利害調整能力7(価値観激変時代1)

いざという時に真っ先にかけつけ「先陣をやらせてください」くらいの意気込みがないと、次に自分が困った時に応援を渋られます。
このために、いざという時に「着到」順の名簿書きに真っ先に駆けつけた(もちろん騎馬何名と動員戦力の書き込みも重要です)実績が重視されて皆一刻も早く旗幟鮮明にする努力を怠らなかったのです。
このように日頃恩義を感じている関係の場合には、武士団も無償奉仕を厭わないでしょうが、何の義理もない天下り着任したばかりの守護からの動員命令では、(前任守護には義理を受けている地元豪族がいても新任の守護になんの恩義も受けていない)無償奉仕の負担感は大きかったはずです。
恩賞にこだわるというと金に汚いようですが、日頃義理のない関係で物事を頼むには行動にはコストががかかるということです。
北条氏が各地守護に名を連ねても、私兵として本当に利用できる軍勢はすぐに増えるわけではありません。
吉良で言えば、足利家先祖伝来の領地ですから、北条家の誰かが仮に三河国の守護になっても吉良一党が従うかどうかは足利本家からの下知優先だったでしょうから、鎌倉幕府または三河守護が三河国で何かしようとする場合には、まずは幕府内で足利本家に「ご協力お願い」の根回しが必要になっていたでしょう。
鎌倉末期における足利家の強みは、つる草のように各地に一族の根を下ろしこれが、各地に土着して強力な血族集団を形成していたことでしょう。
全国展開・・軍の移動には、各地宿営を重ね進に連れていく先のより正確な情報・兵糧等の補給が必要ですが、2〜3日歩けば身内の村落があると安心です。
義朝が平治の乱で負けて東国の地盤に落ち延びていく途中、長田庄司に謀殺されますが、このように気心の知れた一族を頼りながら移動していくものです。
強固な信頼関係で結ばれた家人が、主君を裏切るとは当時としては驚天動地の出来事だったでしょう。
源氏が天下を握った後この長田の庄司の運命がどうなったのでしょうか?
蒙古襲来・防備目的で西国方面で北条一族が守護として名目地位を得たものの、私的な兵の動員力が高くなったのではなく逆に守護の地位を追われた元々の武士団や九州北部防備のために駆り出された不満をもたれたことになるでしょう。
竹崎季長のように奮戦して(もしかしてもらえるならば)近隣領地を少し広げる方が、5人でも10人でも農民を増やし一族郎党の拡大になると言えます。
足利直義は御成敗式目の思想を理想とする・正義一直線傾向があって(特定論文意見しか知らない・私は暇つぶしに読んでいるだけですから多くの論文を読んでいない・・受け売り意見です)あやふやな態度に終始した老獪な尊氏に負けてしまったように見えます。
あやふやといえば無能そうですが、価値観激変時代には硬直した価値観ではやっていけない時代であったといえます。
今の世界は19〜20世紀型価値観の再編成期ですから、柔軟対応能力が問われる時代に入ったというべきでしょう。
尊氏の政治的立場は、楠木正成討伐軍として出動しながら、京都郊外に布陣したまま動かず最後に反幕府を旗幟鮮明にしたために(・・応援にきた背後の大軍が敵方となれば前線は壊滅です)鎌倉幕府軍潰走の原因となり、観応の擾乱でも当初は高一族と行動を共にしながらも最後は直義と袂を分かつなど巧妙な動き方は、保元〜平治の乱で清盛がどちらつかずで有利な立場を築いていった点で似ています。
足利氏と新田氏は鎌倉幕府内で源氏直系高貴な血筋として同列競合関係にあったのですが、宮廷工作的能力に欠ける新田氏が長年冷や飯食い的立場に置かれてきたのと比べて官僚的立ち回りの巧妙さで鎌倉幕府内で重きをなすようになり、徐々に全国各地に飛び地的所領を獲得していき(吉良のように各地に勢力を扶植し各地の土着力となり)存在感を大きくして行ったものです。
ドチラつかずの宮廷官僚的生き残り能力は、官僚としては有効な能力ですが、トップの能力としては問題があります。
専制支配までは必要ないとしてもトップに立った以上は揉め事の採決や決断すべき時にはビシッと決める能力がトップには必要でしょう。
悪く言えば優柔不断の典型でしょうし、結果的に際限ない武力抗争を引き起こし、最後の応仁の乱で収拾不能な結果をきたして文字通り「天下が麻のごとく」乱れてしまい戦国時代に入って行き、将軍家権威が完全喪失してしまいます。
現在社会で言えば、オバマ政権の柔弱政治が中国による米国に対する「鼎の軽重を問う」動き(太平洋2分論〜一帯一路政策)につながり、現在の国際価値観混乱の元になっているのと同じです。
「まだまだ行ける、バカにするな!」と最後の力を振り絞って、強権政治に切り替えたのがトランプですが・・。オバマの柔弱政治は米国の力が弱ったことを前提に無理しない賢明な姿勢とも言えますが・・。

