個人事業→法人化3

明治の改革は、既存集落を積み上げる形式での再編成ではなく、まず既存幕府領を府としてその後に大阪京都以外の府を廃止して県とし、大名領地ごとに全て藩→府県藩三治制→(廃藩置)「県」とし各地の飛び地の交換分合と各県の併合を繰り返し、ほぼ現在の都道府県を形成したうえで、律令制時代から手付かず・自然変化に委ねていた郡内の小集落の再編を行いました。
まず郡内の単位を大区小区の2段階に分け、小区以下の原始集落の統合を経てその後の改革で市町村制度になって現在に至っています。
市町村法人化はその後になるのでしょうが、さしあたり地域によって違うのではなく、全国一律に人口何万以上を市とし、何万以下何万以上が町とし万に足りない単位を村・・市町村の規模に応じた内部組織の規格を決めれば、全国的に統治が行き渡りやすくなり、国民にとっても相手が市か町か村の規格で判断出来て便利です。
人口規模に応じた内部組織の画一化を図ったものでした。
政府自体明治初年の政体書発行に際して、しょっちゅう変わることについての言い訳を書いていますが、結果から見ると以下の通り見事です。
原文書き出しは以下の通り「徒ニ変更ヲ好ムニアラス」です。
https://ja.wikisource.org/wiki/政体_(慶応四年太政官達第三百三十一号)

政体 (慶応四年太政官達第三百三十一号)
去冬 皇政維新纔ニ三職ヲ置キ続テ八局ヲ設ケ事務ヲ分課スト雖モ兵馬倉卒之間事業未タ恢弘セス故ニ今般 御誓文ヲ以テ目的トシ政体職制被相改候ハ徒ニ変更ヲ好ムニアラス従前未定之制度規律次第ニ相立候訳ニテ更ニ前後異趣ニ無之候間内外百官此旨ヲ奉体シ確定守持根拠スル所有テ疑惑スルナク各其職掌ヲ尽シ万民保全之道開成永続センヲ要スルナリ
慶応四年戊辰閏四月 太政官

本文引用略

明治の改革は朝令暮改のように1年前後で次々と変わっているものの
結果から見ると一定の方向に向けていかにも当初からの計画があって順次実行していったかのように、在野の動き・・必要な時に自由民権運動や不平士族の乱など必要なガス抜きとともに必要部分を法案に取り入れするなども含めて数十年単位の動きが一糸乱れず実現していった見事さに驚きます。
民法商法等の基本法案整備も法律専門家だけの議論からロエスレル商法やボワソナード民法を一旦成立させて、法律という形で国民や国外に見える形にしたことで条約改正運動への足がかりにするほか、(裁判権が日本にない不平等条約は国辱だ!と言っても日本には裁判するべき法律がなかったのです・・)多くの国民・・法律専門家だけでない実務家(維新以降数十年経過で現実に国際的な商取引に参加している実業家が増えてきた段階で)も議論参加できるようになったので、国情と最新取引動向を踏まえた現実的制度になった結果、明治29年制定の現行民法、商法・・これが100年以上経過後の今でも現行法として骨格が残っているほど柔軟現実的な基本法典に結実したのでしょう。
都道府県市町村制度も現行体制(私の戸籍謄本では東京府東京市〇〇区出生となっているのを見た記憶ですので、東京府だけ戦時中に都になった記憶です・)として今も残っています。
その後は、コンピューター化への対応能力や水道事業の大規模化等に伴う事務作業の高度化適応に向けた市町村合併や広域連合体化など現場の必要性に応じた大規模化の流れです。
明治維新以降の約30年間の疾風怒涛の大変革時期を乗り切った民族の叡智・・サッカー等のスポーツで言えば以心伝心の見事なチームプレー同様に長年培われた民族の訓練・・暗黙知の見事さに驚きます。
地方単位の組織化〜法人化の流れに戻ります。
最小単位の村が、自然発生的集落を数十個も統合する規模になると集団固有の意思や行動のために組織代表者が必要ですし、その選任退任基準を明記する必要があります。
従来のいわゆる暗黙知で「何となく人望のある人の意見に決めた」というだけでは透明性に欠けることになります。
郡以下の地方末端組織が自然状態のままだったのを地方公共団体化=団体そのもの固有の意思表明や行動ができるようになると意思決定過程も透明化する必要が生じます。
集団が固有の主体性・法人格を持つにしてもその集団が5〜10人の小規模であれば、私が学童期に見知っていた「寄り合い型民主議」で足りるのでしょうが、明治以降の村は、それまでの数十の集落(大字とういう名に変えて)をまとめた大掛かりなものになってきたので、地方の民主化で村議会ができても一つの字(旧村落)に一人の代表を出せるものではなくなりました。
明治以降の村は地方制度施行と同時に官の任命する村長になったので、村議会設置要求がおきたのでしょうが、議会で反対賛成の論理による討論では従来型の阿吽の呼吸で決める寄り合い民主主義になれた国民にはよそ行きの形式張った会議には戸惑うばかりです。
日本人得意の擦り合わせ・・暗黙知・擦り合わせ技術と、以心伝心とは表裏の関係でしょうが、この頃から徐々に日の目を見なくなってきたようです。
しかし今でもサッカー等のスポーツでのチームでの活動その他すべて緊急事態の政治決断は、一々言語化していると間に合わないので暗黙知で集団行動するものです。
それまでの自治組織というか?みんなの意向・・・言語化しきれない本音の擦り合わせ・・・狭い空間で膝擦り合わせて集団意思を方向付けていく「寄り合い」民主主義に慣れ親しんだ多くの人が不満を持ちます。
この穴を埋めてきたのが、自民党政治家のドブ板政治でしょう。
とはいえ、明治以降の近代化→三井でも住友でも個人事業が大きくなっただけでなんとなく決めて行くのでは限界がある・・事業体が生身の人間を離れて、一個の独立した人格主体として行動するには内部組織も意思決定過程も透明化していくしかないのも現実です。
これからAI時代が来れば、ロボットが人格を持つような法制度を作ろうとしたのが19世紀の西洋思想だったのでしょうか。
これを意識して、明確な法制度・集団にも権利主体性を与えたのが明治民法・現行民法であり現行商法です。

