データが間違っていたことで紛糾しているようですが、内容についての議論がなく入り口でこんな資料ではどうの・・・という議論ばかりでは国会が何ためにあるかわかりません。
政権のよりどころになっているデータが違うならば、自分の主張を裏付けるデータの方が正しいと主張すればいいことです。
我々の訴訟でいえば、相手が有利に展開するために出した資料に不備があった場合、その不備を補正出来ないうちに結審した方が有利です。
例えば訴訟で大量の署名簿を提出した時に中の1名の署名に不備があってもその他数万名の署名に影響しないならば一人くらいの署名文字が読めなくともその補充調査するよりは、その分だけ撤回するかは提出者の自由です。
証拠価値を(反対尋問等で)減殺された方が、その証拠がないと負けそうな重要証拠の時には新たな証拠提出に必要な期間を待ってくださいと頼むのが普通です。
国会で野党が政府新たな資料を出すまで審議に応じないというのは、この逆をやっていることになります。
これを論理的に見れば、政府はその資料がなくとも法案の結論が左右されない・あってもなくともいいおまけの余計な発言(大臣失言)や資料に対する揚げ足取りでしかなかったという前提・・野党が問題にしている資料ミスや大臣発言は法案審議の帰趨に関係ない無駄な資料であることを野党が自己証明していることになります。
野党は政党として独自意見があればその主張をすればいいのですから、政府提出資料の一部にミスがあれば、それがなかった時にその法案の決定にどういう影響があるか、あるいは大臣の「問題』発言がその法案とどういう関係があるかを論じれば良いことです。
担当大臣が法案を十分理解していないことが時々問題になりますが、法律というのは(実務運用して見ないとどういう不都合があるか分からないのが原則で)運用するのは法ができてから一定期間経過後の現場ですので、半年〜1年で交代していくのが原則になっている担当大臣が数年先の運用を即座に想定して答えられないのは当たり前のことです。
これを前提に最近の法律では、施行数年後に実務運用を見ての見直し規定を置いている法律が増えてきました。
物理的な車や洗濯機等の機械類でも実験の繰り返しだけではわからないので、販売後実際にユーザーが使ってみてその使い勝手によって、さらに修正・磨きをかけて行くのが普通です。
「まして生身の人間相手の法律においておや!」と言うことです。

