農協法6(共産圏の集団指導体制3)

何でもユダヤの陰謀とかコミンテルンの陰謀などに結びつける議論があります。
農協法を見ると一見民主的組織にしているものの、基本は中央による指導体制の貫徹・締め付けにあることが分ります。
中国やソ連の制度は一見民主的ですが、(今の学説がどうなっているか知りませんが、私の司法試験受験科目当時の政治学では、独裁も民主主義の一形態と習いました)実質は中央による「指導体制の確立」になるように仕組まれていたことが重要です。
ソ連や今の中国(全人代等)北朝鮮では、いつも100%の圧倒的多数による信任・決議・・満場一致が常だと言われています。
(ただし今年の全人代は予算案に対して13%もの批判票があったと伝えられています)
下部組織が上部組織を選ぶと言っても、実際には中央に指導されるだけで異を唱えると指導に反した廉で下部組織で出世出来ない(どころか反党行動として粛清される)仕組みですから、いつも拍手するだけの会議になります。
ソ連・中国の法制度を直接知りませんが、農協法による中央の下部組織への「指導」権が法的に強制されているところに、共産圏の独裁体制の法的仕組みをかいま見ることが出来ます。
戦中戦後にかけてアメリカの大統領以下中枢政治家が、コミンテルンの影響下にあったと言う論説が最近頻りに紹介されています。
その反動で赤狩り・マッカーシー旋風(・・我が国ではレッドパージ)が起きたと言う時代の流れらしいです。
我が国で親中韓であった民主党政権の反動で、嫌韓嫌中勢力が台頭したのと似ています。
コミンテルン影響の真偽は私には分りませんが、農協法を見ると(コミンテルン思想下にあった)アメリカの指導で、ソ連の組織・制度を持ち込んだ印象を受ける1事例と言えそうです。
農地法では農業委員会が最終権限を持ち、その他教育委員会など最終権限を委員会に委ねる委員会方式がその頃創設されています。
委員会方式はある程度中立性保障等の意味がありますが、行政目的実現よりは、第三者的に判断する場合に用いられる準司法的制度ですから、これが行政組織に持ち込まれると(評論家的意見で実際の政治が出来ません)主体的な行政目的実現機能を果たせず、現状維持的にならざるをを得ません。
朝日新聞の第三者委員会「見解」を紹介しましたが、「委員会」制度の本質は一般的に過去の事実検証とこれに対する見解を表明することが主たる目的です。
共産圏の1党独裁体制の法的仕組み(ロシア語や中国語が読めないので実際は良く知りません)が、農協法や農地法の農業委員会あるいは教育委員会制度からある程度窺い知れます。
漢方医が脈だけで病名を推測しているよりも、もっと遠い想像かも知れませんが・・。
フランス革命等西欧の市民革命では、農地解放が行なわれていませんが、ロシアではロマノフ王朝時代末期から、革命前後を通じて農奴解放が大きなテーマでした。
ロシア革命後すぐに「労農評議会」が出来ているように、コミンテルン本部のあるロシアの経験では農民の処遇が最重要課題でした。
米軍占領後直ぐに農地解放から占領政治が始まったことと、農地解放後の農政がイキナリ協同組合方式で、農政の基本は政治から独立した農業委員会方式を採用し、しかも中央の指導体制が強固に規定されたのも自由主義に価値に置く米国的価値観による政治としては異例のことです。
アメリカ流の農業近代化・合理化であれば、規模拡大と自由競争が基本的な考え方になるべきで、細分化や中央の指導強制はアメリカの基本姿勢と合致していませんが、農民解放と集団農場化・組合方式による中央からの指導と言う図式徹底は何故かロシア革命の図式に符節します。
(私はソ連や中国の条文を知らないし、アクセスする方法も知りませんし、農協法とソ連制度との関連に関する学問的文献を読んでいないので漏れ伝わる集団農場や国有農場形態のうろ覚えを前提にしていますので、私の飛躍した?想像としてお読み下さい)
自民党は保守党とは言いながら、実は自由な活動を党の方針とする漸進主義政党であって革新と言われる社会党その他は実は超保守政党であることを大分前から・・例えば・最近では「証拠法則と科学技術2(自白重視2)」December 6, 2014などで書いてきました。
自民党の本質は自助努力して国際競争をする気のある業界や企業を応援したいし、旧社会党その他革新系?野党・文化人?は新しい技術利用に先ずは反対してみたい・・いろんな分野の変化を嫌い、防犯カメラが発達すると肖像権を守れとかプライバシー侵害と主張し、「◯◯を守れ」「改悪反対」と言うのが基本的姿勢です。
3月13日まで紹介したように、上からの指令で動く農協組織は、自由な発想を求め絶えざる変化を求める自由主義政党とは、本来は水と油の関係です。