利害調整能力6(二条河原の落書・価値激変)

この世相を表した傑作は偽綸旨に始まる落首です。
ウイキペイアで「二条河原の落書」冒頭部分だけ引用しますが、全文を読んでいくとなかなか面白いものです。

此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
生頸 還俗 自由(まま)出家
俄大名 迷者
安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛(ほそつづら)
追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上スル成出者(なりづもの)
器用ノ堪否(かんぷ)沙汰モナク モルル人ナキ決断所
キツケヌ冠上ノキヌ 持モナラハヌ杓持テ 内裏マシワリ珍シヤ
賢者カホナル伝奏ハ 我モ我モトミユレトモ
巧ナリケル詐(いつわり)ハ ヲロカナルニヤヲトルラム
以下省略

ウイキペデイアの解説によれば「二条河原の落書」は建武2年頃成立という説が強いようですから、そうとすれば観応の擾乱のかなり前ですが、引き続きもっと訳のわからない「擾乱」が始まる前触れを嗅覚鋭く読み込んだものかもしれません。
合戦ごとの恩賞沙汰の不満等で武士団が昨日までの敵将に付き従うのは、(ゲンキン過ぎるといえばそうですが)武士団は命がけで戦闘参加する以上は、郎等にも目に見えるように報いる必要がある・・目に見える成果が欲しいのは当然です。
現在でいえば、ある元請け業者の下請けで働いたのにその元請けが工事代金を払ってくれなければ、その元請けの競合相手の元請けから仕事が来れば受注したくなります。
役に立たない主君は「頼うだる人」は言えないので、すぐに見限るようになります。
これが、次に始まる応仁の乱→戦国時代の下剋上につながっていくのです。
蒙古襲来に対して奮戦した武士に対して恩賞を与える領地がなかったので武士層が不満を抱いたのが、鎌倉幕府衰亡の原因と学校で習った記憶ですが、実は二回の蒙古襲来に備える西国防備のために西国方面で北条一族の守護を急激に増やしています。
北条一門の守護を増やした分、誰かがその地位を失っているのですから、学校の歴史では習いませんが、これが不満の種として鬱積していた可能性が高いでしょう。
北条氏に関するウイキペデイアからです。

第8代執権・北条時宗は元からの国書を黙殺して、御家人を統率して元寇と戦う。これを機に鎌倉幕府は非御家人への軍事指揮権も獲得したほか、西国での支配権が強化され、北条一門が鎮西探題、長門探題として派遣された。また、北条一門の諸国守護職の独占も進む。

何かの本で具体的国名など読んだ記憶ですが、急激に増えた・・その分押しのけられた有力武士の不満が溜まるのは当然です。
源平時代もそうですが、平家が播磨守や安芸守など7カ国だったかの受領になっても、足元の武士団は小さな集落ごとにそれぞれ地縁血縁で繋がった集団であって天下ってきた〇〇の守や北条氏の守護にいきなり忠誠心を抱く訳ではありません。
地元ごとの何とか党のボス(戦国時代で言えば国人層)が参加するかどうかを決めることです。
守護に任命されても公式業務に限り一応朝廷や幕府の名で動員命令出せる程度のこと・・公式な戦いでは武士が朝敵になるかどうかが重要だったのですが・・。
北条一門が西国守護に名を連ね、対蒙古軍防衛線のために強制的に地元武士団を動員できた点は戦略的必要性があったのでしょうが、そうしないと動員できなかったということは、裏を返せば地元武士団は乗り気ではなかったということでしょう。
(命がけで働く以上は、命がけの紛争の時に応援してくれた過去の恩義とのバランスです)
乗り気でないのによそ者がいきなり来て、出動命令で仕方なしに出動したのに相応の恩賞がなければ不満が募ったでしょう。
ちなみに武士出動の場合、現在の労働者のように日当が出るわけではなく自腹で分相応の戦闘員を引き連れての出動が原則ですから、毎回ただ働きでは資金(出動経費だけでなく配下が負傷すれば相応の面倒を見る義務があります・・・)気力が続きません。
地元武士団同士の死活的紛争に尽力してくれたちょっと上の中規模武士団のボスの要請があれば、日頃の恩義に報いるチャンスです。

