政治運動の支持母体?

私は、反日目的の運動家がそんなにいるはずがない・本気で非武装論が正しいと思っている人・・思わざるを得ない人たちが末端運動家の大多数を占めていると思います・・。
幼稚園や小学校で習ったばかりの料理知識を親に自慢する幼児的素直な思考の持ち主としてみる方が合理的かもしれません。
大学教授となり弁護士を何十年もやっていても幼児的思考に止まることがあるのかの疑問ですが、要はどの階層にもいる負け組の心理状況と芦部説の影響力です。
オーム真理教事件で明らかになったところですが、それぞれの分野で医師や科学者、弁護士など社会全体では勝ち組の有資格者が多く参加していたことが注目を浴びましたが、医師にも科学者にも東大生〜一流高校や一流企業、官僚等にも、その内部ではうまく行かない「落ちこぼれ」が一定率生じるのは当然です。
以前書いたことがありますが、参加資格をいかに厳選しても実務に入ると「伸び悩む」と言うか不適格な採用や合格であったこと起きるのは、むしろ当然のことですが、エリート評価の高い分野ほど不適合になっても自発的退場が難しいものです。
周りは「せっかく〇〇に入ったのに」医師弁護士になったのに・・と言うし、本人も医師や学者、有名企業をやめてしまってどうなるか心配でしょう。
そこまでいかなくともストレスだらけで生きているエリートがいっぱいるので、こう言う人はオーム真理教みたいな「自己実現」を提示されると飛びつきたくなるのでしょう。
法律家の場合、宗教系よりは名だたる憲法学者芦部教授の御託宣ほどありがたい誘引はありません。
東大まで行き更に大学に残れたエリート・学閥のトップに君臨していても、社会的円熟度の低い人には日常生活面では生きにくい世の中です。
社会性がなくとも明治時代の学者は「西洋ではこうだ」と言って象牙の塔にこもって社会を見下していればよかったでしょうが、今はそうは行きません。
弁護士でも円熟度の低い人は一般事件があまり来ない・市場淘汰されるのですが、日弁連内では〇〇系という閥が出来上がっているので、この種の活動に精出している限りその世界では自己実現できる社会です。
こういう人たちの精神的逃げ場として芦部教授の唱えた「自己実現」と並んで重視される「自己統治」という価値優越概念の図式的理解がエリート知識人に染み込んで重宝される所以ではないでしょうか?
総がかり運動その他のネット報道を見るとこれら反対政治運動に参加する発言録からは、自己実現・自己統治の場に参加していることに対する高揚感が伝わってきます。
3月22日に引用したhttp://nota.jp/group/kenpo/?20061016104219.htmlらの続き引用です。

表現の自由=自己統治?
これも、表現の自由ならば自己統治、自己統治ならば表現の自由が成り立つようなイコールの関係にはない。自己統治が民主制ないし民主主義を意味するならば、それを支えている人権は、直接的には(普通・平等)選挙権であろう。平等な選挙が保障されていないところで行われている政治は本物の民主政治とはいえないから、選挙権は、民主主義や国民主権を成り立たせるための不可欠の権利であるといえよう。選挙権は主権的権利などとよばれることもある。これに対して、表現の自由は、直接、民主主義を成り立たせている(主権的)権利ではない。

