GDP指標の意味3

文化力も同じで、古代から匈奴〜モンゴル系等北方系民族が武力だけで中原の地を制しても、漢民族文化に吸収されてしまい独自性を失っていった事例でも明らかです。
例えばロシアが武力の優位性だけに固執して?日本を征服しても商工業力や文化力で劣っている限り、日露の国境がなくなれば時間経過で樺太やシベリア地方は日本文化や商工業に支配されてしまうだけでしょう。
日米戦は地力を有する日本台頭を押さえ込むために無理ヤリに戦争に引きずり込まれた印象ですが、終わって日本が戦勝国米国支配下に入ったことで国境の壁を低くしてみると戦争で勝ったはずの米国が日本にどんどん経済戦争で追い込まれるようになったのが戦後秩序でした。
19世紀にかけて西欧諸国間で植民地獲得競争が盛んになったのは、西欧の産業革命後におけるアジア諸国との圧倒的技術格差を背景にしていたので、市場獲得・国境の壁さえなくすか低くすれば本国商工業者にとっては植民地国の市場を席巻できる前提があったことによります。
幕末に欧米諸国がこぞって開国を迫った所以です。
日本戦国時代の豪族間〜大名間の戦争は一見領地獲得競争のようですが、領地自体に意味があるのではなく、生産力の基本たる農地=それにくっついてくる農民取り合い戦争ですが、支配地を増やすことにより、兵力供給源の現地農民を配下に取り込むことによる戦闘力増強を目指したものでした。
日本の場合は、わが国将棋ステムの応用ですが、これが成り立つのは出身地による能力差が少ないことと差別をしない・・能力さえあれば、新たに支配下に入った領民や商人でも差別なく取り立てることが可能な仕組み・同一民族間戦争しか経験がなかったことによります。
この仕組みのおかげで、落城のときには大将だけが腹を切って首を差し出してその他お咎めなしの処理が普通になっていたし、攻防戦最中の奮戦ぶり次第で「敵ながらあっぱれ!」評価されれば、落城後攻撃軍配下になったあと重用されるので、卑怯な裏切りのない武士道が守られていったのです。
我々弁護士もそうですが、やるときはやる・その結果恨まれるというよりは、だいぶ経ってから過去の敵方が頼り甲斐があると思うのか?別件で知り合いを紹介して来るようなことが結構ありました。
きちんと戦うべき時には戦い切った方が、負けた相手も気持ちが良いようです。
日本社会では争っている人もそれぞれ合理的判断できる人が多く、敵方であっても理屈があってきちんと主張すべきことをしていると、その戦いぶりを相手も見ている社会です。
武田家滅亡時に親族筆頭の穴山信君(梅雪)が、勝頼を見限って徳川を介して信長に帰順しましたが、家康に伴われて安土城で拝謁をした時に信長は意図的に軽くあしらったことが知られています。
千年単位で形成されたこうした価値観がそのま適用されたのが台湾・朝鮮統治のあり方でしたし、東亜戦争中に東南アジア地域から欧米植民地支配解放後の日本統治の方法でした。
ただしこういう価値観のない朝鮮族にとっては、(自分ならこうするだろうという)「日本統治下では非道なことが行われていたに違いない」という思い込み・実際の日本統治経験世代が「日本統治時代がよかった」と一言でもいうと反日教育で育った世代に殴り殺される事件が報道されていました。
https://www.j-cast.com/2013/09/13183859.html?p=all

95歳男「日本統治よかった」発言で殴り殺される 韓国ネットでは「死んで当然」「正義の審判だ」
2013/9/13 18:26

いまだに日本批判(事実にもとずく批判は必要ですが、妄想を事実のように刷り込む教育)を拡大する一方です。
異民族間の支配地拡大パターンでは、戦闘力に取り込むどころか造反リスクが高まるので、その監視抑圧システム負担が逆に増えます。
今の中国でも主に異民族支配に必要な公安警察コストが、正規軍予算を上回っていると言われるほど不経済な状態です。https://jp.wsj.com/articles/SB11827117695770103410504584086233770516714

