国造から郡司へ(国郡里制)

律令制以前からあった国造は、みゃつこ=宮の子の意味ですから、中国で王族を国王に封じたのを真似したのかとも言えますが、元々我が国では、降伏した相手の神を祭る習慣があり、我が国古来からの智恵の現れとも言えます。
前回書いたように被征服民族や服属民族を皆殺しに出来ないので、これらを融和することが古代から必要でした。
自分の会社を大きくして行くばかりではなく、M&Aで大きくして行く場合の話です。
今のように地下資源目的の戦争ではないので、征服するのはその土地にいる労働力を入手することが目的だったからです。
造(みやつこ)は大和朝廷の大王の子の扱いですが、事実は地方服属者でしょうし、後世発達する猶子制度の先がけだったかも知れません。
國造と縣・あがた主の並立は、当時の中国の制度をそのまま真似せずに我が国の実情に合わせて漢の郡国制と同様の混合政体を採用したものと思いますが、朝廷は先ずは被征服王朝の代表者を大和朝廷・・大王の子供扱いに優遇して融和を図ったものと思われます。
江戸時代までに確立していた国名・範囲は何時からのものかを知りませんが、『隋書』倭国伝によれば、6世紀末から7世紀初頭頃には約120の国造が置かれていたようですから、(これは論文ではなく思いつきコラムですので原典に当たっていません・・)江戸時代まであった国の大きさ・範囲とは違うようです。
きっちり数えた訳ではないので数字は正確ではありませんが、一般に日本60余州と言われていたことから見ると江戸時代の2倍の数・・面積が半分だったことになります。
(当時と今では朝廷の勢力範囲が違うので面積的には3分のⅠくらいだったでしょうか?)
律令制によって国郡里制が始まる・・前提として従来の国造支配地を「評」(コオリ・コホリ)とする大化5年の再編行為(国評里制)がありました。
(大宝律令に「郡」が記載されているので、その前から郡制だったような解釈が主流でしたが、あちこちから出土した木簡にこの記載があったので分ったのです)
地域単位を我が国の言葉では「コオリ・コホリ」と表現していて漢字輸入に伴いいろいろな漢字をこれに当てていた時期があったのです。
「評」だって中国からの漢字輸入によるのですが、大宝令まで何故「郡」を使わずに「評」だったのかも不思議です。
それまでは高句麗経由だったのが、思想関係も直輸入になって変更されたのかも知れません。(この辺は私の空想です)
英語の勉強で「ネイテイブの発音は違う」と教えられるようなものです。
国造の支配地を評(コオリ)としていたのですが、この「評」を郡と言う漢字に大宝律令で置き換えたので、これらいくつかの集合体の上に國を作り直せば、国司が郡司の上に位置する監督官の地位を設けるのに無理がなくなりました。
ちなみに國評里制から律令制で国郡里制に変わったときに、国造が郡司さんに横滑り出来たのは上記のとおり元の国造の行政区域を「評」と言い換えて「評」の主に変更していたからです。
このときに領域も少し変えたようですが・・どこをどう代えたのかの詳細は不明ですが、今で言えば中選挙区を小選挙区に変えたようなもので、従来の国造の支配領域はぐっと狭くなりました。
(元国造ではない郡司も新たに出来たことになります)
中国では郡衙も縣衙も中央政府任命による官吏の運営する役所ですが、日本の郡司は国造の改名・横滑りしたものが中心ですから世襲的・半独立終身官が基本です。
律令制で出来た国司こそ中央任命制ですから、中国の郡長官あるいはこの頃には一般化されていた州長官(後漢以降一般的となっていた刺使)と命名すべきでしょうが、郡の上に、州ではない国名を持って来た・・定着していたので州に変えられなかったのでしょう・・関係からか、刺使(長官)でもないし国主でもない中途半端な「国司」(我が国の造語・和製漢語かな?)と言う名称になったように思えます。
ところで、我が国の地方制度は唐の律令制だけではなく中国古代からの郡縣・郡国制を参考にしていたし、地方単位をコオリ・コホリと言いこれを縣にも「評」にも当てていた時期があったのですが、縣だけ古代の制度では何故消滅して行ったか(1200年後の明治で郡縣をひっくり返して復活したか)です。
国造のあった時代には、昨日5月1日に書いたように、服従度が高い意味で並列的にアガタ主の治める地域もありましたが、律令制施行・・中央集権化の強化目的により全国を大和朝廷が直接支配する國に再編し直しました。
半独立地域と直接支配区域に区別する必要がなくなり、全部をアガタ主の治める地域にするか全部からアガタ主を不要にするかしかありません。
古代からの豪族の力を弱めて中国並みの直接統治制度を目指した朝廷では、豪族支配を前提とする県主も邪魔になったのでしょう。
全国統一の国司派遣制度にも反するので、この機会に朝廷成立の功臣・アガタ主の特権を奪ってしまったものと思われます。
ちなみに天武天皇の制定した「8色の姓」ではそれまで存在していたアガタヌシの姓(かばね)「あたい・直」がなくなっています。
ヌシは、大国主のみことの神話でも知られているように神話時代からの由緒ある姓の1つでした。
そしてアガタ主に当てていた漢字「縣」も利用されなくなって、明治維新まで来たと言うのが私の推測です。