上記に批判されているように、自己統治などというよりは選挙権の行使とその結果こそ直接的自己統治です。
明治維新以来の習慣で西洋の価値観を持って来れば「最新知識」として威張っていたのですが、これも見方を変えれば、幼稚園等で習ってきたことを両親に自慢する幼児レベルの精神状況だったと評価できないこともありません。
家庭内で幼児や児童が自慢するだけならば親が微笑んでればいいし、社会不適合者・幼児レベルの集団が芸術系で自己実現するだけならいざ知らず、社会関係を持つ運動になると社会の迷惑を考える必要があります。
自己実現のためなら(違法でない限り)何を言い、何をしてもいいという乳幼児的万能思想の人たちが学会で支配的地位を確立し、社会科学分野の世界を牛耳るようになると一般健康人が困ります。
産業革命では西欧が先行していましたが・・テクニカル・皮相分野のことであって、日本社会では何周回(数千年以上)前に経験済みの円熟社会の経験がありません。
日本社会の落ちこぼれ・幼児的段階にある人にとっては、円熟社会経験のない西欧がようやく気がついたばかりの皮相な社会契約とか民主主義や人道(人の道)という概念をありがたい知識として振り回せば偉くなったような気がしているように見えます。
明治維新以来横文字を縦に直せば知識人と言われる時代が続きました・・昭和40年に入ってからこの揶揄が効いたらしく、(パソコン普及の関係もあって)平成に入った頃から日本語自体を横書きする習慣が根付きました。
誰もが海外に出かける時代になり、昭和50年代頃から「欧米では・・」という識者のテレビ発言がなくなりましたが、思想界ではまだ欧米で学んできた思想を国内に紹介した人が学界で重きをなす傾向が続いているような印象を受けます。
学閥を基礎にしたボス支配が続いている・・思想の自由市場がないからだと思います。
逆説的ですが、グローバル化が進めば進むほど、留学先での功績・・ハーバードでこういう実績を上げたなどの経歴が幅を利かすようになるので余計その傾向が続いているように外部からみえます。
日本の社会運営技術の方が数千年以上も進んでいるのではないか?という考え方は行き過ぎると「井の中の蛙」となる危険がありますが、文化面で見れば西洋の油絵の輸入に対して日本画の画風が直ちに確立したように、日本民族独自の思想にもとずく政治思想や哲学を語る人材が必要な時期がきているのではないか?ということです。
文化市場は顧客が必要なのでボス支配が成り立たないので、文字通り自由市場が成立しているので、国民がどのような文化を支持しているかが明らかです。
日本画は学校教育ではすみに押しやられ、美術系教師は洋画中心ですが、お金を出して買ってくれる顧客・・よく売れる・需要があって食っていけるのは日本画に偏っています。
洋画界では美術館買い上げ(学者が東大閥に支配されている?ように)など業界馴れ合いに頼る現状です。
音楽でも義務教育で邦楽を教えません。

各種反対政治運動背後の利害

政治とはその政策実現によって受益するグループと損するグループのせめぎ合いです。
非合理な扇動にすぐに乗るレベル・・付和雷同型もいますが、扇動する側の人材は一応憲法学者や弁護士ジャーナリスト等ある程度の知識人が多いことから見ると、それぞれがなんらかの利害関係者の意向を受けて動いていたと見るのが合理的です。
芦部理論・自己実現自己統治論を理解して「これは使える」と図式化して中レベル階層へのセールストークに書き換えていく知恵者が、低レベルとは思えません。
集団自衛権論を「戦争法」と言い換える(浅?)知恵者と同じです。
背後の利害当事者を見ると、日本の再軍備反対〜独立反対〜反安保運動〜沖縄基地を残す返還反対は、(密約騒ぎはその亜流です)日本対旧ソ連系諸国の利害であり、公害・・工場立地や高速道路、空港開設などありとあらゆるイノベーション反対(パソコンやレンジの害を強調し防犯カメラ反対など)運動は日本台頭を抑え込みたい国際競争上の利害国全部による対日包囲網であり、尖閣諸島問題は、日中であり、慰安婦騒動で言えば韓国による日本の国際的地位低下を目指す運動です。
それぞれに呼応する国内運動体・支持層がいつも共通して(何々を守る会などと名称こそ違いますが、概ね同じような構成員がダブっているイメージです)いるところが不思議です。
ずべての事件で日本支持層は日本人である限り重複しているのは当たり前ですが、片面講和反対に始まり、相手がソ連であれ中国であれ韓国であれ、日本民族弱体化したい勢力といつも利害共通の運動に精出すのを見れば、理解力の低い単純思考グループとバカにするのは間違いです。
単純図式に反応する人材を表面に出して敵を欺く・「バカの集まりだから相手にする必要がない」と油断させる高等戦術だったとも言えます。
慰安婦騒動ではこの戦術に乗せられて「ばかのいうことはほっておけばいい」と放置していたツケが回ったのです。
例えば集団自衛権立法反対運動の檄文の一例は以下の通りです。
https://shikyoso.blog.so-net.ne.jp/archive/c2305081007-1