南原繁氏の超国家・普遍思想4と現実との乖離1

南原氏にとっては戦前の方が現実世界と折り合えず観念論で呻吟していたはずなのに、戦後実務で大きな力を振るえるようになっていた結果、現実対応能力が逆に下がったとすれば不思議です。
わたし的にうがった見方をすれば、敗戦直後から米軍の覚え目出たく南原氏が鍛え抜いたプロテスタント的価値観で思った通りの理想的発言をし会議を主導すれば、そのまま米国の意向に合致するという気楽な立場が続いていたからと思われます。
現憲法制定経過を正月明けから紹介してきましたが、松本案をホイットニーに突き返されると、後はGHQ草案通りの内容に合うように日本側は、いかに日本語で憲法条項を作るかに忙殺されていったのですが、神道指令にもとずく日本側うけいれ方針・教育〜思想改革案も背後のGHQの意向を前提した南原氏の提案が何らの抵抗もなく字句修正程度の応答でどん決まって行ったであろうことは想像に難くありません。
軍政をバックにしているので米国の意向にさえ合えば政治につきものの複雑な利害調整不要・・押し通せたので、サンフランシスコ講和条約・・全面講和か片面講和の論争は、アメリカのお墨付意見ではどうにもならなくなった・・彼初めての現実経験だったからかも知れません。
彼にとっては占領政策に迎合していたのではなく、かねてからの自己理論通りの発言をしたら次々とその通りになっただけですから、実務とのハザマで苦しんだ経験がなかったし政治力もなかったのでしょう。(哲学者と政治力には親和性がないのが普通です)
現実と理念の相克についての厳しい議論がなくなったという昨日紹介した西田論文の批判もその通りだったかもしれません。
米ソ対決が起きると理想論通り(国際平和・みんなが一致して平和を祝うに越したことがない)に行かない事態出現で、理想論通りの全面講和論を主張した結果「曲学阿世の徒」という名指し批判を受けたことになります。
非武装平和論も、理想国家は現実に存在しないので戸締りが必要という実際を無視した意見の始まりです。
実態無視といえば晢学者の常と言えるでしょうが、具体的政治決定に反対すれば、その決定がない場合に生じる現実・・どこか勢力の損得・利害があります。
本人としては純粋な哲理に基づいているつもりでも、社会的地位に基づいて発言する以上はその発言の結果生じる利害のために意見を言っていると見られるのが普通です。
以後南原氏は歴史の表舞台から消えていき、門下生の丸山真男氏らがなおその余韻で頑張りますが、60年安保を境に影響力を失い・「過去のバイブル化」していきます。
そして19日紹介したように、近年では南原氏の愛弟子丸山眞男の「神格化」した「超国家主義」という流行語自体GHQの神道指令を鸚鵡返しに言っただけのことで学問とは言えない・・何らの事実根拠もなかったという趣旨の批判論文がネット上で公開される(思想の自由市場が始まった結果?)ようになっています。
出版界で絶大な威力を持つ丸山真男批判を発行できる書店がないのかもしれませんし、19日紹介したネットはどこの誰が書いているのか見てみると匿名になっている・内容的には素人とは思えませんが、その道の専門家と言えるかまではわかりません。
専門的緻密な論証では一般読者にとっつきにくいので、あえてラフに書いているのかも知れませんし、
専門家として名前を出すほどの自信がないから匿名なのか?もわかりません。
そもそも基礎的前提としている「しらす」という概念は魅力的(日本人の心に親和的)ではあるものの(私の勉強不足が原因でしょうが)根拠がはっきりしませんし、それに基づいて教育勅語が出来ているという根拠(井上氏がそういう思想で起草したか?起草者にそういう具体的意識がなかったが、そう読むべきというのかも)も不明です。
そういう疑問を持ってみるとその他事実関係についてもきっちりした論証を経たものかどうか不安になってきます。
歴史小説を書くにはある程度までは歴史事実を調査して書くものでしょうが、その先は想像をふくらませて家康や秀吉の人物像を描くものであって、いわば史実の断片を利用して創作しているにすぎません。
ド素人の私には歴史小説を読むとこれだけ調査して書けるものだと感心し、小説の描く信長像や秀吉、家康像をそのまま純朴に史実のように信じ込みますが、実は小説家は断片を都合よくつないでいるだけで専門家の批判に耐えるかどうかは不明です。
専門家から小説を見ればいわば事実認識についてはアマチュアの域を出ていないことが多いのです。
ネット時代になって素人と言うか専門外の玄人ばりの思いつき意見を簡単に発表できるようになりましたが、それを「百花繚乱」というのか「徒花ばかり」(言い方によればフェイクでしょう)というかの時代が来ています。
素人のフィクションに反論する必要もないので、小説家の文章を歴史家が放置しているだけのことで、専門家の反論がないのが正しい証拠にはなりません。
塩野七生の「〇〇人の物語」シリーズが有名ですが、専門家から見ると「いいとこどりに資料を利用したフィクション」を本当の歴史のように「変な誤解が広まって困る」という歴史家の意見(文書ではなく講演など)がありますが、私の例で言えば、吉川英治の宮本武蔵や山岡荘八や海音寺潮五郎の家康や武将像・・藤沢周平の描く江戸時代の武士像等によって、当時の思考回路をイメージ的に理解したり、横山光暉の三国志で中国人の国民性を理解する傾向があります。
はっきりしたフィクションでさえも上記のようにじんわりした国民に対する洗脳効果があるのでバカになりませんが、現実政治に絡んだフィクションを事実のように主張しておいてあとであれは「フィクション」と言われても困ります。
これが国家間大事件になったのが慰安婦騒動の元を作った「吉田調書」でしょう。
以上の点を割り引いてこのコラム読者には理解して欲しいのですが、19日紹介した丸山真男批判記事は、ド素人の私のレベルから見れば、概ね論理的に見えますが前提事実の論証がその道の専門家から見てどうなっているのか(論証済みだから省略しているのか?)不明を前提にした上で、こういう批判がネット上で公になっているという程度の紹介になります。
戦後思想界の寵児でベストセラーにさえなっていた清水幾太郎氏が、安保騒動にたいする批判意見を書くようになると仲間外れにされ出版界から干されていた事実は日本における「思想の自由市場」ってどんな程度の自由があるかの参考になります。
ウイキペデイアで清水幾太郎を見ると以下の通りです。

