アメリカの自治9(草の根民主主義の妥当領域2)

http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/ronbun/jichius.html引用の続きです。

市議はボランティア
「ちなみに、カリフォルニアの政府法では、市長・市議の給料を表1のように規定している[32]。月数万円程度の名目的報酬である。これでは生活できないから、当然、市長・市議は基本的にボランティア活動である。昼は自分の仕事をもっており、夜になると市議会や各種会合に出てくる。市民集会型の市議会では市民も仕事の終わった夜でないと困るわけだが、市議にとってもそれは同じである。
日本でボランティアというと、福祉ボランティアや災害ボランティアなどをイメージするが、アメリカのボランティアはまず市長、市議レベルからはじまっているということである。」
表3 カリフォルニアの市長・市議の給料
出典: California Government Code Section 36516
人口35,000人以下の市     月$300以下
人口35,000-50,000人の市    月$400以下
人口50,000-75,000人の市    月$500以下
人口75,000-150,000人の市     月$600以下
人口150,000-250,000人の市    月$800以下
人口250,000人以上の市    月$1,000以下

小さな自治体・/三万五千人以下の自治体ではわずかに300ドル以下・・3万円あまりです。
25万人以上のサンフランシスコやロスアンジェルスのような大自治体でも市長の月収が月1000ドル以下(今の相場では約11〜12万円)の報酬では本業が別にないと生活ができません。
アメリカの地方自治体政治家は、我々弁護士がただみたいな低い報酬で審議会委員など公職に従事しているようなイメージです。
逆からいえば、州法で決まった範囲は狭く町内会程度の自治しかない・・・その程度の仕事で有給と言うだけでも恵まれているのかもしれません。
このコラムで関心のある自治権の範囲ですが、そもそも自分の本業を切りあげて夕方集会場所に駆けつける住民集会のような市議会で、短時間に住民の意見を聞いてその場で聞いたことを前提に議論して決めていく・・こんな単純なことで可能な政治は身近なテーマに限られるでしょう。
この面からも自治に委ねられているレベルの低さが知られます。
例えば原発の再稼働に関して安全性や原発なしの電力需要にどうするかの議論をデータも見ないで夕方ちょっと集まって意見を聞く程度・ムードだけで賛否の議論しても意味がないことが明らかです。
もともと、数人や数十人規模の自治体を基礎に始まったこの仕組みが、未だに大規模自治体でもそのまま利用されていること自体が時代錯誤的印象です。http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/ronbun/jichius.html引用の続きです。
「市民運動にとっては絶好の動員の場だ。同一団体のメンバーと思われる人たちが次々立って同じような主張を繰り返す。・・」
と報告されていますが、ここに病理現象が顔を出しています。
このような動員力次第になる結果、実際の国民の支持・民意以上の政治力を発揮して来たことがわかります。
これに加えてメデイア支配によるかさ上げ効果もあり、これがいわゆるリベラルに対する世界的反感が湧き起きて来た基礎原因です。
仕事を終えてから集まるタウンミーテング的仕組みは、いかにも草の根の民主主義の実践っぽいですが、これではホンの数十人しか意見を言えないし、党派的対立のあるテーマでは動員された党派的意見の人が列を作って発言を続けると一方的意見の繰り返しばかりで時間が終わり建設的な議論が出来ません。
芸能人やアルバム等のネット投票では、韓国系のマシーンを使った大量の「いいね」投票が席巻して意味をなさなくなって久しいですが、この種の住民集会も同じです。
ここで報告されているサンフランシスコの人口は以下の通り80万人です。
80万人中、(あちこちで何回か開催されるとしても)1回あたり数十人の参加者の意見を参考に決めるのって、これが「草の根の民主主義」と手放しで賛美できるのでしょうか?