こんにちは!静岡市教組です。

・・・この一年余、「戦争法案絶対反対」「9条壊すな」の声は全国津々浦々にひろがり、老若男女がこぞって行動し手を結ぶ歴史的なうねりとなってきた。最高裁長官や内閣法制局長官の職にあった人びとをはじめ、学者、法律家、宗教者、芸能人などを含むあらゆる分野で「戦争法案廃案」の声が湧きあがり、大学生や高校生、若い母親たちの主体的な行動とも響きあい、違いを超えた広範な共同行動が生み出された。私たち「総がかり行動実行委員会」は、このような運動の発展に一定の役割を果たすことができたことを誇りに思う。
この間、全国数千か所での人びとの行動を背景にして国会正門前を連日埋めつくし、国会を何度も包囲した人びとの波は、暴走する政府・与党に立ちふさがる巨大な壁となり、政府・与党を大きく揺さぶり、窮地に追い込んだ。この広範な人びとの声と行動こそが、民主・共産・社民・生活の連携を支え、野党の闘いを強めるという画期的な状況をつくりだした。

この種のネット記事は巷に溢れています。
1億数千万の人口のうち非武装平和論や戦争になると信じるレベルの人が総人口の1%でも百数十万ですし、国会周辺への日帰り圏人口は2千万を超えていますので、その1%でも20万人もいるのです。
こらの人たちは「自己実現・自己統治はいいことだ」という応援に力を得て政治活動に関する活動力が上がっている上にお祭り騒ぎでテンションが上がっているのもわかります。
彼らが繰り返しデモに参加すれば国会周辺で2〜3万前後集まってもそれが国民大方の意思とは関係がありません。
数万のサッカーファンが暴徒化しても、それが国民意思と関係ないのと同じです。
選挙でも自己実現・自己統治理論によって投票率や活動力が一般の人より高いとすれば、4〜50%の投票率の場合、得票率1%の支持を得ているとしても投票しなかった人を含めた実態はもっと支持率が低いことになります。
悪天候等で投票率が下がると組織票に頼る共産党や公明党の得票率が上がると一般的に言われていることを想起してもいいでしょう。
逆からいえば、投票率30%でも60〜65%でも凝り固まった組織票の場合得票数が変わらないので65%になれば投票率が極端に下がる政党となります。
意見が違うから議論するために会議や議会があるのですが、どの政策を採用するかが決まった後は前向きに実現に協力しその過程で運用によって判明した不都合の修正を提案するのが政治家の仕事でしょうが、今までの野党のやり方はそれを怠りせっかくの権限を政権批判に利用するばかりです。
企業内や同好会その他あらゆる組織でこういうことをする人が、その組織内で一定の居場所があるのか?を考えれば、日本の野党の政治活動のあり方が如何に異常であるかが分かるでしょう。
団体や組織とまでいかない友人関係でも・気に入らないとプイッと横を向いて協力しないどころか妨害に精出すような人は、その集団内での居場所をなくすのが普通です。
これが政治問題になると芦部憲法によれば、自己実現・自己統治の崇高さを解くので、これを図式的理解する人たちは、違法でない限り何(妨害行為?)をしても許されると誤解しているようですし、国民も何%かの人が誤解しているのが不思議です。
日本では欧米よりも数千年以上も前から進んだ社会合意のあり方が確立していたことを繰り返し書いてきましたが、欧米がフランス革命で初めて手に入れた民意重視政治の理想(まだ経験不足で観念の先走りです)伝播は、多くの国では新しい統治形態の新知識でしょうが、数千年以上前から衆議で決めていく伝統のある我が国にとっては、小さな子供が生煮えの知識を学校で習ってきた料理の仕方などを両親に自慢しているような姿です。
これを象徴するのが絵画の世界で、幕末欧米の新技術・遠近法あるいはブルーの顔料はそのまま部分的に取り入れたものの北斎に象徴されるように「美意識」そのものは日本の方が優れていたので、ジャポニズムとして西洋文化に影響を与えてきました。
輸入された民主主義は児童の料理自慢同様で、まだ生煮え的歴史段階ですので、落ち着いた結論を出す様式を確立できていないので、人材次第で「自己実現はいいことだ」式の乱用的に利用すると文字通り衆愚政治になってしまいます。