利害調整能力5(観応の擾乱)

観応の擾乱に戻しますと、中央権門は地方有力武士団同士の利害対立には目配りできても、これに馳せ参じる小集団の武士団同士の争いにまで目配りしきれないので、収拾つかなくなってきたようです。
守護の動員兵力は地元国人層の集合体ですから、数人から数10人規模の兵力を擁する(今の地方名でいう郡(こおり)単位の小豪族・数十人規模の動員兵力?その配下の武士団・・10名前後の動員兵力?)間利害・多くは隣接集団です・・をまとめるのは容易ではありません。
国人層にとっては、天下国家の問題より地元勢力争い(農地の取り合いだけではなく姻戚関係のもつれその他いろんな恩讐があるでしょう)の帰趨が重要です。
中央の勢力争いの結果守護職を獲得しても、地元に土着できるほど長期に守護職を続ければ別ですが、観応の擾乱の頃のように数ヶ月ごとに守護職がめまぐるしく入れ変わる時代には、守護になったというだけでは地元武士団のトップとして動員をかけ号令できるようになるだけで、自分の家の子郎党がそれほど増えるわけではありません。
北条氏は元々は伊豆の小さな地盤から始まっているに過ぎず、いざとなると寄るべき地盤がなく、高一族は足利家の執事でしかない・先祖伝来の集落・領地を持っていない(筈)?ので、観応の擾乱で権力を失うとたちまち影も形もなくなってしまったのでしょう。
他方楠木正成のように地元武士団を背景にしている場合、一旦戦に負けて落ち延びてもすぐ再起できるし、正成自身が湊川で戦死してもその一族の集落が残っているので、息子の代になればまた旗揚げできた底力です。
吉良上野の場合、歌舞伎その他物語では悪役で有名ですが、それでも地元三河国吉良では、とんでもないことだ!名君であったというありがたい応援団が今でも健在と言われます。吉良の郡(こおり)?は足利家の分家支配地として有名ですし、このために(何の武功もないにも関わらず?)徳川政権において、高家筆頭の待遇を受けていたのですが、血筋が連綿と続く強みでしょうか?
名付けて「擾乱」とは、言い得て妙です。
「擾」とは20年ほど前に刑法の口語化の改正で騒乱罪に書き換えられる前には、刑法の騒擾罪の「擾」でした。

刑法
第八章 騒乱の罪
(騒乱)
第百六条 多衆で集合して暴行又は脅迫をした者は、騒乱の罪とし、次の区別に従って処断する。
一 首謀者は、一年以上十年以下の懲役又は禁錮に処する。
二 他人を指揮し、又は他人に率先して勢いを助けた者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。
三 付和随行した者は、十万円以下の罰金に処する。

室町時代になると、草の根の武士団が地力をつけてきた結果、中央の争いの他にその孫受け的小集団独自の利害対立も生じて、それが(守護の決める全国的方針に従わずに)独自の利害で尊氏についたり直義についたり日替わりメニュウのようにしょっちゅう勢力関係が変わった原因もように見えます。
刑法条文の口語化で「擾乱」から「騒乱」という文字に変わったのですが、騒がしいのは「はた迷惑」という意味では共通ですから、文語を口語体にしただけで刑法の改正でないという当時の説明があっているのでしょうが、微妙に意味が違います。
騒乱罪では騒ぐという物理的行為を前提にしての「乱れ」ですが、擾乱の場合には、「憂い」を含む手扁ですから、騒音行為がなくとも、煩わしいはた迷惑全般を取り締まるニュアンス(昭和末期にはやった国鉄の「遵法スト?」の場合これに当たるでしょうか?)です。
「騒乱」の場合、物理的な騒ぎ・・粗暴系・暴力行為必須に絞ったように見えます。
騒乱罪と内乱罪の違いは目的の有無による違いですから、政権転覆の目的不要・・ハタ迷惑な行為が続いたという歴史評価によって擾乱という名称がついたのでしょう。
当時の合戦は大規模なものではなく、全学連騒動のように都内で新宿一帯の交通が麻痺するような「騒乱」状態がなかったけれど、武家同士でしょっちゅう争いが絶えないので、(暴力団抗争がしょっちゅうあれば、近所の人が一人も死ななくとも、)はた迷惑だったということでしょう。
(偶然ですが、私の年来の意見に呼応するかのように数日前の日経新聞に「応仁の乱で都が焼け野が原になったというこれまで一般化されていた理解は間違いと」いう説が紹介されていました)

