郡縣・郡国制から州縣制へ

  
漢字導入時期は5〜6世紀と言われ、しかも王任と言う人の名を教科書で習った記憶ですが、実際には、交易を通じて人の交流があれば(渡来人も住み着いていました)徐々に入って来て気のきいた人が使い始めていたものでしょうから、彼がまとまった千字文を紹介したと言う程度のことでしょう。
ですから、本来誰が何時とは言えない性質のものです。
5月3日には中国の郡縣制ないし郡国制はなくなっていたと書いてきましたが、この際私の想像だけではなく実際の文献で紹介しておきましょう。
諸葛孔明の出師の表では既に州が出てきます。
「天下三分して益州疲弊す」
がこれです。
いつからかは不明ですが、後漢最後の三国鼎立直前の頃には既に州縣制に移行している様子です。
ちなみに第6代景帝のときの呉楚7国(王)の乱があって、これを鎮圧してからはいわゆる郡国制は消滅に向かい、次の武帝の頃からは全国が郡縣制となり皇帝が完全に掌握するようになっていました。
第7代武帝の時に郡大守による不正が横行したためにこれを監察するために全国に103あった郡の上に全国に13の州(冀・兗・青・并・徐・揚・荊・豫・涼・益・幽・朔方・交阯の13の州(最後の二つは郡))を作ります。
州1つごとにに州内の郡大守の不正を監察する刺使を置いたのが始まりです。
郡大守の格式に比べて刺使の格式が低くて監察の実が上がらないことと、州の軍事権を持つ州の牧制度が始まったことから、監察権を州の牧に与えるようになり、その後監察権が刺使に戻ったりある郡では刺使、ある郡は牧と言うように刺使と牧が並列したり、州の牧が権力を握ったりしている時期が続きましたが、結果的に州の軍権を一手に握るようになった牧が優位になり、牧が郡の行政権まで握るようになって行ったようです。
州内全部の郡の行政権を握るようになれば、結果的に州単位の行政になります。
中央集権国家では、郡の大守は行政権だけで軍権や警察権がありません
(我が国でも大名時代には、軍事力と警察権がありましたが明治以降の県知事や市長・・官選でしたので彼らが警察権や軍事権を持っていなかったのと同じです・・戦後地方自治制度になって地方自治体ごとの警察権を持つようになりましたが、これは直ぐに実態をなくして行きます)
何時の頃からか知りませんが州の「牧」は州(地方の)の軍事力を持つようになって行きましたので、(今で言えば軍管区長官?)中央権力が弱体化して動乱期になると地方で軍事力を持つ州の牧・・州単位が重要になってきます。
三国志でよく出て来る「徐州の牧」豫州の牧になったと言うくだりは、その州(郡)の軍事力を手中に収めたと言う意味です。
所によっては逆に郡の大守が実力を持っていて隣の郡も併呑して強大な軍事力を持っていたこともあるでしょうが、事実上の権力移行期には、いろんなパターンがあってもおかしくありません。
後漢以降・・特に黄巾の乱以降は中央政府はあってなきが如しでしたが、郡の大守には基本的に軍事力がなかったので、動乱期には奪い合う対象でなくなり、独立の意味がなくなって行ったのです。
州の牧の独立性が高まる・・行政権も掌握して行くと、その下部に位置する郡の大守や県令だけを中央で任命して派遣することが不可能になりますから、州内の行政組織もその州の牧ごとのやり方になって行ったことでしょう。
上記の通り州の権力と郡の統治権が競り合った結果、州の政治権力の方が優位になって行ったいきさつがあるので、州権力の定着に応じて郡大守と郡の政治自体が消滅して行ったと見るべきです。
各州には大きい州では120くらい小さな州でも5〜60くらいの縣城がありましたから、治安の悪い動乱期には軍事拠点でもある城を中心に行政が行われ、中間の郡の役割が消滅して行ったのだと思われます。
ちなみにウイキペデイアのデータ(何時のデータか不明ですが・・・)によると最大の益州(この中に巴郡や蜀郡がありました)で118の城、戸数1526257、口数7242028、荊州で117の城、戸数1399394口数6265952、徐州で城数62、戸数576054、口数2791693、最小の交州で56の城、戸数270769です。
(ついでですが、一戸当たり4人平均程度の人数で、以前から書いてきましたが昔から核家族だったことが分ります。)
郡が制度としてなくなったのではなく、中央の権力衰退に応じて事実上衰退・消滅して行ったと見るべきでしょう。
これが何世紀も続いているうちに地名を現すのに州名が原則になって行くのです。
ただ人名の説明をみると、かなり遅い時代でもその生地として「何々郡◯◯の人」と言う説明があるのは、上記のように法制度としてなくなった訳ではないから史書ではこのように書いているのでしょう。