中国の国防費超える治安維持費、その意味とは
By Josh Chin
2018 年 3 月 7 日 11:48 JST
ここ数年、中国政府の国内治安維持と国防の予算は全体として経済成長を上回るペースで増えてきたが、国内の方がはるかに速いペースで増加し、現在は国防予算を約20%上回っている。

中国の国防予算は米国をそのうち追い越すか?というほど巨額ですが、治安予算がそれを追い越しているというのですから、何のためにチベットやウイグル、内モンゴルや女真族や植民地を国内に抱え込んでいるかが合理的に言えば疑問でしょう。
本来中国はこれら異民族を切り離して友好国関係・・攻めてさえ来なければ良いいのです。
周辺少数民族が中国を侵略する力がないのですから、そういう心配はもともといりません。
古代から周辺国を直接支配せずに朝貢関係・・専制支配下の上下関係ではなく、大国として一目置いて尊重してくれれば良い・友好関係にとどめてきたのはこういう知恵があったからです。
戦国時代の例を今日コラム中段に書いたように、国民は国内治安が乱れるのは困るので統一のための戦争の必要性を認めるし、あるいは異民族が侵略してきて妻子を掻っ攫われ物資略奪されるのは困るので防衛用の武力を必要とし、これに参加する必要を認めるでしょうが、一般国民にとっては自分の命をかけてまで侵略・・市場獲得や支配欲目的の戦争に協力するメリットはありません。

GDP指標の意味2

今の国家や企業運営に置き換えれば、アナリストや統計学者が採用するサンプル対象数字だけを追う経営・・試験問題だけ特化して勉強して好成績を取っている秀才みたいです。
過去問集が市場に出回っていますが、これはそっくり同じ問題が得るという意味ではなく、その問題で求めている論点・思考回路を理解しましょうという意味である程度合理的ですが、そっくり同じ問題を5年も10年も出題すれば、意味不明なまま丸暗記してきた受験生が好成績になり、本来の実力を測れません。
例えば日経平均採用銘柄(ダウも上海総合も皆同じ)中心に買いを入れる、あるいは売り浴びせる偏った運用などがあるとその指標が信用できないのに似ています。
私の子供の頃には、品質を見るために米俵(当時は藁を編んだものでしたので先を尖らせた篠竹を簡単に刺し込めました)のに細い篠竹を差し込んでコメを抜き取って検査する方法がありましたが、これは出荷した大量の米俵のどの部分に検査官がいきなり差し込むか不明なので、結果的に均一化が図られる仕組みでした。
国土防衛が重要なのは領内の住民の生活が、夷狄に荒らされないこと・・いわば強盗から守るこことが目的であって、侵略軍=強盗との戦いに勝って侵攻軍を追い返せば住民を守ったことで英雄ですが、侵略してこない相手に攻撃して勝った場合・どんな戦争でも戦争に勝てば英雄という意味ではなかったはずです。
いつの間にか支配者の自己満足のための戦争でも戦争に勝てば英雄となってしまったように思われます。
こういう政治や企業運営では国民や社員その他ステークホルダーが困ります。
一家の稼ぎ柱のお父さんが猛烈に働くのはありがたいけれども、4〜50歳で倒れてしまうのでは家族が困るでしょう。
アレクサンダーや漢の武帝、ナポレオン等の遠征に次ぐ遠征成功は彼らの名声には寄与したでしょうが、戦役に駆り出される人民にとっては負担が増える(租庸調等人民負担の中でも兵役の義務は最悪でしょう)ばかりで「いい加減にしてよ!」というところで何の意味もなかったでしょう。
アレクサンダー大王は終わりの頃には武将から反対されてインドから引き返したとなっています。
アレキサンダー大王に関するウイキペデイアの記事から一部引用です。

紀元前356年にペラで生まれ、20歳で父であるピリッポス2世の王位を継承した。その治世の多くをアジアや北アフリカにおける類を見ない戦役(東方遠征)に費やし、30歳までにギリシャからインド北西にまたがる大帝国を建設した。戦いでは敗れたことがなく、歴史上において最も成功した軍事指揮官であると広く考えられている。
・・紀元前326年、「世界の果て」に到達するべくインドに侵攻し、ヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族に勝利する。しかし、多くの部下の要求により結局引き返すこととなった。
紀元前323年、アラビアへの侵攻を始めとする新たな遠征を果たせないまま、首都にする計画だったバビロンで熱病にかかり32歳で死んだ。その死後、彼の帝国は内戦(ディアドコイ戦争)のよって分裂し、マケドニア人の後継者(ディアドコイ)によって分割支配されることとなった。