農協法5(共産圏の集団指導体制1)

話を私の疎開時代の農村社会に戻します。
・・と言うより空襲を受け、丸焼けになってからの東京脱出ですから、正式には疎開ではありません・・母は焼け出されて来たと言っていました。
私が米軍空襲の被害を受けて中学卒業まで田舎に暮らしていたトキの経験では、田舎では村役場と農協事務所・小中学校は隣接していましたし、直ぐ近くには農協の醤油製造工場(大豆の焦げる良い匂いがしていたのを記憶しています)もありました。
子供心には農協と役場の区別も分らない(・・村の中枢と言う印象?)ような印象で暮らしていました。
意外にこの子供心の印象が、実態にあっていたのかも知れません。
ソ連や中国の集団農場が病院から学校まで全て包摂していたと言われる状態を彷彿させる・・農業関係者・農協の重鎮中心に回ってる社会構造でした。
一般の業界団体では加入業者の自主性が基本で、同業者間で共通課題が生じているときに業界一丸で勉強会を開いたりして対処しましょうと言う方向ですが、農協法では上(中央)からの指導と助け合い(共済事業)が中心コンセプトの印象で、業界団体とは本質が異なっています。
単位組合の上に君臨するのが中央会と言う別組織でこれが指導から監督までみんなやる仕組みになっています。
今朝の日経新聞朝刊第一面に、タマタマ農協の営農指導員不足を大きく書いています。
日経では、指導不足こそが農業が発展しないどころかお荷物になっている原因と言わんばかりです。
私の意見は自己啓発努力しないで、中央に頼り切るシステム・精神こそが、自発性を育てない結果長期低落傾向になったと言う意見ですから日経とは視点が違います。
マスコミ系は人権や民主主義を声高に言う割に、何かあると中央の監督責任ばかり追及する傾向があること・・結果的に、中央の権限強化を促進する傾向があるとこのコラムで繰り返し批判してきました。
指導力強化ばかり・・末端は指導を待っていればいいと言う状態では、その分野は却って駄目になると言うのが私の持論です。
指導は効果が出易いですし失敗もありませんが、どこかで成功した事例を別の地域に持って行って真似させるだけでは(効率はいいでしょうが)発展性がありません。
地方自治体も同様で、どこかの先進自治体の成功例があると見学者が引きも来らずと言うありさまで、結果的に日本中同じような地方起こし企画ばかりになっています。
こんな指導員ばかり育てても仕方がないでしょう。
他所で成功していると言う早耳情報に頼っていたことが、自分で考えない農業にしてしまい、ひいては農家が構成主体になっている地方自治体(地方役人の実家が農家と言うのが圧倒的です)も同様に中央の指導や先進事例の収集に精出す結果になってしまったのだと思います。
折角地方立地・誘致した工場が景気動向その他の事情で出て行くと、・・何故その後単なる元の荒廃地に戻ってしまうのか、地元に産業の芽が残らないのか疑問に思っていましたが、70年(数世代)にわたって後進国並みに指導を受けるだけで自主性放棄して来た結果、地元農民出身の従業員が意欲や能力のない国民性になってしまったことによるのではないでしょうか?
中国、韓国、台湾でもタイでも、日本企業が進出して数十年もすると現地人経営の工場やサービス業(日本並みのスーパー)等が生まれて来て、日本企業が現地企業に負けて追い出されて行くのが普通です。
日本の地方は、折角先端企業を誘致してもこれに触発されて自前の新規創業が出来ないのでは、結果から見ると中国や韓国、台湾、タイ等以下の国民レベルになっていることになります。
地方発の新規産業がなかなか生まれなくなって久しいのは、基礎になる人材が中央からの指導待ち人材になってしまったことによると思われます。
地方の基幹産業である農業が衰退したから地方の元気がなくなったように一見見えますが、自発性のない人材が同じ(地方公務員その他公共事業経営者も実家が農業と言う人が圧倒的)ですから、自発性・発展性がなくなっている結果と見る方が正しいでしょう。
以前優秀な人材が出るとその都度中央に吸い上げられてしまうから、この繰り返しで地方の人材は痩せてしまう・・と言う意見を10/02/03(2003年です)「地方自治と人材3(憲法38)」その他で書いたことがあります。
それにしても同じ親から生まれた兄妹の中で地元に残った長男の家系(に限らず、残るような人は元々進取の気性に乏しい傾向もあるでしょうが)だけが自発性が格段に乏しくなるのは、制度的仕掛けの影響がかなりあったのではないかと言うのが今回の意見です。