国と郡

中国に関する歴史物の本では魯の国などと春秋時代から国名があったかのように書いているのがありますが、後に漢以降地方に封ぜられた王族の領地を「何々国」と言うようになって何々の国の呼称が定着した後に、地方制度として昔から国があるかのように安易に書いているに過ぎないように思います。
あるいは我が国で地方を信濃の国の人と言うのに習って、中国の地方・地域名を表現する翻訳として中国の地方も同じように魯の国などと翻訳している場合もあるでしょう。
何とか通りと言う地名表記の国の表示を、我が国のように何丁目と翻訳しているようなものでしょうか?
西洋の地方制度は日本とは同じではないとしても、似ているような組織を日本の町や村として翻訳しても間違いではないのですが、中国の地名に勝手に「何々国」と翻訳して書くと同じ漢字の国であるから、我が国同様に昔から何々国と言っていたのかと誤解し易いので、こうした場合、翻訳しないで中国で使っている漢字のまま書くべきです。
ところで春秋戦国時代は地方制度がきっちりしていなかったようなので、史記や18史略を見ても斉の桓公とか衛の何々、楚の懐王と書いているだけで国や州等の肩書きがないのが普通です。
官僚派遣の郡縣制は始皇帝が始めたものですし、郡国制は漢になって中央派遣の郡縣だけではなく、王族に封地を与えて半独立的統治を認めた折衷制度して始まった制度です。
外地の服属者に対して国と表現するのが元々の意味ですから半独立国を言う意味だったでしょう。。
春秋時代には地名に肩書きがないのに、我が国の文筆家らは我が国の習慣で当時も我が国のような地方制度があり・・地方は何々の国となっていたかのような思い込みで書いているのです。
魏晋南北朝時代を別名5胡16国時代と言い、我が国で室町時代末期を戦国時代と言うときの「国」とは半独立国が乱立している状態を意味するでしょう。
我が国古代で何故地方の呼称に・・・國と言う漢字を当てたかのテーマに戻ります。
上記の通り漢の頃から南北朝時代まで独立・半独立地域名として主流であった地域の肩書きを我が国の地域名に輸入して「・・國」としたと思われます。
唐の時代に律令制が我が国に導入されたのに大和朝廷直轄のみやこ以外の地域名を州や縣とせずに国としたのは、大和朝廷では唐ほど中央権力が強くなかった現実に合わせたのかも知れません。
しかし、我が国古代の「國」は漢字の成り立ちである四角く囲まれて干戈で守っている地域ではなく、(国ごとに対立している地域ではなく)一定の山川で隔てられた地域・・当時で言えば広域生活圏をさしていたに過ぎません。
その結果、我が国における国とは都に対する地方を意味するようになり、国をくにと訓読みするようになって行き、「くに=国」は故郷・出身地をさすようにもなりました。
我が国の「くに」の本来の意味は、昔も今も自分の生国と言うか生まれた地域・地方を意味していて、それ以外の地域の人と区別するとき・・ひいては・現在では自分の地域の範囲が広がって日本列島全体を「わが」国(くに)とい言い、異民族に対する自国、本邦を意味して使っているのが普通です。
すべて同胞で成り立つ日本列島では、相模の国、伊豆の国、駿河の国と言われても、あるいは河内の国、摂津の国、大和の国と山城の国とでも国ごとの民族的争いがありませんので、現実的ではなかったでしょう。
ただ、大和朝廷の威令がそれほど届かない地域・・服属している地域と言う意味だけで中国の国概念と一致していただだけです。
国の範囲は実際の生活圏と違っていたし、国単位で隣国と争うような必要もなかったので、その下の単位である「コオリ」が一般的生活単位として幅を利かすようになって行き、上位概念の国名や国司は実体がないことから空疎化して行ったのではないでしょうか?
ちなみに「こおり」は我が国固有の発音であり郡(グン)は漢読みですが、国より小さい単位だからと言うことで郡と言う漢字を当てて、これを「こおり」と読んでいたただけのことでしょう。
ところで、この後で書いて行く縣の読みについては古代では「アガタ」と言っていたことが一般に知られています。
しかし、ものの本によると「縣」の発音として「コホリ」と読む場合もあったようです。(どこで見たか忘れましたが・・・)
我が国古代の生活単位としては、先に「コホリ」や「コオリ」が存在し、これを中国伝来の漢字に当てはめて使っていた漢字導入初期の試行錯誤が推測されます。
我が国では大和朝廷が律令制に基づいて押し付けた生活実態に合わない「国」よりも小さい・・現実的生活単位として、「コオリ」乃至「コホリ」が使われていて、これに縣や郡を当てはめていたことになります。
このコオリ単位の行政運営が江戸時代末までコオリ奉行による行政として続いていたのです。
律令制が始まっても国司は郡司さんの意向を前提に政治をするしかなく、郡司が実力者だったと言われる時代が長く続き、江戸時代でも1カ国全部を支配する大大名は全国で何人もなく、郡単位の支配である大名が普通でしたし、江戸時代でもコオリ奉行が現実的行政単位だったのです。
徒歩で移動している時代が続いている限り、古代から明治始めまでコオリ単位が現実的な行政単位でしたが、明治になってその下にいくつもの莊を合わせた村が出来、村役場、村単位の小学校、戸籍整備その他が進んで来たので、中間の郡単位の仕事がなくなり郡役所もなくなりました。
村を合わせた上位の行政単位として明治政府は郡よりも大きな縣を創設しました。
実際交通手段の発達等により、小さな郡単位どころか従来の「くに」単位よりも大きな規模で行政する必要が出て来たのでこ、広域化政策自体は成功でした。
郡よりも大きな経済規模が必要になったと思ったら、古代からの国単位では狭すぎるとなったのですから、我が国では古代から現在まで国単位では何も機能していなかったことになります。
もっと広い県単位の行政が普通になってくると郡は無駄な中2階みたいで具体性を失い・・精々地域名として残るだけになったのでコオリと読む習慣も廃れて行き、今ではグンと漢読みするのが普通になり、コオリと言う人は滅多にいません。
縣の名称も明治政府のイキナリの強制まで日本での日常的使用例がなかったのですから、これは今でも(市原の人に限らず全国的に)音読みしかなく日本語読みが全く定着していません。
漢読みしかないと言うことは、その制度が現実的な意味が根付いていないことになるでしょう。