個人事業→法人化2(NPO)

江戸時代の集落の運営について、村方役人といったり地方役人といったり、地方役人の三役と言うのも通称にすぎません。
結果的に三役と言う制度自体がないし、乙名(後の「大人」の語源?)とか庄屋、名主などの名称あるいはその権限職務も地域や時代ごとにバラバラです。
現在では、会社(社団法人)や財団法人、公益法人等の各種法人の他NPO等々の各種組織が法制度として整備されているのと違い、江戸時代までの末端集落は自然発生的集団である以上運営方法も自然発生的・・法的規制がないので必要に応じて多種多様な内部規範や名称があったと思われます。
古くは保元平治の乱の原因の一つとなった藤原氏の「氏の長者」制度?あるいは源氏の棟梁・・正式には源氏の氏長者(いわゆる村上源氏)が知られていますが、それも慣習的に決まっていただけでしょう。
2月20、21日に入会権のテーマで少し説明しましたが、入会権があるかどうかもわからないようやく何か、権利がありそうとわかってもどういう権利かスラ法で決められない・・内容すら慣習に従うというもので地域によって内部規律のあり方(集団意思決定方式)や権限が違う前提でした。
これでは取引する相手も困ります。
近代社会は、〇〇という商品名が同じであればどこへ行っても同じ商品やサービスが提供される・知らない者同士でも取引がスムースに行くのが便利とする基本です。
近代法の原理は、取引の安全・罪刑法定主義と同根で、遠隔地未知の土地に行っても名称だけ分かればどういうサービスを受けられるかどういう権利があるのかはっきりわかるのが合理的とされる社会です。
小さな子度を連れてしょっちゅう旅行していた頃に行き先によっては歯ブラシがいるのかいらないのかなど(今は規格化されていてそういう心配はないですが・・)準備に大変でしたが、シェラトンホテルというのがあってどこへ行ってもホテル規格の一定サービスが決まっているのを知ってこれは便利だと感心したものでした。
弥次喜多道中同様に意外性も面白いのですが、子供連れの場合何がいるかいらないか(熊本の全日空ホテルに泊まった時に、赤ちゃんのミルクで苦労したことがあります)の事前情報が重要です。
法制化するというこということは、車のメカがほぼ同じ(・・ブレーキとアクセルのペダルの場所が違うと戸惑うでしょう)というのと同じです。
もう一度条文を引用します。