各種反対運動と説明責任2

昨日最後に紹介したように、憲法学界では「思想の自由市場」が機能していない前提で、支配的地位を確立した特定思想集団(東大学閥)が自己正当化のために思想の自由市場論を宣伝してきたように見えます。
報道の自由論が寡占市場である報道界を前提にしての主張でしたが、ネットの発達で覆されつつあることをこのコラムでは折に触れて書いてきました。
事実上表現の自由のない市場?で支配的地位を獲得した人たちにとっては、就職先の推薦などの影響力を行使できない国民相手では、文字通り言論の自由市場ですから、そこで内容の議論をするのは怖いので(「素人は黙ってろ?」)「専門家の多くが反対だ」式宣伝・・何名の憲法学者が反対しているとか、大勢の弁護士署名があるとか?の運動中心になってきたのではないでしょうか?
韓国の学者の議論ではまず相手どこの大卒かどこの大学教授かの肩書で議論の立場が決まり、一方的な上から目線の議論になると日本人から見れば驚くような権威社会と言われます。
この弊害が高学歴を求めて無茶苦茶な受験浪人(親が法外な?受験コストを負担せざるを得ない原因)が生まれる基礎になっているようです。
この弊害については、(「上から目線の慣習」まで書いているものではありませんが)昨日の日経新聞朝刊2p韓国学歴主義招く出産減」「教育費高騰子育てためらう」という副題で出ています。
日本で政治運動では意見表明の方法自体が、内容よりも「権威」で勝負しようとする傾向が見えるグループの場合、どこか韓国的価値観と共通する点で日本の大方の意見調整方法と違っています。
運動家にとっては「権威づけで勝負あり!と思っているのでしょうが、受け手の日本国民は権威者が言ってる!という煽り行為に反応しないで自分で具体的時用によって判断したい人が大多数ですので、権威づけの運動形態に頼っている限り空回りです。
「国民大多数の願いを踏みにじって!」とか「国民の声を無視して」いるなど一方的声明を羅列しても日本列島では古代から、根っからのボトムアップ民主主義社会ですので、賛同する学者や弁護士の数で決まる社会ではありません。
直近で言えば、岡口判事支援に関して27日に見たように、いかに多くの弁護士が賛同しているかのアッピールが中心になっていて、具体的内容不明(引用記事だけ見る限り空疎?)の主張になっているのもその1例です。
裁判官の裁判外発言であれば、裁判官に対する国民の期待する人物像とずれている場合に、(上記条文の「威信」という表現は時代背景もあって古いので、今風に言えば「国民の信頼」と訳すべきでしょうか?)相応の社会批判を受けるのは当然であり、それが罷免すべきほどのものかの判断をするために弾劾裁判制度を憲法に設けている以上は、そのシステムに乗ること自体を批判するのは、憲法をないがしろにする行為ではないでしょうか?
27日紹介した支援グループがいわゆる護憲グループと重なっていないとしても、支援グループの論拠は憲法違反を前提していることが明らかですから不思議です。
現在日本の支配的憲法学・あるいは上記支援弁護士らの主張では結果的に、違法にならない限り「裁判官はどういう表現をしようが勝手だ」となりそうですが、裁判官ならば何をしようと言おうと違法でない限りどのような制限も受けないということ自体、憲法の弾劾制度を否定する憲法違反の主張はないでしょうか?
表現の自由論においては二重の基準論とか言って(企業活動の場合保護が薄い)ようですが、表現行為が名誉毀損等何らかの規制に触れない限り、どういう主張をしていても良いと言えるのでしょうか?
日本人は「〇〇人の奴隷に」とか「服従すべきだ」という抽象論では、なんの犯罪にも該当しないように思いますが?
人を殺せとか盗め、日本人を牛馬のごとく扱えと言っても、具体性がない場合、日本国内では日本人は少数民族でないのでヘイトスピーチにもならない?殺人罪や監禁罪等の教唆犯にもならないのが刑法理論です。
刑事処罰あるいは名誉毀損等にならない限り、マスコミは表現の自由だからと「日本人は〇〇人の奴隷になった方が良い」という意見をメデイアにのせ宣伝するのも自由でしょうか?
いわゆる反日言動に対して憲法学者による自己実現論等で手厚い防御理論が確立されていて、これを背景にして?道義(共同体維持)などの基準不要・・言いたい放題が憲法の理想だと奨励される時代になっていたように見えます。
無責任思想表現の自由にととまらず、現実政治を担う国会で言えば、社会党時代には国会で揚げ足取り的議事妨害を繰り返し、本会議直前には担当委員長の不信任案動議提出など決まり切った議事妨害抵抗をするのが定番です。
本会議にかかると何時間ぶっ通しの演説時間の長さを競い、いざ採決になると牛歩戦術で、1分でも5分でも引き延ばすことが国会議員の仕事のような行動でした。
https://www.fnn.jp/posts/00345220HDK