利害調整能力4(トルコとクルド・日韓対立)

中世に式目が制定された所以を書いている内に、現在社会のマニュアル必須社会化事例紹介になってしまいましたが、中世社会が宗教解決で済む段階を超えてきたことが背景にあるべきでしょう。
中世社会のルールに戻しますと、奈良〜平安時代までの生活環境が激変したことが、武士の時代を到来させ(武士が力を持ったから生活ルールが変わったのではなく、生活が変わったので、武士がが頭角を表したと見るべきでしょう)これによって生きて行くべきルールも武士社会と公家社会とでは違ってきたのです。
しかも現場に根ざした現実的処理に通じた武士が紛争解決に関与するようになると、ルールが実践的化する・・具体化するようになっていたと見るべきでしょう。
公卿朝廷に対する強制力のない二頭政治の時代には、内容の公正さと決めたことの実行力の競争社会になっていたと見るべきです。
今の国際社会は、中国も国際道義をまもる気持ちがないというか、守る能力がないし、アメリカは武力を持っているが、国際合意を一方的にひっくり返すようになった点で・・双方似たような状態ですから、日本中世・既存価値がぐらつく観応の擾乱開始〜応仁の乱〜戦国時代化に似てきました。
第一陣終了・・「平家にあらずんば人にあらず」の再来のように羽振りの良かった高一族消滅後は、足利兄弟間抗争になっていきますが、戦のつど戦後処理に関する不満・・武士団はその都度どちらにつくか入れ変わるめまぐるしい争いでした。
中核的支持者の入れ替わりは少なかったようですが、自分と対立する武士がAに着けば自分は今度Bに着くなど個別利害優先だったからこうなったとも言われます。
源平合戦では、地元武士団の争いで平家が平家系千葉氏の肩を持たなかったので千葉氏が頼朝の旗揚げに馳せ参じた例同様で、アメリカが対シリア戦略でクルド族を優遇すれば、クルド族の独立運動を内部に抱えるトルコが親米欧路線から、宿敵ロシアに擦り寄るなど今でもよくあることです。
日韓対立でも同じで、この段階で米国が撃ち方やめ!仲良くやってくれと言い出せば先制攻撃した方がやり得ですから、これを強行すれば反撃開始したばかりの方は不満で一方を敵に追いやるでしょう。
そこで、今はやむなく黙っている状態です。
双方にいい顔をするには、争いになる前に未然に防ぐ目配り・工夫・政治力が必須です。
この複雑利害調整能力が衰えたというか、資源力と武力(この辺はソ連〜ロシアも同じ)に頼っていただけの米国が、資源価値が下がって馬脚を表したというのが私の解釈です。
いずれにせよ、米国は日韓関係でも仲裁能力を失ったことは明らかです。
世界中で仲裁能力を失って行く・・パックスアメリカーナの鼎の軽重が問われる事態が静かに潜行していきます。
国際戦略上韓国の武力の必要性が大幅に低下したので、米国は日本の機嫌を損ねてまで日本に我慢しろ!というほどの関わりを持つ必要性がなくなったのを韓国が気づかないようにみえます。
韓国は経済力が上がったので、もっと対日要求できると思ったのでしょうが、日本は際限なく要求をアップしてくる韓国に対する我慢の限界を超えたと思っているので、いつも我慢させられてきた不満がアメリカに向く構図になってきています。
アメリカにとっては韓国の理不尽な要求を毎回飲まされている日本の対米感情悪化が限界にきていることも知っているし、韓国の軍事的必要性が低下しているので当事者の力関係で勝負をつけてくれれば良いという立場に変わったのでしょう。
韓国政府の国際情勢読み違えが、今回の暴走を招いた原因です。
アメリカが味方しないならば中国カードがあるかというと、もはや中国と韓国は経済競争関係になっている・・例えば米国から締め出されているファーウエイの穴を埋めて儲けようとするサムスンをこの機会に叩きたいことがあがっても応援したくないのは明らかです。
同様に中国国内自動車販売が落ち込んでいる状況で現代自動車が日本からの部品供給が細って困れば中国にとってありがたいだけのことです。
韓国系造船、重工業その他企業を救済するよりこの機会に潰してしまいたい意欲満々のようにみえます。

利害調整基準明確化→御成敗式目3(実効性)