その結果中東地域にギリシャ文化が広まった功績・・・ナポレオンの大侵略戦争によりフランス革命の成果が欧州に広まった功績があるとしても、それによってマケドニアの地元民やフランス国民にとって何かメリットがあったのか不明です。
フランスもナポレオンも当初亜h防衛線sのであたtでしょうが次第に防衛の枠を踏み越えて支配欲獲得の動物的欲望に転化していったので、国力を消耗し尽くした結果、次の時代・19世紀英仏の世界規模の覇権争いに負けてしまった・特に北米にせっかく進出していたフランス植民地をほぼ失った原因になったように思われます。
戦国時代のように国内の乱れを統一するのは、戦乱で困っている国民には朗報・・戦乱で逃げまわらなくとも安心して学問や製造販売に打ち込めるなど朗報ですが、外国との戦いでは、負けて異民族支配され略奪されるのは困るというマイナスを防ぐ程度で十分であって、自分から遠征に参加して略奪者の仲間になりたい国民は滅多にいません。
十字軍遠征は、戦利品目的のファンドが組まれたとすら言われますが、そういうことを楽しみにして遠征団に自発的応募する人は、一般国民ではなくもともと生きている意味がない自暴自棄的無頼集団がいっぱい居たというべきでしょう。
まともな生活をしている人が、自分の生命をかけてまで出かけていって掠奪暴行したい人がいるでしょうか?
上記の通り外国との戦争で勝って国王の統治範囲が広がっても、一般人にはほとんどメリットがありません。
例えば、同じ生活水準の国同士で言えば、商人にとっては合体による市場規模の利益があるようですが、これは今でいう関税障壁がなくなるということになります。
負けた国の商人も勝った方の国でも相互商売(スーパーやコンビニ展開)できるので、本当のメリットは関税障壁のない状態の自由競争・・FTA締結したのとほとんど変わりません。
旧相手国が合体した結果相手国に進出して商売に勝てるかは、商人間(バックの製造業・製品レベル)競争で勝つ自信がない限り自国のテリトリーが広がるメリットはありません。
民力の差がないのに軍事力だけ磨いて勝っても、市場一体化後商工業レベルの競争で勝てない限りかえって自国産業が損をします。
アメリカトランプ氏の言動は、米国が国際競争に負け始めたのでグローバル化・経済一体化は損だと気付いて従来標榜していた自由貿易を制限したくなったのを素直(日米繊維交渉に始まり米国はもともとそういう国でした)に言いだしたものです。

江戸時代産業構造の変化3(GDP指標1)

