朝廷による氏長者決定2(保元の乱)

朝廷による氏長者決定(保元の乱)2

保元の乱と摂関家凋落に戻ります。
保元の乱に関するウイキペデイアの記事です。

上皇方の投降
合戦の勝利を受けて朝廷は、その日のうちに忠通を藤氏長者とする宣旨を下し、戦功のあった武士に恩賞を与えた。
・・・藤氏長者の地位は藤原道長以降、摂関家の家長に決定権があり、天皇が任命することはなかった。忠通も外部から介入されることに不満を抱いたためか、吉日に受けると称して辞退している
摂関家の苦境
摂関家の事実上の総帥だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕するため、忠通は父の赦免を申し入れたと思われる。
しかし忠実は、当初から頼長と並んで謀反の張本人と名指しされており、朝廷は罪人と認識していた。17日の諸国司宛て綸旨では、忠実・頼長の所領を没官すること、公卿以外(武士と悪僧)の預所を改易して国司の管理にすることが、18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と平等院を忠実から没官することが命じられている。なお綸旨には「長者摂る所の庄園においてはこの限りにあらず」(『兵範記』7月17日条)と留保条件がつけられているが、逆に言えば氏長者にならなければ荘園を没収するということであり、忠通に氏長者の受諾を迫る意味合いもあった。

多分信西の献策によるのでしょうが、なかなかしたたかです。
藤原摂関家の凋落・・これまで天皇家の後継を決めるのに藤原氏が介入してきた力が衰えると今度はこれまでの仕返しをするかのように天皇家が藤原氏固有の家督相続・氏長者を決めることまで介入するようになります。
日本社会ではこういうしたたかな官僚機構というか企画力があったことに驚きますし(明治時代の清朝との台湾帰属をめぐる交渉や李氏朝鮮をめぐる交渉記録を見ると、その着実・したたかさに驚くばかり・・現在安倍総理の大局を見た着実な外交には長い歴史があることを知ります。
ただし、「見え透いたしたたかさ」というか?いわゆる秀才のやることは本当のしたたかさとは違います。
藤原北家嫡流に対する戦後処理は文字通りしたかかでしたが、信西自身の昇進や利権獲得等がやり過ぎたのですぐに失脚することになります。
薩長の無理押しに時の秀才・幕末徳川慶喜が業を煮やして大政奉還すれば実力もないのに文句ばかり言ってる薩長は困るだろうと読んで大政奉還した奇策が裏目に出たのも同じです。
小御所会議でのクーデター・辞官納地・・幕府領地接収の革命的発想が出るとは読みきれなかった・岩倉にしてみれば、お坊ちゃん政治家など赤子の手をひねるようなものだったでしょう。
保元の乱でも賊軍となった藤原氏の役職に基づく(例えば頼長の)荘園は全て没取だが、個人所有の荘園はそのまま・・氏長者としての荘園はそのままということで私有地にまで手を出せないのが古来からの原則でした。
徳川慶喜はその当時賊軍ではなかったので、将軍辞職しても野党になるだけであって徳川家の私有地である領地はそのままなので薩長が天下を治める経済力がないので困るだろうという読み・米国もモンロー主義や今のトランプ氏同様で自分が手を引けば世界はどうにもならないだろうという強引な政策でしたが、何の罪もない徳川家の領地返納を命じられてしまったのは想定外でした。
モンロー主義やアメリカンファーストをやるなら(気に入らないとユネスコ分担金をはらわないとか国連経費を払わない?WTOを揺さぶるなど)アメリカの領土全部取り上げるのは今の国際政治では不可能だからできることです。
私の理解不足かもしれませんが、幕末薩長の主張ほど支離滅裂で無理難題はなかったと思いますが、それでも薩長の世論操作・・ええじゃないかに代表される爆発的お蔭参り騒動・道中貧しい人には食事接待など無償で行われたというのが一般的ですが、たまになら道中の人も無償援助できますが、今朝の日経新聞9p・伊勢神宮の広告?には、1年間に当時の人口の6分の1もの人がお蔭参りに参加していたと紹介されています。
何かの本で読んだのですが、子供ひとりでおかげ詣での旅に出ても道中ちゃんと食べさせてもらってお伊勢参りできたとも紹介されています。
こんな大量の人たちへの炊き出しを途中の農民や茶店の人が自腹で毎日できるはずがないので、資金を出していたバック・薩摩とそのバックの英国があるという論説を読んだ記憶です。
またお伊勢様のお札のようなものが空から降って来たという奇瑞も頻りに宣伝されますが、その印刷費やばらまく資金・・世論操作?という意見を読んだ記憶)が成功してそういう結果になったのです。
育ちの良い秀才であった徳川慶喜はこういう騒然たる社会状況下で大政奉還すれば、どうなるかを読みきれなかったのです。
日本は国政連盟脱退以降孤立化の道を歩みましたが、正義といってもその時の世論動向によります。
日本の正義は西欧が植民地支配しているのに、日本だけなぜいけないんだというものでしたが、(西洋では牛肉など食べるのにクジラだけなぜ?というのと同じ)ともかく、正しいかどうか別として国際世論をバカにしてはいけません。
理屈だけ言えば、何の犯罪も犯していない私有地まで没収するのは幾ら何でも理不尽ですから、徳川・・会桑連合は激昂し、ついに挑発に乗せられて鳥羽伏見の役となり文字通り賊軍となってしまいました。
イギリスで無責任な?EU離脱論横行に業を煮やして、国民投票を実施してみたら、(もしかしたらロシアによるサイバー選挙介入があったとしても?)予想外に離脱論の方が多かった結果、イギリスの迷走が始まったのも同じです。
共通項は今も昔も国内国際世論(外国の世論操作結果も含めて)の読み間違いということでしょうか?