17年10月9日現在のウィキペデイアによると以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ合衆国の主な都市人口の順位

順位    都市          州           人口
1     ニューヨーク     ニューヨーク州      8,175,133
2     ロサンゼルス     カリフォルニア州     3,792,621
3     シカゴ        イリノイ州        2,695,598
4     ヒューストン     テキサス州        2,099,451
5     フィラデルフィア   ペンシルベニア州     1,526,006
6    フェニックス     アリゾナ州         1,445,632
7    サンアントニオ    テキサス州         1,327,407
8    サンディエゴ     カリフォルニア州      1,307,402
9    ダラス        テキサス州         1,197,816
10    サンノゼ      カリフォルニア州      945,942
11    ジャクソンビル    フロリダ州         821,784
12    インディアナポリス [注 1] インディアナ州      820,445
13    サンフランシスコ   カリフォルニア州      805,235
121   グレンデール     カリフォルニア州      191,719

11月20日に紹介したサンフランシスコ市の議会のようすを写した写真を見ると、市議会というか、住民集会の運営説明と写真を見れば、質問や意見表明したい市民が列をなしていて(一人3分以内と決まっているようです)次々と続く質問や意見表明を聞き続けます。
この意見表明は自治体住民に限定されず誰でもよくて、しかも党派的主張もゆるされるようで次から次へと同じ主張を入れ代わりたち代わり繰り返すこともあるようです。
これが終わると最後に5人前後の当日参加した市議で評決する・・この評決のための議論も市民が見守る中で行われる仕組みです。
ボランテアが原則ですから市議が仮に10人 以上いるような大きな市では、市議が全員出席でもない・都合のつく市議が出席するようなイメージです。

アメリカの自治体8(草の根民主主義の妥当領域1)

http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/ronbun/jichius.html引用の続きです。

岡部一明 (『東邦学誌』第30巻第1号、2001年6月)

アメリカの市議会のようす。壇上に少数の市議。会場は市民が詰め掛け、発言もできる。 (カリフォルニア州バークレー市)アメリカの自治体(Local Government)には通常の市や町以外に特別区がある。
有名なのは日本の教育委員会にあたる学校区だが、その他水道区、大気汚染監視区、潅漑区、高速地下鉄区、蚊駆除区、○○商店街街灯管理区、あらゆる種類の特別区がある。これらは必ずしも、市や町の下部組織ではなく、それらの連合した広域自治体という訳でもない。独自の自立した自治体であり、その首長が公選される場合も多い。区域が通常自治体とまったく無関係に線引きされている場合も珍しくない。
自治体は領域をもった全員加盟制のNPOである」という認識を、調査を進めるうち筆者はもつようになった。

日本で考えると土地区画整理組合や消防組合・水利組合やNPOあるいは町内会のようなものが自治体になっている印象です。
上記写真を見ると日本でよく知られたバークレイ市でさえもちょっとした公民館程度のホールで5人前後の市議が舞台のような演壇に机を置いて並んで座っています。
上記引用続きです
以下の写真は引用連載中の論文に掲載されているサンフランシスコ市の市議会風景です。

市議会は住民集会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「パブリック・コメントは多様な問題についての意見を聞くことができるので有用だ。」とトム・アミアノ市議の立法秘書ブラッドフォード・ベンソンが聞き取り調査に答えて言う。サンフランシス市で1ヶ月に1回行われる地域での市議会に参加した時のこと[27]。議長も兼ねるアミアノ市議は革新派で、市民運動の活動家たちといっしょに市議会にのぞむことが多い。会場には多くの市民が押しかけ、壇上の11人の市議に向かって次々に発言している。
「市の政治は、経済的に力のある人たち左右されがちだ。こうした形で一般市民が参加できることでカウンターバランスになる。」
とベンソン秘書。
こうした議会での市民の自由な発言を「パブリック・コメント」という。現在、日本でも行政の個々の施策に意見書を提出する「パブリック・コメント制度」がはじまっているが、その語の起源はこうしたアメリカの市議会などで行われている市民の自由な発言だ。
サンフランシスコ市議会は通常、毎月曜の午後、支庁舎内の会議場で開かれるが、月に一回は地域で出張市議会を行う。この時は、市民の集まれる夜に設定された。ケーブルTVの中継カメラがいくつかすえられ、講堂の中央に発言を求める市民が長い列をつくる。順番整理のためリストに名前を書き込むこともあるが、待ち列の一番後ろにつくだけでもいい。資格審査などは一切ない。サンフランシスコ住民でなくともよい。外国人でも発言できる。各議題に付き1人1回3分程度の発言が認められる。発言者が多い場合1分以内などと制限されることもある。
この日は地域での市議会だったが、市議会堂で行われる通常の議会も同様だ。通常5人程度の市議が壇上に座り、「客席」には多数の市民が詰めて次々に立って発言する。市議の重要な役割の一つは市民の発言をじっくり聞くことだ。最終的には市議の多数決がものごとを決定するが、それも公開の場で住民監視のもとで行われる。
議会は通常、市民が来れる夜開かれ、紛糾する問題があれば市民発言が真夜中まで続く。市民運動にとっては絶好の動員の場だ。同一団体のメンバーと思われる人たちが次々立って同じような主張を繰り返す。「エイズはビールスで起こるのではない」というよくわからない主張をする宗教グループの人も何人か居た。」