昨日見たように大阪市場に出回る金額比率では1711年にコメ100対綿製品18だったのが、1804年以降100対105の関係に逆転しています。
しかも主力製品である縞木綿等が統計から抜けているというのです。
他の商品も同率変化かどうかまでは分かりませんが、綿に関しては大幅な比率変化です。
1800年代に入ると、(工業制手工業の発達によって)大口取引は大阪市場を通さない直接取引が一般化していったとも一般に解説されていますので、コメの経済比重は大幅低下していたことが明らかです。
今では、食品でさえもコンビニその他大手スーパーの食品工場化によって農産物や魚介類も公設市場経由はなく、大手の場合契約農家から直接仕入れが普通になっていますが、こうなってきたのはまだ数十年のことです。
魚貝類も同様です。
小池都知事就任以来、築地市場移転問題が一般の注目を浴びましたが、実はこの数十年で魚介類や、農産物の市場離れが激しく市場に頼る率が急激に減少しています。
(今でも市場経由で仕入れている業者は個人経営のレストランをちょっと大きくした程度で全国展開規模の企業で築地や太田市場購入を基本にしている企業は皆無に近いのではないでしょうか?)
千葉市中心部で見ると青果物や魚などの商店は、ほぼ壊滅状態です。
数十年前には、各地域には数店舗以上経営する個人的商売(地元スーパーや飲食店の成功者など)がありましたが、昭和末頃から平成に入った頃から大手に負けてあるいは吸収されて、地元地盤の百貨店やスーパーなど事業体の多くが姿を消しました。
領内から集めた年貢米換金の場合、今のような食品工場化=大規模購入先がないので、領内消費地の大部分を占める自分の城下町での換金だけでは外貨(幕府発行の貨幣)を稼げないので余剰分を従来通り大名は大阪市場で換金するしかなかったのでしょう。
戦国時代が終わると大名領国の一円支配確立・・農村地域内での自給自足分プラスアルファを残して徴税する関係上・領内の大規模米取引が原則として成立しません。
大大名であればあるほど、大規模に集まった米の換金には京大阪江戸三都での大消費地へ輸出するしかないのですが、そのためには直接個別大名が直接販路を求めて輸送するのは無理があるので自然発生的に大阪のコメ市場が成立したものでしょう。
江戸時代中期以降藩政改革の一環として、特産品開発→専売制は広がりますが、もともとコメを大名が年貢として取り立てた結果、(今の金曜市場で年金資金が大口運用者になっているような現象?)コメの出荷者として大名・旗本等の領主が大口市場参加者になったことから、結果的にコメの専売制度の基礎になっていたようなものです。
大阪市場に消費者(例えば江戸の町民が)が直接参加できないので、問屋が大量買い付けして各地の二次問屋〜三次問屋〜小売に分散していく・・結果的に問屋資本蓄積が発達し、問屋資本が、家内制手工業を組織化するまでの過渡期があったのです。
現在でも公設の魚市場や青果物では、セリ参加資格のある仲買人がセリを通じてまとめ買いして、その仲買人から各個人商店が買って帰る仕組みです。
このように家内制手工業を組織化したのが問屋資本でしたが、すぐにこれが直取引拡大によって問屋資本から離れて行きます。
家内制手工業の初期イメージは、今は姿を消しましたが、私の高校時代以降・・昭和3〜40年台に一般的であった家庭内内職が十数人規模の雇い人利用規模に変わった程度の光景でしょうか?
家内制手工業がさらに成長して工場制手工業に脱皮していくといわゆる産業資本家が勃興し、問屋資本による家内制手工業が淘汰されていきます。
これに比例して工業製品の直接取引が始まり、大阪市場を経由しなくなってきたのが天保の改革頃の経済状況でした。
製鉄や車造船テレビみんなそうですが、工業製品は市場での競りによる取引ではなく相対取引が原則です。
以上のように綿製品等の主要製品が大阪市場離れを起こしていたにも関わらず、大阪市場だけで見てもコメの比率が綿製品にくらべて大幅低下していたことがわかります。
徳川政権樹立当時コメ収益を基本(実は当時もコメだけを基準にしたのではないので厳密には複雑・・コメを基準値とした換算であったと思われます)として、幕府や大名家の格式・経済力差・軍役基準を決めていた物差しでは、1800年頃には対応できない時代が来ていたのです。
まして約100年前の1600年代初期との比較データが出ていませんが、幕府草創期に決めた石高との比較では、まるで基準になっていなかったと思われます。
9月4日に唐津藩の石高が表6万石に対して実高25万石と紹介しましたが、幕藩体制確立時の当初格付けは意味をなさなくなっていたことがわかるでしょう。
「鉄は国家なり」とか建艦競争の時代には「造船力」で国力を測る時代がありましたが今は違います。
200年前の大企業が200年間リーデングカンパニーであり続けているか・・仮にリーデイングカンパニーであり続けているとした場合、主力商品入れ変えに成功しているからこそ生き残っているのでしょう。
江戸時代270年間に主力商品産業が入れ替わっていたのです。
最近では旧来型GDP数値にこだわるのは意味がないのではないか?という印象を持つ人が増えていると思いますが・・。
そういうメデイアの意見を見かけませんが・・。
いわゆる失われた20年論では、GDPの上昇率が低いという主張ですが、個人の生き方で言えば、収入や売り上げ前年比なん%増で嬉しいのは青壮年期のことで、一定以上の年齢や年収になれば、これ以上売り上げ増や新店舗展開のために長時間働くよりは、この辺でスピードを緩めたいと考え若い頃の行動パターンを修正するのは不合理ではありません。
(個人で見れば、ある日救急車で運ばれるまで猛烈社員を続けるのは愚の骨頂です)
国家や社会も生き物?としては同様で、一定の高原状態に達すれば現状維持するのが合理的であり、ゴムが伸びきっている状態で際限のない成長を目指してある日突然ゴムが切れるような事態・・急激な国家破綻を招くより合理的です。

