朝廷と徳川幕府の価値観相違2

戦国時代が終わってから大名等武家は、領内支配によって独自産業育成して新たな収入を得る自由があるとしても、国法としての貿易禁止に背けないのと同様、幕府の決めた分野については勝手な官位授与等をしてはならないという「禁中並びに公家諸法度」を決めた以上は、幕府を通さないで(献金に報いて?)勝手に官位授与等をしてはならなくなったのですが、高僧への紫衣の許可制は武家に対する官位授与とは系列を異にするものでした。
その経緯もあり、それまでの習慣による(臨時収入の欲しさ?に)紫衣着用を許可した事件ですが、これは「幕府法が朝廷決定に優先する」という権力構造の問題だけではなく、価値観の変化(金で地位を買うのが許せないという武家の倫理観)を朝廷が無視した点に大きな問題があったということでしょう。
武士社会の立身出世・取り立てと降格の基準は、忠節・勲功の実績次第でした。
信賞必罰=いわば適材適所が基本社会・・能力のない者に義理人情等で軍勢を指揮する地位を与えると負けてしまう・一族滅亡のリスクを抱えギリギリの攻防を繰り返して戦国時代を生き抜いてきました。
武家の倫理観は、秀吉が草莽の身からお天下様になっていった例を見ても分かるように、賄賂や家柄によらず能力がすべての基準になるものでした。
戦国武将にとっては、昇進や格下げ処理基準に個人事情や献金等の情実が入り込むのは一族の滅亡を招きかねないリスキーな行為ですから、最も忌み嫌うべき道徳として、確固たる共通意識になっていたでしょう。
とは言え、実際には接待上手や献上品の豪華さなども重要でしたので、要は比重の置き方の問題です。
官位をありがたがる世間一般よりは、長期にわたって名誉職でしかなくなっている官位など能力の有無に関わりがない・・という朝廷の方が逆に、醒めた意識になっていたでしょう。
長期にわたって安定収入源のなくなっていた朝廷にとっては、献金によって、あるいは内裏等の造営をしてくれることによる貢献度の高さに従って官位を敍し、あるいは高僧認定(今で言えばノーベル賞受賞・・国内的には学術会議員や人間国宝〜特定技能認定?)するのは当然の論理だったのでしょう。
私が関係していた学生時代(今は知りませんが・・)の経験では、家元制度のあるお花やお茶お琴等を習っている場合では、一定段階に進み師範等の認定を受けるには(一定レベルであることが前提であっても)認定料?を払うのが普通でした。
家元制度は民間版ですが、公的機関では許されないというのが徳川政権の示した規範だったのでしょう。
今ではノーベル賞や博士号、一級技術者資格などが、献金額やコネで決まるとすれば、国民全部が承知しないでしょう。
このような現代価値観に反したという名目で韓国のパク前大統領がリコールされたばかりでしたが、このパフォーマンスは前近代的怨念政治にこだわっている韓国が前近代どころか日本で言えば、前中世的価値観を国民が許容できなくなった程度に進化していたことの国際表明だったことがわかります。
ただしパク政権打倒のローソクデモは、親北朝鮮勢力・左翼系による政変企図による煽り成功の意見もあり・・煽り/メデイア操作による扇動に簡単に乗せられる国民レベルの脆弱さ・・が背景にあるので、純粋民度アップの証左とは断定できませんが・・・。
文政権成立後慰安婦合意に対する事実上の空洞化運動やに追い打ちをかける徴用工訴訟の挑発にとどまらず、自衛隊機に対するレーダー照射事件等国内法だから何をやっても韓国政府の勝手だという韓国の態度を見ると、人間としてのレベルがどうなってるの?と首をかしげる日本人が多くなってきました。
まだまだ普通の会話が成り立つレベルではないのではないか?という疑問・・普通の付き合いをするのは無理でないか?と思う日本人が増えてきた印象です。