農協法4(共産主義的組織1)

農協は弁護士会のように加入強制まではしないものの、元の小作地を売り渡された零細農民は、一人残らず地域農協に加入しないと種苗の入手に始まって出荷に至るまで何も出来ない仕組み・・(共同購入共同出荷)事実上加入強制されている関係でした。
零細化の原理は以下のとおりです。
小作人にその耕していた農地を分与することが原則ですが、地主にも生活がある・・搾取が行けないと言うだけですから、1町5反前後くらい?まで地主に保留した分がありました。
そうすると小作人の耕していた分の何割かが地主分として残すことになるので、従来小作地よりも一定量減ってしまいます。
100人の小作人がいれば1%減るだけでも大きいですが、そんな大地主は全国で何軒もなく、4〜5〜10人程度の小作人しかいない地主が普通でしたから、4〜5人が地主生活分としての農地を残すには各人の小作地の何割かを減らすしかなくなります。
結果的に過去の小作地よりも減ってしまいますが、地主に搾取されていた分が減るから良いだろうと言うことだったのでしょう。
地主は搾取するばかりで改革の機運が全くなかったかと言うと、地主と言っても上記のとおり小規模零細企業みたいな規模が中心でしたが、中から時間経過で中規模経営に成長して近代化に進む人・・近代農業に脱皮するべく工夫する人が生まれる余地もあったと思われます。
日本農業は04/09/04「地租改正と農地売買の自由化3(大地主の誕生と小作農の出現=窮乏化)」前後に紹介したように江戸時代には農地売買禁止令の時代でしたから、人力利用で耕作可能な零細自作農ばかりだったのですが、明治の地租改正で徐々に資金力・経営力のある農家に集約され始めたばかりでした。
農地集約が始まったばかりでイキナリ企業家的地主が生まれるとは限りませんが、そこから起業家精神が生まれて来るには世代交代等の期間的流れが必要です。
言わば中小地主層とは一次予選を勝ち抜いて来た有能な階層だったと言えます。
この効果が出るかどうか・第2次予選で更に有能な人が活躍するかどうかと言う時間軸のところで、もう一度ぶちこわして零細農家に再分配してしまったことになります。
一次予選を勝ち抜いた地主層は、農地解放に嫌気をさして多くは都会へ脱出してしまいました。
全国一律の更なる細分化でそのような工夫努力する余裕も能力もない・・中央の指導に従う弱い人ばかりになってしまいました。
農村地区での農協の役割を見ると、事実上の全員加入組織ですから、(農村社会での非農家はホンの例外)一種の政府みたいな役割・・丸抱えでした。
純農村では政治と言っても農政が基本ですから、農協組織の意見に村長さんが従うしかないほぼ重複関係です。
(勤め人は役場の職員、農協職員、学校職員と駐在所のおまわりさんと国鉄の駅員・・彼らも家に帰れば農家の一員です・・その他はお寺や医師くらいで他は殆ど農民です)
戦後直後は特に食糧難の時代ですから、我々のような引揚者・そのムラの厄介者でしかありません・・の発言力は全くない・農家=資産家の意見が基本で地方政治が動いていました。
今でも共産圏・中国で共産党の中央・地方組織が中央政府・地方政府と2重行政的関係になっているのと似たような体制だったことになります。
中国では、市長等行政機関の長は(選挙で選ばれていない関係もあって)同地区の共産党支部長の方が市長や省の長よりも権限が上になっているし、警察よりも党の規律委員会が先ず拉致して行って、高官が突然音信普通になってから半年くらい経ってから刑事事件にすると言う報道が出て来る社会です。
子供のころの印象ではまさに農協や農業委員会(各種委員会統治形式も戦後占領軍の導入による共産主義的組織の1つです)の方が事実上の権力を持っている関係でした。
農村や元地主の状態(・・どの程度の規模が多いか生活状態)をどうして知っているかと言うと、私の一家は東京大空襲の結果、焼け出されて戦後田舎に住んでいたからです。
抗日戦勝利70周年と中国が宣伝する結果、最近大空襲関連報道が増えてきました。