江戸時代産業構造の変化2(工場制手工業)

昨日引用の続きです。

そこに十数人の賃金労働者を雇い規格品を分業制によって大量生産する方向へと移っていきました。
これがいわゆるマニュファクチュア(工場制手工業)の成立で、現在の工場勤務の原型とも言えるでしょう。
量産化に対応すべく技術革新もどんどん行われるようになります。
織物業では機織り機は「いざり機(ばた)」からのより高性能の「高機」へ。糸撚り機は人力の「紡車」から水力利用した「水力八丁車」へと機械がグレードアップしていきました。
マニュファクチュアは全国的に広がり、中には藩全体がマニュファクチュアを積極的に推進する動きがみられ、藩自らが工場を建設したり、生産された特産品を藩の専売とし、大成功を収める藩が出てきました。(専売→その藩のみが独占的に特産品を売ること。)
中でも雄藩としてのしあがったのは・・・そうです。薩摩藩と長州藩です。薩摩藩は砂糖の専売、長州藩は紙やロウの専売によって藩政改革に成功したのです。
「農民が工場に出勤し、製品を作り、賃金をもらう。」こうした農村の賃金労働のはじまりは、農村を貨幣経済へとどんどん巻き込んでいきます。一方で、農業従事者が減ったことで田畑が荒廃していったことも紛れもない事実です。
田沼に代わって老中となった松平定信は従来の土地至上主義へ回帰を目指し、自給自足を推進するため、商品作物の栽培を禁止する法令を出します。つまり、「お金儲けのための作物や特産品を作らずに、お米を作れということです。」
だって、貨幣経済が農村にまで普及し、経済は活性化。さらに技術革新によって飛躍的に経済成長しているというのに、この後に及んでこんな法令・・・・時代錯誤も良い所。
定信の政治が民衆の反感を買ったのは、これですよ。これ

上記意見でも定信の改革?の時代錯誤性を書いています。

藩が主役になる産業・・専売制度は長州が有名ですが、例えば阿波徳島に旅行した時に見学した藍屋敷・・の藍の専売制度もそのような一例でしょう。
産業構造変化については、木綿産業限定ですが具体的記述のある以下の論文がネットで見つかりました。
https://repository.kulib.kyotou.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134214/1/eca1403-4_105.pdf

昭 和 62年 9・10月 京都大学経済学会
江戸後期における農村工業の発達 日本経済近代化の歴史的前提としての一一 中 村 哲
II 近世社会〔江戸時代の社会〉の経済的性格と木綿
日本では,中世社会〈鎌倉・室町附代〉と近世社会〔江戸時代〉は封建社会 という点で共通した面をもっているが,他面,非常に異質である。経済的側面 におけるもっとも大きな相違は,商品経済の発達であるυ
・・・幕末開港以後の主要 貿易品,すなわち輸出の生糸,茶,輸入の綿織物,砂精などは, もともと日本 にはなかったものであれ中世には輸入品であり,中世末から近世初に国屋化 されたのである。低技術の生糸は古代からあったが. 15位紀から発達した高級 絹織物である酉陣織の原料となる生糸はすべて輸入であり中世末,近世前期 (16~’17世紀)においては生糸は最大の輸入品であった。
木綿は・・・日本で国産化されたのは. 15世紀末からで 16世紀に全国に普及した。最初は かなり高価であったと思われるが,普及するにつれて大衆衣料となった。
この木綿をはじめとして,中世末から近世初にかけて,それまで輸入品であっ た砂糖,たばこ,茶,絹織物,生糸,磁器などが国産化されていった。
それによって日本人の生活が大きく変った。国産化された場合,農民でも生活するためには,商品経済関係に入 らなければならなくなったのである。
・・・木綿は16世紀, とくにその後半か ら急速に全国に普及し, 17世紀の初めに庶民衣料としての地位を確立したとみ られる。
ところがこの頃から商品生産としての綿作(原綿栽培), 綿工業は畿内(大阪,京都を中心とする地域で,当時,日本で経済的にもっとも進んでい た)に集中する傾向がみられ,畿内では農工の分離が始まる。
北陸,東北,九 州など綿作の立地条件のよくないところは畿内から大量の原綿を買い入れ,原 綿から綿糸を作って綿織物にするようになり,東北J 九州という後進的な農村 も全国的な商品経済のネットワークの中に入ることになる。
・・・1714年に大阪に集められた商品は銀44万貫余と いう巨額に達するが,そのうも35.8%は蔵米, 即ち年貢米であった。幕府,藩 は農民からとり立てた多量の年貢米を大阪に送って販売し,その金で大阪で必 要な物資を買うか,江戸や国元(自分の領国〕に送金して財政を維持していた。