引用は明日も続きます。

ヘイトスピーチ9(米国憲法論の推移1)

日本の学会では、個々人(法人を含む)の人格批判ではなく「日本民族全体の品格を貶める運動は名誉毀損にならない」としていたので、結果的に、「日本批判し放題」法理論を提供してきました。
ただし法理論がどうであれ、「相手民族を事あるごとにこき下ろしていて」民族間感情ががうまくいくかは別問題です。
これに対する反発が在特会批判として勢いを増したのです。
このあとで市川教授の論文を紹介しますが、憲法上規制が可能かどうかと、規制強化が民族和解に有益かどうかは別問題という意見の通りでしょう。
以下米国憲法判例を紹介するように「集団に対する名誉毀損を問題にしない」判例法理の確立は、公民権運動等のためには集団誹謗を不問にする方が運動に有利とする基礎的考えがあったようです。

以下紹介論文一部の先行引用です。

「同様の状況に置かれていたユダヤ系アメリカ人についても、とくにその知識人層において、集団に対する名誉毀損の規制は利益よりも危険のほうが大きい、という認識が主流になっていた。」

人権とか憲法学といっても党派的利益の都合に合わせて議論してきたことがわかります。
憲法学をこき下ろす立場から言えば、憲法学なんて政治的イデオロギーを学問らしく装っている政治論争に過ぎないと、20年あまり前に事務所にいた修習生が自信を持って話していました。
今更「朝鮮民族批判だけ許されない」とは言いたいがあからさまに言いにくい状態・・どのように修正すべきか百家争鳴状態・憲法学会でもまだ定説のない状態と言えるでしょうか。
そこで日本民族に対する誹謗中傷が良くて「在日批判だけ許さない」論理として「少数民族批判を許さない」・ヘイトとしたようですが、そうであればちょっと論理が粗雑かもしれませんが、国際世界で日本民族は多数派ではない→「国連での日本批判はヘイトにならないか」の疑問が起きます。
極論すれば、いわゆる被害者ビジネス・・・ヘイトになるか否かの基準は、「被害を訴える方は何を言っても良い」というものではないでしょうが、・・天皇の拡大顔写真に竹槍を突き刺すようなデモ行進をするなど・・・いくら激しくてもこれらに対するヘイト・憎悪表現批判が聞こえてきません。
今後ヘイト論議が深まると「少数派は何をしても良いか?」の議論も俎上に登るべきでしょう。
素人の私が「ああだこうだと考える」よりも、この辺でヘイト規制に関するプロ・憲法論の状況を知っておく必要がありそうです。
まず言論の自由の本家、アメリカではどうなっているでしょうか?
日本の憲法学界論文はアメリカ判例を下敷きにした議論が多かったので、理解の前提としてアメリカの連邦最高裁判例の変遷〜現状を以下の論文引用により紹介しておきます。
結果的にヘイト規制を認めないというのがアメリカ憲法判例の現状ですが、テーマ自体に歴史的文脈」とあるようにこアメリカの結論は公民権運動保護の特殊性による・・(「日本では公民権運動などの保護すべき対象がないので認めるべき?」といいたいけど今は言わない?)と言うのが筆者の意見のようです。
論文は長文のため以下は、要約整理やつまみ食い的引用ですから、気になる方は以下引用先に入って直接お読みください。
https://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/review_2014-03.pdf

