戸籍制度整備2(芋づる式)

従来の無宿者をどのようにして登録するかについては現地調査による方式と、無宿者扱いをやめさせて親元で登録を維持することの2方式が考えられますが、前者の場合当時は現地登録するには都会の住まいは安定していない人の方が多かったことと、現住所を確定して行く作業・・しらみつぶしに調査するのは大変なことになります。
現地調査から入って行くとその間に住所移転があったりして・・動き回っているひよこの数を数えるようなもので大変ですし膨大な調査員が必要です。
例えば現在でも、銀座や新宿の雑踏の中で行き交う人を捕まえて東京の人口を特定をするのは不可能で、どこかの住所等から芋づる式に特定して行くしか方法はないでしょう。
このように書いていると、数十年前に白血病の事件をやっているときにある時点での白血球・赤血球の数値が問題になった時の事を思い出しました。
データの正確性を検証しようとしたところ、血液を採取して顕微鏡でのぞいて動き回っている白血球だったか赤血球だったかを目で追いかけて大体の数を数えると聞いて驚いた事を想起します。
そのときの説明では一定量だけ数えて後は倍数を掛けて計算するので如何にも緻密な端数まで結果が出るのですが、その前提は殆どいい加減な認識によるものです。
勿論同じ医師が何回も採取して数えればその変化のグラフは同じ比率で変動します・・2〜3割の誤差のある医師の場合同じ比率で、多め少なめの傾向も数値が同じように変動するのでそれで良いのかもしれません。
しかし、前後の流れから見て途中の数値に間違いがあったのではないかの疑問による検証作業の場合、写真にとって固定して数えて置かないと、データの正確性についての検証の方法がなく、そんないい加減な事で良いのかと驚いたものです。(今は知りませんが・・)
話を戻しますと、一戸を構えている親元を特定した上で、そこから芋づる式に特定して行く場合、出先でまだ一戸を構えていない子らを無宿者扱い・除籍さえやめさせれば自動的に親元に名簿が残るので把握が簡便です。
しかも親に東京や大阪にいる息子や娘などの居場所を申告させて、後に紹介する寄留簿(現在の現住所登録)を作って行く方が簡便ですから、この方策がとられたのは自然の成り行きですし、これが同居していないものまで家族に組み入れるというか残して行くことになった始まりと言えます。
ちなみに、このまま無限に残して行くと大変になったので、死亡した時には除籍する制度が出来たのは戸籍法中出生死去出入及寄留等届出方並違背者処分 (明治19年9月28日内務省令第19号 )と戸籍取扱手続(明治19年10月16日内務省令第22号 ) による大改正によるものです。
平行して都会の未定着の住まいは親の申告に基づいて都会地の役所自体が寄留地として管理・・徐々に整備して行き、この寄留簿どおりかについて役人が確認して歩き同じ長屋に寄留簿のない人がいれば確認してその人だけ身元調査すれば良いので寄留簿の完備も簡単です。
(これが後の寄留簿・・現行の住民登録制度に結実して行ったと思われます。)
中には親兄弟がいない人もいるでしょうが、そういう人には独立戸籍を作ればすむことです。

戸籍制度整備1

扶養義務法定と関連して扶養義務の範囲を定めるためには、都市住民の登録が必要になってきます。
逆に都市住民登録の必要が大家族制導入の原動力だったかもしれません。
2月13日にも少し書きましたが、戸籍制度は律令制の一環として中国から入りましたが、我が国ではこれが根付かずに、受領や国司・・荘園主等の地方有力者に国民把握が一任され、有力者による適当な届出制になり、以後約1000年余りも政府は国民の間接統治に甘んじて来たのです。
直近の江戸時代を見ても、大名を通じた間接統治でしたし、大名は家臣団を通じた間接統治と言う具合に重層的間接統治の時代が荘園制度発達以来長かったのです。
明治維新になって今度は「政府が直接人民を管理するぞ!」と言う意気込みで始まったのが、先ずは天皇行幸に合わせて明治2年3月東京で実施された「東京府戸籍編製法」と「戸籍書法」の2法です。
このころは各地でそれぞれの戸籍らしきものが出来ていましたが、全国統一戸籍の意気込みで始まったのが明治3年の庚午戸籍及び明治4年太政官布告による壬申戸籍(明治5年施行)でした。
学校教育では大名家の版籍奉還・廃藩置県のみ大きく取り上げられますので支配主体が藩から政府一部局の県に変わっただけのような印象で教えられますが、この時政府は、大名小名をなくすだけに留まらず人民の直接統治を計画していたので、その思想的成果が壬申戸籍の施行だったことになります。
(今でも戸籍管理は政府・法務局の権限であり、住民登録は地方自治体の権限です)
壬申戸籍の布告が法令全書に出ていますが、これは写真らしくコピー出来ないので、一部(前文)だけ手写しで紹介しておきましょう。
(簡単に旧字体が出ない漢字は現在の漢字になっています・文中◯は欠字のような印象で空白があります)