民法
第二百九十四条 共有の性質を有しない入会権については、各地方の慣習に従うほか、この章の規定を準用する。

明治政府の地方制度は、幕末期に存在していた多様な名称や組織のある中で「村」という名称を採用してその内部意思決定機関を政府の意図に合うように「村長」を頂点とする組織体に統一したということでしょう。
ボランテイア組織などは、ある程度組織化していても集団そのものの法人格がなかったので、活動に支障をきたしていましたが、神戸大震災以降ボランテイア活動の価値に注目が当たった結果、簡易なNPO法人化の道が開かれました。
法人化する以上は、内部規律はボランティア組織の自由勝手というのでなく、法の設定した基準に合致する組織や代表者選定ルールを備えるなどの設置基準を満たせば法人格を与える・法制化されました。
NPOに関するウイキペデイアの説明です。

特定非営利活動法人(とくていひえいりかつどうほうじん)は、1998年(平成10年)12月に施行された日本の特定非営利活動促進法に基づいて特定非営利活動を行うことを主たる目的とし、同法の定めるところにより設立された法人である。NPO法人(エヌピーオーほうじん)とも呼ばれる(NPOは、Nonprofit OrganizationあるいはNot-for profit Organizationの略。「NPO」も参照のこと)。 金融機関関係のカナ表記略号は、トクヒ。
従来の公益法人に比べ、設立手続きが容易であるため、法施行直後から、法人格を取得する団体が急増し、2008年(平成20年)10月末現在3万5000を超える団体が認証されている。特に従前は任意団体として活動していた団体が法人格を取得するケースが目立つ(任意団体では銀行口座の開設や事務所の賃借などといった、各種取引契約などの主体になれないケースがあるが、NPO法人であれば法人名で契約が可能である[5])

法人格のある村とそれまでの各種集落の違いは、慣習法的に権限が決まっているだけで誰がどういう権限があるか?
画一的組織でない分取引相手には不明瞭だったことになります。
相手にとっては他所でこういう人と取り決めたら効果があったのに別の集落では、この集落では名主だけではダメだなど多種多様では不便なだけでなく、集落側としても対外的に何かするには、名主というだけでなく「うちは名主だけ署名すれば有効になる仕組みだ」と証明しないと相手が信用してくれないとなればお互い不便です。
こんなことで重要文書には多くの部落で、(公文書の連署の慣例同様に主だった人が3人も署名していればのちに無効問題が起きにくいということから)地方三役の連署が普通になってきたのでしょうか?
明治政府によって政府以外に公的組織がなかった・大名も個人事業主でしかなかったのを、「藩」という公的組織に格上げし、続く廃藩置県で短期間にこれが廃止されて県=政府直轄組織となって県令が配置されることになりました。
律令制崩壊後の郡は地域名としての機能しかなかったのでこれと言った組織化しないまま、その郡内の自然発生的集団に任せていた末端集落を人口密集度に応じて市町村に分類して新編成して独立法人(現在の地方公共団体は公法人です)化させ、その代わり組織基準を明確化したことになります。

個人事業→法人化1(府藩県三治制)

昨日見た享保の人口等の調査命令(布達)のウイキペデイアでは、「郷帳」というデータも天保時代まで残っているところを見ると、郷単位で調査報告されていた実態が垣間見えます。
結局、村とか郷とか言い方がいろいろあったようだと言うことでしょうか?
そもそも地方制度は、律令制以降明治の地方制度・・大工小区→市町村制まで、正式制度として公布された事がない・律令制の正式名称「郡」以下の地名は事実上の自然発生的呼称・俗称に過ぎなかったと理解すれば良いのでしょうか?
そもそも幕藩体制と所与のもののように学校教育では習って来たし、小説でも〇〇藩家老とか土佐藩から坂本龍馬が「脱藩」したなど洪水のように紹介されて来ましたが、10年ほど前にこのコラムで紹介しましたが、慶応4年4月の三治体制によって初めて「藩」という名称が公式に出て来たにすぎません。
https://kotobank.jp/word/引用です