国造と縣主2

 

元々我が国では源氏や平氏と言っても武士集団の棟梁として担がれる貴種でしかなく、自前の直轄領地・直轄軍は微々たるものでしたし、頼朝も義経も自前の軍を持っていませんし、足利政権も直属軍事力の少なさで参ってしまったのです。
直属軍事力の増強に努めた戦国大名でも自国領内を直接支配していたのではなく、国人層と言われる小豪族を通じての間接的支配でしかなかったのです。
上杉謙信の映画など見ても分るように、あるいは信長自身が尾張国内で頭角を現して行く様子でも分りますが、小豪族がその都度あちらについたりこちらについたりして(きっちりした主従関係がないのですから当たり前です)それぞれの閉鎖された国内の主導権争いが展開されて行きます。(離合集散)
戦国大名の能力は、物語を見ていると戦上手だけが(この方が面白いので)クローズアップされますが、実際にはその前提たる諸豪族の統合力・・多数派形成・人心収攬・政治力に多くがかかっていたのです。
この延長できたのが、最近まで採用されていた衆議院の中選挙区制と県単位の政治です。
県政は県知事の権力は総理と議会の関係に比較すると大きいのですが、それでも地元政治家の意見を無視しては何も進みません。
古代の国司が地元有力者の郡司達に実権を握られていくのと似ています。
小選挙区制になると政治的熟練・訓練が不要になって、熟練度よりはマスコミ受けが良いかどうかなどイメージ先行になって行きます。
一般に何々チルドレンと揶揄されるようになったのは、こうした未熟練政治家が輩出した現象を言い当てています。
戦国末になってくると一定地域内・国内統一が出来上がり、国境線にいる小豪族以外はまさか他所の國の大名についたり出来ませんから、一定の主従関係類似の安定関係になって行きます。
国境線付近以外の真ん中の小豪族が隣国大名と通じたりしたら、たちまち血祭りに上げられるだけですから、主家・・と言っても域内盟主・・覇者程度・・の関係滅亡を見越した時しか敵につくことはあり得ませんが、国境線の小豪族の場合、逆に先に攻めて来た方になびかないと全滅の憂き目にあってしまいます。
以前下克上について書いたことがありますが、本来の主従関係で家来が主君を裏切って討つなどと言うことは滅多になく、殆どは域内諸豪族間の力関係で不本意ながら主従類似の同盟軍にならざるを得なかった状態下で、敵方に寝返ると言うのが殆どです。
長篠の合戦の引き金になった長篠城は、三河衆の奥平だったかがこの論理で、一時武田方についていたのが信玄没後の落ち目を見て今度は徳川方に着いたことによって、勝頼から報復攻撃を受けたのが始まりです。
話を戻しますと、何十万石の領地を貰って赴任してもその何十万石が全部自分の収入ではなく、在地小豪族の収入の合計でしかないので、そこをうまくやって行かないと戦国大名と言えどもやって行けません。
合戦で勝って大名を滅ぼして、その地域が支配下に入っても、収入面で見ると、滅ぼした相手の直轄領地と一緒に滅んだ有力武将の領地だけが勝った方の支配地になるだけです。、その他の全地元豪族を追い出してしまうことは不可能です。
首をはねた有力武将の内部もいくつかの小豪族をつかねているだけですから、その直轄領地は僅かでしかありません。
12/27/04「農分離3(外様 ・戦国大名の場合)兼業農家の歴史1」以下のコラムで書いたことがありますが、小豪族は地元農業の主体(半農半士)でもあるので、それを根こそぎ追い出すことは不可能だったのです。
この理は、アメリカに負けた日本で、天皇権力がマッカーサーに取って代わられただけで、連合軍司令部は日本の官僚機構をそのまま使うしかなかったのと同様です。
むしろ占領地に残った元敵方の軍事力を(将棋の駒のように)自分に仕官させて有効利用して行くのが普通でした。
肥後の國の一部の領地を貰った佐々成政が、国人層との折り合いに失敗して失脚してしまった例がそうですし(加藤清正や細川家はうまくやりました)、土佐の大守として赴任した山内一豊が、長宗我部の遺臣・・結局は地方豪族・国人層の扱いに苦しんだのも同じです。
山内一豊が関ヶ原の功績で土佐23万石を貰っても、彼ら地元豪族の集合収入ですから、山内家自体の直接収入をどう計るかの悩みで最後まできたのです。
土佐の高知城へ行けば分りますが、23万石の大々名の天守閣と言っても内装はきゃしゃな造りで、(民家園並みです)如何に財政が苦しかったかが分るような印象です。
(天守閣にまで居住部分があるのは大したものだとも言えますが・・・)
現在の大手企業でもそうですが、内部に入ると一人が何百人何千人に直接号令するのではなく、一人が5〜6人に意思表示してこれを受けたものがそれぞれ更に5〜6人に伝えて行く・・・多層な意思伝達段階があって成り立っています。
号令一下形式ではなく重層的支配関係が我が国の民族的特徴です。
このように縣(アガタ)は、古代においても大和政権成立時に既にかなり服従度の高くなっていた地方豪族・地域を意味していた直轄支配地であるものの、中国のように中央集権的に直接支配をすることが出来ず、徳川家のように地元豪族に治めさせる必要があった地域ですから、中国の縣とは本質が違います。
支配構造の比較的強い地域を中国の制度に倣って縣・アガタと言い、支配下の豪族をアガタ主(中国の知事・・刺史と比べて「主」ですから地元定着性が強い)と解釈すれば、同時期に地域別にアガタヌシがいたり、服属したばかりで独立性の高い地域に国造がいたりした並立関係の理解が可能です。