朝廷による氏長者決定1(将軍宣下)

氏長者を朝廷が命じる例としては以下に見えます。
綱吉に関するウイキペデイアからです。

官歴

延宝8年(1680年)
5月7日、将軍後継者となり、従二位権大納言。
8月21日、正二位内大臣兼右近衛大将。征夷大将軍・源氏長者宣下。

将軍宣旨に関するウイキペデイア

近世に入ると朝廷の権威が失墜して、代わりに禁中並公家諸法度などによって朝廷にすら支配権を及ぼして「公儀」の体制と「封建王」的な地位を獲得した徳川宗家でさえ、その支配の正統性は天皇による将軍宣下に依存しなければならなかった。
事実、徳川宗家当主が家督相続直後には単に「上様」と呼ばれ、将軍宣下によって初めて清和源氏という権門の長である資格を証明する源氏長者の地位を公認され、同時に国家的授権行為が行われる事によって「公方様」あるいは「将軍様」となりえた事が示している。
そして、実際には「封建王」的存在として朝廷すら支配していた徳川将軍でさえ、将軍宣下と上洛参内の時には天皇を「王」、将軍を「覇者」とする秩序に従っていたのである。
征夷大将軍の辞令(宣旨)の例(徳川家宣)(「月堂見聞集」)
權大納言源朝臣家宣
右中辨兼春宮大進藤原朝臣益光傳宣
權大納言藤原朝臣基勝宣
奉 勅件人宜爲征夷大將軍者
寳永六年四月二日 修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史小槻宿禰章弘奉

(訓読文)
権大納言源朝臣家宣(徳川家宣、正二位)
右中弁兼春宮大進藤原朝臣益光(裏松益光、正五位上)伝へ宣(の)り
権大納言藤原朝臣基勝(園基勝、従二位)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)
宝永6年(1709年)4月2日 修理東大寺大仏長官主殿頭兼左大史小槻宿禰章弘(壬生章弘、正五位上)奉(うけたまは)る、

吉宗のウイキペデイアには、宣旨をのり伝えた貴族の記録(日記?)が出ています

徳川吉宗 征夷大将軍の辞令(宣旨)(光栄卿記、享保将軍宣下宣旨奉譲)
權大納言源朝臣吉宗
左少辨藤原朝臣賴胤傳宣、權大納言藤原朝臣俊清宣
奉 勅、件人宜爲征夷大將軍者
享保元年七月十八日
修理東大寺大佛長官主殿頭左大史小槻宿禰章弘 奉
訓読文)
権大納言源朝臣吉宗(徳川吉宗)
左少弁藤原朝臣頼胤(葉室頼胤、正五位上・蔵人兼帯)伝へ宣(の)る、権大納言藤原朝臣俊清(坊城俊清、従二位)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)
享保元年(1716年)7月18日
修理東大寺大仏長官主殿頭左大史小槻宿禰章弘(壬生章弘、従四位下)奉(うけたまは)る、