アメリカにおけるヘイトスピーチ規制論の歴史的文脈
──90年代の規制論争における公民権運動の「継承」
キ ー ワ ード :
ヘイトスピーチ、公民権運動、表現の自由、リベラル、批判的人種理論
明戸隆浩 大阪経済法科大学 アジア太平洋研究センター
内容は膨大ですので、項目的に列挙し要約的な引用をしています。
1. 問題と背景
2.アメリカにおけるヘイトスピーチ規制論の歴史的文脈
2-1 先行研究の検討
2-2 ヘイトスピーチ規制に関する連邦最高裁の判例の変遷
① 1942年のチャプリンスキー判決→喧嘩言葉に表現の自由を認めない判例
② 1952年のボハネ判決→「集団に対する名誉毀損(group libel)」の論理
に依拠してヘイトスピーチ規制を根拠づける・・「集団にも適用可能だとした」リー ディング・ケース
③ 1969年のブランデンバーグ判決は クー・クラックス・クラン(KKK)が集会で十字架を燃やし(23)、扇動的発言を行ったことが、州法に基づいて違法とされたことの合憲性である。
連邦最高裁の判断は、州法を修正第1条に照らして違憲とし、KKKの指導者の有罪判決を破棄するというものだった。KKKという典型的な差別主義者の差別扇動さえ修正第1条の保護を受けるという、現在につながる流れが成立した瞬間である。
そしてこうした判断は1977年のスコーキー事件をめぐる判決でも基本的に踏襲されることになる。そこではホロコースト生存者が多く居住するスコーキー村周辺でのネオナチのデモが条例違反とされたことの合憲性が争われたが、連邦最高裁の判断は、やはり条例を違憲とし、ネオナチのデモの権利を支持するものだった(24)。
その後もこうした傾向は変わることがなく、むしろそれは
④ 1992年のRAV判決によってさらに強化されることになる。
このケースは、ミネソタ州セントポール市の白人家庭が大多数を占める住宅地で、白人少年RAV等が、黒人家庭の住居敷地に侵入し十字架を燃やしたことに対するものである(25)。セントポール市の「偏見を動機とした犯罪に関する条例」にはこうした十字架を燃やす行為を規制する条項が含まれており、RAV等の行為に対してもこの条項が適用されたが、RAV等はこの条例が表現の自由を定めた憲法に違反すると主張して争った。
これに対して州最高裁はこの条例を合憲としたが、連邦最高裁は州最高裁の判断を覆し、同条例が喧嘩言葉一般ではなく一部の喧嘩言葉のみを対象としている点で表現の内容に踏み込んでおり、修正第一条に反するとした。
この判決はヘイトスピーチに対する規制を限りなく狭める方向に働き、以後アメリカではヘイトスピーチは事実上規制できないという状況が成立することになる
2-3 転換点としての公民権運動
・・・・・1960年代以降にアメリカで「表現の自由」の原則が厳格に適用されるようになったのは、公民権運動の過程において「表現の自由」が運動を後押しする重要な理念となっていたことが大きい(26)。
ブライシュによれば、当時のアフリカ系アメリカ人や公民権運動の活動家にとって、名誉毀損に対する規制はむしろ障害となると認識されていたという。実際60年代には、公民権運動の運動家の発言がとくに南部の諸州においてたびたび名誉毀損で有罪とされ、その度に連邦最高裁が「表現の自由」の原則に基づいてそれを覆す、ということが生じていた。また、同様の状況に置かれていたユダヤ系アメリカ人についても、とくにその知識人層において、集団に対する名誉毀損の規制は利益よりも危険のほうが大きい、という認識が主流になっていた。
「表現の自由」の原則はマイノリティの利益を守るためにこそ必要だという考え方が、アメリカ社会において次第に普及していったのである(27)

憲法9条は押し付けか?(自衛隊違憲?)