2018年8月3日 金曜 午前6:30
衆院最長!?枝野演説は異例の書籍化

「2時間43分」
この時間は7月20日、安倍内閣不信任決議案の審議で立憲民主党・枝野幸男代表が本会議場で行った趣旨弁明演説の長さだ。衆議院では記録が残る1972年以降で最長の演説となった。

政策決定は国家・社会に必要があってやることですから、この政策選択が国民多数の意思で決まる以上はその政策を一刻も早く実施すべき事柄です。

何が国家にとって優先課題かは、民主国家においては国会が最高議決機関ですから、政治家が徒党を組んで(政党)「これが国家に必要」と競うために論争を繰り広げるのは当然の権利であり義務です。
議論を重ねてABCの政策のどれが多数の支持を受けているかの方向性が決まった以上は、自分の推進していた政策論が通らなくとも多数の支持を受けた政策が民意と受け止めてその内容実現に協力すべきです。
内心にとどまる心理学や芸術や学問分野の場合、出品して受賞できなくとも、支持者が少なくとも「自己実現行為」として自己の主義主張、自己の信ずる創作活動を続けたり少数説でも粘り強く研究を続けるのが勝手なのとの違いです。
自己実現にこだわる生き方の立派さの議論と政策実行の遅れが許されない政治決断の必要性とは評価の次元が違います。
芸術作品でもどの作家に依頼するの選定作業過程で、(例えば唐招提寺の襖絵を東山魁夷氏が描いたことが知られていますが)その依頼が自分に来そうもないことを知った他の画家が、お寺が東山氏に依頼するのを1日でも先延ばしするように妨害工作活動をしていたとしたら・・そのようなことがバレたらその画家の信用がどうなるかです。