※同日、内大臣に転任し、右近衛大将を兼ね、源氏長者、淳和奨学両院別当、右馬寮御監、牛車乗車宮中出入許可及び随身の各宣旨を賜う。

ただし、ここでいう源氏長者は、武家の棟梁という意味でもなく源氏(皇族から臣籍降下した・・・武家に限らず嵯峨源氏〇〇源氏という貴族を含めた)全体の代表的名誉職みたいなもので、藤原氏の氏長者・私的総資産継承する実利権とは意味が違います。
・・・源氏長者が伝統的(例外がありますが)に「淳和奨学両院別当、右馬寮御監」に任ぜられてきた役職併記がその意味でしょう。
念のため。

 幕府権力と執行文の威力

室町時代初期にも、まだ貴族荘園と武家との年貢の取り合い・押領テーマにした幕府への訴訟が多かったこと・・この訴訟の裁定・裁許下知状・執行状に御家人が従わないことなどが尊氏の弟直義・三条殿が裁定していた頃から問題になっています。
この辺は、亀田俊和『観応の擾乱』中公新書、2017年に詳しく出ています。
後醍醐政権の裁定は公卿有利な裁定が多かったので武士の不満が蓄積されて足利政権が生まれたというイメージは、大筋ではその通りでしょうが、武家が荘園管理をするようになった場合、管理者とオーナー(荘園領主)との分配の揉め事は、荘園領主層の支配する中央権門・・朝廷が裁いた方が荘園領主側に有利ですが、武士の力が強くなってきて貴族層による裁定に従わないようになると、公卿会議の裁定は意味がなくなります。
「蛇の道は蛇」ということで、貴族層の方でも武家の棟梁に持ち込んだ方が強制力がある結果、後醍醐政権の方へ訴えるよりも、足利屋敷の方へ持ち込む事件の方が増えてきたようです。
結局後醍醐政権は時代の流れに会わないで市場淘汰されたように見えます。
公家側から見ても足利氏の裁定は無茶に武士に有利ではなかった・・比喩的に言えば、6対4で武士に有利な裁定であっても公卿にとっては、10割勝っても何の実効力もないよりは、4割でも権利を守ってくれる方がよかったということでしょう。
こういう意見(想像)は上記の本に書いていることではなく読後感・私の勝手な憶測です。
またこの本による執行状も興味深い事実です。
武家政権に頼んでも同じことで、執行状を誰が書いているかによって現場の実効性が違ってくる・・三条殿に対する御所巻きで、高師直側に多数武士が集まったのも、高師直が失脚して彼のサインした執行状の効力がなくなるのを恐れてあわてて集まったという読みも(本には書いていませんが)成り立ちます。
ところで、日本の歴史の連続性に関心するのですが、今でもせっかく勝訴判決を得てもこれを執行できないと単なる紙切れです。
判決を得て強制執行するには、さらに「執行文」というものを判決書につけてもらう必要があります。
判決書正本に執行文がついて初めて強制執行の申し立てができる仕組みです。
これを執行力ある、〇〇正本といい、公正証書や調停調書や和解調書など全て執行文付与が必須になっています。
民事執行法
(強制執行の実施)
第二五条 強制執行は、執行文の付された債務名義の正本に基づいて実施する。ただし、少額訴訟における確定判決又は仮執行の宣言を付した少額訴訟の判決若しくは支払督促により、これに表示された当事者に対し、又はその者のためにする強制執行は、その正本に基づいて実施する。
(執行文の付与)
第二六条 執行文は、申立てにより、執行証書以外の債務名義については事件の記録の存する裁判所の裁判所書記官が、執行証書についてはその原本を保存する公証人が付与する。
2 執行文の付与は、債権者が債務者に対しその債務名義により強制執行をすることができる場合に、その旨を債務名義の正本の末尾に付記する方法により行う。

「将軍が良し」と言い、今では裁判官が判決を宣言しただけではダメ・・執行文が必要な仕組みが室町時代には普通になっていたことがわかります。
今は官僚機構が整備されているので、執行文を誰が書いたかで効力に差がない・誰が書いたかに関係なく権限のある人(書記官)が書いていれば画一的権限が保証されています。
民事執行法
執行官等の職務の執行の確保)
第六条 執行官は、職務の執行に際し抵抗を受けるときは、その抵抗を排除するために、威力を用い、又は警察上の援助を求めることができる。ただし、第六十四条の二第五項(第百八十八条において準用する場合を含む。)の規定に基づく職務の執行については、この限りでない。