ここでは自衛隊違憲合憲や改正の是非はテーマではありませんが、これまで見てきた資料の中に文民条項が入った時の経緯が出ていますのでついでに紹介しておきます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/026shoshi.html
日本の自衛権保持問題

4-11 極東委員会と文民条項
極東委員会が1946(昭和21)年7月2日に採択した「日本の新憲法についての基本原則」には、国務大臣は文民(civilian)、すなわち非軍人でなければならないとする原則が盛り込まれており、8月19日にはマッカーサーもこのことについて吉田首相に申し入れた。しかし日本側は、第9条第2項が軍隊保持を禁じている以上、軍人の存在を前提とした規定を置くのは無意味であると主張し、文民条項は置かないことでGHQ側の了解を得た。
ところが、いわゆる「芦田修正」により、第9条第2項に「前項の目的を達するため」という語句が加えられていたことに極東委員会が注目したため、文民条項問題は再浮上することとなった。すなわち9月21日の会議で、中国代表が、日本が「前項の目的」以外、たとえば「自衛という口実」で、実質的に軍隊をもつ可能性があると指摘した。そのため、検討の結果、同委員会は文民条項の規定を改めて要求することになった(同月25日決定)。同委員会の意向は、ホイットニー民政局長から吉田首相に伝えられ、貴族院における修正により、憲法第66条第2項として文民条項が追加された。
なお、「文民」とは、このとき貴族院小委員会でcivilianの訳語として考案された造語である。

上記の通りの経緯で文民条項が復活しましたが、連合国の前提には平和国家でも当然自衛権があり、そのための国防軍を保持できる前提だったので文民条項が必須だったのですが、上記経緯で一旦これが消えそうになっていたものです。
この経緯・・軍自組織がなければ、文民条項不要なので、憲法に文民条項が置かれた経緯から見ても関係国みんなが自衛軍を持てる前提で議論していたことがわかります。
13日に紹介したSWNCC228の「天皇は軍に関する全ての権威を剥奪されるべき」と言う根本原則・・「(4) The Emperor shall be deprived of all military authority」も、軍の存在を前提にしています。
SWNCC228は秘密にされていたので、日本側は米国の真意・落としどころ不明のまま過剰反応で、GHR草案をそのまま受け入れてしまった印象があります。
旧態然とした天皇制度維持にこだわってしまったことから、1946年2月13日にそんな改正案しかないのならば、天皇の身の安全を保障出来ないとGHQに脅されて腰を抜かした関係者が、米国が本音ではこだわっていない分野まで過剰妥協してしまった・交渉ミスだったとも読めます。
2月13日に日本側に手交されたGHQ草案を見ておきましょう。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

 CHAPTER I
The Emperor
Article I. The Emperor shall be the symbol of the State and of the Unity of the People, deriving his position from the sovereign will of the People, and from no other source.
Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.
中略

  CHAPTER II
Renunciation of War

Article VIII. War as a sovereign right of nation is abolished. The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.
No army, navy, air force, or other war potential will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon the State.
日本国憲法

第2章 戦争の放棄
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

政府は上記のとおり、GHQの勢いに飲まれた担当者が唯々諾々・まともな交渉にも何もならなかった腰砕け状態日本側の憲法改正案になった印象ですが、いわゆる芦田修正「前項の目的を達するため」が徳俵で一本残した印象です。
これがなくとも法理論上自衛権を持てるという考えが普通かもしれませんが、あった方がなお一歩自衛のための戦力保持に近づく印象は否定出来ないでしょう。
今になれば、自衛隊合憲(国民世論)が多いので、芦田修正の意味は大したことがないという人が多いかもしれませんが、戦後10〜20年間くらいは自衛隊違憲論が強く、砂川事件など憲法訴訟がしょっちゅう起きていたことを考えるとやはり芦田修正の影響力が大きかったと思われます。
http://www.sankei.com/life/news/131109/lif1311090026-n2.html