各種反対運動と説明責任

「近代法の法理違反や、平和憲法違反とか、軍靴の音が聞こえる」などの主張は言いっ放しで主張には具体性がないとこのコラムでは批判してきましたが、今回も「裁判官の独立や三権分立にかかる問題」というお題目を唱えるだけで、どの行為が裁判官の独立にかかる問題なのかの主張すらありません。
ただし支援弁護士は具体的に書いているのに、昨日引用した発信者が勝手に省略したのかもしれませんが・・・。
「裁判官の独立や三権分立にかかる問題」との主張ですが、国会の調査は岡口裁判官の担当事件に対する調査ではないし、特定思想そのものへの批判でもない・具体的表現行為が現職裁判官の表現行為として許容範囲かどうかの調査のよう(上記ネット記事しか知らないので断定不能)ですから、個別裁判への圧力や干渉という問題から遠い印象です。
具体的事実関係とどういう関係があるのか、司法権への「憲法で許容されない政治圧力」というには積極的な説明がないと論理に飛躍があると思う人が多数ではないでしょうか?
上記ネット記事の限りでは、特定訴訟や具体的思想に圧力をかける目的でないように見えますが、これを前提にした場合、こういう主張グループは、「裁判官に対するいかなる批判も許されない」「それが憲法解釈として正しい」という主張を前提にしているような印象を与えます。
それでは憲法でなぜ弾劾制度が設置されているかの説明がつきません。
憲法の想定している弾劾制度の乱用というには、どの点が乱用かの主張説明しないでいきなり「政治圧力」という広い概念を持ち出して、裁判官の独立に関連づけて、国会の訴追委員会への呼び出し行為の内容の何が不当かの議論抜きに「呼び出し」だけを批判する支援集団呼びかけを発表している・・昨日引用記事を見る限り、「もしかして憲法上弾劾制度があるのを知らない集団がこんなにいるのかな?」と疑う人がいてもおかしくありません。
一般人でもその立場によって、意見発表すれば、刑事民事等の違法行為にならないネット炎上程度でも、内容の広がりによってはテレビ番組などから降板させられたりしています。
企業で言えば、社長発言は言うに及ばず、幹部どころか営業マンでさえも企業を背負って働いている以上は、顧客や世間に向かって所属企業に関する発言がどこまで許容される範囲かの試練にいつも晒されています。
休暇中であろうと勤務時間中であろうと所属組織に関連する発言か否かによって、発言の重みが違います。
この数日酔っ払った厚労省現職課長が韓国空港であばれた上で「韓国大嫌い」という趣旨の発言をしたことが、ネットニュースに出ています。
休暇中の個人旅行であったかどうか不明ですが、休暇旅行であろうと日本国の現職官僚発言としてニュースになるし社会への影響の大きさも違ってくる・・影響の大きさに比例して責任も大きくなるべきでしょう。
現職高裁判事という要職にあるものが、個別事件へのコメントを発表すればその影響力が一般人のTwitter発信(トランプ氏のツイッターでも知られる通り)とは桁違いに大きいのは当然です。
裁判官や官僚にも自己実現権があるという一般論で解決すべき問題でなく、同僚や友人間の個人的会話が録音されたものか?意図的な対外発表か等の具体的事実次第での責任を論じるべきは明らかです。
そもそも憲法で設けられた弾劾制度で弾劾事由の要件(特定違法行為限定など制限列挙)を厳しく定めていない意味からすれば、刑事犯罪や不法行為確定のような機械的事例しか対応できない制度設計とは到底思えません。
裁判官の言動がどの程度まで許容されるべきかの幅を決めるには、「国民の代表たる国会で良識に従って決めるべき」というのが憲法の精神でしょう。

憲法
第六十四条 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
○2 弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。
第七十八条 裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない。
昭和二十二年法律第百三十七号
裁判官弾劾法
第二条(弾劾による罷免の事由) 弾劾により裁判官を罷免するのは、左の場合とする。
一 職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠つたとき。
二 その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があつたとき。