富永健一は、清水の『社会学講義』こそが戦後日本の最初の体系的社会学書と評している[3]。
「私は学生時代に、清水幾太郎のこの本(『社会学講義』)を何度くりかえし読んだかわからない。じっさい1950年代において、清水ほど社会学の戦後世代に強い印象を与えた社会学者は他にいなかった。この世代には、清水の『社会学講義』をむさぼり読んだ経験をもつものが多いのではないか。それほど、この本が戦後日本の社会学の形成に果たした役割は大きかった。 — 『戦後日本の社会学』」
林達夫とならぶ優れた日本語の書き手としても評価され、清水自身も『論文の書き方』(岩波新書)をはじめ、文章の書き方を論じた著書を執筆している。
1959年3月に刊行した『論文の書き方』は、初版3万部が即日完売、2刷3万部、3刷3万部も完売、1959年のベストセラー第2位、1987年までの累計130万部。2008年時点でも、永六輔『大往生』、大野晋『日本語練習帳』に次いで、岩波新書の売り上げベスト3に入っている[4]。
昭和30年代半ばころまでは、清水の文章は中学校や高校の国語の教科書にもよく掲載されていた[5]。
・・・
『日本よ 国家たれ:核の選択』では反米という観点から平和運動を批判、平和運動からの振幅の大きさが論議を呼ぶと共に、核武装の主張をめぐって猪木正道らと論争。・・・・
60年安保時に丸山真男は、強行採決は議会政治の破壊だとして反安保改定阻止運動を、反安保から民主主義擁護に目標転換するが、清水は1960年5月23日日本ジャーナリスト会議の事務所に翌日の教育会館の会合の打ち合わせに行った際に、「日高六郎etcみんな小生を警戒している。(中略)この打ち合わせの会で私は、『民主主義擁護』という話を初めて聞いた。・・・・
進歩的文化人の目標転換に水をかける内容であり、吉野源三郎を含む『世界』編集部から原稿の掲載を断られる。
『世界』常連執筆者の清水は、以後「最も遠い雑誌になった」と述懐しており、『世界』(1966年9月号)に、「安倍能成学習院院長追悼の辞」を寄稿した以外は、『世界』に執筆していない[1
・・・『諸君!』に自伝「わが人生の断片」を連載(1973年7月号から1975年7月号まで)、平和問題談話会と60年安保改定阻止運動の内幕や、丸山真男など60年安保を共に戦った人々への反感などが書かれており、後年この自伝により多くの友人を失ったと述懐している

 

憲法と国家6(南原繁氏の超国家・普遍思想3)

教育勅語廃止に関する昨日紹介した記事によれば、南原繁氏の言う世界市民への参加資格・普遍的価値→「古今東西に通用するもの」「日本国憲法の人類普遍の原理に則り・」と言うことで、すべて普遍原理=国家や民族を超越した上位の価値観を基本とする前提です。
民族や地域ごとの価値観・意識をローカルなものとして否定し、上位のグローバル価値観(南原氏にとってはプロテスタント的価値観)を子供の頃から脳に植え付けていく戦略がそのまま出ています。
ドイツ宗教戦争のコラムで紹介しましたが、西洋では戦争に勝って地域領主さえカトリックに変えれば、その地域住民はカトリックになったり、新教になったりする仕組みです。
このやり方でアメリカの支配地たとえばフィリッピンではキリスト教徒になっていますし、本来儒教国家の韓国でも戦後キリスト教徒が急激に増えた原因です。
このやり方でアメリカの支配地たとえばフィリッピンではキリスト教徒になっていますし、本来儒教国家(私の個人的印象です)の韓国でもキリスト教徒が急激に増えた原因です。
以下は、「韓国のキリスト教徒」で見た本日現在のウイキペデイアの記事からです。