郡区市町村制

 

明治5年の大区小区制は地域の実情(歴史経緯など)を無視して人口数だけを基準にフランスの制度を性急に導入したもので実情に合わなかったことから、明治11年には元の郡区町村制に戻り、名称も旧によることになります。
第4条の区制は今の東京や政令市同様に人口多数の場合人工的にいくつかに区切る趣旨で、大都会にだけ区制が残りこれが現在の東京23区や政令市の区などの先祖になります。
郡区町村編制法

明治11年太政官布告 第17号  1878(明治11)年7月22日付

郡区町村編制法左ノ通被定候条此旨布告候事

第1条 地方ヲ画シテ府県ノ下郡区町村トス
第2条 郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル
第3条 郡ノ区域広濶ニ過キ施政ニ不便ナル者ハ一郡ヲ画シテ数郡トナス(東西南北上中下某郡ト云カ如シ)
第4条 三府五港其他人口輻湊ノ地ハ別ニ一区トナシ其ノ広濶ナル者ハ区分シテ数区トナス (※)
第5条 毎郡ニ郡長各一員ヲ置キ毎区ニ区長各一員ヲ置ク郡ノ狭少ナルモノハ数郡ニ一員ヲ置クコトヲ得
第6条 毎町村ニ戸長各一員ヲ置ク又数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得(※