第170 4月4日(布)
今般府藩縣一般戸籍ノ法別紙ノ通リ改正被仰出候条管内普ク布告致シ可申事
戸籍検査編成ハ來申年2月1日ヨリ以後ノ事ニ候ヘ共右ニ関係スル諸般ノ事ハ今ヨリ処置スベシ・・・以下中略・・・
右ノ通リ被仰出候事
人生始終ヲ詳ニスルハ切要ノ事務ニ候故ニ自今人民天然ヲ以テ終リ候者又ハ非命ニ死シ候者等埋葬ノ處ニ於テ其ノ時々其ノ由ヲ記録シ名前書員数共毎歳11月中其管轄管轄庁又ハ支配所へ差出サセ・・・中略・・・。
右の通り管内社寺ヘ可触達候事
戸数人員ヲ詳ニシテ猥リナラサラシムルハ政務ノ最先シ重スル所ナリ夫レ全国人民ノ保護ハ大政ノ本務ナル ◯素ヨリ云フヲ待タス然ルニ
其保護スへキ人民ヲ詳ニセス何ヲ以テ其保護スへキヲ ◯施スヲ得ンヤ是レ政府戸籍を詳ニセサルヘカラサル儀ナリ 又人民ノ安康ヲ得テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ政府保護ノ庇蔭ニヨラサルハナシ
去レバ其籍ヲ逃レ其数ニ漏ルヽモノハ其保護ヲ受ケザル理ニテ自ラ国民ノ外タルニ近シ、此レ人民戸籍ヲ納メザルヲ得ザルノ儀ナリ中古以来各方民治趣ヲ異ニセシヨリ僅ニ東西ヲ隔ツレハ忽チ情態ヲ殊ニシ聊カ遠近アレハ即チ志行ヲ同フセス・・・以下省略

地方有力者を通じた国民の間接把握から、直接把握に移行するために一戸ごとの戸籍整備に着手すると言っても、国民管理には先ず住所の安定している一戸単位から始めるしかなかったのですが、一戸=安定住所まで行かない都市住民をどうするかが大問題でした。
都市住民の多くが浮浪者=無宿者中心だった江戸時代とは違い、明治に入ると正規職業人の比率が上がって来たし、しかも有益な人材が多くなっていましたので、これらを無宿者・・浮浪者扱いするのは実態に合わなくなって来たことがあって、これの管理制度も政府としては必要となりました。
政府の立場としても国家のために役立つ労働力・・いざとなれば徴兵の対象になる有益な人材として出産を奨励し都会へ誘導していった以上は、郷里を出て行った弟妹の戸籍を抹消して無宿者にしてしまうようなことが出来なくなったことによると思われます。
政府としても国民の管理上、都会人の大多数が無宿者ばかりでは(兵役に徴収出来ないし税も取れませんし治安も乱れて)困りますから、無宿者扱いを廃止・浮浪者発生抑制メリットがあったのです。
この後に書いて行きますが、戸籍制度創設の担当役所は民部省から大蔵省租税寮に変わって行ったことも、政府が農民以外の管理に関する意識変化を窺い知る参考になるでしょう。
地租改正は農民に偏っていた税収を都市住民にも広げる目的だった(今の消費税拡大と同じです)ことを09/10/09「地租改正8(金納は農民救済目的?)」で書いたことがあります。

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