韓国統計庁が2005年発表したところによると韓国の宗教人口は総人口の53.1%を占め、非宗教人口は46.9%である。すなわち総人口のうち、仏教が22.8%、プロテスタントが18.3%、カトリックが10.9%、儒教0.2%となっている。プロテスタントとカトリックを合わせたキリスト教全体では29.2%となっていて仏教より信者の数が多い。キリスト教信者数は約1376万人となり、韓国は東アジアおよび東南アジアでの信者絶対数では中華人民共和国、フィリピン、インド、インドネシアに次ぎ5位である。国民全体に占めるキリスト教信者の割合ではフィリピンと東ティモールに次ぐ東アジアおよび東南アジア第3のキリスト教国である・・・
海外に対する宣教活動が活発なことも韓国キリスト教の特徴で、2000年にはプロテスタントだけでも10,646人の宣教師が156カ国で活動していた
福音派は極めて積極的な布教活動をする為、近年では世界各地(特にイスラム教諸国)においてトラブルに巻込まれている。アフガニスタンにおける布教活動ではモスクの前でキリスト教の賛美歌を歌うなど、過激な布教活動が見られたと報道されている。2007年ターリバーン韓国人拉致事件のような事件が発生した背景には、こういった刺激的かつ攻撃的な布教活動があったのではないかとの指摘もある。
韓国国内では1970年代から80年代の民主化運動の原動力となる一方、同じ時期には仏教寺院や仏像に対する破壊活動を行う牧師や信徒が出るなど、他宗教への攻撃も積極的に行った。

福音協会といえば南原氏の無教会的福音主義に似た名称ですが・・米軍政の韓国キリスト教に対する影響についてのウイキペデイアの記述は以下の通りです。

司令官のダグラス・マッカーサーは太平洋米国陸軍最高司令部布告第1号で「占領目的が日本の降伏文書の条項の移行と朝鮮人の人権及び宗教上の権利を保証する事にある」と布告し、韓国人に対して信教の自由を認めた。また、連合軍法令第11号により「神社法」を廃止して皇民化政策の残滓となる神道を排斥し、また、朝鮮伝統の巫俗信仰等の宗教に対しても規制政策を行った。これに対して、キリスト教は、ソウル放送で福音放送を流すことや刑務所に牧師を置くことが認められるなど優遇された。この厚遇について、柳東植は「キリスト教は仏教と違って日本帝国主義の強圧の対象であり、それゆえ日本帝国主義からの解放はすなわちキリスト教の解放と同じように感じていた。そして、解放を招いたのは西欧勢力であり、彼らの背後にはキリスト教が控えていた。さらに、指導層が直接キリスト教を庇護していた」と説明している

日本は文字通り民草の力が強いので戦国大名が何宗であろうと庶民に関係のない社会構造ですので、アメリカはキリスト教の浸透作戦に慎重でさしあたり「信教の自由」を謳って確固たる日本古来から信仰心の解体から入っていった・目立たないように日本人シンパを利用したということでしょう。
教育勅語排除に関するhttp://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-60de.html引用の続きです。

社会学者の清水幾太郎は、「戦後の教育について」と題した論文の中で、勅語は二つの部分からなっている。
一つが最初と最後で修飾的・形式的な部分で、もう一つが道徳的行為規則のシステムを記述した中間の部分である。
「額縁」と「絵」の関係で、「両親に対する孝行、兄弟姉妹の愛、夫婦の調和、忠実な友情、節約、博愛、学問や技術のための努力、知的練磨、道徳的完成、公益や産業のための献身、憲法及び法律の遵守、勇敢。これらの徳目は、『之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス』とあります通り、すべての時代のすべての社会に通用する一般的なルールなのです。私たちがどんな徳目を挙げても、恐らく、それは既に教育勅語に含まれているでしょう」
(1974)と述べ、戦後日本は額縁といっしょに絵そのものまで全面否定したのだから、いかなる道徳も成り立ちようがないとあきれている。
たしかに、人格の完成を教育の目的に掲げながらその道筋を示さず、一方教育勅語に示していた徳目を捨てたのだから、教育が崩壊していくのは当然であった。