岡口判事支援弁護士らの主張は、表現の自由絶対論(刑事その他法令違反を除いた)・・・「何を言おうと憲法上の権利だ」から「自己実現を否定すべきでない」と言う意見を下敷きにしているかどうか不明ですが、表現の自由=自己実現論が現在の憲法学の通説であるとすれば、これを十分知っているはずの通説を正面から主張できないのは、国民の支持を得られない変な通説?であることを知っているからでしょうか。
何かあるとすぐに憲法違反に結びつけて主張する人たちや、憲法学者は、国民意識から遊離しいると言われる所以です。
遊離すればするほど象牙の塔?素人にはわからないという問答無用式の憲法学界が支配していくようになり、うっかり集団自衛権合憲を主張すると学界で孤立し、まともな発表の場を与えられないし、活動がしにくくなる・昔有名になった「白い巨塔」同様に・全国に張りぐらされた大学教授の推薦ステムの網から外される仕組みになっている印象です。
自己実現論紹介のために判例時報増刊号を紹介中ですが、その冒頭の論文を書いた毛利透氏のウイキペディアでみると以下の通りです。

東京大学では樋口陽一の指導を受ける。筑波大学時代には、ドイツのフランクフルト大学に留学し、インゲボルク・マウス教授に師事。
京都大学の佐藤幸治教授の定年退官に伴い、佐藤の強い推薦で京都大学に移った。

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/120100058/050500004/

2016年5月17日
昨年、安保法案に多くの憲法学者が「違憲」の声を上げた。だが極めて少数だが、「合憲」と発言した者もいる。そのあと彼の身に何が起きたか。その主張についてじっくり聞いて見た。憲法学者の姿、2回目は九州の新進気鋭の学者を紹介する。

大学に「あんな奴を雇っていていいのか」と電話も掛かってきた。事務局は無視してくれた。
同業者にフェイスブックで「化け物」と書かれ、テレビ番組で「ネッシーを信じている人」と揶揄された。
「ふだん少数者の人権を守れって言っている人が、矛盾していないんですかねえ」と、九州大学法学部准教授の井上武史は苦笑する。

 

自己実現と社会1

近年の中国躍進の根源は技術窃取によるだけではなく、リスクを恐れないこと・・思想規制が強ければ経済の進展は望めないというのが一般論ですが、実態は思想規制は厳しいものの共産党支配の否定さえなければ、道義に反するかどうかは問わない・・経済活動は自由自在・・環境破壊であれ知財窃取であれ、やりたい放題やれば良い・とも角先進国に追いつきたいだけです。
新幹線で言えば安全対策など二の次で、まず走らせて「脱線すればその時のこと」という姿勢が顕著です。
商売人は儲けのためには下水利用の油とかミルクを作るのもためらいません。
公害なども諸外国からの苦情によって無視できなくなるまで、なんの心配もしないという姿勢でした。
世界中でリスクをとる果敢なビジネスが広がっているときに・・中国のような無茶苦茶も困りますが・・世界中でまず普及するのを待って最後に参入すれば、世界一安全かもしれませんが、世界で安全確認できるまで実験すらできないのでは国際競争に参加できない結果、世界の最後進国に下がっていくしかありません。
社会党は「〇〇があればどうする」式の反対や役人に対すする厳しい追及で何をするにも複雑な仕組みを構築した成功体験に酔って?なんでも反対政党として信用を落としましたが、反日国としては国内反日利用勢力は、鉄砲玉・捨て駒でしかないので痛くもかゆくもないでしょう。
社会党は信用がなくなれば解散させて新党を創り、洗脳済みの政治家を新党に入れさせればいいのですから簡単です。
政治家は個人として政治責任をとるべきであって、社会党から新党に入り直せば過去の政治行為の責任がなくなる仕組みがおかしいのです。
この仕組みを真似しているのが各種詐欺的集団で、金融商品等の違法行為で許可取り消しになるとそのメンバーを含めて別の組織を立ちあげる(代表にはなりませんが)繰り返しが続いています。
国際競争から日本をいかに遅れさせ、脱落させるかの、反日運動目的では新たな挑戦を一切できない仕組みづくりでは大成功してきたように見えます。
表現の自由はその集団をよりよくする効果があるから重要なのだと自分流に理解してきましたが、今の憲法論では、言いたいことを言うのはそれ自体が「自己実現」であるから、「所属集団ために害があるかどうかは関係がない」というようになっているらしいことを、Jul 12, 2018「表現の自由(自己実現・自己統治)とは2」のシリーズで紹介したことがあります。
私はもともと勉強不足でそういう意見が通説だったか?元は違ったが、この数十年でいつの間にか変わったかすら知らないのですが、ネット検索すると、芦部信喜憲法以来これを書かないと司法試験に合格できない時代が続いていると解説されています。
私はそのひと世代前の宮澤憲法時代のテキストで合格してきたので知らないわけです。
実務ではこう言う哲学的論争は実務にあまり関係ないのでその後の学説変化フォロー・勉強視野に入っていませんでしたので、司法試験勉強時代になかった説を私が知らなかったのは当然ですが、言いたいことをいうのは自己実現行為であって、人間の侵すべからざる基本的人権・人権の中でも優越的人権というらしいですが・・。
ただ、この説も冷戦時代の産物であって、今では批判が出ていると言う解説が以下に出ています。
http://nota.jp/group/kenpo/?20061016104219.html