上記によれば1714年(吉宗の将軍就任1716年の2年前)時点で、大阪の商品取引高中で米の比率はすでに35、8%しかなかったことがわかります。
引用続きです。

III 近世後期 (18世紀後半以後〉の商品経済の発展
近世的経済構造は18世紀中期以後解体してゆく。
文化・文政期には,主要商品しかわからないが, 米以外の商品の中で,集荷量の不明のものが,判明する商品と同じ割合でこの 1世紀聞に増加したものと仮定すると,文化・文政期には蔵米は 150万石(1 石は約 5ブッシェル〉で1714年の112万石より増えているが,価額では全商品の13.7%に低下している。
他の商品のふえ方がはるかに多いことと,米の他の 商品に対する相対価格が下ったためである。
蔵米を 100として, 1711年に綿関係商品は18 であったが, 1736年に31となり, 1804~29年には 105 となっている。つまり木綿 関係商品が蔵米より多額になっているのである。
しかもこの資料には 18 4~29 年の綿関係商品には相当多額にあったと思われる縞木綿〔先染の綿織物〉と綿糸が欠けている。 蔵米と綿関係商品はたんに物として(素材的に)ちがう(米と衣料というように〉ということだけでなしその経済的性質が本質的にちがっている。

江戸時代産業構造の変化1

同時期の水野家の転封先浜松藩の表石高は、ウイキペデイアによれば以下の通りです。

肥前唐津藩から水野忠邦が6万石で入る。忠邦は天保5年(1834年)に老中となったことから1万石の加増を受けて7万石(7万453石とも)の大名となる。しかし天保の改革に失敗したことから弘化2年(1845年)9月に2万石を減封され、さらに家督を子の水野忠精に譲って強制的に隠居の上、蟄居に処された。11月に忠精は出羽山形藩に移封となる。

浜松は同じく表向き6万石ですから唐津とは石高では同格転封ですが、実高15万三千石ですから、伸び率が唐津に比べてかなり低かったことがわかります。
浜松は家康の本拠地であったことからか?転封に際しては実高による損得よりは格式獲得のために?大名が数年ごとに変わっていたとようで、領内産業構造改革の気持ちが乏しかった分成長力が低いのか、交易窓口の長崎に近い九州との距離で変化差がついたのか今のところ私には不明です。
当時の日本各大名家の実高表を知りませんが、列島の位置関係で見れば、西から東〜東北に移るに従い構造改革の波及が遅くなっている印象です。
例えば私が育った頃にどこの小学校にもあった?薪を背負って歩きながら本を読む二宮尊徳像が目に焼き付いていますが、彼は1856年70歳で死亡ですから、水野忠邦とほぼ同時代人で天保年間中心に活躍した偉人です。
(小田原藩で生まれ育った人で中高年期に今の栃木県中心に活躍)
彼の事績を見ると、経営才覚の良さもありますが、活躍の場の関係で成功例の多くは農産物増産・・農村振興政策でした。
このあとでhttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134214/1/eca1403-4_105.pdfの論文を紹介しますが、和泉国や尾張の国では同時期にはすでに今でいう農村工業地帯が成立していたのに比べれば、幕府直轄地を含めた東国の後進性が明らかです。
参考までに長州・・毛利家のGDPを見ると以下の通りです。

(徒然道草その39)毛利藩の幕末石高は実質100万石? 200万石?