上記最後の数行は南原氏が肝腎の価値そのものを西洋価値観(プロテスタント)に丸投げしていたのではないかという18日から紹介している西田氏の以下の批判に通じます。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no97_05.pdf

研究ノート〉立命館大学人文科学研究所紀要(97号)

宗教ナショナリズムと南原繁
西 田 彰 一
一体化の代償
南原は、国民共同体にかえて内部としての象徴天皇制を民族共同体としての日本の本質とみなすことで、外部としての西洋世界と世界観を統一することができるようになった。
・・・・・日本の普遍史への参与が説かれる当時物議を醸した両面講和論を説いたのも、 「国際連合の本来の理想にかなったもの」という、 西洋の普遍的価値への参与という前提が存在したからである。
南原にとって国家の問題は「本来のヨーロッパ精神から離反の方向を指し示して」いたナチスドイツが崩壊したことや日本の超国家主義論が失敗したことを受けて、 「わが国にはルネッサンスと同時に宗教改革が必至である」と単にヨーロッパ文化に追いつくことだけが目的とされ理想として西洋が説かれ、日本はただ改変される主体となるばかりであった5。
南原が東大総長として活躍した戦後の議論からは、現実問題と対峙することによって戦前期には維持していた緊張感が失われてしまったのである。
戦後の南原の政治哲学の問題点とは、国民共同体を維持するために、理想として目指されるべき秩序のあり方が、常に国民共同体や民族共同体の「外部」から移入されなければならないにも拘らず、共同体の「外部」=絶対的理想の性質が問われることなく、つねに共同体の秩序の枠組みの維持と、共同体の理想実現に向けた永続的運動のみが目的とされたことに問題があると言えるのではないだろうか。

南原氏の論文紹介は、民族と国民共同体に関する南原氏の変遷批判など哲学用語が多く素人には分かりにくいですが、教育勅語排除に関する清水幾太郎氏の上記意見をここに当てはめると何となく明らかになります。
「曲学阿世の徒」の名指し非難を受けたことで有名なサンフランシスコ講和条約・・全面講和か片面講和の論争では、南原氏が全面講和論をとった経緯も出ていますが、戦後現実国家と理想社会の峻別をしなくなったという上記研究の一断面かもしれません。

憲法と国家5(南原繁氏の超国家主義・普遍価値2)

南原氏の言う普遍的精神とは18日に紹介した通り、英米のプロテスタント的理想を言うのですから、(神道指令→日本民族の固有価値を否定して)キリスト教価値観を広めたい占領軍にとって願ってもない人材がいたことになります。
理想社会をプロテスタントの宗教的理想・しかもその模範は英米両国としていた点で、戦後ニッポンをキリスト教重視の米国思想に染め替えるべき最適の人材として気に入られた面があるでしょう。
ちなみに現在のアメリカ国民のプロテスタント比率は以下の通りです。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13294889582009/8/1723:36:51

http://www.census.gov/compendia/statab/tables/09s0074.pdf に情報があります。
これによれば、
カトリック教会 : 23.9%
プロテスタント諸派 : 51.3%
となっています。