國と縣1

原発や地震で有名になっている福島県の中通りや浜通の呼称、長野県で言えば松本市を中心とする地域と信濃川流域の地域の意識差などを見ても縣制度施行から既に百年前後経ってもいくつかの国が一緒になった殆どの縣で一体感はなかなか出来ない・・今でも張り合っていることが多いものです。
ただし、千葉県の場合、上総下総あるいは安房の國と行っても、間に峻険な山脈がある訳でもなく、いずれも元は房、総(ふさ)の國でそれほど気候風土の違いがないく、はりあう気風は全くありません。
(律令制前の国造の時代には1つの総の國となっていましたが、その後3カ国になったものです)
この状態で各県に政令指定都市が続々と出来てきましたので、行政単位としての県の存在意義が軽くなってきました。
郡単位の行政上の仕事がなくなって行き、生活空間の広がりによって「こおり」の実態がなくなってくると「郡」の漢字を「こおり」と読む人が少なくなって行き、いつの間にか消滅しそうなのと同じ運命が縣にもあります。
村をムラと読まないうちに市に合併してしまった市原市のように、縣制度に関しては日本中で誰も訓読みをしないうちに道州制になると縣の訓読みがいよいよ進まないでしょう。
従来の小集落の名称であったムラに代えて行政組織として出来た「村」でも、時間の経過で一体感が育てばこれもムラと読むようになった例が多いように、県内で生活圏として一体感をもてれば、縣を「くに」あるいは「こおり」と訓読みする人が増えたのでしょうが、殆どの人がそう思わないまま現在に来ています。
今は気候風土よりは鉄道沿線別一体感の時代で、千葉県で言えば、総武・京葉沿線と常磐沿線では日常的交流が少ないので一体感が持ちにくい状態ですし、これは首都圏のどの地域でも同じでしょう。
結果的に各鉄道の合流地域である首都圏・名古屋圏・大阪圏と言うような一体感の方が進んでいる状態です。
その結果、縣の訓読みが定着しないまま現在に至っているのですが、「縣」を古代に使われたアガタと読むのは古文や史書の世界だけであって、今の用語として復活して使う人はいないでしょう。
古代でもアガタ主は日本書記にあるもののその実態が不明なようですが、(書記に書かれている成務天皇自体実在したか否かさえ不明なのですが、)これは神話であって編纂した時の政権に都合良く時期を遡らせたものですから実際の時期は違うとしても、律令制以前に大和朝廷に服属した地域の豪族をアガタ主として支配機構に組み込んで行ったらしいことが分ります。
地方豪族の勢力範囲を縣(アガタとかコホリ)と言うとすれば、当然勢力圏に関係なく気候風土で区域を決めた国の方が大きくなります。
元々神話的部分なので国造とアガタ主の関係がはっきりしないのですが、(ものの本によっては対等だったり、国の下位に県がある筈とする後世の考えの類推でアガタ主を下位に想定するなど)その分布を見ると東国では国造が多く畿内以西ではアガタ主が多くなっているようです。
これは、早くから大和王権の支配が及んでいた(大和王権成立までには直接戦って勝敗が決していた)畿内・西国方面では地方政治の担い手を王権代理人としてのアガタ主として(直属家臣のような官僚機構類似の関係になり)、まだ充分に支配の行き渡らない東国では服属した地元豪族をそのまま国造にして行ったので、東国に国造が多くなっていると言える(私の独自推測)ようです。
中国の古代制度で言えば、直轄地と外地の服属・朝貢国の関係です。
(豊臣秀吉も天下平定最後の頃には全面征服(叩きつぶ)して行かずに、本領安堵で支配下に組み入れる方式でした・・これに従わない小田原の北条氏が抵抗して消滅したのです。)
また、徳川氏も自分の本拠地近く(現在の関東甲信越)では直属の家臣(譜代大名)中心ですが、本拠地から遠い西国・東北の大名はその殆どを本領安堵しただけの大名で占めています。
ただし、我が国の場合、直轄地と言えども基礎は小集団の連合体ですから、直轄領地内でも中国のように専制君主制で貫徹することは出来ず直臣の大小名に分割統治を委ねざるを得ない点が本質的に違います。
政権樹立時に徳川家が把握していた本来の直轄地の殆どが、服属地域と同じ大名支配形式を基本にしていて、その後も功労者(例えば大岡越前や田沼意次など)を大名に取り立てるたびに幕府が代官支配する直轄収入地は少なくなる一方でした。

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