執行に抵抗すれば、公務執行妨害罪になりそうですから、ひ弱そうな執行官が来ても今の時代ヤクザでもヒルム関係です。
室町時代には執行(せぎょう)状を書いた人が誰かによって「あの人の命令では、聞かないわけにいかない」「あいつの命令じゃ聞く気持ちになれない」などと末端武士が決める時代でした。
判決(正義)に従うのではなく、執行状(ひと)に従う社会でした。
領地の境界争いの場合、負けt方が係争地をすんなり引き渡すのを期待するのは無理ですから、ほとんどの場合、上京した機会に執行状に花押を書いた実力者に、あの件何とかなりませんか・・とお願いする程度で、実力者が「よしわかった」と言って付け届けをもらいながら何もしてくれないと信用がなくなる関係です。

専門家の論文は事実の裏付けというか事実を丹念に拾っているので、私のような不器用なものには、読み応えがあって楽しいものですが、高齢化のせいか?読んでも読んでも忘れてしまうのは困ったものです。
直義が観応の擾乱第1幕では圧倒的に勝利を収めて政敵の高師直が討ち取られますが、直義がすぐに地位を失っていくのは彼は正義感が強すぎて?、あるいは過去の価値観にこだわりすぎて?自分に味方した武士に対するその後の論功行賞をまともにしなかったからのような印象です。
観応の擾乱第一幕では、御所巻きに屈服した直義でしたが、第二幕の直義による全国規模の巻き返しで直義側に馳せ参じた武将らは、自己主張が正しいかどうかは別として命がけで応援した以上は、相応の恩賞(不当な)利益を期待していたのにがっかりしたのです。
もともと室町幕府の威令が届きにくかったのは、足利家は源氏の名門とは言え頼朝のような絶対的名門ではなく相対的名門であった上に、権威の裏付けたる朝廷自体が南北に分かれていたことが、騒乱に明け暮れた基本原因でしょうと形式的には言えるでしょうが、(今でいう国連での決議や・・中国が南シナ海問題に関する国際司法裁判所判決を「紙切れに過ぎない」と一蹴したのと同じです。)上記私の想像によれば、時の流れが速すぎて室町幕府はしょっちゅう政変続きになったとも言えそうです。
建武の中興政権が崩壊して室町幕府成立直後は、高師直・高家一族勢威を張っていましたが、これが急速に武士団の信望を失って行くのは、上記の通り、公卿荘園領主側への遠慮が大きすぎて今度は武士の方から不満が出てきたからでしょう。
足利政権樹立直後は、政治的情勢から公卿側に配慮して上記の通り比喩的にいえば6対4で武士有利に裁定していたとしても、武士の世がはっきりしてくると、武士の方は6では納得しなくなる・7対3の願望が強くなります。
それが、比喩的にいうと数年もすると今度は8対4でないと納得しないような急激な変化の時代でした。
この不満期待感が直義への期待になったようですが、上記著者亀田俊和氏によれば、直義はむしろ守旧派・常識人・・過去の価値基準でいえば、武士が約束違反しているという発想が強かったようですから、直義側についた武士団はあっという間に直義を見放していきます。
ただし、室町幕府自体が武士に対する威令が届きにくい脆弱性を持っていたので、執行状を発給しても現地では守られないのが普通だったとも書かれています。
だいぶ前に非理法権天の法理を紹介しましたが、その時に書いたように粗暴な君主の事例を見ると国民隅々まで威令が行き渡る怖い時代かのように見えますが、逆から言えばそのくらいのことをしょっちゅうしなければならないほど、末端では威令=法令が守られないということです。
こう見ると何のための訴訟か?となりますが、一応幕府に訴えて自分の方が正しいという「正義のお墨付き」を求めるだけの利用価値があったのです。
今の国際司法裁判所の判決を「中国は紙切れだ」とうそぶいていますが、その程度の効力があったのでしょう。

天皇制変遷の歴史2(朝廷財源消滅1)