2013.11.9 07:38更新
【中高生のための国民の憲法講座】
第19講  憲法9条 芦田修正が行われた理由 西修先生
芦田氏は、昭和32(1957)年12月5日、内閣に設けられた憲法調査会で、以下のように証言しています。
◆自衛の戦力保持可能
「私は一つの含蓄をもってこの修正を提案したのであります。『前項の目的を達するため』を挿入することによって原案では無条件に戦力を保持しないとあったものが一定の条件の下に武力を持たないということになります。日本は無条件に武力を捨てるのではないということは明白であります。そうするとこの修正によって原案は本質的に影響されるのであって、したがって、この修正があっても第9条の内容には変化がないという議論は明らかに誤りであります」

ロシアの脅威9(幕府の認知と海国兵談)

林子平の海国兵談がいつ書かれたかに関するウイキペデイアの記事です。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%9B%BD%E5%85%B5%E8%AB%87
1738年に生まれた林は洋学者との交流を通じて海外事情について研究を行い、ロシアの南下政策に危機感を抱き、海防の充実を唱えるために本書を記した。江戸幕府の軍事体制の不備を批判する内容であったために出版に応じる書店がなかった。このため、天明7年(1787年)に自ら版木を作成して第1巻を刊行し、寛政3年(1791年)に全巻刊行を終えた。直後の寛政の改革によって版木を没収されてしまったものの、自写による副本を秘かに所持していたため、後世に伝わることとなった。」
林子平の海国兵談は1787年の自費出版ですから、思いついていきなり高度な本を書けませんし、先ずそのような関心・意欲を抱くには、そのだいぶ前からロシアに対する危機感を抱いていた人がかなりいてその影響を受けていた(洋学を通じて西欧系のロシアに対する危機意識の影響を受けていた可能性もあります)・・本を書かないまでも、相応の先達がいた可能性があります。
北海道網走根室宗谷方面は、当時の徳川政権にとって滅多に情報のない遠方ですから(林子平は仙台藩藩医であった兄の居候でした)本土にいる学者(当時学者という職業がありません)が危機感を抱くには、その前に相当の情報が広がっていたことになります。
ウィキペデイアの松前藩によれば以下の通りです。
「当時の北海道では稲作が不可能だったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格に過ぎなかった。慶長9年(1604年)に家康から松前慶広に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていた。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされた。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとった。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていたが、次第に取り締まりが厳しくなった。」
「18世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、ロシアの南下を知った幕府は、天明5年(1785年)から調査の人員をしばしば派遣し、寛政11年(1799年)に藩主松前章広から蝦夷地の大半を取り上げた。すなわち1月16日に東蝦夷地の浦川(現在の浦河町)から知床半島までを7年間上知することを決め、8月12日には箱館から浦川までを取り上げて、これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に5千石を与え、各年に若干の金を給付することとした。」
文政4年(1821年)12月7日に、幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰した。これと同時に松前藩は北方警備の役割を担わされることにもなった。嘉永2年(1849年)に幕府の命令で松前福山城の築城に着手し、安政元年(1854年)10月に完成させた。日米和親条約によって箱館が開港されると、安政2年(1855年)2月22日に乙部村以北、木古内村以東の蝦夷地をふたたび召し上げられ、渡島半島南西部だけを領地とするようになった。代わりに陸奥国梁川と出羽国村山郡東根に合わせて3万石が与えられ、出羽国村山郡尾花沢1万4千石を込高として預かり地になった。
松前藩がアイヌからのロシア情報を幕府に報告しなかったものの、幕府の知るところとなって調査団が派遣されたのは1785年からであり、上知を命じられたのは1799年のことですから、海国兵談発行(1785)は幕府の調査開始とほぼ同時です。
彼の著書発行計画が契機となって幕府の調査が遅れて(慌てて)始まった可能性もあります。
松前藩が隠していても幕府にバレたのは、北前船または東廻船の普及・・松前藩を窓口とする交易の活発化にあると思われます。