農協法3(農業停滞の原因2)

戦後70年経過してみると農協は農業発展のための組織だったと言うよりは、発展阻害するための組織・・そのガン細胞みたいになって来たのは、長年政治集団化して来た全国的な農協組織の存在・・独占支配的組織制度にあったのではないか?と実感している国民が多いのではないでしょうか?
政治運動団体みたいになって来たのは、本来農協組織が率先して農業改革をするべきところ、その発案・改革能力がないことから、開き直って政治団体化してしまったようにみえます。
商品や技術に自信があれば、政治力などいらない・・せいぜい政治に妨害されないようにすれば良いのですが、商品や能力に自信がないと積極的に政治力でうまいことをしようとする方向に智恵を使うようになります。
勉強のできない子が勉強を諦めてカンニング方法の研究?や先生に付け届けするのに精出しているようなものです。
本来のエネルギーを商品開発やお勉強に使わなくなるので、商品開発・技術錬磨に注力している企業・他産業・勉強している子に比べて、いよいよジリ貧になります。
農業のジリ貧傾向は、政治力に頼って自己改革努力をおざなりにして来た結果の悪循環によるように思われます。
中韓両国が巨額資金を使って、日本批判のロビー活動や宣伝(国内反日教育活動を含め)に精出していますが、仮にその効果があったとしてもそこに資金や人材を投じた分だけ国内で前向き投資出来なかったマイナス効果が生じる筈です。
食糧自給の必要性もあって、已むなく税金を使って政府が考えて(やっている)のに、結果的に何を改革するにも農業団体に反対されてしまい前に進めようがない状態・・農家保障を追加するばかりの状態が続いています。
自分でやるから余計な口出しするなと言うならば、先ず自分で改革して行くべきでしょうが、戦後70年間も何らの目に見える改革もせずにいて、時代変化に遅れる一方になって来た結果責任をとるべき時期が来ています。
ここ数日のコラムは、そもそも協同組合方式自体に発展阻害の芽がある・・問題があるような直感的印象で書いています。
いわゆる業界団体はそれなりに意味がありますが、組合方式では、個性的な独創や発展性追求とコンセプトが両立しないような印象です。

農業協同組合法
(昭和二十二年十一月十九日法律第百三十二号)
 第二節 事業

第十条  組合は、次の事業の全部又は一部を行うことができる。
一  組合員(農業協同組合連合会にあつては、その農業協同組合連合会を直接又は間接に構成する者。次項及び第四項並びに第十一条の三十一第三項及び第九項を除き、以下この節において同じ。)のためにする農業の経営及び技術の向上に関する指導
二  組合員の事業又は生活に必要な資金の貸付け
三  組合員の貯金又は定期積金の受入れ
四  組合員の事業又は生活に必要な物資の供給
五  組合員の事業又は生活に必要な共同利用施設(医療又は老人の福祉に関するものを除く。)の設置
六  農作業の共同化その他農業労働の効率の増進に関する施設
七  農業の目的に供される土地の造成、改良若しくは管理、農業の目的に供するための土地の売渡し、貸付け若しくは交換又は農業水利施設の設置若しくは管理
八  組合員の生産する物資の運搬、加工、貯蔵又は販売
九  農村工業に関する施設
十  共済に関する施設
十一  医療に関する施設
十二  老人の福祉に関する施設
十三  農村の生活及び文化の改善に関する施設
十四  組合員の経済的地位の改善のためにする団体協約の締結
十五  前各号の事業に附帯する事業

上記事業内容を見れば分るように、農業社会で生きて行くものにとって共同作業や共同施設の利用などに留まらず医療から資金貸し付けまで生活全般の営みを農協が提供して(資金面倒を見る・・農機具や肥料等を農協を通して購入したり)する仕組みになっています。
その他に稲作から果樹園に転換するなどの情報提供・・指導・・そのための資金貸し付けなども農協が丸抱えで行なう仕組みでした。
これでは、構成員の自主性が認められる程度の違いがあっても、(稲刈りの時期を明日にするか消毒をするかしないかは個人の勝手で、ある程度の按配は個人が自由に出来る点は集団農場とは違いますが、その程度です)伝え聞く共産主義ソ連や中国の集団農場経営に発想・根幹が酷似しているのに驚きます。