GHQが東大総長人事を強制したと言うよりは、米国の気に入りそうな人事案を根回しする人がいてのことですが・・。
南原氏はもともと内務省の要注意・危険人物であった・・「国家と宗教」だったかが、なぜ発禁処分ならなかったかについて諸説あるようですが・・。
南原氏の政治哲学とは素人的理解で言えば「ローカルな国家原理の上位に普遍価値・超越する理想社会がある・・それがプロテスタント思想である」というのですから、戦国時代末期にローマンカトリックによる日本支配の匂いを嗅ぎ取って秀吉が危険思想としてキリシタン禁制に踏み切った原理そのもの・・カトリックからプロテスタントに変わっただけです。
にも関わらず、これがそのままお咎めなしで敗戦の年3月に何故かいきなり法学部長に就任し、その年の12月に総長就任ですから、なんらかの政治の動き・日本側で米英の気に入りそうな人材抜擢を図ってのことでしょう。
矢内原氏や大内兵衛などマルクス経済学者の追放など東大内の国家主義者による学内追放が続いていたにも関わらず・そもそも政治哲学研究でいわゆる傍流系学者がどういう根拠でいきなり法学部長になれたか?も疑問です。
参考までに東大歴代法学部長の表がありましたので、以下に敗戦前後をコピペしておきます。
それぞれ具体的な法律専門家が学部長についていますし、最近の数十年で見ても同じです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

第12代 仁井田益太郎 1919年7月 – 1921年6月 帝国大学 民法・民事訴訟法
第13代 山田三良 1921年6月 – 1924年6月 帝国大学 国際私法
第14代 美濃部達吉 1924年6月 – 1927年6月 東京帝国大学 憲法・行政法
第15代 中田薫 1927年6月 – 1930年9月 東京帝国大学 日本法制史
第16代 穂積重遠 1930年9月 – 1933年9月 東京帝国大学 民法
第17代 末弘厳太郎 1933年9月 – 1936年4月 東京帝国大学 民法・労働法・法社会学 第18代 穂積重遠 1936年4月 – 1937年4月 東京帝国大学 民法
第19代 田中耕太郎 1937年4月 – 1939年2月 東京帝国大学 商法・法理学
第20代 穂積重遠 1939年2月 – 1942年3月 東京帝国大学 民法
第21代 末弘厳太郎 1942年3月 – 1945年3月 東京帝国大学 民法・労働法・法社会学
第22代 南原繁 1945年3月 – 1945年12月 東京帝国大学 政治学・政治史
第23代 我妻栄 1945年12月 – 1948年12月 東京帝国大学 民法
第24代 横田喜三郎 1948年12月 – 1951年3月 東京帝国大学 国際法
第25代 宮沢俊義 1951年4月 – 1953年3月 東京帝国大学 憲法

私が思うには、もともと日米戦えば勝ち目がないことは国民から上層部までみんな十分知っていたからこそ戦争回避に必死になっていたし、さらにミッドウエー海戦の大敗以降敗戦必至の状況が日々進んでいたので、政府上層部では敗戦処理用の日本側人材として(鬼畜米英と国内宣伝していながらも)内々米英に受けの良い思想家や実務家の抜擢が進んでいたように見えます。
政治表面では吉田茂などがすぐに表舞台に出て活躍できた所以です。
これが上記異例の抜擢人事だったのでしょう。
南原氏は戦後東大の初代総長に就任し各種学会や思想界に大きな影響を与えただけでなく、戦後教育勅語廃止→教育改革に辣腕を振るい・以来現在の6・3・3・4制度の枠組みが今に続いている大きな影響を与えた人物です。
以下は、19日紹介した西田氏の論文の一部です。

「戦後、南原繁は東京大学の総長となり、旧教育基本法の制定にも関わるなど、 戦後改革において広範に活躍した45)。その活躍は土持ゲーリー法一の教育史での先行研究などで詳しく紹介されているように、広範にわたる。」

彼が主導した戦後教育改革では教育勅語を排除して(古今東西に通じる?)教育基本法に変えていくのですが、その前提として彼の国体・民族独自の価値観に関する以下のような意見が上記西田論文で紹介されています。
天皇の人間宣言に関する意見です。
・・西田氏の下記要約が正しいと思うので人間宣言に関する南原氏意見引用省略します・・

南原は昭和天皇の人間宣言を高く評価している。
なぜなら日本人が「民族宗教的束縛を脱し」て、「国民たると同時に世界市民として自らを形成し得る根拠を、他ならぬ詔書によって」得たからである。つまり、日本は外部にあった西洋世界に一体化できる内部を、象徴天皇制によって獲得したと主張するのだ。