府藩県三治制
府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)は、明治初年の地方行政制度。

明治初期の地方統治制度。新政府成立によっても従来の藩は暫定的にそのまま存続したが,旧幕府直轄領については,初め鎮台,次いで裁判所の名称が付され,慶応4 (1868) 年閏4月「政体書」が公布されて裁判所はさらに府および県と改称され,江戸府など主要な9地方が府の名称を与えられ,府,藩,県の三治制となった。
明治2 (69) 年6月の版籍奉還では,従来の藩主は知藩事となり,次いで7月,府は東京,大阪,京都だけで,他は藩および県とされ,同4年7月の廃藩置県に及び3府 302県となったが,その後3府 43県に整理された。府,県の職制は,知事,大参事,小参事,大属,少属,史生などであって,版籍奉還後は藩の職制もこれにならって改称された。

慶応4年四月の政体書発布によって、幕府から接収した政府直轄地を府県とし、諸侯統治下を「藩」とする三治体制が宣言されたにすぎません。
それまではの大名文書は、今でいう法人格のある組織代表でなく、肩書き付きの氏名?「浅野内匠頭長矩」「松平〇〇の守何々」等の公式文書を書いていたのです。
政体書発布以降初めて大名の公式名称は〇〇藩主誰某の名=団体を代表する公式文書発行となりますが、それまで個人文書と一定集団を代表するときの公式文書の区別もはっきりしなかったことになります。
せいぜい公式な時には官名表記するかどうかの違いくらいでしょうか?
弁護士会会長名で文書を出すときは弁護士会という団体の存在を前提にした公式文書となりますが、それは同時に「弁護士会」という集団の存在を表していますが、江戸時代までの公式文書は所属する団体名がない・吉良上野介という官名があっても、彼が上野国という国家組織の介(次官)としての公式発言をしているのではなく、そういう肩書きのある個人を特定しているだけのことでした。
古代氏族制度とか江戸時代の家の制度というものの、今の会社のように、「家」という集団組織の資格・・権利義務を認めたものではなく、単にそういう集団形態が多かったというだけのことであり、集団の事実上のトップ(個人経営者)が知行(営業基盤)を得たり失えばその家族もその影響を受けるだけのことであって、制度として決まっていたものではありません。
大名家は個人の家が大きくなっただけのことであり、官名付きの文書や処理はどこそこの誰それという個人特定に必要な肩書き程度の意味でしかない母体集団名でない個人文書だったことになります。
政体書以降の版籍奉還お願いその他公式文書が全て「松平何々の守」の名称だけでなく、「〇〇藩主松平〇〇の守何」々の名で行うようになっていきます。
藩制の布告は集団が独立の当事者となり大名家当主は、その代表者として行動すべき萌芽を示した画期的なことでした。

(上記引用文第二段落の「版籍奉還では,従来の藩主は知藩事となり」とあるので一見昔から「藩」と言われていたように見えますが、従来といってもホンの1年間に過ぎない・明治2年6月の版籍奉還の前に「藩」という組織名を与えられていたから、「従来」と書いて間違いではないのですが、今風に言えば、団体名を与えられてから実はまだ1年余しかたっていない「従来」です)
慶応4年までの大名家は、商売人やボランテイア集団が会社やNPO法人設立する前の個人事業体だったことになります。
政体書に関するウイキペデイアです

政体書(せいたいしょ)は、明治初期の政治大綱[1]、統治機構について定めた太政官の布告である。副島種臣と福岡孝弟がアメリカ合衆国憲法および『西洋事情』等を参考に起草し、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に発布された[2]。同年4月27日頒布[1]。
冒頭に五箇条の御誓文を掲げてこれを政府の基本方針と位置づけ、国家権力を総括する中央政府として太政官を置き、2名の輔相をその首班とした。太政官の権力を立法・行政・司法の三権に分け、それぞれを立法の議政官、行政の行政・神祇・会計・軍務・外国の5官、司法の刑法官の合計7官が掌る三権分立の体制がとられたが、実際には議政官に議定・参与で構成する上局の実力者が行政各官の責任者を兼ねたり、刑法官が行政官の監督下にあったりして権力分立は不十分なものであった。地方は府藩県の三治(府藩県三治制)。 [1]

明治に入って集団そのものを一個の人格者扱いするようになるまでは、集団そのものを表す概念がなかったのですから、鎌倉時代以降の地域集団意思決定機構を?「惣」と言うもののこれも正式なものではありません。
その頃そのように言われていたらしいと言う程度のことでかっちりした制度があったわけではないので地域によって千差万別だったでしょう。

個人崇拝2(毛沢東語録)