古代から朝廷=国家(個人事業創業時同様に財政と内廷費の分離がはっきりしないのが原則)ですから、天皇家=朝廷は納税する側にとってはいかにして国税納付をまぬがれるかに知恵を絞る対象であり、朝廷は恩賞を気前よく配る立場でした。
今でも納税者は法人税の減税をはじめとしていろんな分野で如何にしても減税を勝ち取るか、一方で如何にして補助金を多く勝ち取るかが、政治の大きなテーマです。
今から始まっていますが、消費増税をするとなれば自己業界を例外扱いしてもらうために、各業界はしのぎを削るのが普通です。
親子でいえば年金収入しかなくなっても親はいつまでたっても里帰りした子供らに手土産を持たせるかに気を配り子供世代はなにかもらって帰る習慣が抜けないのと同じです。
荘園の発達によって国庫収入・・収入源が細る一方→皆無になっていたのが安土桃山時代でした。
税を取れなくなって、恨まれないかもしれませんが、税のさじ加減の権限・影響力がなくなるしだけではなく、古代も今も経済影響力と権力は比例しますので、天皇権力に経済裏付けがなくなった上に、官僚やその他貴族にとっては事実上の決定権を持つ人に恩を感じても名目上の叙任権者である天皇に何の感謝もありません。
ついでに天皇・朝廷の権限縮小過程・・収入減少を見ていくと、荘園の発達に比例して国衙収入が減っていくので、藤原家の勢威が「望月の欠けたることのなき」栄華を誇る絶頂期になると、天皇家側で自前の資金源を持つ必要に迫られて「毒を以て毒を制する」挙に出たのが院政の始まりだったように思われます。
朝廷自身が荘園を持つのは国家体制と矛盾するので、早くに退位して身軽になった上皇が、院の荘園保有・・経営に乗り出して藤原氏との荘園の系列化争いを演じ始めたことになります。
朝廷には公式の左右の大将や近衛兵など青侍?しかいませんが、院の経営する荘園には藤原氏の荘園同様の武士団が発生します。
この中央武士団が北面の武士ということでしょう。
ところで、荘園の中央系列化の始まりは、地元豪族(いわゆる郡司さん)のものですが、もともと国衙の徴税を免れる(ゼロにして納めないというのではなく徴税のさじ加減を緩くしてもらうため)には中央権門に名目上寄進して交渉を有利に進める(今で言えば政治家に口利きしてもらう?)ために始まったものでしたから、さじ加減の権力の強い方に集中するのは当然の結果です。
このコラムで何回も紹介している千葉氏は元々平家でしたが、伊勢神宮の荘園である相馬御厨の管理権・今で言えば不動産会社がマンション管理する権利に似ています・・あるいはヤクザのショバ争いで、平家に頼んでいたが有利な結果にならず恨んでいたそこへ新興の源氏が食いついて世話になったので源氏に恩を感じるようになっていたという構図です。
老舗は客が多すぎて(双方に義理があって)どっちつかずになって、新興の勢力に負けて行くのは現在の世界の勢力争いでも同じです。
今のアメリカが、中東であちらてればこちら立たずで、一方的な応援できない・どうして良いかわからなくなっていたのと同じです。
古代豪族(のちの公卿)間の荘園系列化で、藤原氏の一人勝ち的(比叡山や興福寺その他寺社勢力も残っています)状態になっていた平安末期に院の庁が荘園経営に手を出すようになると、地方豪族は藤原氏に着くのが良いか院(上皇)に頼む方が良いか(荘園名義をどちらにするか)の選択が始まります。
院の方は新興勢力ですから、対立当事者に何の義理もない・・きた方に味方すれば良いだけである上に朝廷の実力者ですから、この争いに負け始めて藤原氏の影響力が足元から崩れ始め、この経済戦争の表面化が、保元平治の乱であったことになります。
もちろんこのような意見は、素人の私の妄想です。
この最盛期が八条院領を始めとして後白河周辺で荘園取り込みが活発化したことを17年12月31日の大晦日にちょこっと紹介しました。
この時点では、八条院庄園が、藤原氏の荘園経営を凌駕していたようですし、建武の中興後の観応の擾乱のテーマが、八条院領などの荘園経営者と武士層との年貢の取り合いであったことを見ると、鎌倉幕府成立後も八条院東野平安貴族層の荘園経営が続いていたことがわかります。