わたし的理解では、固有の民族価値観の主張を廃棄することによって、世界市民・世界標準に参加できるようになったというように読めます。
南原氏の言う世界市民参加資格とは18日紹介した通りプロテスタント思想ですが、世界市民の一員であるためには、日本独自の価値観教育ではダメだから、教育勅語を書き換えようとなったのは当然の流れでしょう。
(ただし教育勅語の本旨を戦前右翼が拡大解釈していた牽強付会の論?を前提にすればそうなるに過ぎないことは、19日に紹介した丸山正男の「超国家主義」に対する批判論文に詳しいし面白いのですが、引用するには長すぎるので関心のある方は上記で引用していない部分をお読みください)
教育勅語廃止に関する記事です。
http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-60de.html

1946年には、米国の教育使節団来日に協力する形で日本教育家委員会が発足し、南原繁東京帝国大学総長を委員長として教育改革案がまとめられるのだが、この改革案こそが戦後日本の指導者のもっていた教育に対する意識の集約されたものである。この改革案で第一にとりあげられたのが、教育勅語を新たに奏請しようという意見であった。
奏請の理由は、「従来の教育勅語は、天地の公道を示されたものとして決して謬りにはあらざるも、時勢の推移につれ国民今後の精神生活の指針たるに適せざるものあるにつき、更めて平和主義による新日本の建設の根幹となるべき国民教育の新方針並びに国民の精神生活の新方向を明示したもふ如き詔書をたまわり度きこと」とされていた。
1947年公布された教育基本法では、教育目的を示す第一条において、「人格の完成」を掲げて、古今東西に通用するものにしたいという姿勢を示している。【直後に出された文部省訓令では、『個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力をできる限り、しかも調和的に発展せしめることである。このことは、決して国家及び社会への義務と責任を軽視するものではない』と、説明している。】
そして、1948年6月10日には、衆参両院で「教育勅語等排除に関する決議」がなされた。参議院の決議では、「日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した」と新しい教育理念を明示した。

 

憲法と国家4(南原繁氏の普遍価値論1)

南原氏は、戦後教育改革の中心人物として戦後教育政策に対して絶大な影響を及ぼしたし、思想界でも丸山眞男その他戦後の支配思想を形成した一流人材を門下生に擁するなど、戦後育った我々世代が無意識のうちに「日本ってこんな国」という刷り込みをしてきた張本人または大恩人です。
この重要な人物の思想について、私の能力では難解すぎて無理を承知で以下の論文を引きながらラフな紹介をしておきましょう。
まず結論から入ります。
高齢化すると、順を追った克明な説明を理解する能力が下がり、話を遮って「要するにこう言うことか!と聴きたくなりますが、この応用です。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no97_05.pdf

(研究ノート〉
宗教ナショナリズムと南原繁
西 田 彰 一
おわりに
本稿において、筆者は南原繁の政治哲学を題材に政治と宗教の問題を検討してきた。
・・・南原は侵略を否定した内向きの議論であることも多いため、これまで侵略主義的な超国家主義論者たちに抵抗した人物として扱われることは多かったものの、その共通性については十分に検討されてはこなかった。
しかし、そこをあえて超国家主義論者たちとも共通する地平の問題として扱うことで、あらたな論点を発見できると考えたのである。
その結果、南原の宗教理解とは政治と宗教を分離して扱うものの、それは人格をもった個人が宗教を求めるのと同様に、政治共同体もまた宗教を求めるのであるとする議論であったことを発見した。そのために、宗教は永遠の理想として目指されなければならないものとなり、理想と現実の峻別が強調されるようになった。
しかし、その理想と現実の峻別は理想を固定的にとらえるために、理想そのものの正しさについては検討されることがない。そのため、英米のプロテスタント信仰の在り方が現実の問題として理想化され、理想そのものの妥当性について検討されることは生じなかった。そのために、南原は戦後はアメリカの占領政策を実質的に批判的にとらえることはできず、国民を民族に横滑りさせて、それに追従していくことになった。また、理想を問えなかったことは、共同性の問題を単に文化の練達という相互理解の問題に落とし込むものであった。