芸術品でも〇〇会の創設者など業界の力関係で高値がついている場合もあるので、死後一定期間経過+そのグループがなくなった後の評価こそが本物と言われるのと同じでしょう。
このような価値観が一般的な日本にも現世利益優先価値観の人ももちろんいますので、チュチェ思想を信奉し研究?する組織が教職員組合を中心に多い?ようです。
毛沢東語録のご利益宣伝が一時1世を風靡しましたが、文化大革命の悲惨な実態が知られるようになると、毛沢東語録を勉強していますといっても本家中国で大事にされなくなったので流石にその種の本も売れず、勉強会も減ったようですが、当時毛沢東語録を推奨していた進歩的?学者が、学者をやめたとは聞きません。
当時の有名学者を思い出せませんが、毛沢東語録でウイキペデイアを見ると当時の有名翻訳者が出ています。
賞賛していた学者とは限りませんが・・以下の通りです。

和田武司他訳 『毛沢東語録』(河出書房新社 1966年)
社会主義研究所毛沢東語録研究会訳 『毛沢東語録』(宮川書房 1966年)
竹内実訳 『毛沢東語録』(角川文庫 1971年・平凡社ライブラリー 1995年)
中嶋嶺雄訳 『毛沢東語録』(講談社文庫 1973年)
林茉以子訳、WIPジャパン監修 『超訳・毛沢東語録』(ゴマブックス 2013年)

例えば、上記竹内実氏をウイキペデイアで見ると以下の通りです。

第二次世界大戦後、京都大学文学部中国語学文学科卒業、東京大学大学院修士課程修了と同時に社団法人中国研究所へ入所。東京都立大学助教授、1975年京都大学人文科学研究所教授、87年定年退官、名誉教授、立命館大学国際関係学部教授、北京日本学研究センター教授、杭州大学日本文化研究所、松阪大学教授[1]。
1960年(昭和35年)には野間宏などと共に中華人民共和国を訪問し、毛沢東と会見している[2]。
1992年(平成4年)に福岡アジア文化賞 学術研究賞を受賞。
1987年(昭和62年)から1994年(平成6年)まで現代中国研究会会長を務めた。2013年7月30日、京都市内の病院で死去[3]。90歳没。

毛沢東全盛時に会見したり、現代中国研究会の会長を長年やっていたようです。
中国進出企業が増えるのに比例して各種実務界で行なっている調査報告が百花繚乱状態になっていますが、目先の実務の指針のための調査と違い、本質を抉る学問的研究も必要でしょう。
「ヨイショ」するための研究会ではないとしても、研究?の成果を誰も読まない・・日本社会に還元できていないのではないでしょうか?
現代中国研究会でをイキペデイアで見るとこの約20年の業績として

1975年から1987年に竹内実が京都大学人文科学研究所において主催していた「共同研究会」を母体とする。
現代表の吉田富夫は、中国人作家の莫言とメールをやりとりしたり互いの自宅を訪問しあうなど親交が深く[1]、同会の「公開講演会」では、1999年[2]、2003年[3]、2006年[4]、2011年[5]の四回にわたり、莫言がメインゲストとして招かれ、講演を行っている

という程度ですが、この程度のために国立大学教授たちが麗々しく研究会を運営する意義があるのか不思議です。
現在中国では、主席の任期制撤廃だけではなく毛沢東以来の個人崇拝を盛り上げようとして習近平も毛沢東語録的な個人崇拝の二番煎じを画策・実行に移していますので、その思想?の勉強会が日本でもまた盛んになれるのでしょうか?
メデイアの情報独占がネットによって終わったのと同様に、中国事情も企業戦士に限らず多くの人々が自由に中国へ往来している時代に入って、中国政府お気に入りの学者による情報独占状態が終わった影響が出ているのではないでしょうか?
6月16日現在のウイキペデイアに出ている習近平氏の個人崇拝運動胎動の骨格です。