幕府成立〜武士の時代がきてどうなったかですが、有職故実の研究で知られている順徳帝の履歴を見ると、後鳥羽天皇(後の後鳥羽上皇)の寵愛を受けていた彼は、即位前から経済的バックを固めるために巨大な八条院領の相続人になっていることが出てきます。
天皇家の経済基盤が重視されていたことが分かります。
一般的歴史書では、藤原氏が代々天皇の外戚であったのに、保元平治の乱は藤原氏の娘の産まない皇子が天皇になったのでこういう乱が起きたかのような人脈だけを中心に説明されますが、(外戚支配の危機は何回もあったのですが、その都度藤原氏(長屋の王の事件や弓削道鏡事件が有名ですが、その他にも藤原氏の危機はいろいろありました)がその都度乗り切ってきたのですが、この時に限って危機を乗り切るに足る人材がいなかったということでしょう)そういう背景で天皇家は経済独立のために経済基盤の確立を図る動きが出てきてこれに藤原氏が対抗できなかったということです。
光明皇后が勢威を振るえたのは、紫微中台という役所を作って国家財政の過半を握っていたからという記述をどこかで、読んだ記憶がありますが、政治権力掌握・維持には、人脈も重要ですが経済基盤が絶対的に必要でしょう。
歴史年表的には、鎌倉時代に起きた承久の乱を習うと、源平時代がとっくの昔で、武士の時代になってからのこと思いますが、尼将軍政子の演説が有名なことからしても、その頃はまだ後白河時代の人脈や遺産につながっているのです。
その頃にもまだ後白河の頃に肥大した八条院の荘園がそのまま?残っていて大きな役割を果たしていたことがわかります。
鎌倉時代に問注所・訴訟部門・が発達していたことが知られますが、(室町幕府の所務沙汰)は そこの大きなテーマは所領(結局は武士の管理権?)争いや年貢の横領(管理人とオーナーとの分配)事件だったのでしょう。
大晦日にちょっと紹介した院近臣による荘園設定の場合、(国衙との共同経営的荘園が多かったので)国衙役人が荘園内の年貢徴収を荘園に委ねて一定率を、荘園が国衙におさめる方法でしたが、(このため荘園設定には国衙の同意書添付で中央に申請する仕組み・・・院近臣が各地国司になるとどんどん八条院の荘園が増加していった仕組みでした。
武士はこの荘園経営の現場部門が肥大化して独自性が出てきたものですから、貴族と国衙の年貢取り合いだった平安時代から、鎌倉時代に入ると朝廷の取り分がほぼ消滅していて、武士と公卿の取り合い・都の貴族や寺社にまともに上がりを納めない・収める量が少なすぎるなどの争いに変わっていったのです。
学校教育では合戦を歴史のエポックとして取り上げるので、合戦の結果幕府権力が出来上がったように見えますが、実は荘園経営の実利争いになると朝廷で議論してもラチがあかない・今でいうと「ヤクザ相手にするにはその道の格上・武家の棟梁相手に話をつける方が早い」となるのと同じです。
ヤクザの下っ端にとっては警察も怖いですが、その程度なら「月夜ばかりと思うなよ!」という捨て台詞が効きますが、兄貴分に「あいつには俺がギリがあるので手を出すなよ!」と言われる方が効き目があります。
荘園の用心棒である武士団が横領を始めると、貴族社会で「困ったものだ」と嘆いていてもラチがあかない・武士団の棟梁にけじめをつけさせるのが合理的です。
ヤクザの親分や幹部が内部けじめをつけられてこそ、幹部の地位を維持できて稼ぎの元にもなる訳ですが、武家の棟梁の始まりもこれの原始版でしょう。
千葉氏はもともと平氏一門でしたが、伊勢神宮所領の相馬御厨の管理権をめぐる争いで平家が力添えしてくれなかったので、折から利根川沿いに進出してきた後発の源氏の応援を頼んだことが、石橋山の旗揚げで敗れて安房(房総半島)に落ち延びてきた頼朝の応援につながったことを2004年に 09/19/04「源平争乱の意義4(貴種と立憲君主政治3)」」で千葉氏が源氏に乗り換えた経緯を書きましたが要は管理権・用心棒のシマ争いです。
後醍醐天皇の建武の新政がつまづいたのも、この裁定実務能力がなかったからです。
政治家に必要なのは利害調整能力ですが、革新系は理念先行実務能力に欠けているのが一般的です。

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