上記を見ると南原氏は、現実国家の上に超国家思想を持つ点で戦前右翼・超国家主義者と同根でないかと上記執筆者は見ているようです。
そもそもそも丸山眞男がCHQの神道指令に呼応して言い始めた「超国家主義」とは何か?その前提たる「国家神道」とは何かの定義すらはっきりしていないようですが、この点については、以下に詳しい批判がありますので関心のある方はお読みください。
http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/kokkas.htm
以下飛び飛びの引用ですのでそのつもりで読みください

丸山真男・超国家主義論のカラクリ
丸山論文のポイント
『現代政治の思想と行動』にあるこの短い論文が、永い間重要視されてきたことは事実である。さらに今日では、著者本人とともに「神格化」されているとまで言われている。なぜこうなったのか、以下で検証する。

まず第一に、丸山論文にある超国家主義は、GHQ神道指令において定義されたものである。
また第二に、同論文が雑誌『世界』の昭和21年5月号に発表されたことを確認する必要がある。
第三として、この論文の構造が教育勅語の構造を基礎に書かれたという事実がある。

神道指令の超国家主義
神道指令は国家と神道を分離せしめる指令である。GHQは、我が国の昭和戦前における軍国主義の基礎が神道、なかでも彼らのいう国家神道にあると断定した。
神道指令は具体的な国家と神道の分離政策、そして大東亜戦争や八紘一宇などの用語、文部省『国体の本義』や『臣民の道』などの頒布を禁止したものである。
なかでも大事なことは国家神道が含む「過激なる国家主義」「超国家主義」(ultra-nationalistic ideology)の定義である。
神道指令によれば、天皇・国民、そして国土が特殊なる起源を持ち、それらが他国に優るという理由から日本の支配を他国・他民族に及ぼすという信仰あるいは理論、これが過激なる国家主義あるいは超国家主義である。
・・・ポツダム宣言から公職追放令まで一貫しているのは「世界征服思想」である。これこそ彼らが日本から排除したかった「精神的武装解除」の最たるものであったと考えて自然である。

以下略・上記論文?主張によれば丸山眞男は教育勅語を誤読した上で、神道指令の単語を言い換えただけで、事実にもとずく定義ができていないと批判されるようです。
ついでに国家神道についての上記著者によれば以下の通りですから、これも関心のある方はお読みください。
http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/kokkas.htm国家神道研究

国家神道というものの正体が分からないままに今日に至っている。その国家神道とは、あくまで昭和20年12月15日のGHQ神道指令にある国家神道である。つまりGHQの定義による。
ポツダム宣言・神道指令を経て日本国憲法第20条そして第89条が制定された。なかでも神道指令は国家神道というものを定義して国家行政と神道を厳格に分離させようとしたものである。
しかしこの国家神道なるものの正体はあいまいであり、国家の神社行政の中には、つまり神社関係法令のなかには神社は非宗教とするものしか見当たらない。むろん教義もない。法令をあげると次のようなものである。
明治15年   神官教導職の兼補廃止 (神官は非宗教家、府県社以下は別途)
明治33年   神社局設置        (神社非宗教、神社のみ担当)
昭和15年   神祇院官制        (神祇院の設置、神官職督励)
教義がなく法令上も国家神道を特定できるものがない状態で、国家神道という言葉のみが様々に用いられている。
以下略

以上の点は措くとしても、南原繁氏は宗教的理想と政治的理想を区分けし、宗教的理想をプロテスタントに見ていたようです。
上記によれば、南原氏の基本思想はこのシリーズの関心・憲法で保障する平和論や人権論が国家存立を超越するか?「国家が滅びても守るべきテーゼがあるか」の関心にまともに関係する政治思想家であったことが分かります。
国家を超えた普遍的価値を主張する点で現在主流あるいは100%を占める憲法論(侵略されたらどうするかの問いに答えない非武装論や天賦人権論)の基礎を形成した人物になります。
※普遍的価値観共有といえば、安倍政権の価値観外交が想起されますが、もちろん彼も同じ日本社会の戦後空気の中で育っていますので、私(多分大多数の日本人が)同様に洗脳されて育っています。

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