習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想
習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想(しゅうきんぺいによるしんじだいのちゅうごくのとくしょくあるしゃかいしゅぎしそう、中国語: 习近平新时代中国特色社会主义思想)は、中国共産党中央委員会総書記である習近平が2017年に打ち出した政治思想の通称である。海外メディアからは「習思想」もしくは「習近平思想」と呼ばれる。「マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論、3つの代表(重要思想)、科学的発展観」に続く、中国共産党の指導思想である。
新しい指導思想は、ゆとりある社会の全面的な実現から一歩進んで、建国100年を迎える2049年には社会主義の現代化強国を築く」と強調した。
「マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論、3つの代表(重要思想)、科学的発展観」に続き、中国共産党の党規約にも盛り込まれた[3]。そして、2018年1月18日、19日に開かれた中国共産党第19期中央委員会第2回全体会議(2中全会)で、憲法改正案が議論され、憲法に明記されることが明らかになった[4]。

https://www.bbc.com/japanese/41731590

中国共産党、「習氏思想」を党規約に盛り込む 毛沢東以来の権威
2017年10月24日
18日から北京で開催されていた第19回中国共産党大会は24日、習近平総書記(国家主席)の政治理念を党規約に盛り込む改正案を承認した。習氏は毛沢東以来の権威を手に入れた。

ウイキペデイアと違い、BBCは毛沢東以来の権威を入手したと明白に報道しています。
毛沢東と鄧小平以来の傑物と自己賛美し、国際社会では49年には世界の覇者になると宣言したもので漢文風に言えば「夜郎自大」の表現であり、日本風に言えば「おこがましいぞ!習近平」と言われるでしょう。
このおこがましさ(神の声?)を恐れて自粛するのが日本社会ですが、漢民族ではこのような自己規制が働かない社会・・強ければ何をしても(どんなに残酷なことでもし放題)良い社会でずっときました。

チュチェ・主体思想2と個人崇拝1

私は個人崇拝の好きな人たちは、芸能人などスターに熱を上げるファンと同じタイプか?と昨日最後に書いているときには思ったのですが、身近で知っている人たちの顔ぶれを思い浮かべるとそういうこと・・ミーハー的芸能人追っかけ系とは縁の薄そうな顔ぶればかりです。
そこで個人崇拝に関するウイキペデイアの解説に頼ります。

個人崇拝(こじんすうはい、英: Cult of personality)とは、個人を崇拝の対象に据える政治的行為、またはその様式である。ソビエト連邦指導者ニキータ・フルシチョフが1956年に「個人崇拝とその諸結果について」(ロシア語: О культе личности и его последствиях)と題された秘密演説で前指導者ヨシフ・スターリンの政治体制をこう定義したことで広く知られるようになった[1]。
一般的に革命を経験した体制下で起こりやすく、とりわけ共産主義が権力を握った国々で顕著に見られる[2]。共産主義の創始者であるカール・マルクスは生前に自身への「個人崇拝」を戒めており、政治的な意味合いで初めてこの言葉を使用した[3]。ソ連外の共産主義国・共産主義政党には特にコミンテルンを通じて拡散され、中国の毛沢東、フランス共産党のトレーズ、北朝鮮の金日成(北朝鮮の個人崇拝)などが代表的事例とされる[4]。第三世界におけるカリスマ的指導者や民族主義運動指導者たちへの英雄崇拝、ファシズム運動における指導者原理にも指導者崇拝の様式が見られる[2]。
上記ウイキペデイアの解説に行き当たって、芸能系スターに自己同一化するパターンとは何処か違う原因がようやく理解できました。

個人崇拝はスターリンの始めた支配道具であり、左翼系にこの種運動に熱を上げる人が多いことからもウイキペデイアの説明から納得できます。
スターリンに対する忠誠心を証明するためにこれに熱を上げていたところ、本家本元の個人崇拝が否定されたので、その穴埋めに北朝鮮の主体思想と言う名の将軍様崇拝運動が興り中国では毛沢東個人崇拝が起きた流れのようです。
毛沢東の個人衰廃運動が、大躍進政策失敗により本家の中国で色あせた反動で、紅衛兵運動〜文化大革命という時代錯誤運動が起きたのですが、大革命と名称だけ進歩を目指すかのように名乗りながらも、内容実質が古色蒼然たる超反動運動だったことが証明されました。
北の主体思想によって北朝鮮社会が、世界より進歩したでしょうか?
進歩という(左翼系をメデイアでは進歩派学者とか進歩的文化人と美称しますので)概念自体意味不明ですが、国民の生活が豊かになったかの基準で見れば、北朝鮮は世界の生活水準向上から取り残されて来たとは厳然たる事実ではないでしょうか?
この豊な時代に北朝鮮では餓死寸前の人々が何十マン人もいる現実を直視する必要があるでしょう。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019051300949&g=int