朝廷と徳川幕府の価値観相違2

こうしたメカニズム構築によって古代からの大豪族や中級貴族がどんどん没落(菅原道眞の左遷や伴大納言事件)していき、ついには朝廷すら収入源を失う事態になっていたのが道長の頃と言えるでしょう。
「毒を食らわば皿まで」の考えで天皇家自身が荘園確保に乗り出すと、何と言っても藤原氏自身天皇家の権威利用の地位(外戚利用)でしかないので、院政=治天の君が荘園運営するとなれば急速に八条院の荘園への寄進が増えていきます。
八条院の経済力についてはJan 24, 2019 12:00 am「社会変化=価値観・ルール変化1」に書いたことがあります。
キングメーカーであった藤原彰子が死亡すると藤原氏の勢力が急速に衰退していったことを摂関家支配の構造変化(彰子死亡)PublishJul 26, 2019に書きました。
清盛も平滋子死亡後急速に衰退して行きました。
保元平治の乱の経済背景を見ると、荘園収入を得て実力をつけた院の庁が藤原氏の経済力に頼る状態脱却を背景に保元〜平治の乱が起きて、藤原氏の経済力衰退化に成功するのですが、これの実現のため武士の実力に頼ったことから、徐々に武士勢力に荘園収入を蚕食されていき、応仁の乱を経てついに荘園制度自体が空洞化してしまった事になります。
荘園制を基礎とする収入源に頼る朝廷や公卿の政治運営自体が、荘園収入の空洞化によって先ずは仙洞御所の運営が不可能になる→院政の前提たる生前退位すらできない状態になっていた結果、院政が実上消滅していたことも知られています。
生前退位がなくなっても、今度は天皇の葬儀さえできない状態に陥っていたのが戦国末期直前でした。
応仁の乱以降、自衛武力=反撃力を持たない限り荘園運営能力がなくなっていたので、この頃には領地・荘園寄進ではなく、(義満以降の日明貿易の結果貨幣が入っていたので)銭何貫文とかいう今でいう「献金」が増えていきますが本質は同じでしょう。
戦国末期頃には、安定収入がほぼゼロになり朝廷はこの種の収入源に頼る時代が数百年?も続いていました。
この習慣による不明朗な臨時収入→官位や名誉の授与を許さないという価値観の衝突が江戸時代初期におきた紫衣事件でした。
戦国時代に入って朝廷が安定収入がなくて困っていた例としてhttp://rekishi-memo.net/sengokujidai/sengokubusyou_choutei.htmlによれば以下の通りです。

後土御門天皇(ごつちみかど)が崩御した際には葬儀を行う費用もままならず、御遺体を葬るのに時間が掛かるという悲劇も招いた。
そして後柏原天皇(ごかしわばら)は即位の儀式を行う為の費用が足りず、在位22年目でようやく即位の礼を上げる事が出来た。
他に正親町天皇の事例をウイキペデイアで見れば、以下の通りです。
正親町天皇に関するウイキペデイアです。
弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も即位後約2年もの間即位の礼を挙げられなかったが、永禄2年(1559年)春に安芸国の戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用の献納を受けたことにより、永禄3年(1560年)1月27日に即位の礼を挙げることが出来た