自創法と農協法2(農業停滞の原因)

農業再生の必要性が言われるようになって久しいですが、農業分野では、自発的な発展・工夫力を失い、再生に向けた動きが業界内から生まれない・政治力に頼って保護政策の強化要求ばかりが報道される現状では国民はイヤになっています。
その遠因は、占領後すぐに始まった農地細分化政策と同時に始まった農協制度にあったと言うべきではないでしょうか。
日本人は戦後廃墟の中から立ち上がり、商工業全般で世界に冠たる成功を納めてきました。
同じ能力のある日本人でありながら、農民に限って創意工夫能力が発揮出来ず、世界の農業に比べて見劣りしているのはおかしい・・制度設計に発展阻害する仕組みが内蔵されていたからではないか?と言う疑問によります。
農地解放(農地の細分化)を法制度化したのが、以下のとおり昭和21年です。

  自作農創設特別措置法(昭和21年法律第43号)

第一条 この法律は、耕作者の地位を安定し、その労働の成果を公正に享受させるため自作農を急速且つ広汎に創設し、又、土地の農業上の利用を増進し、以て農業生産力の発展と農村における民主的傾向の促進を図ることを目的とする。

制作者注この法律は、昭和21年10月21日に公布され、同12月29日より施行された。
農地法施行法(昭和27年法律第230号)により、本法は昭和27年10月21日をもって廃止された。

以上は中野文庫からの引用です。
占領軍が求めていた民主化変更の目玉である新憲法でさえ、昭和21年11月の公布で施行が翌22年5月3日です。
民主化の基礎として占領軍の重視していた、家の制度廃止を法的に実現した民法親族相続編の改正でさえも昭和22年12月→施行23年1月です。
こうした時間軸を見ると、農地解放・細分化実施は、占領と同時に条文記載のとおり最優先事項として「急速」に進めていたことが分ります。
そして、農協法は戦後直ぐ(昭和22年11月)に制定されているのが不思議です。
と言うのは、民法改正・・男女同権の定めや相続分の変更などは、施行の日付を期して相続割合の計算すれば良いので簡単ですが、農地買収の法律が出来ても、実際に買収するには単価の決め方範囲その他容易ではありません。
(場所によって価値が違うので、全国画一的に買収金額を決める訳に行きませんし、現地調査など複雑です)
買収する範囲もいろいろで、地主ごとに残すべき農地との区別作業、それも全国的な認定作業です。
このように法律が出来たからと言ってすぐに自作農が出来たのではなく、法律制定後長期間を要していたのです。
私の実務経験による記憶・・登記簿等を見て来た経験・・では昭和27〜8年ころの売り渡しを原因とする移転登記が大多数です。
先ず、買収から始めて、次に売り渡しと言う順序・・当然不服申し立てもあります・・を践むので、実際にはかなりの年月がかかります。
上記中野文庫の注のとおり、自作農創設措置法が廃止されてこれを引き継ぐ施行法が制定されたのが昭和27年ですから、私の記憶どおりそのころまで買収売り渡し作業に年月がかかっていたことが分ります。
上記のとおり、法律が出来てもたった1年では、小規模自作農がまだ殆ど生まれてもいないのに、細分化した農地を所有する零細農民向けに昭和22年には農協法が成立しています。
占領軍は農地改革と言うより、農協による、農民支配制度確立を余程(前のめりに)急いでいたことが分ります。
農協法を見ると中央からの指導・監督を柱にして一方的に末端農民を指導するコンセプトです。
ロシアの無知蒙昧な農奴や西洋のやる気のない小作人あるいはアメリカの黒人奴隷らにイキナリ農地を与えたようなコンセプトです。
我が国は、庶民末端まで民度が高く、自発的行動を基本とする国民性を全く無視している仕組み制度設計には驚きます。
人をバカにしたこの制度設計のために、折角有能な農民がやる気をなくしてしまった結果、農業の衰退が始まったと見るべきではないでしょうか?
以下農協法を見て行きましょう。

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