韓国大統領、緊急人道支援を支持=北朝鮮の食料難
2019年05月13日20時54分

個人崇拝に戻ります。
日本でも家康が死後に「神君」と言われる絶対的崇拝対象になりましたし、熊本に行けば、清正公神社があるし、東京にも乃木神社や東郷神社などいろんな人が神になって祀られていますが、(評価は死後に定まるというルールがありますので)全て死後のことですし日本では八百万の神の一人に過ぎず絶対的権威を持つものではありません。
地方旅行すると地元の発展に尽くした人の顕彰碑があり、展示施設があるので、こういうのを見学出来るのが楽しみですが、戦後は神社から顕彰碑に変わった程度の印象です。
日本では偉かった人も死亡してから評価が定まり尊崇の対象になるだけであって、権力者自身が権力を振るうために神様扱いを要求した人はないでしょう。
ところが左翼運動家になると生身の人間への忠誠心競争のために?崇拝が重要なようです。
個人崇拝・忠誠心の証のために毛沢東語録研修会や勉強会やチュチェ思想勉強会(何を勉強するのかな?・語録の端々を暗唱したり感激したりする発表会?)などの参加率が試されるのでしょうか?
死亡後に祀るのは、自己と権力との近さによって直接利益を求めるのでなく対価を求めない純粋な尊敬のイメージですが、現在権勢を振るう人物をこれ見よがしに崇めるのって、日本人の多くは(民族の振る舞いといっても大方をいうもので例外がいます)恥ずかしく感じるでしょう。
お墓まいりや病気お見舞いが重視されるのは、生きているときには頻繁に出入りし飲食を共にしていたのに病気してこの先がないとなれば疎遠になる人や死亡後は知らん顔をするのが嫌われるのは「利害で結びついていただけ」という露骨な態度に不快感を持つ人が多いからです。
この頃お墓不要論が出てきたのは、得るところがあるから交友していたのであって利を得られなくなれば、交友がなくなるのは当たり前!という功利主義が蔓延するようになった結果でしょうか?
死亡後のお墓まいりも真意を探れば「私は義理をきちんと果たす人物です」と周囲に宣伝する長期的効果を狙っている点では同じでしょうが、そうはいっても何事も婉曲的表現が尊ばれる社会です。
あまりにも直接的な表現・ゲンキンな接し方は今でも嫌われます。
崇拝される方も現役の時に部下から銅像など立てる話が来たらキマリが悪く辞退したいのが日本人多くの感覚でしょう。
ルーマニアのチャウセシスク大統領だったか?失脚と同時に銅像が引き倒される映像が出ていましたが、現世権力の力でおべっかを強制していただけ・民の自発的尊崇心ではないのでは浅ましすぎませんか?
現世権力が亡くなった死後の顕彰こそが本物です。
チャウセシスク大統領に関する本日現在のウイキペデイアの記事です。

1980年代末、一般市民がろくに商品が無い商店の前に長い行列を作っている中、チャウシェスクが商品でいっぱいの店に入り、大量の食べ物を抱えて芸術祭を訪問する対照的な姿が国営テレビで度々放映された。
食糧配給のための軍の派遣部隊は、チャウシェスクが訪問する店へ先回りし品物を補充して「チャウシェスク政権によって達成された高い生活水準」を演出し、またある時には、チャウシェスクが訪問する農場に国中から手配した栄養十分の畜牛を放ったりもした。
1989年当時、ルーマニア国内のテレビでは「記録的豊作である」と宣伝されたが、当時の平均的なルーマニア国民が経験した窮乏との落差・矛盾はどうやっても説明がつくものではなかった。
1985年、ソ連でミハイル・ゴルバチョフが推進するペレストロイカの影響で東欧でも自由化・民主化の機運が高まると、なおも個人独裁に固執するチャウシェスクは国際社会で一層孤立することになった。東西両陣営から欧州統合の障害とみなされ、第二次大戦後初となるGCBの剥奪にまで至っている
革命と最期

    略

なんとなく今の北朝鮮社会を彷彿させる情景で、周辺におべっかの得意なものを集める危険性です。
国民利益無視で一刻でも長く政権を維持したい・・私益を守るための政権と達観すれば、意味がありますが・・。

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