ウィキペデイア記載の北前船の始まりと寄港地は北海道に限定すると以下の通りです。
「例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した」
これが北前船の走りだそうです。
その後んどんどん発達して一大動脈になります。
北海道では箱館、松前、江差、熊石、上ノ国(以上渡島国)、紗那、泊(以上千島国)、根室(以上根室国)、厚岸、釧路(以上釧路国)、様似、門別(以上日高国)、苫小牧、室蘭(以上胆振国)、小樽、余市、寿都(以上後志国)、久春古丹(以上樺太)
ただし、上記は明治30年頃まで盛んであったころの完成形の寄港地であって、いつ頃から千島や根室,樺太まで行くようになっていたのか私にはわかりません。
各地の郷土史関係のホームページに入れば分かるのかもしれませんが今日はこのくらいにしておきます。
冒頭に紹介したように松前藩は本州の大名のように農業収入によらずに蝦夷地と和人との交易仲介で藩財政が成り立っていたのですから、上記のような本格的航路開設の前から通商窓口になっていたので、おのずから各種情報が内地に漏れ出る関係にあったでしょう。
「ロシア人が根室にきて暴れた」などの新聞や文献情報があったとは思えない・・林子平の著書が最初とすれば・知識階層では新たに出現して粗暴な行動に走る傾向のあるロシアに対する口コミ?情報が集積され関心が高まっていたのでしょう。
彼が仙台にいて北海道更にその先の千島列島との境付近の情報を得てから、危機感を持ち、さらにそれを著作にするまでには、10〜20年単位の時間差があったように思われます。
(松前に行ったのは、物見遊山に行って偶然知ったのではなく、危機情報に触発されて現地を実地に見るべく行ったと見るべき・・危機情報の具体的収集目的で行ったものと思われます)
林子平の人となリは以下の通りです。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit
子平はみずからの教育政策や経済政策を進言するが聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄友諒の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周、工藤平助らと交友する。ロシアの脅威を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著し「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して当時の人びとを驚かせた。」
上記の通り1787年出版の仮に10〜20年以上も前から現地人が怖がっている情報を得た可能性があります。
1738年生まれの林子平が成人した頃の1760〜70年ころには、以下のピョートル大帝の時代から約7〜80年も経過していることを見れば、すでにロシア人が武力を背景に樺太〜北海道付近に頻繁に出没してアイヌの人がかなり困っていたから松前藩に通報があったのでしょう。
アイヌ人はもともと日本列島を根拠地としながら北方系・・千島列島やシベリア〜満州北部〜今の沿海州方面との交易を行なってきた平和的種族です。
・・・この辺の事情は15年ほど前に函館市内の美術館を見学して知った知識をこのコラムで書いたことがあります。
アイヌはシベリア方面の異民族との接触に慣れているはずですが、そこに従来型暗黙のルールでの交易無視の暴力主体のロシア系集団が現われたので松前藩に相談するようになったのでしょう。
ロシア史から見れば以下の通りです。
http://www.y-history.net/appendix/wh1303-004.html
「ロシアはシベリアを東進、17世紀中ごろピョートル大帝の時、黒竜江(アムール川)を下って沿岸に城塞を築いた。その頃、康煕帝のもとで全盛期を迎えていた清王朝は、ロシアの南下に反撃し、1689年両国はネルチンスク条約を締結した。清がヨーロッパの諸国と結んだ最初の条約である。この条約で清は外興安嶺までの黒竜江左岸を確保した。
 ついで雍正帝の時、1727年のキャフタ条約で、中央アジア方面のロシアと清の国境を確定した。 → ロシアの南下」
ピョートル大帝については以下の通りです。
http://www.y-history.net/appendix/wh1001-148.html
「また東方ではシベリア進出を推し進め、清の康煕帝との間で1689年にネルチンスク条約を締結し、国境を確定した。また1697~99年、コサックの隊長ウラジーミル=アトラーソフにカムチャツカ探検を命じ、日本との通商路を探った。晩年にはベーリングを派遣してカムチャツカ、アラスカ方面を探検させ、ベーリングはアラスカに到達した。」
以上によると、1600年代末から、太平洋に到達していたこと・進出を果たしていたことが分かります。

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