生前退位・院政が長期間なかったのは、院の御所(仙洞御所)を造営し付属の役人を配置する資金すらなかったからであることを、平成天皇退位に伴う代がわり行事コストの関係でだいぶ前に紹介したことがあります。
数百年に亘る不明朗な臨時収入→献金による官位や名誉の授与を許さないという徳川政権との価値観衝突が江戸時代初期におきた紫衣事件でした。
ただしその代わり秀忠は朝廷に対して寄進でなく1万石の領地を与えて?います。
摂家には5千石前後でした。
今後この程度の収入でやって行けば良い・宮中儀式等はこの収入で賄え!不明朗なお金を受け取るな!という意思表示でした。
一種の年俸制にして裏金の受領禁止したということでしょう。
ただし、紫衣事件後家光は朝廷の知行?を加増?しています。
要するに足りないなら加増するから、不明朗資金授受をするな!という強い意思表示でもあったでしょう。
官位授与は武家の棟梁を通さない限り許されないのが鎌倉幕府以来の原則ですが、幕府どころか守護大名さえ通さない直接交渉が成立するようになった点は、幕府権威の衰退を意味するのみですが、朝廷の収入源であった叙位のお礼が守護大名を通さないでもっと下位の国人層が直接行うようになった意味もあります。荘園収入を得て実力をつけた院の庁が藤原氏の経済力に頼る状態脱却を背景に保元平治の乱が起きて、藤原氏の経済力衰退化に成功するのですが、これの実現のため武士の実力に頼ったことから、徐々に蚕食されて応仁の乱を経てついに荘園制度自体が空洞化してしまった事になります。
荘園制を基礎とする収入源に頼る朝廷や公卿の政治運営自体が、荘園収入の空洞化によって先ずは仙洞御所の運営が不可能になる→院政の前提たる生前退位自体できない状態になっていた結果、院政が実上消滅していたことも知られています。
生前退位がなくなっても、今度は天皇の葬儀さえできない状態に陥っていたのが戦国末期直前でした。
応仁の乱以降、武力を持たない限り荘園運営能力がなくなっていたので、この頃には領地・荘園寄進ではなく、(義満以降の日明貿易の結果貨幣が入っていたので)銭何貫文とかいう今でいう「献金」が増えていきますが本質は同じでしょう。
戦国末期頃には、安定収入がほぼゼロになり朝廷はこの種の収入源に頼る時代が数百年?も続いていました。
この習慣による不明朗な臨時収入→官位や名誉の授与を許さないという価値観の衝突が江戸時代初期におきた紫衣事件でした。
戦国時代に入って朝廷が安定収入がなくて困っていた例としてhttp://rekishi-memo.net/sengokujidai/sengokubusyou_choutei.htmlによれば以下の通りです。

後土御門天皇(ごつちみかど)が崩御した際には葬儀を行う費用もままならず、御遺体を葬るのに時間が掛かるという悲劇も招いた。
そして後柏原天皇(ごかしわばら)は即位の儀式を行う為の費用が足りず、在位22年目でようやく即位の礼を上げる事が出来た。

他に正親町天皇の事例をウイキペデイアで見れば、以下の通りです。
正親町天皇に関するウイキペデイアです。

弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も即位後約2年もの間即位の礼を挙げられなかったが、永禄2年(1559年)春に安芸国の戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用の献納を受けたことにより、永禄3年(1560年)1月27日に即位の礼を挙げることが出来た

生前退位・院政が長期間なかったのは、院の御所(仙洞御所)を造営し付属の役人を配置する資金すらなかったからであることを、平成天皇退位に伴う代がわり行事コストの関係でだいぶ前に紹介したことがあります。
数百年に亘る不明朗な臨時収入→献金による官位や名誉の授与を許さないという徳川政権との価値観衝突が江戸時代初期におきた紫衣事件でした。
ただしその代わり秀忠は朝廷に対して寄進でなく1万石の領地を与えて?います。
摂家には5千石前後でした。
今後のこの程度の収入でやって行けば良い・宮中儀式等はこの収入で賄え!不明朗なお金を受け取るな!という意思表示でした。
一種の年俸制にして裏金の受領禁止したということでしょう。
ただし、紫衣事件後家光は朝廷の知行?を加増?しています。
要するに足りないなら加増するから、不明朗資金授受をするな!という強い意思表示でもあったでしょう。
官位授与は武家の棟梁を通さない限り許されないのが鎌倉幕府以来の原則ですが、幕府どころか守護大名さえ通さない直接交渉が成立するようになった点は、幕府権威の衰退を意味するのみですが、朝廷の収入源が守護大名を通さないでもっと下位の国人層が直接行うようになったという意味もあります。

朝廷と徳川幕府の価値観相違

鎌倉幕府が、守護地頭等を各地派遣するようになった・・遠慮ガチな態度から始まった幕府の権限行使が、室町時代〜応仁の乱〜戦国時代を経て荘園領主〜守護地頭〜守護代〜戦国大名支配に変わり、朝廷には国内各地の支配権を名目上も一切ないことを鮮明にした側面があります。
これには、収入を徴税によらず寄進や献金等の不明朗資金に頼ることに対する武家がわの嫌悪価値観相違も大きな原因でもあったでしょう。
ところで官位を金で買う〜寄進等で手に入れる仕組みは、戦国時代に始まったのではなく平安末には平忠盛が熊野本宮造営により、次の清盛が三十三間堂で知られる蓮華王院の造営と荘園寄進で後白河上皇を懐柔した例が知られています。
清盛に関するウイキペデイアの引用です。

保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられる。
・・・・継室の時子が二条天皇の乳母だったことから、清盛は天皇の乳父として後見役となり検非違使別当・中納言になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。応保元年(1161年)9月、後白河上皇と平滋子(建春門院)の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれると、平時忠・平教盛が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・藤原成親・坊門信隆を解官して後白河院政を停止した。清盛は天皇の御所に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。
院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、長寛2年(1164年)に蓮華王院を後白河上皇のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。
二条天皇は後白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年(1165年)に重盛を参議に任じて平家への依存を深めるが、7月28日崩御した。
後継者の六条天皇は幼少であり・・・後白河院政派は次第に勢力を盛り返していたが、清盛は後白河上皇の行動・性格に不安を覚え、院政復活を望まなかったという。
10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には内大臣となった。翌仁安2年(1167年)2月に太政大臣になるが[9]、太政大臣は白河天皇の治世に藤原師実と摂関を争って敗れた藤原信長が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から表向きは引退し、嫡子・重盛は同年5月、宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。

後白河・平滋子の子・憲仁親王の即位後白河の院政復活に向けた布石として蓮華王院 (三十三間堂)を寄進しておいたのでしょう。
寄進は新興勢力(中流貴族は昇進できても最高位が4位であったと言われるようにガラスの天井を飛び越える)の格上げ実現するときの常套手段だったかもしれません。
清盛もいきなり寄進したのではなく、その前から朝廷の税収減を補う為の寄進が始まっていたようです。
平安時代に入って寄進が増えた理由は朝廷の徴税収入が減ってきたからです。
平安時代に入って不ユ不入権が保障された荘園増加により朝廷の収入源がほとんどなくなった以上、財政を寄進〜寄付に頼るしかなくなったのは平安中期〜末からのことでした。
天皇退位後の仙洞御所を国費で賄えないので里内裏・皇后の実家の経済力に頼る状態・・退位後の仙洞御所を皇后の実家にするのが常態化していました。
この状態脱却のために八条院など皇室系が荘園経営に乗り出していた事を以前紹介しました。
平安初期以降の荘園囲い込み競争では、国司の介入(徴税権確保のための調査立ち入り阻止等→不輸不入権獲得→一円支配化→一円支配拡大競争・地元での争いですから、中央の裁定を待っていられない・・現場実力優先時代→武士発達につながります・・この象徴的事件が平将門の乱だったでしょう。
このためには実際に荘園や農地を耕作する地元勢力がどの中央貴族に名目寄進し保護を頼ろうか?という競争になって摂関の地位が実力による入れ替わりがなくなり、摂関家として世襲化(これに対する抵抗が菅原道眞の事件)すると、摂関家と対立する貴族に寄進しても意味がない・・勢い摂関家へ荘園寄進が集中するようになって藤原氏の永続的地盤が再生産される仕組みになって行ったものです。

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