明治初期には何もかもフランス方式で始まったのですが、形式的な大区小区制も実情に合わないことから徐々に修正されているうちに地方組織はドイツの地方制度を模範とする方式に修正されて行きます。
上記郡区市町村制への変更は大日本帝国憲法がドイツ(プロイセン)式にとして決着したのを分岐点として明治20年代中期頃から完全にドイツ式に変わって行く先がけ・萌芽だったと位置づけられます。
明治維新では当初いろんな分野でフランス式の制度・文明受容で始まったのですが、そのまま模倣するのでは無理が出て来ます。
明治10年代からあちこちで修正作業が進んでいたのですが、それでも明治23年に首の皮一枚で漸くフランス式を残して・・修正思想が有力になって来たので編纂作業中に我が国の習俗に合わせた条文にかなり変更していたのですが・・成立した民法典が成立後に大反対運動が起こって明治25年には施行延期されてしまいます。
(民法典論争についてはこれまで何回も紹介しています)
西南戦争が不平士族反乱の最後の事件になったように、民法典は社会の基礎的文化のしきたりを決めるものですから、この大論争はフランス式文明受容方向で始まった明治維新が、ドイツ式文明受容へ転換する象徴的事件・・トドメであったことになります。
民法典論争は明治25年に決着がついて施行延期が決まるのですが、これこそがフランス式文明との決別が最終的に決まった瞬間と言えるように思えます。
施行延期して出来上がった改正民法(現行法)については、大騒ぎしたにしては、内容的にそれほど変わっていないと言う意見が多いのですが、私のような半素人から見れば法典編纂の形式が大幅に変わっていることがすぐ目につきます。
この形式こそフランス式からドイツ式に変わった大きな特徴です。
ところで学派的に見ると、民法典論争はドイツ法学派とフランス法学派との論争だったのではなく、英米法学派との論争だったのですが、改正作業が終わってみるとドイツ法学に入れ替わってしまい、東大の学者層もフランス法系からドイツ法学者に入れ替わって行きます。
こうして第二次世界大戦後アメリカ系の学問が入ってくるまでは法学政治学に留まらず医学であれ、科学であれ、すべてドイツ系学者が幅を利かす時代になったのです。
明治5年に大区小区制を決めたときから戸長の仕事は戸籍事務だけではなくいわゆる末端行政事務を担当するようになりますが、このときは伝統に従って名主間の推薦による戸長でしたので、地方名望家が中心・・政治意識の高い地方政治家の卵でした。
上記郡区市町村制でも町村の長を戸長とし、戸長役場を設けましたが民選でしたから、従来通り地方名望家・豪農が就任する慣例でした。
戸長役場制度を設けても予算がないので、戸長の自宅屋敷を役場に併用する例が多かったようです。
彼らは末端の行政組織員でありながら地元利益の代弁者として政府方針に逆らう・・自由民権運動(・・今で言う野党的運動)の人材供給源にもなる矛盾した関係でした。
古代以来の草の根民主主義に馴染んで来た地方有力者にとっては、今後は中央集権制だからと言って専制的に上から押し付けてくる乱暴なやり方に不満を持ちやすい立場でした。
そこで、政府は1884年町村合併標準提示(明治21年 6月13日 内務大臣訓令第352号)に基づき、約300~500戸を標準規模として全国的に行われた町村合併。結果として、町村数は約5分の1に・・・平均5町村を併合して?約500戸に戸長1名を置く(連合戸長役場)制度に変更すると共にこの時に戸長自宅を役場に併用することを禁止して、地元に根が生えていない人・・生粋の官吏を中央から派遣出来るようにしました。
戸籍簿も戸長の自宅から役場管理に移しました。
環我々事件に関連して古い記録が必要なときに戸長さんの家に行くと出てくることが多いのですが、この時に記録を移さないで戸長自宅に残ったままになっている地域が多かったことによるものです。
ここでは法に従って戸長と書いていますが、依頼者の話では区長さんの家に行くと・・・と話す人が多いです。
(私自身もMarch 10, 2011「末端行政組織の整備(区制1)」で書いたように区長を何故家を現す戸の長と言うようになったのか理解出来ていません)
文字を見ないで理解している人にとっては、区の長だから区長と理解している人の方が多いのです。
政府の末端組織である事を貫徹させるために民選から知事の任命による官選・・忠実な行政官に移行(明治17年5月)して行き、それ迄の民選との妥協として一応推薦された中から選ぶ制度も残しました(以下の太政官達を見て下さい)が、徐々に我が国の草の根の民主主義が次第に窒息して行くのです。

明治17年太政官達第四十一号
 戸長ハ府知事県令之ヲ選任ス 
 但町村人民ヲシテ参人乃至五人ヲ選挙セシメ府知事県令其中ニ就イテ選任スル事ヲ得ベシ此旨相達候事

この戸長制度は明治22年の市制・町村制の施行(明治21年4月17日法律第1号)によって廃止される迄続きますが、市町村制に移行すると推薦の制度がなくなり100%サラリーマン・官吏になって行ったようです。
ただし、この法律の作り方は、市制と町村制を区別して事実上二つの法律のような条文構成になっていて、地方行政組織の長は官選化したとは言うものの、独立の法主体としての規定の仕方になっているようです。
(条文自体を今のところ入手していないので、本当のところは分りません。)

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