自己実現と自己統治
なぜ表現の自由は優越的地位を有し、他の人権よりも手厚く保護されなければならないのか、ということを説明する方法はいろいろあるが、芦部信喜が定式化したものが「自己実現」と「自己統治」の価値である。受験生の中には表現の自由に関する問題が出題されたときには、何が何でも答案のどこかにこれを書かなければならない、これを書かないと減点される、という強迫観念さえ持っている人がいる。
人権の中でそもそも優劣が付けられるのだろうか、アメリカ合衆国憲法ならばともかく、日本国憲法の条文から優劣が読み取れるだろうかとか、統治にまたがる人権はなぜ価値が高いのか、とかいった根本問題を立ててみると、この理論は自明ではない。
「人間の活動の中で精神活動を重視して経済活動、営利活動を軽視したのは、これを提唱したインテリの観念的立場を反映したもので、普遍的には成り立たない」とかいった批判が出されている。

優越的地位の理論が日本で通説になったのにはそれなりの歴史的事情(ここで詳しくは述べられないが冷戦とその影響を受けた日本の政治状況)があり、合理性があったと考えるが、これにともなう負の面があったことも否定できないと思う。

冒頭に書いたように中国では、逆に企業活動の創意工夫にあまり注文をつけず、悪しき結果が出てから規制処罰する方向で大躍進をとげている時代ですが、芦部憲法ではこの逆で政治反対運動は侵すべからざる権利であっても企業活動の自由を縛るのはいくら縛っても良いかのような差別論理でした。
要は企業活動を縛る方向性が、冷戦時代に中ソに有利な方向へはびこって行ったように見えます。
以下紹介するように芦部憲法著作が重版を重ねるようになった時期と、日本の企業活動が元気を失い停滞が始まった時期と重なるのには驚きます。
私が司法試験勉強したのは60年代末〜70年代初頭ですが、芦部信喜に関するウイキペデイアによれば経歴代表著作は以下の通りで、約20年以上経ってからのようです。

ハーヴァード・ロー・スクール留学を経て、1963年東京大学法学部教授、

『憲法学Ⅰ~Ⅲ』(有斐閣、1992年~1998年)
『憲法』(岩波書店、初版1993年

芦部説を勉強したこともない素人の私にはあまり批判する権利がありませんが、素人風に誤解すると自己実現こそが最重要で「民族を売る目的かどうかは善悪の基準にならない」という方向へ親和性を持つ学説のようです。

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