(徒然道草その39)毛利藩の幕末石高は実質100万石? 200万石? | 公益財団法人 芸備協会

・・・石高は、農業生産高はある程度反映されるが、鉱工業・商業関係の生産高は限定的にしか反映されていない。斎藤修・西川俊作らによる『防長風土注進案』についての研究によると、1840年代の長州藩経済は、ほぼ200万石規模だったと推定している。
幕末の長州藩は島津藩や浅野藩を遥かに凌ぐこの財力によって、銃や軍備を整えることができたため、徳川幕府を倒す主役を演じることができたのである。

各藩がそれぞれの環境に合わせて改革に精出していたのですが、会津など東北系は生産増政策でも稲作の普及に成功するかどうかが藩政改革の中心であったのに対し、西国大名系は・・家内制手工業やサービス系への構造変化に対応できていた違いのように見えます。
例えば以下の記述です。
いわゆる家内製手工業の発生・成長がどうなっていたかの関心で検索すると以下のネット記事がありましたのでこれを紹介します。
読んでみると私の考えているのとほぼ同内容というか、学校教育で知る程度の常識紹介かな?ですので、大方引用紹介します。
ただし、その次に紹介する中村氏の京大論文のような具体的データ記載引用先がなく、誰かの意見の受け売り的意見でしかないように見えるものの、分かり良い説明です。

2017-10-12

【マニュファクチュア】日本の産業革命!明治維新の地殻変動の始まり。
江戸時代後期、貨幣経済は全国の農村に普及し、マニュファクチュア(工場制手工業)が成立しました。農民達は農業から工業へと労働形態をシフトさせていきます。
これによって大成功を収めた藩が薩摩藩と長州藩。いよいよ明治維新の地殻変動が水面下ではじまったのです。
18世紀後半、農民達が農業を捨てるという現象が起きました。
「農民が農業を捨てる!?じゃぁその農民は何をやっているの?」と思った方もいるかもしれません。
実は工場で働くようになったのです。農業ではなく、工業に従事する農民達が現れるようになったのです。
これが18世紀後半から成立する工場制手工業(マニュファクチュア)です。いわば日本独自の産業革命です。今まで農業が主流だった農村に工場が建設され、工業が台頭してきたのです。これはすなわち、資本主義経済の発達を意味します。
時の老中・田沼意次は貨幣至上主義の政策を行いましたが、彼の政策が上からの変化だとすれば、下からの変化が起きていたのです。
今回はそのマニュファクチュアが成立した過程について見ていきたいと思います。江戸時代中頃から後期にかけて農業以外の産業の発展が顕著になります。
例えば、林業、鉱業、水産業、または漆器、陶磁器、製紙、織物といった各地の特産物において著しい発展がみられました。
しかし、これらは一部の富裕層のみが購買していたため、商品の生産も問屋の注文を受けて農民個人が副業として細々と作っていたに過ぎませんでした。
この副業形態を農村家内工業と言います。例えば、砂糖や塩があれば、普段作っている汁物をより美味しく作ることが出来ますよね。一般庶民だってこれらの特産品が欲しいと思うようになるわけです。
・・人間には欲がありますから、やはり便利で最新鋭で快楽を与えてくれるものは欲しいのです。
庶民の物欲と購買力はどんどんあがり、大量消費の時代がやってきました。すると、問屋制家内工業では生産が追いつかなくなります。さらに多くの人手を集め、さらに大規模な生産施設が必要になったのです。
問屋自身が大規模な設備投資を行い、広い土地と生産道具を購入し、工場を建設し、労働者を募りました。農民達も農業をやるよりも、工場で働いたほうが効率的に賃金を稼ぐことが出来るため、積極的に工場労働へ応募するようになりました。

以下引用明日に続く

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