問注所があってもあるいは、足利政権の裁定も守られないことが多かったようですが、(鎌倉から遠く離れた地域の境界争いや相続争いの裁定が出ても、今のように隅々まで戸籍(判決を持って行けば戸籍謄本を書き換えてくれたり、登記制度(所有名義を書き換えてくれる)がないし、国家の執行官が各地にいる時代ではないので、相手が守らなければ現地(有力者の口添えがない限り)ではどうにもならないのが実態でした。
室町幕府の裁定も、施行状の作成者次第であったことを、October 28, 2018「幕府権力と執行文の威力」で書きました。
現在でも国際合意の効力は、わが国中世の法的状態同様に執行力に難があるので、日韓慰安婦合意では、アメリカ政府立会いという形式が採用されました。
今でも個人的合意書に立会人署名があるのは、立会人が連帯保証人という意味ではなく、(トキにそういう期待感で相談されることがありますが)「俺の顔を潰すなよ!という無言の圧力で実行を迫ってくれる効能を期待したものです。
今回の慰安婦合意を反故にする韓国の行為に対して、アメリカが韓国政府の行為に対し裏でどういう圧力をかけているか不明ですが、この種の効能は結果で判断するしかない性質のものです。
慰安婦像を公の場所に立てさせて反日集会を拡大するばかりか、せっかく作った財団を一方的に解散に突き進んだ結果を見ると、アメリカの立ち会いは何の役にも立たなかったと評価されるべきでしょう。
ただし、アメリカの立会いはほとんど意味がないという認識を世界に広げた点でマイナス効果があったことになるのでしょうし、アメリカは顔を潰された韓国に対し相応のマイナス効果を押し付けないとおさまりがつかなくなる点や、韓国はアメリカの立会いで決めた約束を守れない国という国際印象を強めた点で日本としては国際政治上点数を稼ぎました。
韓国としては前パク大統領が、米国の制止を振り切って中国の抗日戦勝利記念式典やAIIBに参加したのと同様に、今回もアメリカのご機嫌を損なうことに対する重みを感じなくなっている・「アメリカは今や軽い存在」という露骨な意思表示でもあったでしょう。
最悪の場合、米国は長年の国策?日韓離間の策を講じているのではないか?という憶測も可能ですし、またもや「韓国の無法行為を黙認したうえで逆に日本が自重せよ!」といわんかのような態度を示せば、今後日本はアメリカによるいかなる仲裁案も受けられなくなるでしょう。
アメリカは今回ダンマリを続けたことで、日本の信用を失う・減点を積み重ねたことになります。
数年間も日韓合意の精神を踏みにじる韓国のやリたい放題を放置して置いて、日本が反撃を始めるといきなり仲裁するかのようなそぶりを見せること自体が無責任で一方的です。
「順序がおかしいだろう」という日本不満の結果、トランプ氏が双方の要請があれば仲裁に動くと言って、いかにも韓国の仲裁要請を拒否した・・日本寄りのような外形を見せていますが、本来米国立会いで合意を迫った以上は、紛争の芽が出た段階で率先して「合意を守れ!」と抑え込む努力をすべきだった筈です。
こういう国と同盟条約を結んでいざという時に意味があるのか?と日本人多くが心配でしょう。
室町時代に戻しますと、施行状にサイン(花押)した実力者に「相手(対象者)が守ってくれない」と訴えても知らんぷりで放置したり、相手が守らないからと実力行動に出た場合、逆に制止されるようなことがあると一挙に信用を失うのが普通です。
・・次の合戦で動員命令が来ても、「お前の言うことなど聞いてられるか!」と応じないか、やむなく応じても渋々の働きブリになるでしょう。
いつも紹介しますが、千葉氏はもともと平氏ですが、平家が自分の領地?(正確には預かり所)騒動で味方してくれなかった恨み・源氏が肩入れしてくれた恩義で千葉氏が頼朝の旗揚げに率先して馳せ参じた故事が知られる通りです。
アメリカの凋落の主原因は経済力が下降気味になると、同盟国同士の軋轢の調整能力不足(権力者に必須の能力がなかったのに、たまたま資源国として破格の経済力を得た臨時能力に過ぎない)が表面化してきたことによることをだいぶ前から書いてきました。
最近ではJan 11, 2019 12:00 am「アメリカンファーストと国際協調1」に、アメリカ人は複雑系解決能力がないのを自白した「言い換え」だと書きました。
シリア・イラン問題では三つ巴、四つ巴の複雑な糸を解きほぐす能力不足が顕著ですが、日韓のような単純紛争でさえ手をこまねくばかりで、むしろ関与すると激化する方へ関与する(日韓離間の策あるいは日中離間の策が本音でないか?の疑いの目で見られる)傾向があります。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC